第5話
毒入り紅茶事件から三日後。
学園は、見えない緊張と噂で満ちていた。
「聞いた? クラリッサ様、お茶会で毒を盛られたらしいわよ」
「でも、倒れなかったって……本当なの?」
「なにか……対毒魔法でも仕込んでたのかしら……こわ……」
ささやき声は、まるで風のように校内を駆け巡り、
ときに尾ひれをつけながら、まるで真実のように定着していく。
その日から、クラリッサには新たなあだ名がついた。
「毒を飲んで微笑む女」
「黒薔薇の令嬢」
「第二王子の魔女」
彼女を恐れる者、崇める者、嫉妬する者。
そして、何より怯える者が一人いた。
レティシア・ロイド。
恐ろしかった。
「な、なぜ……なにもしないの……? 私を……断罪すればいいのに……っ」
夜ごと、鏡の前で呟き続ける彼女の顔は、青白くやつれ、頬はこけ、目は虚ろに泳いでいた。
一方、その主役であるクラリッサはと言えば以前と変わらず、優雅な態度を貫いていた。
「紅茶の香りって、不思議ですわね。人の本性まで浮かび上がらせる」
庭園のテーブル席で、今日も一人静かにティーカップを傾ける彼女。
まるで“毒を盛られた令嬢”ではなく、ただの美術品のように凛として美しい。
そこへ、レオニスが現れる。
「……毒の件、学園中が騒がしいな」
「騒いでもらわなければ、困りますもの」
「狙い通り……って顔だな」
「ええ。人は、目に見えない毒に最も怯えるものですわ。そして今、誰もが私が次に誰を毒殺するかを想像している」
「毒など盛っていないのにな」
「事実なんて関係ありませんわ。大切なのは、真実に見えるものを、どう演出するか」
クラリッサはティーカップを置くと、笑った。
「でも、残念ですわね。あのレティシア嬢、予想よりも脆かったみたい」
「今朝、彼女の侍女が報告してきた。夜な夜な悪夢でうなされているらしい。クラリッサ様が鏡から出てくるとまで言っていたとか」
「まぁ。それは恐ろしい。私はそんな幽霊じみたこと、しませんのに」
「……それが、また怖いんだよ、君は」
午後の魔法演習棟。
クラリッサは単独課題のために訪れていたが、そこに予想外の来客があった。
「クラリッサ様」
声をかけてきたのは、ミリア・ハートリィ。
そう、あのヒロインである。
平民出身の奇跡の少女。王太子が心を奪われたとされる、無垢な微笑みの代名詞。
けれど今、彼女のその微笑みは、ほんのわずかに歪んで見えた。
「……ごきげんよう、ミリア嬢。王太子殿下のお側にいてもよろしいのに、こんな場末の魔法棟まで?」
「いえ。お話がしたくて、来たんです」
「まぁ。私と?」
クラリッサは微笑みを浮かべたまま、ミリアを見つめ返す。
ふたりの間には、微かな火花が散った。
「クラリッサ様……最近、学園の噂、気にされていませんか?毒だとか、黒薔薇だとか……その、少し怖がってる人もいて……」
「あら、それはご心配ありがとう。ですが、私は事実無根の噂に動揺するほど、心が弱くありませんの」
「でも、もしそれが本当だったら?」
「本当とは?」
「クラリッサ様が……本当に、なにかを企んでいたら」
一瞬。
クラリッサの笑みが、消えた。
「ふふ……あなた、面白いことをおっしゃいますのね」
それは初めてだった。
クラリッサの表情から仮面が、わずかに落ちた瞬間。
「もし私が、王太子殿下を貶めようと画策している悪役だったら、どうなさるの?」
ミリアは目を伏せた。
その目に、ほんのわずか涙が滲んでいるように見えた。
「……止めます。どんな手を使ってでも」
「……ふふふっ」
クラリッサは吹き出した。
「まぁ、素敵ですこと。まさにヒロインの鏡ですわね。……でも、ご忠告申し上げておきますわ、ミリア嬢。私を敵と見るのは、賢い選択ではありません」
「……どうして?」
「私を敵に回すなら、せめて本当に強い味方をお持ちになることですわ。でなければ、ただ破滅するだけですのよ」
夜。
クラリッサの書庫にて、彼女はレオニスと並んで情報の整理をしていた。
「……ミリア嬢、やはりただの平民出ではありませんわね」
「目が違ったか?」
「いえ。あの涙。嘘でしたわ。ほんの一滴も感情がなかった」
「泣く訓練をしている、ってことか」
「それもありうる。私の読みが正しければ、あの子は……訓練された存在」
「どこの機関か、どこの意志か⋯…もう恋愛の話では済まないな」
クラリッサは立ち上がり、棚の奥から一枚の地図を取り出す。
そこには、王都の地下区画と、隠された施設群の位置が記されていた。
「明日。動きますわ。彼女の背後にある闇、その正体を探りに」
「危険だぞ」
「ええ。でも、もう手遅れになりたくありませんの。
毒も、嘘も、仕組まれた恋も全て、私の手で暴いてみせますわ」
静かに、夜が更けていく。
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