2. あなたの隣にいる事が

穂花さんが、男と姿を消した。しかもその男は七尾組の若衆だと言う。新婚生活とは呼べないふたりでの生活が、1年を迎える直前の事だった。


彼女が男と出て行ったと知った瞬間、どうしようもない緊張や圧が静かに解けていくのを感じた。だが、その安堵は口にできない類のもので、罪悪に似た影が背後にまとわりついた。


本来であれば、怒るのだろう。もしくは傷心するのだろう。けれど肇さんの願いを叶えたい、その一心で結婚した俺にとって、彼女の駆け落ちは、重くのしかかる圧からの開放だった。これで、彼女は他の誰かと幸せになってくれる。彼女の期待には、きっと一生応える事が出来なかった。タイミングを見計らって別れを切り出そうとは思っていたが、それもまだ先の事だったろう。


後は、それに関連してゴタゴタが必ず襲いかかるだろうから、それを対処しなければならない。七尾組の誰かが、彼女を探し出して連れ戻し兼ねないのだから、それも目を光らせなければならない。


七尾組長は、男と、しかも七尾組の若いやつと出て行った娘の行動に対して、何度も何度も頭を下げたが、俺は彼女が出て行った理由が俺にあるとも言えず、気にしないで下さい、と有耶無耶に答えるしかなかった。結婚相手に逃げられた男、として同情心と哀れむ目を向けられるのと同時に、影で嘲笑されている事も気付いてはいたが、そんなもの痛くも痒くもない。俺自身は自分が蒔いた種を理解しているから、何とも思わなかった。


でも肇さんは違った。彼女が出て行き、七尾組長に頭を下げられたその夜、肇さんは急に真城組事務所に顔を出した。



「よう、もう帰れるのか」



事務所には数人だけ組員がいたが、全員が勢い良く立ち上がり、「ご苦労様です!」と頭を下げている。驚いた。肇さんが連絡もなしに、事務所にやって来るとは…。



「珍しいですね。…どうか、されましたか」



すぐに席を立ち、肇さんを組長室に案内してドアを閉めると、肇さんはソファにドカッと座って、片眉を上げた。



「久々に飲みに行くか!」



肇さんは俺が落ち込んでいると思ったのだろう。わざわざ足を運んで誘いを掛けてくれたのは、この人の優しさ意外の何でもない。たったその一言の誘いで、俺はどれほど胸の内が満たされたか。待ち望んだ言葉を得られて、俺は食い気味に「はい」と頷くと、「良かった」と目尻を下げて微笑まれた。



「あの、七尾組のお嬢の事、すみませんでした。肇さんに紹介して頂いたのに…。七尾組との関係が変わらないよう、しっかり努めますんで」



彼女がいなくなった事に対して、俺は1ミリも悲しんでいないし、怒りもないし、感情がないのだと言えば、この人は俺を軽蔑するだろうか。そう考えながら、俺は建前のように謝罪をすると、肇さんはふっと笑う。



「ある意味、関係はもう変わったろ。向こうはうちに頭が上がらない。望んだ方法ではないが、七尾組が手中に収まればかなり強い。…だからお前が俺に謝る必要は一切ねぇよ。それに俺はお前が精神的に参ってないか、それだけが気掛かりだったんだ」



「参ってそうに、見えますか」



「お前は顔に出さないから、分かりにくいんだよなぁ。本当は仕事なんて手がつかないほどショック受けてンじゃないかなぁ、と思ってさ。でもお前は良い男だから、すぐに良い人が見つかる。だからお前はあまり考えすぎずに…」



「勘違いですよ、肇さん。俺は今、悲しくはありません。むしろ嬉しくて仕方がありません」



つい、口をついて言ってしまった。



「え?」



案の定、肇さんの目が見開かれるが、俺は誤魔化すように書類を片して、席を立った。



「…いえ、すみません。では、行きますか。隆太達には、俺から伝えておきます」



「ん。宜しく頼んだ。運転も頼んだぜ? お前の車に乗るの久しぶりだから、ちょっと楽しみにしてたンだ」



俺はずっとあなたがまた助手席に座って、他愛もない話しをしてくれる機会を待っていた。ちょっとどころじゃなく、頭が興奮で茹で上がりそうなくらいには楽しみにしていた。



「何も変わっちゃいませんよ」



なんて心の中では思っているが、口にはもちろん出さず、当たり障りのない返事をして表情を緩めた。



「お前の車、すっげぇ良い匂いすんだよな。爽やかな、ウッド系の」



「それもきっと変わってないかと」



「あれ、香水?」



「はい。車用に使ってます」



「だよな? お前は、まだヴァレリーのメンズ香水だろ?」



肇さんが顎を撫でて俺の香水を当てる。そりゃそうか。この人から貰って使い始めたのだから。いつだったか、肇さんがつけていて、良い香りですね、と言ったらそのまま俺にくれたのだ。以来、俺はずっとその香りだった。肇さんはその後、違う香水をつけるようになってしまったから、お揃いとはいかなかったが。



「えぇ。ヴァレリーのオム、ウッディーブルーです」



「そうそう、ウッディーブルーだ。お前、まだそれなんだもんな?」



「はい。気に入ってますから」



「そっかそっか」



肇さんはやけに優しく笑った。


助手席のドアを開け、「やっぱ良い香りだよなー、いかにもモテそうな香りだ」そう揶揄いながら助手席に座った肇さんを横目に、この人の側にいれる喜びをたんと感じていた。幸福感と満足感が脳を満たして、快楽物質を出している。どうしようもなく幸せな気分になり、頬が緩んでいないか不安になった。一方で肇さんは外を眺めながら、バーで何を注文するかを陽気に話している。


