3. あなたは恋人だから

しんと静まり返る鉄筋コンクリートのビル内は、カツンカツンと革靴の音だけが甲高く響いていた。ひゅぅと風が時折頬を撫でる。不安に駆られ、上がり続ける心拍数を感じながら、ひたすら野江の後ろをついて行き、そのビルを駆け上がった。


だが、あまりに静かだった。異常なほど静かだった。隣のビルに組員が待機していて、肇さんを殺そうと動いているというのに、気配が何も無い。隠れて待機しているのだろうから、気配がないのはそうなのかもしれないが、何かが引っ掛かる。


その時、ふと、ある事に気付いた。野江は、肇さんが入って行ったビルの裏から、少し離れた所に停車していた俺の方に走って来た。だが野江が言うには、反対派も同じ所から中へ侵入して行ったんじゃないのか。もしそうなら、こいつと反対派はカチ合ってるんじゃないのか…?


肇さんの身に危険が及んでいると、焦ってまともな思考が働いていなかったが、冷静になって考えれば、野江の言う事が正しいとは限らない。宇木もこいつも、俺と肇さんを嵌めようとしてるだけなら、俺は今、愚かにも罠に嵌められているのかもしれない。


怪訝に思い、ぴたりと足を止める。



「…野江、」



声を掛けると、野江は振り返る事はなく、口だけを動かした。



「何?」



一度疑心暗鬼になってしまうと、もう何もかもが怪しく見えて仕方がなかった。ベルトに挟んでいた銃を後ろ手に確認し、いつでも抜けるよう準備をする。



「お前、反対派の連中とカチ合ってはないのか」



「……え? 何、急に」



「お前はビルの裏手から走って来たろう。表口から誰かが入る所を俺は見ていないし、同じ裏口から連中が入って行ったのなら、お前は連中とカチ合ってなきゃおかしい。対立してると言うのなら、お前は連中にとって消したい相手なんじゃないのか。なのに平然と俺の方に走って来て助けを求めた。…それに、隣のビルがやけに静かだ。静かすぎるくらいだ。悪いが、俺はお前を信じる事は出来ない」



野江は足を止めると、くすっとおかしそうに笑った。



「あー、すぐバレるよなぁ。よく考えれば変な事言ってたもんなぁ。でもまぁ、そこは許してよ。何て誘い出そうか、直前まで迷ってたんだ。あんたを隣のビルに誘導する方法がなかなか思い浮かばなくって、だから咄嗟に作ったんだ。ちぐはぐだったけど、あんたはここにいる。有効だったでしょう? ね?」



俺は問答無用で銃を抜き、野江に向ける。安全装置がカチリと音を立てて外れる。じっと野江の余裕に満ちたその瞳を見つめた。



「…何が目的だ」



野江は両手を上げると、それでも尚、余裕に笑みを浮かべている。薄気味悪い笑顔だ。



「ここ、何階だっけ? 8階くらいか。じゃぁ、大丈夫かなぁ。あのさ、ひとまず銃を俺に向けるのはやめた方が良いよ」



野江は片眉を上げると、「撃たないでね、良いものを見せてあげるから」そう言って、トラウザーの後ポケットから携帯を取り出した。



「あーよく映ってる映ってる」



画面をタップし、俺の方に向ける。その映し出されている映像を見て、心臓がひくりと止まった。血の気が一気に引いて行く。そこには隠し撮りされているだろう、肇さんと宇木の姿があり、話している内容までは聞こえないが、真剣に何かを話している様子だった。これはきっと、今現在の映像なのだろう。


問題は、誰がそれを撮っているか、という事だ。



「宇木組が真っ二つになった、ってのは本当だ。でも、俺が親父の味方ってのが真っ赤な嘘。だって反対派の筆頭は俺なんだもん。いやぁー、良かった良かった。その事があんたらにバレる前に止められて。んで、何より嬉しいのは、三宅さんはやっぱお前だけは連れて来たって事。あの人にとってお前って、本当、笑っちゃうくらい特別なんだよなぁ? お前だけは連れて来るって踏んでたんだよ。だから親父にある事、ない事、そそのかして三宅さんを呼び出すように動かしたの。苦労したんだよー? あの堅物を動かすのは」



