序論4:夢電にて

「——大野安慈君。起きたまえ、寝坊助め」


 ぱちりと目を開けてみたものの、僕はまだ夢の中にいるようだとすぐにわかった。坂道で『のっぺらぼう』とであって気絶したはずなのだが、脈絡もなく電車の席に座っていたからだ。

 ずいぶんと眩しい。車内は電気が点いていないのだが、外は目が痛くなるほどの極彩色の光に包まれている。こういう点滅は映画館で見たりすると具合が悪くなって仕方がない。

 ふと、目の前に男が座っているのに気が付く。若い黒髪のスーツの男。その顔に憶えはないのだが、どうしてか馴染み深い顔のような気がした。


(教授の変身だろうか。僕は夢でまであの人の講義を聞かなくてはならないのか……)


 その男は立ち上がった。


「大野安慈君。最もポピュラーな異界は何だと思う?」


「え? んー……あの世、とかですか?」


「そうだ。あの世、彼岸、常世——死後の世界。人は死を恐れ境界線を引き、目の届かない向こう側へと追いやってしまった。だが、境界線を引いたはいいものの、その向こう側がどうなっているかは杳として知れなかった。だがそういう所ほど人の好奇心を誘う場はない。人々は恐れるからこそ、死後の世界というものを解明せんとする」


 ここで彼は、僕に一歩近づいた。


「臨死体験やあの世に行って戻ってきた話。そういう話はたくさん語り継がれてきている。ただ、そのどれも正解であるかは結局のところ死んでみないと分からない。死んであの世を理解してもそれを伝える手段がないから困ったものなのだが」


 違和感。いつも感じるような熱気がこの演説には籠っていない。

 これは、本当に教授なのだろうか。


「なぁ、大野安慈君。死ぬとはどういうことだと思う」


「ずいぶんとふんわりとした質問ですね。死ぬ……?」


「いや、異界のことは考えなくていいんだ。ただ、現象として物理的に考えて死はどう説明されるだろうか?」


「? 心臓が止まるとか、脳が止まるとか、そういうことでいいですか?」


「そうだ。身も蓋もない言い方をすれば、死とはそういうことだ。心臓が止まり、脳が活動をやめ、その人は『無』になる。それを味わうことさえできない。それがきっと死の本質なのだろう。ロマンはないがな。ところで大野安慈君。人はそんな状況を常日頃から味わっているんだよ、実は」


「? 常日頃からですか?」


「そうだとも。君にはないかい? 脳が意識を手放し、生きるのを一旦やめる時分が……」


「……睡眠……?」


「そう。人は毎日のように臨死体験しているんだ。この世から自分を切り離し、あの世という混沌へと身を投じている。こうして考えると眠るとは恐ろしい行為だと思わないかい?」


「……教授が話したいのは、夢についてですか」


「察しがいいな。話が早くて助かる。そう、ならば、そうやってあの世に行って帰ってきた時にギリギリ憶えていられる夢は……もしかしたら貴重なあの世のレポートなのかもしれないね」


「じゃあ、今いるここは……」


 ピンポーン


 電車のアナウンスが鳴り始めた。


『ご乗車いただきありがとうございます』


 だみ声が掠れながらも聞こえてくる。


「そう、実は今君は異界にいるんだ」


「はぁ、実感湧かないですけども」


「思い出せ。夢に関する『怪異』を」


 そう言って彼は胸ポケットからそれを取り出した。


「……『指差し確認インデックス』でしたっけ。そういえば「ドクター・フー」観ましたよ。まんまじゃないですかコレ」


「これを君に預ける。使いこなしたまえ」


 それだけ言って僕にそのポインターを渡すと、彼は立ち上がった。


「次だ。次に君がここに来た時、災難がふりかかる。頑張って切り抜けたまえ」


「え」


 あれ。この顔は多分教授じゃない——のか?


『次は——』


 掠れたそのアナウンスを聞き終わる前に、僕は——



 ■■



「っ!」


 ——目が覚めた。


「え……夢……?」


 そこは僕のアパートのベッドの上で、なんてことはない毎朝目覚める場所だった。


「いや、でも、『のっぺらぼう』は……?」


 しかし、僕が最後に憶えているのは『のっぺらぼう』の顔を見て気絶したこと。そこから自分の部屋で目覚めるのはずいぶんと脈絡のない展開だ。


「どこから夢だったんだ……?」


 考えられるのはその場面も含めて夢で、僕はその夢の中で、電車の中で教授(?)と話す夢中夢を見て一気に目覚めて今に至るというストーリーライン。これが一番現実的……いや夢にまみれていて現実的とは言えないがあり得る可能性だった。