肇さん行きつけのバー、Mr. Truffautでは、相変わらずクラシックジャズが流れており、映画好きなマスターがグラスを拭いていた。流れているジャズも、何かの映画のテーマソングだと言う。相変わらず雰囲気の良いバーで、マスターは俺達を見ると、「いらっしゃいませ」と低く落ち着いた声色で、声を掛けてくれる。静かで、心地が良い。席に着いて早々、肇さんは気に入っているスコッチをストレートで頼んだ。俺の方をちらりと見ると、「お前はマンハッタン?」と首を傾ける。このマスターが作るのマンハッタンが好きで、毎回頼んでいた事を、肇さんは今でも覚えてくれていた。きゅっと胸が鷲掴まれて苦しくなる。



「はい」



そう平然を装って頷くと、肇さんは「マスター、マンハッタンをこいつに」と注文を済ませた。



「それにしても、お嬢も見る目がないよな。もともとは彼女がお前を気に入ってたって聞いてたのに、男と駆け落ちなんて。お前に泥塗って消えるとは、良い度胸だよ」



当初、彼女はきっと俺を好いてくれていたろう。それは彼女の言葉や仕草を見れば十分に伝わった。


しかし彼女は優しい人だから、俺に無理に言い寄る事は無かった。これが政略結婚だと彼女自身も分かっていたから、何も言わずに、他に男を作って消える事を選んだのだろう。彼女は強い。父親もうちの組も敵に回すと分かっても、逃げ出す事を選ぶ勇気のある人だ。


俺は差し出されたマンハッタンを受け取りながら、マスターに軽く礼を言い、肇さんには「仕方のない事です」とだけ言って、話しを変えたいと首を傾ける。



「こうして飲むのは久しぶりです。乾杯しませんか」



「乾杯ねぇ? …ん、じゃぁ、まぁそうだな。乾杯」



俺にとってこの身を捧げたい相手は、彼女ではなく、目の前の男。それは何があっても変わらない。だからこれは祝杯なのだ。あなたとまた酒を飲み、隣に居座れる事に対する祝杯だ。そう思うと嬉しさのあまり頬が綻びそうになるが、感情をぐっと抑え、静かにグラスを合わせて軽い音を立てる。一口だけカクテルを飲んだ。久々に交わす酒が不味いわけがなく、互いにこの1年の空白を埋めるように話しを進めながら、次から次へと酒を胃に収めていく。酒は弱い方ではないから、顔にも行動にもあまり出ない方だが、それでも何だか少し、俺も肇さんも陽気だった。



「やっぱりお前とこうして飲んで、語る時間が一番最高だな!」



肇さんは俺と飲みに行けなかったから、話す事は山のようにあるんだと、喋り始めては、楽しそうに口角を上げる。この天然の人たらしめ。酔うとこの人はよく笑い、よく話し、よく褒める。陽気に酔ってる今なら聞いても良いものかと、俺はグラスに残っていたマンハッタンを飲み切ってから口を開いた。



「…俺も、あなたとは色々話したかったんですよ。何故、1年もの間、俺を飲みに誘ってくれなかったんですか」



肇さんは片眉を上げた。



「んー? そりゃぁ、お前、夫婦の時間を邪魔しちゃ悪いなって思うだろ」



やはり、そういう事だったか。



「たまには誘ってほしいものでした。全く誘わないってのも、おかしな話しかと」



「そうか? でも七尾組のお嬢に失礼かと思ってな。新婚のお前を、いつもいつも借り出したら、ふたりの時間がなくなるだろうし、そんな事をしてたら七尾組長に叱られそうだからさ。だから数年間は少し距離を置いた方が良いかと思ったんだ。…本当に、お前には幸せになってもらいたいから。良い嫁さん貰って、可愛いガキ作ってさ、そんで俺とはたまに一緒に酒飲んでくれりゃぁ、俺は最高だ。たまにで良いからさ、俺も構ってほしいもんな?」



つらつらと吐かれる言葉は、ヘラヘラと下心なく豪快な笑みと共に吐き出される。俺は知らず知らずのうちに拳を握っていた。あんたはそんな風に思っていたのか。そう思うと、どうしようもなく苦しくなる。


聞きたくない事ばかりを聞いてしまい、怒りに脳が煮えて溶けてしまう感覚だ。何も考えたくないし、何も考えられない。考えようとすればするほど、肇さんに対する身勝手な思考に支配される。勝手に想いを寄せては振られて、失望にまみれて鬱になりそうだった。


分かってはいる。肇さんが俺を側に置くのも、俺に求める事も、俺がこの人に求める事とは全く違うという事を。この人にとって俺は、純粋な兄弟分として、従順な元組員であり、現若頭と本部長という関係でしかない。この人が本音や弱音を唯一吐き出せる組織内の存在、ただそれだけ。分かってはいるが、自分との感情の違いに、やはり悔しさを覚えた。