「……貴様…っ」



怒りに手が震える。目が血走り、引き金を引いてしまいたかった。でも、それを合図に肇さんに危害が加えられる可能性がある限り、俺は引き金を引けない。



「そう、怖い顔すんなよー。せっかくの男前が台無しだ」



「何が目的なんだ。俺をここに連れ出して、何をしたい」



「お前はどう思う? どうして俺がこんな事をしたと思う?」



「…緑翔会を取り込む為、所詮そんなところだろ。だが、会長に脅しをかけたいのなら、俺をここに連れて来たところでどうにもならない。俺はあの人にとって脅しにはならない」



言い切ると、野江は大口を開けて笑った。



「あ、そう? いやいや、あのね、それも考えたよ。あんたを痛めつけて、その動画でも送れば、三宅さんなんてホイホイと言う事聞きそうだなぁーって。でもさぁ、俺はお前が嫌いだから。お前の事が、心底、嫌いだから。いなくなってもらいたかったんだ。お前さえいなくなりゃぁ、後はどうだって良い。今の緑翔会がうちと揉めようが、また手を取り合おうが、どうだって。俺の目的は、緑翔会でもなければ、三宅さんでもない。お前を消す事が目的なんだよ」



「…俺を、消すのが目的……?」



「だってお前ってさ、堅気から簡単に今の地位まで上げられて、碌な苦労も知らずに、三宅さんの下で優雅に本部長の座に就いて、今じゃ組織のナンバー2。俺はながーい事、苦労してンだけどなぁ。努力が報われる世界であってほしいのよなぁ。いつまでも今の地位にいたくないの。良い加減、テッペンを獲りたいの。うちの親父はこの通り、組織を割って出て来たクセに、緑翔会とはやり合わないとか言い出すし、一本独鈷で宇木組だけでやっていくつもりらしいし。呆れてものも言えないわけよ。馬鹿なんだよなぁ、どいつもこいつも。…だから、反乱をひとつ。俺が一声掛ければ、隣のビルに隠れてるうちの組員が、三宅会長の脳天を弾く」



「……っ」



それが脅しではないと、一切笑みの浮かばない瞳を見ながら感じていた。



「それが嫌なら銃をこっちに。両手を上げて、ゆっくりこっちに来て」



俺は従う他なかった。今は、何よりも肇さんの命を優先しなければならないのだ。静かに銃を床に置き、軽く蹴って野江の方に滑らせる。野江は銃を手に取ると、自分のベルトに仕舞った。


野江に指示されるがまま足を進めると、ビルの端に立たされる。冷たい風が頬を撫で、俺は野江に視線を戻す。この男が望む事は、何だ。本当にただ俺を消したいだけ? いや、背後に何かあるんじゃないのか。俺をここで消して喜ぶ者は、そして得をする者は一体…。



「両手を上げて、…そのままそこの端まで歩いてくれる?」



剥き出しのコンクリート、一部の窓や壁はまだ造られていない。言われた通り端まで歩くと、街の景色がよく見えるが、視線を下ろせばその高さに喉が鳴る。野江に視線を戻すと、野江は画面を向けたまま、にやりと笑った。



「そこから、飛び降りてくれるかな」



「………俺の死と引き換えに、お前は会長に何もしないんだな?」



「あぁ。約束するよ」



ぎりりと奥歯を噛み締めた。従う他、ないのだろうか。深く息を吸って、深く吐く。静かに下を見下ろせば、気が遠くなるほど高い位置にいた。木々が生い茂り、伐採途中のショベルカーが放置されている。俺が飛び降りれば、本当にこいつは肇さんを助けてくれるのだろうか。野江を信用する他ないのだろうか…。何を言っても、肇さんに銃を突きつけられている今、俺に勝ち目はない、か…。



