補足:逢魔が時に歩く(裏)
これは僕が気絶していた時に起こった出来事である。
少し後になってこの話を業田から聞かされたのだが、せっかくなので地の文の語り手を見失った今のうちに語ってしまおう。
■■
「はぁ……」
「どうしたんですか業田さん? ため息なんかついてしまって」
九号館を前にして業田は足を止めていた。彼はここから言いようもないプレッシャーをいつも感じていたという。九号館は、半分は教室もう半分は教授の研究室で構成されており、日ごろどの教授の好感度も稼げていない業田にとって今から向かう行先はとてつもなく気まずい所だった。
虎穴のさらに深奥にある禁地教授の研究室。虎児を得られる保証などなく、無下に追い返される可能性だってあった。
「いや……深呼吸さ。これから『のっぺらぼう』に遭遇するかもしれないし、今のうちに脳に酸素を——」
しかし、できるだけ自分の弱みを見せたくない業田は強がる。強がって思ってもいないことをつらつらと並べようとするが、途中で挫折する。自分でもこれは駄目だと思ったらしい。
だが、教授の授業終わりを待っていたら日はもう落ちていて、いつ九号館に『のっぺらぼう』が現れてもおかしくはないのだった。
「まぁ、とにかく上がろう。エレベーター使おうか」
禁地教授の研究室は四階にあった。教室に向かいたいのならいくつかある玄関から入ればいいのだが、研究室があるフロアに行くには九号館の傍らに真っ直ぐ立つ螺旋状のスロープに巻かれた塔を上る各階の連絡通路から入るのが楽だった。
上る手段としてはスロープだけではなく、塔の芯の部分にあるエレベーターもあり、そちらの方が非常に楽であった。
「やめましょう」
「え? なんで?」
しかし、大抵の生徒はエレベーターを使いたがらない。何故ならば——
「知らないんですか? 『異界行きエレベーター』」
「……また怪異?」
「はい。しかも『常設』怪異です」
業田は頭が痛くなった。九号館は主に文学部のテリトリーで、僕も彼も文学部なのでこの号館に通っている。彼もこのエレベーターを一度も使ったことがないはずがなかった。
「時間はいつでもいいんです。ただ、誰も乗ってこないような時間帯に『一階』『九階』『四階』『五階』の順番で動かすと異界に行けるんです。途中で誰かが載ってきたら失敗ですけども」
「……は? でも九号館って五階建てでしょ」
「そこが不思議なところなんですよ。確実にでたらめなんですよ」
でたらめならでたらめなのだろう、それ以上の事はないはずだ、業田はそう思った。
だが、あの事件を経て彼の価値観もまた変わりつつある。
ならば、どうしてその怪異は語り継がれているのか。
それは、不可解不可能なことであってもそこに存在するからなのではないか。
そんなおぞましい予感を振り払うことができなかった。
「とりあえずスロープで上がるか」
だが、目下の課題は別の怪異群である。二人は無意識のうちに早足で上がっていく——夜の闇が深くなるのと同時に、怪異の気配も濃くなっていくのだから。
■■
「失礼します」
禁地教授研究室をノックし返事がないので開けてみるとそこはもぬけの殻だった。
「あれ? 一応授業終わってるはずなんだけどもなぁ」
実際、電気は点いているしカバンもいくつか長机に置いてある。一度かは教授のみならず学生もこの部屋にいたようだ。
その荷物の中で異様な違和感を醸し出しているものがあった。
「……いや、何でフィギュアが置いてあるんだ?」
フィギュアだった。箱から出し組み立ててあったむき出しのフィギュア。しかも肌色多めの美少女フィギュア。
「意味わかんねぇ。どういう意図があってこの場にこんなスケベめなもん持ってくるんだよ」
「あ、これ見たことあります。マンガのキャラクターで、けっこうゴールデンな時間にアニメもやってて……」