俺は、もし肇さんが結婚したと聞いたら、嬉しいとか、めでたいとか、微塵にも思えないだろう。幸せになってほしいと、一歩引く事もできない。祝う事なんて絶対にできない。今のところ、この人は仕事一筋だし、浮いた話も噂も聞いた事はないが、モテないわけがないのだ。女性にも慣れているし、扱いも上手い。強面の格好の良い男だし、見た目によらず、性格は優しく、大らかで、甘く笑うのもギャップだ。それでも独身なのは、この人が結婚はしないと、何処かで決めているからかもしれなかった。だから、ポンと結婚話が出て来るとは思えないが、もしそんな話が湧いて出てきたら、俺はどうなるだろう。この世が生き地獄と化す人生で、生きていられるのだろうか。きっと無理だと思った。生きる意味を失くすとは、この事だ。


でも、この人にとって、俺が穂花さんと結婚するという事は、俺の幸せへの一歩にすぎない。友に最愛の存在が現れた事が嬉しくて仕方ないと言うように、喜んでくれたし、彼女が去った事にショックと憤りを感じている様子だった。それが俺にとっては途方もなく苦痛なのだ。


苦虫を噛み潰したような顔になっているであろう俺に、肇さんは言葉を続けた。



「確かに、七尾組との関係を良くする為に、お前には結婚の提案したけど、お嬢がお前に相応しくないと思ったら俺も抵抗してたぜ? でもあのお嬢は本当に完璧だろ? お前のタイプそうだし、良い関係を築けるんじゃないかなと思ったんだ。あのゴリゴリの極道の父親を持ちながら、親切で気が利いて、優しくて、賢くて、凛としていて、それでいて容姿端麗、昔から文武両道で、お前にとって良い人だと思ったんだよ」



「………そう、でしたか」



お前のタイプそうだし、という言葉を聞いて、ふと昔の会話を思い出していた。


俺がまだ肇さんの組にいた頃だ。よくキャバクラだの、高級クラブだの、ケツモチしている店に連れて行かれたが、ある時、高級クラブを出た後で、ふたりでバーで飲み直そうという話しになった。酒を飲んでいた俺に、肇さんは聞いた。



『キャバとか、クラブとか、お前嫌いだろ?』



『いえ、…まぁ、馴染みのない場所ではありますが、肇さんの行く場所には共に訪れたいので、またいつでも誘って頂ければ…』



『嫌だね』



『い、嫌、ですか…』



『ふふ、だってお前を連れて行ったら、みーんなお前しか見なくなる』



『そうでしょうか。皆さん、肇さんを見ていたかと思いますが…』



『だから、お前と飲む時はこうしてバーで飲むって決めた。まぁ、たまに家も良いけど』



『はい。飯なら任せて下さい。美味い酒のアテ、作ります』



『お前の飯は本当に美味いもんなぁ。…あ、お前さ、料理できるからって、彼女の飯にケチつけたりすんじゃねぇぞ』



『好きな人が作る飯に、ケチなんかつけませんよ』



『ふふ、それも、そうか。…お前の彼女って、きっとお前みたいに凛としてて完璧主義なのかなー。それとも、すっげぇ優しいやつなのかな』



『彼女はいませんが、好みは……、まぁ、概ねそうかもしれません。完璧主義ではないにしても、上を目指し、凛としていて、美しい。加えて仏のように優しく、おおらかで…、そんな人です』



『理想が高いなぁ』



そう言って笑う肇さんを目の前に、あなたの事です、と喉から出そうになっては必死に堪えた。気が緩めば俺はきっと、肇さんを困らせるようなアレコレを言ってしまうだろうと、眉を下げて、その時もマンハッタンを飲んだだけだった。


だから、だろう。俺のタイプそうだなんて考えたのは。俺のタイプが、あなただという事を、あなたは知らないし、あなたにだけは知られてはならない。俺はそう考えながら、チェイサーの水を飲んで、飲み過ぎてアルコールに浸った脳みそを冷まそうと、一度静かに深呼吸をしてから肇さんへと向き直った。



「さて、もうそろそろ行きましょうか。家まで送ります」



肇さんは腕時計を確認すると、残念そうに口を尖らせた。



「あー、もうこんな時間か。楽しい時間はあっという間に過ぎるなぁ」



「…本当、そうですね」



「ん。…で、隆太呼ぶのか?」



「えぇ、彼と、田丸のふたりを」



「もう呼んだ?」



「いえ、まだ。今から呼びます。少し、待ってて下さい」



席を立とうとした俺に、肇さんは腕を伸ばして、俺の腕を掴んだ。突然触れられた事に心臓が跳ね上がる。肇さんの顔を見下ろすと、肇さんは頬肘を突き、少し微睡んだ甘い瞳を向けた。肇さんは男が惚れる男の典型みたいな容姿で、格好良いを具現化したような顔立ちだ。そんな男にじっと見られると、さすがに頬が赤くなりそうで怖い。



「な、何でしょうか…。何かついてます?」



「んー、少し考えてた」



「何をですか」



「お前、今日泊まって行けよ」



「………え?」



突然の誘いに言葉を失くす。そりゃぁ、動揺するだろ。瞬きする事すら忘れてしまうほどには、とんでもなく。今まで泊まって行けなんて、言われた事なかったのだから。



「お前の作った酒のアテを片手に、美味いスコッチを飲みたい気分なんだ。まだ12時だぜ? どう? 明日早いのか?」



「いえ、明日は早くはないのですが…、お邪魔しても良いンですか、本当に」



「もちろん。そんな改まった感じで言うなよ、寂しくなる。まぁー1年ぶりだろ? リビングに、新しくソファベッドを買ったんだ。すっごく寝心地良いから、そこで寝ろよ。お前の車は田丸に言って、駐車場に停めておいてもらうから、それで良い?」