「……あぁ、そう簡単にはいかないか」


 だが、明らかに寝間着ではない服のポケットに手を突っ込むと、昨日食べたうどんのレシートが残っていた。ここまでは現実だったようだ。そこから家に帰って寝たか、坂道を下りたか……

 全く家に帰った憶えがない以上、坂道を下った可能性の方が高い。僕にはそう思えてしまう。


「認めたくはないけども。多分下りたんだろうなぁ……」


 『のっぺらぼう』は多分、いた。

 そう考えざるを得ない。


「……自分から断絶宣言しておいてなんだけれども、頼るしかないなぁ、教授に」


 今日も確か授業が終われば研究室にいるはずだ。気まずいことこの上ないが、まさかこんな不慮の事故みたいなレベルで巻き込まれるとは思わなかった。土下座でも何でもして自分の浅慮さを詫び、助けてもらおう。


「夢に関する『怪異』……『怪電波』、『のっぺらぼう』、『テケテケ』、そして謎の人形……最早『怪異』のバーゲンセールだなぁ」


 容赦がない。これが『怪異』を知ってしまった人間の世界なのか……


「いや……もしかしたら元からいたのか」


 思えば、霧隠大学にはアプリでまとめなければならないほど多くの『怪異』がいた。僕はそれを都市伝説程度にしか思っていなかった。だがそのうちの一つが実在性を持った今となってはそのうちのどれくらいが事実なのか、そういうことを考えなくてはいけなくなったのだ。世界が変わってしまったとかではなく、ただそれだけの話なのかもしれない。


「あるいは……全部存在するのか」


 それは……信じたくない可能性だった。

 それが本当だとすると、この町はずいぶんと生きにくくなってしまう。


「そう言うことも含めて相談だな」


 まだ疲労が回復せず澱のように残っている体を起こし、今日の授業の準備を始める。


「……あ、夢か……」


 その最中、僕は夢の中で彼が言っていた『怪異』が何なのであるかの当たりがついた。



 ■■



 霧隠大学の一号館はどの学部の生徒も参加する総合的な授業をするのによく使われている。上から見た形はまん丸で、その中にまず上から下へ階段状にずらりと並ぶ座席が教壇を見下ろす形に置かれている大講義室がすり鉢を半分にしたような形で二つ収まっており、その周りに今度はすり鉢状を四分の一にした感じのこれまた教壇見下ろし式の小講義室が空いたスペースを詰めるように入っている。

 そんな大掛かりな一号館を舞台に展開されているのが——『猿夢』だった。

 一号館の授業は誰でも受けられるその総合的な内容故にどの学科の生徒にも刺さらないような内容が多い。つまり興味がないし、つまらないのだ。それに大講堂がかなり広いせいで教授の目を気にする必要があまりなく、「バレないだろう」と気が緩みやすい環境も相まってかなりの生徒が寝入ってしまっている。「イチゴー一号館の授業は睡眠時間」というのが多くの生徒の共通認識だった。

 その共通認識にコバンザメがくっつくように便乗して広がったのが『猿夢』だった。


「一号館で眠ると夢を見るんですよ。電車に乗ってる夢。でもその電車はどの線の電車なのか、どの駅に向かっているか全く分からない。外の景色を見ようにもずっとトンネルの中を走っていて何も見えない。あぁ、これは夢なんだろうか、そう気が付くあたりでアナウンスが流れるんです。『ご乗車ありがとうございます』『次は——『留年』。『留年』。お出口は、ありません』。ハッとして辺りを見回すと両隣の車両から駅員服を着たたくさんの猿たちが見ていて、嘲笑っているんですよこちらを——そして目が覚めると、座席の見張りをしていた先生に肩を叩かれているところなんです。そいつは一発アウト、必須科目の単位を一つ落としてしまうんですよ——」


 まぁ、心霊的に怖い話というか、大学生的に実効性を持った怖い話である。しかしそれにしたって一発でその授業の単位を落とされるだなんてあり得るのだろうか。せいぜいその授業を追い出されるくらいじゃないだろうか。

 悪戯目的で生徒が流した噂か、それとも生徒の居眠りを予防するため教授が流した噂か……後者だとすると些か幼稚な気もするが、ここまで広まってしまっている結果を鑑みるとかなりのやり手だ。

 そんな原典に比べるとずいぶんのほほんとした『猿夢』。これが災難なのだろうか。あの教授は僕の単位を心配してわざわざ夢枕に立ったのだろうか。だとしたら間抜けな話だ。あのポインターを渡すのは流石に大げさすぎる。


「いや……そもそもただの夢だ。気にする必要ないんじゃないだろうか」


 彼のミステリアスな雰囲気に惑わされているが、普通夢はただの夢でしかない。それにはなんの実効性もないのだ。いつも目覚めと同時にそれまで見ていた夢を忘れるように、そのまま忘却の彼方へと消却してしまえばいい。