ゴールデンタイムのアニメでこんなにスケベなキャラがいるんだろうか……いや、いるな。むしろそういう王道な作品にこそ作者の煮詰まった性癖がにじみ出るものだ。それを少し大人のファン向けの商品にするときに掬い取って形にする……多分にあるあるだ。
業田は一人スケベの在り方について頷きながら納得していたが、事態はそう朗らかな方向には向かわなかった。
「うそ……なんで……」
「どうしたんだい、憐華ちゃん何か——っ」
何かしら冗談を言いつつ茶化そうと思った業田だがすぐに冗句を喉の奥に引っ込める。彼女の顔が尋常ではなく青ざめていたからだ。
「まさか、『怪電波』かい?」
スマホを見てから様子が変わった、という部分から推理し彼はその名を言った。
「はい。また“Omaeda”です」
「……」
本来、研究室のあるフロアはWi-Fiが届いていないはずだった。ここでは生徒たちは教室フロアで使っているようにガンガン使うわけには行かず、不平不満を持っている生徒も少なくはない。
(『怪電波』は学校のWi-Fiとは関係がない……? てっきり学校のWi-Fiに何らかのバグがあって的なことを想像していたが……もしかして、電波を発している何かが別に
厭な予感がした。さっきよりももっと厭な予感。
気にすればいいのは『テケテケ』、『のっぺらぼう』と謎の人形だけだと思っていたのだが……ここに来て『怪電波』さえ追ってくる者になってしまった。
「あ、バリ3になった……近づいてきてる……?」
耳を澄ますと、幽かにこのフロアを歩いている者の足音が聞こえてくる。ここに向かっているかは定かではないが、段々と大きくなっている。
「憐華ちゃん、落ち着いて。俺の背中にでも隠れてて」
恐怖していないわけではなかった。あの痛みを思い出せば今でも吐き出しそうだ。だが、それでも立てるのは禁地教授のメンタルケア(物理)の影響か、それとも守るべきものが背中にいるからか。
こつ……こつ……こつ……
足音が、研究室前で止まった。
コンコン
続いてノックの音。こういう時、答えない方がいいことをなんとなく業田は分かっていた。それが怪談のお約束だったからだ。
ぎぃぃぃ……
(終わった……!)
だが、そいつは去ってはくれず、そのままドアを開けてきた。
この後に起こる惨劇をイメージしながら、彼は息を止めた。
「……あれ、人いるじゃん。いるなら返事くらいしてくれないかな」
「……あれ?」
「え?」
入ってきたのは恐ろしい化け物でも宇宙人でもなく、普通の人だった。
男だった。癖のある髪をワックスで自然に膨らませた、ダウナーで飄々としたうすら笑いが張り付いているような表情の男。(業田曰く、なんかDVとかしてそうな人だった、らしい)
「何? そんなに僕のことが怖いかい? よしてくれよ、僕はモブみたいな一般ゼミ生Cだぜ?」
「……禁地教授を探しているんですが……」
「ん? ああ、教授ね。今もう一人のゼミ生Aと仕事に行ってる。多分九号館にいるよ? 僕もそれに参加するんだけどもトイレで定期メンテナンスをしてたら置いてかれちゃってさ……一緒に行くかい?」
「はい、お願いします」
普通の男。確かにそうなのだが、明らかに『何か』であることを敏感にも察していた。現に背中の憐華さんの震えは止むどころか大きくなっていた。
「よしじゃあ行こうか」
男は先に研究室を出た。
「……業田さん」
「どうした?」
「今、バリ4です。すごく繋がりがいいです」
「……」
ごくりと唾を呑む音が、自らの耳にこびりついた。
■■
「どこにいるかなー、教授たち」
ぐいぐいと進む男の三歩後ろを二人は歩いていた。そんなあからさまな警戒態勢を取られているのも関わらず、男はずっと同じ薄ら笑いを浮かべていた。
「教授にどんな用があるんだい? 仲のいいお二人さん」