「えぇ、もちろんです」



「ふふ、良かった。よーし、じゃぁ帰って飲むぞー!」



「はい、お付き合いします」



「おう、ちゃーんと、付き合ってくれよ?」



「はい」



こんなにも、ウキウキと興奮して楽しくなってしまう事ってあるだろうか。柄にもなくスキップしそうになるが、さすがに陽気すぎるだろうし、俺がスキップするのは、あまりにも滑稽だから絶対に肇さんの前ではしないけれど、気分はずっと浮かれていた。隆太と田丸と合流すると、田丸はボソッと「機嫌、良いですね」と揶揄ってくる。だがまぁ、その通りだから、俺は「まぁな」とだけ返して、すぐに肇さんが座っている後部座席へと乗り込んだ。


車内でも俺はずっと浮かれていたし、肇さんも楽しそうだった。互いに酒が良い感じに入っていて、何をしても、何を言っても楽しくて仕方がない。そうして肇さんのマンションに到着し、田丸が俺の車を駐車場に停め、隆太と共に来た道を戻って行った。


部屋の中は、1年前とさほど変わってはいなかった。リビングルームには大きめのソファがある。これがベッドになるらしく、丁度いい硬さだ。ガラスのローテーブルも、大型のモニターも、年季の入ったスピーカーも、変わらない物を見ては、ようやく戻って来る事が出来たと、安堵に頬を緩めていた。


ふたりで酒を片手にキッチンに立ち、適当に酒のアテを作る。横で肇さんはそれをつまみ食いして、リビングに戻る事なく、立ったまま飲んでいた。



「んーま、コレも、んまい」



「アンチョビって、何でこんなに美味いのでしょうね」



「分からん。でも、コレ、美味いなぁ。酒が進む」



「アンチョビとチーズって最高ですね」



「ワインも飲みたくなってきた」



「買って来ましょうか?」



「ふふ、いや、良い。今度はワイン買ってから来ような」



次の宅飲みが明言され、それだけで幸せになる。別に、いつと日付を言われたわけではないけれど、それでも、またこうして飲もう、という誘いは単純に嬉しいものだ。



「はい。もちろん」



「仕事が早く終わる日が良いよなぁー」



「ですね」



そうしてただ、ふたりでダラダラとスコッチを飲んでは、他愛もない話しを繰り返す。流石に立ちっぱなしも疲れて、リビングで座って飲みましょうと移動すると、肇さんはポテトチップスの袋を抱えていたから二度見した。どこから持って来たんだ。というか、ポテトチップスなんて食べるんだ。…のりしお味だ。のりしお味が、好きなのか。なるほど。


というか、まだ食うのか。



「何だよ。太るぞとか、塩分の摂りすぎだとか言うなよ。今日は楽しくて仕方がねんだから」



そんな事を言われてしまったら、愛おしすぎて何も言えない。世界中ののりしお味を買い占めたいくらいには、甘やかしたい。世界中にのりしお味というものがあるかは知らないけど。



「いえ。でも、水もたくさん飲んで下さい。塩分の摂りすぎを防ぎましょう」



「はいはい、分かったよ。お前にもちょっとやるよ」



「ありがとうございます。…肇さんはあおのり味が好きだったんですね」



「香ばしくて美味いだろ? お前は? 何が好き?」



チップスなんかより、チップスを頬張ってるあなたが好きです。



「何でしょう。うすしおも好きですし、コンソメも勿論。梅味とかも結構好きです」



「あー、良いよな! 俺もいっときハマって食ってた」



肇さんは言いながら、ソファだとテーブルが低すぎるらしく、床にそのまま胡座を掻いた。俺も横に腰を下ろすと、「ソファの上に座ってて良いんだぞ」と言われるが、肇さんより上にいるわけにはいかないし、それになにより、横にいた方が肇さんを近くに感じられる。



「いえ、床の方が好きなんで。グラス、空いてますね。注ぎます」



「サンキュ。……今度、座布団買っておくな」



「ふふ、良いですね」



「何色が良い?」



「濃紺、でしょうか」



「良いねぇ。何か少し刺繍が入ってる方がカッコいいよなぁ」



「良いですね」



「俺さ、引退したら絶対田舎に行くって決めてンだ。南の方の田舎でさ、縁側のある平屋を買って、一日中その縁側に座布団敷いてゴロゴロするんだ。猫もいたら良いなぁ」



「良いですね、縁側。…俺も、そういう暮らしには憧れます」



肇さんはコトンとグラスをテーブルに置くと、首を傾けた。



「なぁ、マサ」



「はい」



「もし仮に、お前が今極道をやめて、好きな所へ行けるってなったら、お前は何処で何をしたい?」



どこで、何を…。難しい。だって俺は肇さんのいる場所にいたいのだから。



「極道をやめる事はありません。あなたが続けている限り、俺はあなたの側で…」



「分かった分かった、じゃぁ、俺もお前も引退するってなった時。俺は田舎の縁側、座布団と猫付き。…お前は?」



ひとりならば、何処へ行ったって一緒だ。つまらない。反対に、肇さんが一緒なら、何処へ行っても楽しいに決まってる。



「俺は…、何処でしょう…」



肇さんの行く所、そう答えたいが、その言葉はあまりにも直接的すぎるだろう。少し間を置いて、南の田舎は俺も好きだなと口を開いた。



「………南の離島、でしょうか」



「離島?」



「えぇ。俺、小さな島の出身なんです。まぁ、とはいってもいたのは7歳までですけど。それでも、良い思い出がたくさんあるんです。だから引退したら、小さな離島で農業とか酪農とか、今までとは全く違う事で生きてみたい。夏は海で、ぼーっとするのも良いでしょうし」