「分かった」



一歩、踏み出す。コンクリートの上に溜まっていた微かに砂埃が宙に舞い、少量の砂利が真下へと落下していった。もう一度、深く息を吸って、吐く。野江を見つめ、意思を固めた。



「会長には、指一本触れるんじゃねぇぞ」



野江は目を細め、昂揚した頬をゆるりと上げると、興奮気味に頷いた。



「あぁ、もちろん。あの人に興味はないから、ちゃーんと生きて帰すよ。だから、さ、安心して飛び降りて」



ぐっときつく、左手を握り締めていた。指輪が外れぬように、どんなに体がバラバラになったとしても、俺だって分かるように。


そして、あなたとは、この指輪が証明するような関係でありたかったと、そう心の中で強く願いながら。


静かに呼吸を整え、大きく一歩、踏み出した。


………

……


消毒液の匂い、陽だまりの温もり、心地良い風、ふと目が覚めると、ぼんやりとした光の中にいた。音だけが頼りで、ベッドのシーツが冷たいとか、陽の光が温かいとか、触覚も、嗅覚も問題はなさそうだが、何も、見えない。真っ暗ではないから、目は開いているはずだが、光があるという認識しかできない。


だが手探りで何かを探そうと、恐る恐る手を動かすと、誰かが突然手を握った。驚いた。人がいたのだ。



「…マサ! マサ! い、今、先生呼んで来るから! ちょっと、待ってろよ!」



男の声だ。ハスキーで低く、でも優しいと感じる。聞くと何故か落ち着くような、そんな声。しかし、その声に聞き覚えは全くない。一体、誰だろうか。かなり俺の事を心配している様子だが、家族だろうか…。数十秒、バタバタと忙しなく、人が数人入って来た事は分かった。何かを手早く確認し、医者らしい男が俺に質問する。



「名前、分かりますか? ご自身のお名前」



その質問で、何もかもが止まった。思い出そうとしても、思い出せない。何か重要な記憶がごっそりと抜け落ち、何も分からないのだ。自分の名前すら分からず、どうしてここにいるのかも分からない。



「…すみません、何も、分かりません」



その後、一通りの精密検査を受けさせられるが、脳には異常がないらしい。ただ"飛び降りた時"の後遺症で、視力と記憶に障害が残っていると言うのだ。飛び降りた、って何だ。俺は、自殺しようとしたのだろうか。何故…?


高層階から俺は飛び降りたらしいが、樹木が生い茂った場所に落ちて行ったらしい。枝によって体が串刺しにならず、上手く葉と小枝が衝撃を吸収し、こうして生きているのだと、奇跡のような話をされる。ただ無傷、というわけにはいかず、相当な出血があったらしい。串刺しにはならなかったが、枝が右の二の腕を深々と裂き、両足の骨折、そして肋骨も数本折れている。だが約一カ月間という時間を眠っていた俺は、骨折と二の腕の傷は順調に塞がって元に戻りつつあると言う。とは言え、歩けるようになるには、かなりの時間が必要との事だった。


そして視力は出血多量による事も原因らしいが、主に心因性、そして記憶に関しても心因性だと結論付けられる。


だが俺としては、訳が分からなかった。記憶が無くなるほどの何かが起き、俺は飛び降りた、という事なのだろうか。それとも単純に飛び降りた後遺症が記憶喪失、というだけか。分からない。そもそも俺は誰なんだ。戸惑う俺に、ずっと付き添っていたらしい男が口を開く。



「俺は、三宅 肇、お前は、真城 理充。俺はお前の事をマサって呼んでる」



「…マサ、ですか。私はあなたを何と呼んでいたのでしょう」



「そうだなぁ……。…肇、かな?」



「肇…」



「それと、タメ口で話してくれないか。お前には敬語を使われたくないから」



「タメ口…。分かった。俺と、肇は同じ年くらいだろうか」



「あぁ。だからタメ口の方がずっと良い」



「分かった。そうするよ」



ファーストネームで呼び合い、タメ口という仲なら友人、といったところだろうか。考えていると、眉間に皺を寄せていたのだろう、肇はすっとその眉間に指先を押し当てると、その深い皺を伸ばしながら、「大丈夫」と優しく声を掛けた。



