第3話

クラリッサ・ヴァンディールは、名門中の名門・ヴァンディール公爵家の一人娘である。

 けれど、彼女にはもうひとつの顔があった。


 それは、情報屋

 いや、もっと正確に言えば、王都の裏社会を掌握する情報の女王。


 表向きは完璧な公爵令嬢。

 だがその内実は、誰よりも冷静に人の嘘と欲を見抜き、金と権力を武器に王国の心臓部すら動かす、もう一つの顔だった。


 夜の街。王都・ルルシエの裏通り。

 クラリッサは黒いマントを纏い、護衛すらつけず、一人で薄暗い路地を歩く。

 向かう先は時計塔の書庫。


 そこは、表向きは潰れかけた古本屋。

 けれど奥の階段を降りた先にあるのは、彼女のためだけに用意された情報のアジトだった。


「蛇の眼は動いて⋯⋯?」


 暗がりにひとり、待っていたのは白髪の少年。

 14歳にして魔法暗号の天才。コードネームはクロック。


「報告三件。貴族院から出た密談記録、王太子派の資金の流れ、それから……」


「それから?」


「……ミリア・ハートリィに関する記録。出自が完全に不明です」


「……やはり」


 クラリッサは目を細めた。


「拾われた村も、戸籍も、養父の職も、すべて作り物。本当に平民……? それとも、誰かが用意した駒かしら」


「敵だと思った方がいいです。彼女は偶然この舞台に上がってきたわけじゃない」


「ふふ……いいわね。敵がはっきりしてきた」


 クラリッサは、唇をゆるく吊り上げて笑った。


「私は感情では動かない。けれど、目的のためなら、どこまででも堕ちてやる。王太子、そしてあの女。あなたたちが選んだ結末に、責任を取ってもらいますわ」


 その夜、ヴァンディールの地下書庫から、無数の蛇が這い出していった。

 情報、金、脅迫、買収。

 政と魔と欲が交差する夜の王都を、静かに、確実に揺らし始める。


 翌朝。王立魔法学園、貴族棟の食堂。


 貴族令嬢たちの間では、昨日の舞踏会の話題で持ちきりだった。


「聞いた?王太子殿下、とうとうクラリッサ様との婚約を破棄なさったのよ」


「当然よ。あのヒロインの子が本当に可憐なんだもの。クラリッサ様が嫉妬して当然だわ」


「でもあのとき……クラリッサ様、笑っていたのよ。まるで、すべてわかっていたみたいに」


 そんな噂話の渦中、クラリッサはひとり、奥の窓際で紅茶を飲んでいた。

 相変わらず背筋は真っすぐ、視線は静かで、まるで何もなかったかのように。


 けれどその姿が、以前とどこか違って見えるのは彼女の余裕が、恐ろしいほどに深まっていたからだろう。


「……おはよう、クラリッサ嬢」


 と、不意に現れたのはレオニス・ルフェリア。

 学園ではほとんど姿を見せない彼が、自ら声をかけてくるなど、貴族たちにとっては前代未聞だ。


「殿下が、私などに?」


「気が変わった。今後は君に学内案内でもしてもらおうかと思ってね」


「……ふふ。そうですの。では、お供いたしましょう」


 二人の会話に、周囲の空気が凍りつく。

 元婚約者の敵とも言える相手と、クラリッサが親しげに言葉を交わしている。


 ただそれだけの光景が、すでに異変の始まりだった。


 その日の午後。クラリッサはレオニスと共に、学園の庭園を歩いていた。


「……あなた、まさか王太子とヒロインの背後に、王政派がいると読んで?」


「ああ。あの女はただのヒロインじゃない。使われている顔をしていた。利用されていることすら気づいていない、典型的な操り人形だ」


「愚か、だけれど……放置すれば、国を食いつぶすわね」


「放っておいても、あの男が王になれば国は終わる。だが、俺一人じゃどうにもならない」


 レオニスは、まっすぐクラリッサを見た。


「だから、君が必要だ」


 静かな声だった。

 けれどその言葉には、権謀術数を泳ぎ抜いてきた彼だからこその、本気があった。


「……わかりましたわ。殿下、あなたに協力いたしましょう」


 クラリッサは、手袋を外して右手を差し出す。


「でも、勘違いなさらないでくださいませ。私はあなたの味方ではない。敵の敵が、一時的に味方になるだけの話ですわ」


「十分だ……ようこそ、ヴァンディール嬢こちら側へ」

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