「じゅ、授業で分からないところがあるから聞きに来ました」
「ふぅん。それで二人一緒に来るとは。ずいぶんと仲がいいね。羨ましいなぁ」
探られている。
自分たちの嘘を暴いてくるような、蛇のごとき鋭い牙を言葉の節々に感じ取る。もし自分たちが来た本当の目的を知られたらこの男はどんな本性を現すのだろうか。
ジワリと脂汗が浮かぶ。
「君たちは怪異をご存知かい?」
「はい。まぁ、にわかですけども」
「はい……」
「知っているのによくこの時間に校舎を歩けるね。ずいぶんと勇気があるみたいだ、感心感心」
声は明るいが、やはり表情が気に入らない。そしてもう一つ不気味に思ったのが、目だった。彼の目に光がないとかそういうことではなく、その光が無機質な反射を伴って生まれているように感じてしまったのだ。
眼球という粘膜を通したものではなく、例えるならばビー玉から跳ね返ってくるようなそんな無機質な光。
(いや、まさかな……そんなことはないだろうさ)
一つの厭な閃きが、業田の中では芽生えつつあった。
「……ねぇ。君たちはさ、僕の名前、興味ないかい?」
「名前ですか……いや、いいですよ別に。一般ゼミ生Cであってくださいよ。この先会うことなんて滅多にないでしょうし」
「つれないなぁ。君はもっと社交的だと思っていたんだけどね——業田くん」
「!?」
彼と出会ってから今までの短い間に自分の名前が出たであろうか。業田は慌てて振り返ってみるも多分この人に聞かれるタイミングは無かったはずだと思い至る。
「それに君は……
「え、何で、私の、名前……」
「逃げるよ! 憐華ちゃん!」
業田はフリーズした憐華さんの腕を取り、後ろに向かって走り出そうとした。
彼は確信していた。あの目、多分、彼は話に出てきた謎の人形なのだと。
「——ばふっ!」
しかし、唐突に教室から飛び出してきたものにぶつかり、彼は転んでしまう。その拍子にするりと彼女の腕を離してしまった。
やけに柔らかい感触が顔に当たったのだが、それが何かを考える前に怒号が飛んできた。
「おい! オマエダぁ! てめぇどこほっつき歩いてんだ!?」
「ひぃぃ!」
そこには、女がいた。Tシャツにジャージという大分アレなファッションだったが、背が高くてものすごくスタイルのいい金髪の女だったという。
しかし、そんな割と普通の乱入者であっても、既に何が何やらという状況なので悲鳴を上げて憐華さんは業田の隣にへたり込んでしまった。
「お? ぶつかっちまったか? わりぃわりぃ——って、その顔はあの時のお嬢さんじゃないか?」
またしても自分を知らないはずの自分を知っている存在に出会い、とうとう彼女は泣き出してしまった。
「あ、ごめんごめん——おいオマエダぁ! まさか後輩からかって遊んでたのか!? 趣味悪ぃぞ!」
「いや、君もさっき——まぁいいや。とりあえず、そこの二人は教授に用があるんだとさ」
「教授……あーまさかこの前の『テケテケ』絡みのことか?」
『テケテケ』。ようやくその怪異の名が出てきて、彼ははっと我に返った。
「お、お前ら! 一体何してるんだ!? まさか、『テケテケ』まで仲間とかいうんじゃねぇだろうな!」
暫定『怪異』二人に囲まれ、半狂乱になりながらも業田は大声をあげて問いを投げかけた。
「……あー、その」
「なんというか……なぁ」
しかし、意外にも返ってきたのはずいぶんと答えにくそうな反応だった。
「仲間、ねぇ」
「ちょいと予想外なことになっちったが……見てもらった方が早いなこりゃあ」
そう言って女は教室へと戻っていった。そして——
「はい。これが『テケテケ』だ」
二人が目にしたものとは——
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