「ゆっくりで良い」



肇の声は優しくて、落ち着いていて、その声を聞くだけで、何だか本当に大丈夫な気がしてくるのだ。きっと、付き合いの長い親友なのかもしれない。


肇はたくさんの事を話してくれた。他愛もない話だが、良い気晴らしだった。好きな酒の話、飯の話、美味い居酒屋やバー、それに今ハマってる音楽は俺が勧めたレコードだとか、俺が勧めた本を今読んでるとか、一緒に映画も観に行った事があるとか。今日は一日中晴天で、雲ひとつないとか、モデルみたいな綺麗な看護師がいるとか、俺の担当医の見た目は多分どこか欧米系のハーフだ、とか。楽しそうに話してくれる。ふたりで夕食をつつきながら、俺はふと訪ねてみた。



「…肇、俺達はいつからの友達なんだ? 小学校だったりするだろうか。中学、高校、…大学、とか? そもそも俺は学校をどこまで出ているかは、分からないけど」



その何気ない質問に肇は数秒黙った。何か気に障るような質問だったろうか。



「…肇?」



「いや、ごめん、何でもない。んー、そうだなぁ。きっとお前の中じゃぁ、新しい付き合いの類に入るんじゃないだろうか」



「そうなのか。…何故かな。肇と話していると落ち着くから、きっと昔からの知り合いなんだと思ったよ。最近って言うと、ここ数年か?」



「いや、それよりは前だ。10年以上の付き合いはある」



「なら、長い付き合いじゃないか。記憶を失くす前の俺は、肇にとって良い友人だったかな」



「……んー」



肇は思いの外、悩んでいる。良い友人、という言葉に引っ掛かる事は少し悲しいが、記憶を無くす前の俺は何をしてしまったのだろうか…。



「…そ、そんなに悩む事なのか…、迷惑を掛けてたろうか」



不安になって訊ねると、「いやいや」と肇はすぐに否定した。



「迷惑を掛けてたのは俺の方」



「…そうなのか」



「なぁ、マサ」



「うん」



「もし、仮に、仮に、な? 俺達は恋人だった、って言ったら、お前は信じるか」



「……恋人」



ほう。記憶を失う前の俺には恋人がいて、しかも男。声を聞く限りは、優しそうな良い男。何ひとつ思い出せそうにはないが、不思議とそうなのだろうと、抵抗感は皆無だった。なんだか面白いくらいに、すんなりと受け入れてしまう自分がいた。



「いや、悪い。驚くよな。急に、男が恋人で、とか言われても、なぁ?」



「あー、いや、…その、何と言うか。まだ思い出せない事は確かなんだけど、…何故だろうか。抵抗感がまるで無いんだ。すんなりと、そうなんだな、って思ってしまって…、記憶は無いのに、体が覚えてるっていうか、脳の奥底が覚えてる、っていうか…。だから、驚いてはいるけど、もっとたくさん、あなたの事を知りたいって思ってる、ってのが今の心情、だろうか」



「そう、なのか…?」



「あぁ、不思議だよな」



「そうか、そうなんだな。…ふふ、なら、」



そう肇は何かを言おうとした時、ドアがノックされ、「すみません、面会時間終了です」と看護師が呼びに来た。肇はそっと俺の手を握ると、たぶんきっと、微笑んでくれた。



「話しの続きはまた明日。じゃぁな」



「うん、また」



何を、言おうとしたのだろう。見えないけれど、肇の方を向きながら、俺は小首を傾げて肇を見送った。俺はどうやら、肇という男がどうしようもなく好きらしい。抵抗がないどころか、脳でも体でも、この男の存在を心地良く感じているのだから。

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