「ほんと、あの人はいてもいなくても色々乱してくるな……」


 まさに『混沌』である。


「『猿夢』ねぇ……」


 何故授業の準備をしていたあのタイミングでそれに思い至ったのか。

 それはその準備をすべき今日の授業の中に一号館の授業があったからだ。

 自分で選んでいる授業とは全く毛色の異なる、ぶっちゃけると学校側の教えたいことだけが先行するつまらない授業。眠くなるのも致し方ないことだ。

 そして今現在——僕が受けているのがそれであった。


「……はぁ」


 やはり、授業とは先生と生徒の距離がある程度近くないと締まらないものだ。こんな広くて人のたくさんいる中で話を聞いていても、何も心に響いてこないし頭に入ってこない。授業を受けているという意識が薄れる。先生も誰に話しているか分からなくてやりづらいのではないだろうか。語りがいがないというか、禁地教授は嫌いそうだ。


「いや……もしかしたらあの教授なら、この場の全員を夢中にさせられるかもな」


 あの熱気ならば、この広い容器を満たせるかもしれない。


「……ふ、わぁぁ……」


 そんな授業には全くないことを考えていると、眠くなってきてしまった。

 いけない。こんな調子では『猿夢』が出てきてしまう。

 抗って目をかっ開いてみるが、徐々に首がかくんと落ちる間隔が短くなっていく。


「まず……ねむっ……」


 昨日は『のっぺらぼう』のせいでちゃんと眠れた気がしない。それも一因なのだろう、ものすごくあっさりと僕は眠りに落ちて——



 ■■



『ご乗車いただきありがとうございます』


「っ!?」


 すぐさま夢の中の世界で目が覚めてしまった。

 そこは昨日と同じ電車の中。目が痛いほどに極彩色の光が差し込んでくる。


「……『猿夢』?」


 ~~~~♪♪!!


「うおおっ! うるさっ!」


 今回はさらに鼓膜が破れるような騒音がプラスされている。猿の嘲り声ではない、もっとごちゃごちゃした喧騒そのもの。


 ~~~~♪♪!!


『ただいま——』


 だが、そんな騒音の中でも駅員のアナウンスだけは聞こえてきた。

 その二つはレイヤーが違うように、どちらともはっきりと耳に響いてくる。


『——『細切れ』。『細切れ』。お出口は、ありません』


「は?」


 『留年』じゃない……『細切れ』?

 それじゃあまるで——


『次は、『串刺し』。『串刺し』。——『串刺し』。『串刺し』。——』


 ガシャン


 進行方向側のドアのレバーが動く。向こうから何かが来る。

 僕は席を立つ。

 それが何であれ、僕は真っ向から立ち向かわなければならなかった。

 だって向こうの車両からは——底抜けに濃い悪意と、真っ当に生きていれば感じることのないような苦しみが漂ってきていたから。


 ガラガラガラガラ……ぱしゃっ べちゃっ


「っ!? ——あ、ああ」


 一瞬、何がドアを潜ってきたか分からなかった。赤黒くて、濡れた塊が歩み寄っているのだけが認識できる。

 だが、理解を拒絶しているだけで実はそれが何であるかはもうわかってしまっていた。

 血と肉片に塗れてはいるがそれは——二足で歩く猿だった。

 猿。真っ赤で見る影もないが駅員の制服を着た、僕の腰ぐらいの身長のチンパンジーに似た何か。

 そいつが今、ピンクの粘着質な塊がこびりついた巨大な包丁を引き摺りながら、こちらに敵意を向けて歩いてくる。歩くたびに浴びた血と肉がぽたぽたと零れ落ちて赤い道を敷いていく。こいつがやってきた向こうの車両を見ると、そこに人の姿はない。ただバケツでペンキをばらまいたようにどろりとした赤がこびりついている。あそこにいたはずの人間は、何㎡まで刻まれて塗り広げられてしまったのだろうか。


『『串刺し』。『串刺し』。——『串刺し』。『串刺し』。』


「……」


「……」


 猿の動きが止まった。一旦落ち着きたいが、鳴りやまないアナウンスと騒音が五月蠅く胸を掻き立ててくる。


「……『串刺し』、だってさ」


「……」


「できなくもないけどさ、その包丁で刺すのはきつくない? 取ってきたら? 適したやつ」


「————きゃあっ! きゃあっ! きゃあっ!」


 軽口でも叩いてみたら、気に食わなかったのか猿は急に声を荒らげ包丁を投げ捨て、電車の床にずぶずぶと泥をひっかき回すように手を突っ込んで槍を取り出してしまった。


「……何でもありじゃないか!」


 猿が、襲い掛かってくる——!!

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