「引退したら南の離島かぁ。それも良いなぁ」



「はい」



「太く短く、最期はド派手に散る。短命が当たり前のこの世界だけどさ、お前にはそういう生活ってのを、いつか送ってほしいよ。美味い野菜作って、アンチョビなんか添えて!」



屈託なく笑う肇さんを見て、胸が苦しくなった。いつか送ってほしい、ではなく、共に送ろうと言ってほしい。俺ひとりがそんな生活を送ったって、何も楽しくなんかない。



「………肇さんと共に美味い新鮮野菜を食べるのが、俺の引退後の夢です。離島の平屋を買って、縁側で座布団敷いて、採れたての野菜を調理して、一緒に食べるんです。アンチョビも添えます。…あなたのいる場所が、俺の居場所です」



重いと思われる言葉だったと、言い終えた瞬間に焦りを感じた。極道者が上の者に対して言う事じゃない。冷静に考えれば、口説いていると分かる言葉だったし、どうしようかと咄嗟に言葉を紡ごうとした。だが、肇さんを見ると、肇さんは特別気にしていない様子だった。ポテトチップを口に放り込みながら、「じゃぁ、長生きしないとなぁ」と朗らかに笑っているだけだ。勘繰られなくて良かった、と思うのと同時に、口説いてるなんて、普通は思わないのかと反省した。少し気にしすぎたらしい。



「はい。いつまでも、俺はあなたの右腕でいたいですから。長生きして下さい。…だから、塩分も控えて下さいよ、肇さん」



肇さんは口を尖らせる。



「じゃ、ラスト一枚は…お前に」



そう言って、俺の方に一枚を突き出すから、可愛い人だなと、受け取ろうと手を伸ばすと、肇さんは悪戯っぽく口角を上げて片眉も上げた。



「あーん」



とんでもないご褒美だ。鼻血を流しながら、パクと食い付くと、「餌付け成功」と笑われる。とっくに餌付けなんて成功しているだろうが。


甘く、幸せな時間はあっという間に過ぎ、それから一週間後だった。不穏な空気が、しんしんと組織内を包んでいったのは。


肇さんとまたバーで飲み、語り合っていた最中、肇さんの携帯が騒がしく鳴り響く。仕事用の携帯だった。つまり、組員からの電話だ。



「…俺だ。…あぁ、…あぁ、分かった。…いや、良い。丁度、マサと一緒にいるからこれから向かう。…あぁ、頼んだ。…分かった、また」



何事かと眉間に皺を寄せていると、肇さんは携帯を懐に仕舞いながら、「御影からだった。厄介だぞ、揉め事だ」、そうグラスに残っていたスコッチを一気に飲み干した。御影から、つまり茂木組の若頭からの連絡だ。若頭から直接の連絡とは、嫌な予感しかしない。肇さんは立ち上がると札をカウンターに置き、俺も同時に立ち上がる。肇さんは俺を見ながら眉を寄せた。



「お前ンとこの組員と、七尾組の若いのがぶつかった」



ひくりと目の下が痙攣した。何故、そんな事に…。しかも、どうして肇さんに連絡が入ったんだ。



「分かりました。すぐに車を用意させます」



「隆太がもう向かってる」



「分かりました」



店を出ると丁度高級セダンが停まる。隆太は「ご苦労様です!」と、肇さんに愛想を振り撒き、ドアを開けて待っている。肇さんの反対側のドアから後部座席へ乗り込み、隣に腰を下ろして車が発進したところで訊ねた。



「七尾組とうちの若いのと、ぶつかった理由は分かっているのでしょうか」



「詳しくは分からない。ただ、うちの店でたまたま飲みに来ていたお前ンとこの組員と、七尾組の若いのとで、口論になった挙句、外で殴り合いだ」



「そう、ですか…。申し訳ありません」

 


七尾組と聞けば、やはり気になる事はひとつで、肇さんもそれは頭に過っているだろう。参ったな、と頭を掻くと外を眺めている。



「同じ組織内で喧嘩するなと、あれほど言ってンだが、血の気の多いやつは何処にでもいるもんだな。ただ、厄介なのは、直参同士の七尾組とお前ンとこがぶつかったって事だ。それは俺としては絶対に見過ごせない。分かってるとは思うが、七尾組はあの一件からお前んとこには頭が上がらないはずだろ。それが、今になって殴り合いだ。大ごとにはしたくねぇが、理由と向こうの出方次第では大ごとなり兼ねない」



「……うちの若いのは、俺がきっちりと抑えます」



「七尾組長もこっちに向かってるらしいから、頼んだぞ」



「はい」



肇さんは少し緊張している様子だった。外を眺め、目的地に着くまで口を閉じ、何も語らない。それもそうだろう。次期会長の座を前に、組織内で対立してしまえば一巻の終わり。七尾組と対立する事は、派閥争いに繋がるのだ。車を走らせ、10分程で茂木組が仕切ってるバーに到着する。バーはすでにCloseの札が下げられていた。肇さんがドアベルを鳴らして中に入ると、茂木組若頭、御影が頭を掻いていた。きっと店から直接電話を受け、この場を収拾させたのだろう。肇さんの姿を視界に捉えると、すぐに頭を下げる。



