第2話

 夜が深くなると、ヴァンディール公爵家の館には静寂が戻る。

 召使いたちは早々に退けられ、廊下には誰の気配もない。

 だが、その静けさこそがクラリッサにとって最も落ち着ける時間だった。


 絹の寝間着に身を包み、広い書斎にひとり。

 書棚には魔法書、政略史、貴族関係の黒書。

 机の上には、舞踏会の夜から流れてきた情報のメモが散らばっていた。


「……早かったわね、ミリア嬢の登場」


 クラリッサは呟くと、扇子を閉じてソファにもたれた。

 ため息ひとつ。けれどその吐息に、未練も悲しみもない。


 思い通りにならない人生なんて、もう何度目かしら。


 失敗とは思わない。

 むしろ、あの夜でようやく自由を手に入れたとすら思っている。


 だが。


「……問題は、第二王子の視線、かしら」


 レオニス・ルフェリア。

 王太子アレクとは異母兄弟でありながら、政からは遠ざけられた影の王族である。

 その目は決して死んでいなかった。


 舞踏会の夜。

 誰よりも冷静に、彼女の破棄宣言を見届けていた唯一の人間。


「面白くなってきたな」

 確かに、そう口元が動いた。


 ……本当に、彼が動く気ならば。


「来るわね。今日、今夜。必ず」


 クラリッサは扇子を閉じると、静かに立ち上がった。


 扉がノックされたのは、夜の十一時を回った頃だった。

 応接間に通すよう指示し、クラリッサは自らお茶を淹れる準備を始めた。


 客人は、やはり予想通りだった。


「これはご丁寧に。お忙しい中、来客とは珍しいことですわね、第二王子殿下」


「お互いさまだろう、クラリッサ嬢。いや、もはや令嬢でもないか?」


 低く笑いながら、レオニスは室内に入ってくる。

 いつもの宮廷用の礼装ではなく、動きやすい黒いコート姿。

 その目は、猫のように油断なく光っていた。


「何の御用でしょう?舞踏会の続きをなさるおつもり?」


「いいや。今夜は、商談に来た」


 彼はずい、とテーブルに身を乗り出した。


「君の行動力と頭脳、そして、怒り。その全てが、俺には必要だ」


「……ずいぶんとあからさまに口説いてきますのね」


「冗談じゃない。俺は口説かない。ただ、手を組む価値がある相手とは契約する」


 クラリッサは、差し出された書類を一瞥する。

 それは情報交換協定。けれど形式だけのそれではない。

 彼は本気だ。王家の内情、貴族の汚職、学園内の派閥。

 第二王子には知り得ないはずの情報が、すでに彼の手中にあった。


「……あなた、どこまで」


「君の動きに興味があった。そして今日、確信した。クラリッサ・ヴァンディール。君は悪役ではない。君こそが、この腐りきった王国に必要な劇薬だ」


「……劇薬ね」


 クラリッサは小さく笑うと、レオニスの差し出したグラスを取った。

 赤ワインの中で、蝋燭の火が揺れる。


「ならば、私の条件も呑んでいただけますわね?」


「聞こう」


「復讐の優先順位は、私に委ねていただきます」


「いいだろう」


「そして、私が頂くのは“地位”でも名誉でもないわ。真実。あらゆる欺瞞を暴くために、私はこの国の底まで堕ちる覚悟がございますの」


 レオニスの目が細められた。


「その覚悟があるなら、君は王を超える」


「ふふっ。いいえ、王妃で結構ですわ。……そちらの玉座、空いているんでしょう?」


 夜が深まる。

 かくして、クラリッサとレオニス。二人の亡国者による、王国転覆計画が、幕を開けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る