序論3:逢魔が時に歩く
気にならないと言えば嘘になる。
昼の相談から大分経ち今は五限目が終わった時分、すっかり日が傾きそろそろ大学から人が捌けていく頃だろう。大学から近いアパートの隣に先ほどから学生のような気配が通っていくのを感じ取っていた。
意地を張らずについていけばよかったかと僕は今更ながら後悔していた。今頃二人は教授の長話でも聞いているのだろうか。羨ましい、分からないことに対して解説が加えられるのだからかなりすっきりするだろう。だが今の僕は意地でもあの教授に会うわけにはいかなかった。
あの魅惑的な異性に見えてしまったあの教授に会ったら、今度こそ僕は怪異側の世界から戻れない気がする。僕の長年追ってきたものの正体がすっきりと解明される、そんな魅力的な世界から。
だから僕は、あの人に会いたくない。
ただ、どうしても気になってしまう。『怪電波』、『テケテケ』、『のっぺらぼう』、謎の人形……それらにどういう解説が加えられるのかもそうなのだが、それ以上に気になることがあった。それは宇宙の介入についてだった。
今の僕は怪異の形を完全に見失っている。『コトリバコ』が宇宙人によって行使された、一応は実在する技術によってもたらされたものだったからだ。僕が思う怪異の姿とはズレがあった。
今回の事件も宇宙人の未知の技術の仕業なのか、それとも今まで思い描いてきたような怪異と呼ぶべき存在なのか、それを知りたいのが今湧き上がっている好奇心の正体だった。
「つまんねぇよなぁ、何もかもSFでまとめられたら」
SFが嫌いなわけではないが、妖怪とか呪いとか都市伝説は科学で解き明かせるものであって欲しくはなかった。あくまでそういうものとしてあって欲しい。
ラインを越えた、ジャンルの侵略は大きな罪である。
「……考えてたら腹減ってきたな」
考えるということは脳を使うことであり、脳を使えば腹が減る。ただでさえ僕の脳はこの前手に入れた超能力で常人より段違いに働いてしまっているのだ、以前ならば飯抜きにしても問題はなかったくらいなのだが今となってはすぐに腹が空くようになってしまった。おかげで食費がかさむ……飯抜きは健康に害だろうからその方がいいのだろうけれども。
「何か作るか……いや、冷蔵庫の中空っぽだな。飯だけどっかで食べて何かしら買い足してこようかな」
空腹で怠いのだが、そんなに歩く必要はない。このアパートは大学近くにあるのだから周囲には大学生向けの安めの飯屋が選ぶのに困るほど建っているのだ。
「うどんでも食べるかな」
少し身だしなみを整え、僕はまだちょくちょく学生が歩いている外界に繰り出す。大抵は友達と歩いていて、感じる必要もない孤独を感じてしまう。僕は一回家に帰っているのだから一人で当たり前なのだが、こういう時に同じように近くに住んでいる友達の一人でも誘えるのが世渡り上手のやり方なのかと思うと空しくなる。
「尾田……」
そういう時に候補に挙がるのは尾田だった。毎回ではないものの気が向いたら彼に連絡を入れ一緒に飯を食べていたものだ。他愛のない、今度調べるオカルトについて話なんかしながら。
しかし、彼はもう……いない。
死んだ。箱に詰められて。僕はそれを開けた。
終わった後から見れば悪夢のようなあの事件において、終わった後でも容赦なく現実にこびりついてしまっている事実だった。現実逃避しようとしても、あの時受け取った呪いはどうしても現実から切り離せなかった。
悲しみではない昏い沈んだ感情が湧き上がってくる。あの様を見て彼の死を弔う気にはなれない、ただただ胸糞が悪い後味しか残っていなかった。
「やめよう。僕はもう、怪異のことは考えない」
それが一番いい。多分、そうしなければいけない。
■■
なんだか気持ちの悪い腹の溜まり方だった。直前で厭なことを思い出してしまってろくに味わえずに、胃に詰め込むような形で完食してしまった。
完全に食欲の萎えたまま明日の飯について考えて買い物をするのは辛い。買ったものを美味しく食べている未来が全く見えないから非常に盛り上がらないのだ。
それでも歩いていれば気分も変わるだろうと淡い期待を抱いて坂の下のスーパーを目指して足を動かしていく。まだギリギリ夕方なのだが坂道は日の辺りが悪く、見上げれば鮮やかなオレンジなのに夜のような暗さに包まれていた。
「買い物終わるころには暗くなってるかな……」
民家の塀には所々男の顔の小さな落書きがされている。型紙とスプレーを使っているのだろうか、どれも寸分たがわず同じ顔であった。『月間』怪異の『This Man』だ。
全く特徴のない描写の仕様すらない凡庸な顔なのだが何故か頭に残るし、これだけ道の途中にたくさんあると常に見られているように感じる、そんな不気味さが彼を怪異に推し上げた。
「位置が違うとか、たまに表情が変わるとか……夢に出てくるだとか。嘘くさいよなぁ」
だが、あの事件があるせいで一概に否定はできなかった。
あの事件のせいで僕はあらゆる怪異を信じざるを得なくなっている。厭な後遺症だ。
『君の世界にはもう怪異が潜んでしまった』
教授が言っていたのはこういうことなのだろうか。怪異が真実性という命を宿す、僕はそんな世界に迷いこんでしまったのだろうか。
一瞬、
口角が上がり、こちらをあざ笑っているように見えた——が、それはただ汚れが重なってそう見えているだけだった。
「……疲れてるな、僕は」
坂道の中ほど、小さなゲームセンターが見えてくる。いつも近くを通るだけで一度も中に入ったことはないがかなり人の入りは良いようで、今も二人組が出てきた。
男女の二人組で、ジャージ姿の女性は箱が詰め込まれてカックカクに出っ張ったビニール袋を手に持っていた。
(すげぇ。上手いのかそれだけ金を使えるのか……羨ましい)
別に生きるのに直接は関わらない他人の才能に惹かれながら、僕は勝手に気まずくなって目を伏せながらその二人の横を通り過ぎた。
(ん?)
——気配を感じた。人の感情の気配。
それ自体は珍しいことではない。歩いているだけでも無感情でいる人は少なくない。大抵は何かしらを考えていて、それに対して何かしらの感情を抱くものだ。
ただ、今それが不思議だったのは、それは明らかに僕に向けられていたからだ。
僕が通り過ぎた瞬間、どちらか一人が何かを疑問に思い驚いた後——喜んでいた。
それは僕にも経験のある感情の動きで、具体的に言うと『思わぬ人と遭遇した』というようなシチュエーションの時に起きるものだった。
「おい、なぁ——」
女が僕に声をかけるのとほぼ同時に、僕は振り返っていた。僕に何か引っかかる所があるのか、相手方の反応を窺いたかった。
「ばぁ!」
目に入ってきたのは——つるんとした皮膚の球体だった。
目の前には彼女の体があって、首から先に頭があるはずなのだが、それが肌色の丸に置き換わっていた。髪も眉も目も耳も鼻も口もない、頭皮と額と頬と顎の境目もないのっぺりとしたそれは——まさしく『のっぺらぼう』。
「え……」
僕はジャンプスケア、いわゆるドッキリ演出が苦手だ。ネットでそういう動画を見て気絶したことがあるくらいに。
だけれども、直後に僕が気絶したのはそういう理由ではない。
噛みしめてしまったのだ、教授の言っていた『怪異の潜む世界』というものの意味を。
怪異が今、僕の目の前で生きていた。息づいていた。
僕の世界はもう……侵略されていた!
その絶望のあまりに僕はその怪異を前に気絶してしまったのだった。
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