「ご苦労様です」



「何が原因だ」



「それが…」



うちの組員がふたり、バツの悪そうな顔をして御影を見ていた。少し離れて七尾組の若いのが眉間に皺を寄せ、反省の色すら見せていない。うちの若いやつらは、それに腹を立てているようだった。御影は俺を見て、少し気まずそうに眉根を寄せる。


その表情を見て、何となく察した。そうか、やはり俺に関する事らしい。となると、穂花さんの事だろう。



「だから、俺が言った事は全部本当の事だって言ってんだよ」



口ごもる御影を前に、七尾組の若衆のひとりが荒々しく語気を強めて、そう言い放った。



「説明しろ、御影」



肇さんに促され、御影は言いづらそうに口を開く。



「…口論になったキッカケは、真城の叔父貴と穂花さんの事です」



それが何故、組員同士で喧嘩にまで発展したのだろうか…。



「続けろ」



俺が御影にそう圧を掛けると、御影は口を歪ませた後で、何かを諦めたように言葉を続けた。



「穂花さんが出て行った理由が、真城の叔父貴の家庭内暴力だって、七尾組の若いのが言い出して、それに平屋達が言い返して、最終的にはヒートアップして殴り合いになったと…」



家庭内暴力。どうしてまたそんな突拍子もない言葉が出てきたのだろうか。眉を顰めると、威勢の良い七尾組の若いのが食って掛かるように俺を睨み付けた。



「どうなンですか、うちのお嬢に手ぇ上げたんじゃないンすか。じゃなきゃ、あんたにゾッコンだったお嬢が出て行くわけねぇんすよ」



チンピラのような七尾組の若いやつに、そんなわけねぇだろ、とつい荒っぽい口調になりそうになるが、こんな若僧相手に苛立つのも癪で、短く呼吸を整えた後、冷静に問いかける。



「暴力だなんて何処から出て来た噂かは知らないが、それは本人から聞いたのか」



「本人から聞けるわけねぇだろ。出て行っちまったンすよ? あんたのせいでな!」



「お前、さっきから誰に向かって口利いてんだ、このガキ」



七尾の若いのが苛立ちをそのまま俺にぶつけ、それにキレたうちの若いのが、また掴みかかろうとする。幸いな事に、もうひとりは冷静を取り戻していたのだろう、「やめろって」と、羽交い締めにして足を止めた。俺は七尾組の若衆、そして真城組のふたり、両方に静かに圧を掛ける。



「これは夫婦間の問題だ。お前達が出しゃばる事じゃない。お前達が騒げば騒ぐほど、組同士でのイザコザになり、自分の親の首を絞めてる事になるんだぞ。今はこの緑翔会として大事な時だから、無駄な争いは避けろ。良いな」



「無駄な争いだと、この野郎…」



七尾組の若いのが、怒りを露わに拳を震わせ、そうぽつりと呟いたその時、カランとドアベルが鳴った。七尾組長と用心棒が共に入って来たのだ。



「喧嘩だって?」



「七尾組長、」



肇さんは声を掛けると七尾組長の側に寄り、事の経緯を端的に説明した。



「真城はもちろんやってないと主張していますし、俺としてもこいつがお嬢に手をあげるとは思えません」



七尾組長は若衆のひとりを見た。



「……おい、野々村。その噂はどこから聞いたんだ」



「は、はい。俺は、その…あいつから、聞きました…」



「あいつ?」



「その、……武田から…」



武田、その男が穂花さんと逃げたらしい。という事は、なんとなく耳にしていた。その時はへぇ、そうか、と思った程度だったが、その武田から聞いたと言う事は、穂花さんがそう伝えた、のだろうか…。



「武田? いつ?」



訝しげに顔を歪める七尾組長に、若いのは勢いよく頭を下げた。

 


「す、すんません! 俺、あいつがお嬢といなくなる前日に、色々聞かされてて。でもまさかお嬢を連れて出て行くとは思わなくて…、でもあいつは、ただお嬢を助けたかっただけなんだと……」



「お前、今までそれを隠してたのか、馬鹿野郎。…説明しろ」



「す、すんません…、俺が武田から聞いたのは、お嬢と偶然街で会った時に、お嬢が辛いって言ってたって…。苦しいとか、悲しいとか、そういうネガティブな事しか言わなくて、武田は真城組長がお嬢に手を上げてんだって言ってて…。お嬢は最後に言ったそうなんです。ここから私を連れ去ってほしい、って。だけどまさか武田が、本当にお嬢と逃げ出すとは思ってなかったンすよ…、俺は一応、馬鹿な事はするなよって釘は刺しといたンすけど」



辛い、か。手は上げてはいないが、辛いか辛くないかと問われれば、辛かったのだろう。彼女が求める関係は、本当の夫婦関係だったのだろうから。


だがここで、それを伝える事は出来なかった。もちろん、暴力も否定しなければならないが、彼女の事は愛していませんでした、なんて言えるわけがない。七尾組長は俺を見つめ、「こいつはそう言ってますが、実際のところはどうなんです?」と静かに問い詰めた。声色は至って冷静そうだが、その深くには怒りが孕んでいる。そりゃそうだろうな。



「確かに、彼女との結婚生活が上手くいっていたわけではありません。しかし暴力を振るう事はありません。それは断じて言い切れます。彼女に暴力を振るう事が、組にどう影響するか、考えない頭ではありませんから。しかし本人不在の今、この問題は解決しようがありません。俺から言える事はそれくらいです。この件は、どうにもできない事ですから、俺と彼女の話はこれで終いにして頂きたい」



七尾組長の後ろで、若いのがギリリと歯を噛み締めている。組長の前で、俺に食って掛かるマネはしないようだが、それでも刺して来そうな勢いはあった。七尾組長は顎を撫でると、「分かりました」と頷いた。



「武田の事もあります。これ以上、事を荒立てたくないのはお互い様。どうですか、三宅若頭。今回の件は水に流す、という事で。こっちは武田を見つけ次第、話しを聞きますし、ケジメも取らせます。もちろん、穂花も探しておりますんで、見つけ次第、話しをするという事で」



見つけ次第、か。見つかれば、武田という男はどんな目に遭うのだろう。こっちとしても、できる事はしておきたい。彼女には、そのまま武田と幸せになってもらいたいから、居場所くらいは、俺が先に見つけておきたいが…。きっと難しいだろうな。



「えぇ、こちらとしては構いません。…マサ、それで良いな?」



「はい」



そうして手打ちとなり、うちの連中には一言二言だけキツく言って終いとなった。…はずだった。


だが七尾組の態度が変わったのは、その日からだった。伴い、派閥が明確になっていく。緑翔会の中で次期会長の座に関して、現会長の右腕である肇さんの派閥と、現会長が選ばれた際に対立していた、もうひとりの候補である、宇木組長による反対派。明確に割れ、間を取り持っていた七尾組がどうやら宇木組についた、という噂が流れたのだ。この緑翔会という組織を一枚岩にしていたのが七尾組だったが、その中立組織の七尾組が、反対派閥に傾いたのだ。


嫌な空気が組織内を漂う中、会長は他界した。不幸中の幸い、と言うべきか、会長は七尾組が宇木組についた噂も知らなければ、七尾組のお嬢が出て行った事も知らない。何もかもが上手くいったと思っている会長は、本当に良い最期を送ったろう。


そして会では規定通り、肇さんが会長に就任した。会長が病気をした後は代行と言うべきか、若頭の肇さんが全て取り仕切っていたわけだから、肇さんがトップになるのは必然。


しかし、その3日後。宇木組率いるいくつかの組が脱退した。そしてその中には、やはり七尾組の名前があった。組織を割って対立したいくつかの組を、黙ってそのままにする世界ではないのだ。淡々と、着実に、血の匂いが鼻を掠めていく。


宇木組長をトップに、新しい組織が立ち上がると案の定争いが起こる。その状況を作り出したのは、自分の責任だと肇さんは自分を責め、一刻も早く収束させたいと願っていた。組織内の争いを最も嫌っていたのに、自身の組織から反対勢力を作り出してしまった事に対する罪悪感と嫌悪感、それは何も言わなくとも、ひしひしと伝わる。この戦争は、決して肇さんの責任ではない。前会長の生み出した歪みが原因だ。しかし、肇さんはそうは思ってなかったのだろう。


だから戦争が激化し、互いに後戻りできなくなったタイミングで、話し合いたいと宇木に呼び出された時、肇さんは、何の躊躇いもなく承諾したのだ。指定された場所も、開発途中のエリアで、人のいない場所だった。つまり、殺して埋めれば気付かれない。そんな場所にひとりで乗り込む事は死を意味していた。向こうにとってみれば、肇さんの首を取るチャンスなのだ。お願いですから、そんな無謀な事はしないで下さいと、何度も頼んだが、肇さんは大丈夫だ、と答えるだけだった。


肇さんにとってその宇木という男は、昔世話になったひとりだと言う。前会長とも付き合いは長く、同じ時期に緑翔会系の組織に入り、同じように昇格をしてきた。確かに前会長の座を巡って対立した時もあったが、肇さんは彼から極道のイロハを教わり、たくさんの恩があるのだと言う。だから裏切られたのに今でも義理堅く、信じていた。そんな思い出なんて、クソ喰らえだと思った。あなたを裏切った奴らなんて、全員始末して当然だろうが。そう俺は拳を握るが、肇さんは違う。宇木の叔父貴がどんな男かを見てきたから、サシで話しをつける、そう言って聞かなかった。 


ふたりっきりで話そうという誘いを受け、肇さんは用心棒も付けず、運転手も付けず、たったひとりで向かうつもりだったのだ。だから他のやつらには声を掛けないから、どうか俺は連れて行って下さいと、じゃなきゃ総出であなたの車を追いかけます、と脅しのよう吐き、半ば無理矢理に俺の車に乗せた。こちらの車に乗ってもらえれば、それで良い。俺にはこうするしかないのだと、手荒に自分の意思を伝える為、指定された場所から道を逸らして別の場所へと車を進める。肇さんは流れゆく景色を見ながら、冷静に問う。



「… 理充、何考えてんだ」



そう問われれば、溜め込んできた感情が溢れ出そうになった。爆発しそうな不安や焦燥を抑えつけ、淡々と気持ちをぶつける。



「あなたが結婚しろと言ったから結婚した。…あなたが殺せと言うのなら、俺は誰だろうと殺します。あなたが命を捧げろと言うのなら、俺はあなたの為に命を捧げます。俺はそれだけあなたに惚れていて、一生付いて行くと決めたんです。そんなあなたが死に行くのを、俺が許すと思いますか」



「お前に許されなくたってやる事は変わらねぇよ」



「……なら、せめて、俺も話し合いの場に行かせて下さい。でなければこのまま、ここで足止めします」



「お前も、ガキじみた事するんだな」



「こうでもしないと、あなたはひとりで行くでしょうから」



「まぁなぁ。…でも、行くのは俺ひとりだ。お前が行く事に許可はできない」



「ならば、このまま…」



「なぁ、マサ、」



外を見ていたはずのその瞳が、俺を捉えていた。切れ長の鋭い瞳が、トンと胸の奥を突いてくる。



「宇木の叔父貴がこうなっちまったのは、俺の責任でもある。なのにお前は俺に、自分の尻拭いをさせねぇつもりか? 俺はそこまで落ちたと? 俺は所詮、そんな男だと?」



「……違います、それは、」



「違うンなら、連れて行ってくれるな?」



ズルい言い方だ。そう言えば、俺はこの人を連れて行くしかなくなる。手を震わせ、考えに考えた。何が正解か、どうしたらこの人を守れるか。


でも、この人が行くと決めた事に対して、俺がどんなに足掻いても、結果は変わらないと頭で理解はしていた。足止めしたって無意味だ。ただ、僅かな望みを抱いていただけ。俺が気持ちをぶつければ、少しは傾くのではないか、という淡い期待を。


けれどそんなの、やはり意味がなかった。俺は何も出来ず、みすみすこの人を死なせるのだ…。そう悔しい思いに唇を噛み締めながら、指定された建設途中のビルへと到着する。自分に対する不甲斐なさと失望に、拳を握らずにはいられなかった。眉間に深い皺を寄せていであろう俺に、肇さんは何も言わず、そっと手を取った。何事かと、眉間の皺は更に深くなる。



「帰って来たら、返してくれよ」



左手に握らされたのは、いつも肇さんが右手の中指に嵌めていた先代の形見であった。生きて帰って来るから心配するな、そう思いが込められているのだろうと思うと、胸は抉られるように痛みだし、鼻先もつんと痛くなる。この人の覚悟を知るのと同時に、俺の覚悟も試されているのだ。俺はその指輪を握り締め、不安に駆られる思考を無理矢理に押し殺した。


俺はこの人の為に散ると決めた。だったら、この人の為に覚悟を決める事も出来るはずだ。



「…分かりました。絶対に、生きて帰って来て下さい」



きっと、俺が肇さんに抱く感情と、肇さんが俺に抱く感情は大きく違う。でもそれでも良い。このままずっと、この人の側にいたいという気持ちは変わらない。


肇さんがビルの中へと消えた後、俺はきつく握り締めた左手を開き、改めてその指輪を眺めた。年季の入った、太い燻銀のシルバーリング。…肇さんからの指輪、か。ふっと頬がつい緩んでいた。左手の一本の指にそっと嵌めてみるが、右手の中指に着けていたそれは、少し大きかった。


大丈夫、肇さんは生きて帰って来る。上手くナシを付けて、平然と帰って来る。だから、大丈夫。



「…おい!」



その時、肇さんが入って行ったビルの影から、誰かがこちらに向かって走って来るのが見えた。カチコミかと思ったか、そうじゃない。男はひとりで走って来る。ぜぇはぁと肩で息をして、車のウィンドウをノックしたそいつは、宇木組若頭の野江だった。つまり、今、ビルで肇さんが話している相手の忠犬だ。窓を開けたら撃たれるのではないかと考えていた俺に、野江は身振り手振りでビルを指し、「三宅会長が、…三宅会長が!」と訴えた。その言葉を聞けば、居ても立っても居られず、ドアを開けると、野江は「すまない」と謝った。



「説明しろ、何が起きたんだ」



そう怒鳴るように言いながら、ビルへ進もうとすると、野江にがっちりと腕を掴まれる。



「ま、待って、今正面から行くのは危険すぎる。これはうちの責任だ、お前を巻き込むのは筋違いだし、お前に何かあって事を荒立てたくない。でも…、でも、お前がいて良かった…、三宅会長ひとりで来たわけじゃなくて、本当に良かった…」



「イチから説明しろ。会長に、何が起きたんだ」



「いや、まだ何も起きちゃいない。…ただ、うちの連中がビルの向こう側から一階に入って行ってさ、…悪い、お前がブチギレるのは当たり前なんだが、話しを最後まで聞いてくれな? まず、俺達、宇木組は一枚岩じゃねんだ。確かに、緑翔会にはもういたくねぇって飛び出したのは事実だけど、俺や親父は戦争なんてしたくなかったんだ。もともとは、戦争せず、円満に脱退する方向だったんだよ…」



聞いた事のない話しだった。もちろん、肇さんの口からも、そんな事は語られた事がない。



「どういう事だ…」



「だから、親父は宇木組だけが脱退すると思ってたし、この街を去って、他の土地で細々やれりゃぁ良いと思ってたんだよ。それが、…なんだか、よく分からない事になって、…色々あったんだが、今は、詳しく説明してる暇はねぇから省くけど、俺や親父は、三宅会長を殺そうだなんて微塵にも思ってねぇんだ。親父の派閥と、親父のやり方に反発して潰そうとする派閥とで、うちの組は割れちまって、…だからお前には申し訳ないと思ってるけど、俺ひとりじゃどうにもならねぇから…」



「なら、今すぐ行くしか…」



「正面突破は無理だ。もう、うちの反対派閥が一階に何人もいやがった。だからこっちのビル、上階で親父と三宅会長のいるビルとで繋がってるだろ? そこから移動する。その方が安全だ。親父と三宅会長を、ひとまず逃したいから、悪いが、お前も来てくれないか」



「分かった、急ごう」



肇さんを生きて帰らせる。

それしか頭にない俺は、まさか自分が標的にされているとは微塵にも考えていなかった…。

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