本論14:恨みの容れ物
尾田は北門から徒歩で五分足らずのアパートに居を構えている。研究室からだとかなり遠くなってしまうが、それでも僕は全力でその距離を走る、足を休ませることなく。
間に合うはずはないと、もう手遅れなのだとはわかっている。しかし、それでも僕がこうして走れば何かが救えるんじゃないか、そんな淡く根拠のない希望があった。その希望が僕の足を喉の奥がひっくり返りそうになるまで必死に動かす。
そんなものは幻影でしかない。先に待っているのは絶望しかないとどこかでは分かっていたが……束の間の現実逃避もすぐに打ち砕かれる。
質素なそのアパートに近づくと、その横に企業のロゴが入ったトラックが停まっているのが目に入る。熱くなっている体から、すぅと熱が抜けていくのを感じた。
「あ、尾田さんですか? お届け物です」
彼の部屋の前には、丁度今やってきたらしい宅配の人がいた。その手には恐らく彼が言っていたゲーム機が入っているであろう箱があった。
僕が呪いに襲われ学校からここまで走っている短くはない間、この人がこの部屋の前で滞在しているはずはない。部屋から返事がなければ不在票を入れれば済む話なのだから。
だから、あの時尾田を訪ねてきたのはこの宅配便以外の誰かであるはずだ。そのことが今、確定してしまった。
「はっ……はっ……ひっ……」
荒い呼吸が、さらにままならなくなる。今にも窒息してしまいそうだ。
僕はその問いに答えることもなく、部屋のドアノブに手を掛ける。
合鍵の隠し場所は知っていたから、鍵がかかっていても問題はなかったのだが……すんなりとドアは開いてしまった。
「ちょっと、尾田さん……」
配達員も言葉を詰まらせる。部屋が開かれた瞬間、異様な臭いが漂ってきたのだ。濃い鉄と生臭い何かが混じった匂い。あの地下室の一つだけ入れなかった部屋から漏れていたのと似ていた。
「尾田……」
靴を脱ぎ、部屋に上がる。ふらふらと匂いの濃いリビングの方へと向かう。
吹っ切れたように余計な考えが頭から消え、感覚が鮮明になっていた。さっきまで感じていた疲労や足の痛み、そしてわずかに抱いていた希望はどこにもなく、ただただ目の前の世界の有様を受け止めようと五感が鋭くなっていた。
僕に釣られてか配達員も中に入ってきていたが、そんなことはもう気にならない。気になるのは自分の心臓の音色と——
「っ! ぎゃああああああああああっっ!」
リビングの血だまりの中に、言葉もなく鎮座する汚れ一つない段ボール箱だけだった。
「血、血ぃ! け、警察呼びましょう!」
配達員はひどく取り乱す。目の前の惨状から眼を逸らし、スマホで緊急通報を行おうとしている。なんとも普通で正常な判断だ。
それに対して、僕は手を伸ばしていた。テープもないのにぴったりと閉じている段ボールに向かって、無謀にもそれを開けようと試みていた。
それは呪いを解き放つ、自殺行為でしかないのに。
だが、僕は今までのように好奇心で動いているのではなかった。いたずらに箱の中身を覗きたいわけではなかった。
ただ、箱の中から「開けてくれ」と言われたような気がしたからだった。
尾田の声で、頭に響くように——それは命の残響だったのかもしれない。尾田が死ぬ前に遺した感情の残り香。彼の無念、悔い、そして怒りがそこから伝わってくる。
「わかったよ」
言葉のまま、それを開ける。
その瞬間に僕は意識を失った——
■■
意識が周りをはっきりと認識できるまで回復した時には、僕はあの教会の中にいた。忘我の状態にあり、この瞬間まで完全に体のコントロールを失ってはいたが、そこから配達員を置いてすぐさまここに向かって走ったことは思い出せた。
武器——いや明確に相手を殺す凶器として、尾田の家にあったバールを持ち出したこともはっきりと。
「はぁ……はぁ……」
「どうやら、少しは理性が戻ってきたようですね」
「僕は今……」
神父は頭を押さえている。だがその指の間からは血が止めどなく噴き出ている。
あれは、僕がこの手で付けた傷だ。スイカ割りでもするみたいに容赦なくバールを振り下ろし、その頭にヒビを入れた。
「そうだ、君が私を殺そうとした」
「そん、な」
「いいや、気にすることはないのです。私は君の友人に箱を送り付けた、君に送ったものと同じくらい強い物を。だからこうなるのは必然だったのですよ」
「っ!」
バールを握る手に力が入る。
当たり前のように尾田を殺したと口にするその態度に、一度は冷めた憎しみが再燃しそうになる。
「どうか落ち着いてください。ここでまた理性を手放すのはあなたにとって良くないこと。だから、落ち着いて話をしましょう」
「意味が分からないことを言うな! お前は大勢を呪った! それなのにてめぇはまだ自分の身がかわいいっつーのか! そんなの! 許せるわけがないだろうがっ!」
「それをして死ぬのはあなたですよ……大野安慈くん」
「でたらめを言うな!」
「本当です。あなたは恐らくあの箱を開けた、ならばあなたの体はもう呪いに蝕まれているのです」
「!」
そんなわけはない。今の僕はどこも痛い場所なんてなかった。苦しいなんてこともない。むしろ体に力がみなぎっているくらいだ。
全力で走って教会までやってきたのに息が少し上がるくらいで、バールを振り下ろす力も普段からは想像できないものだった。
E太の衰弱具合を考えて、僕は元気いっぱい目の前の敵を殺そうとしているのに呪いに蝕まれているなんて到底考えられなかった。
「あなたはあの男に騙されているのです。あの、『外なる者』に」
禁地教授のことだろうか。
あの人は今どこにいるんだ。
まさかとは思うがもう既にこいつに……
「あなたは、あの男の手によって脳の回路がこじ開けられた状態にあるのです。本来、この星の者にはないはずの第六感が無理やり開かれ、栓ができていない。故に、今のあなたは念としての恨みの感情を感知し、それを取り込むことができている。ですが、それは危険のです——なぜなら」
目の前の、人形のように無感情だった神父が、確かに焦っていた。
それは何故だろうか。自分の命が惜しいからか?
違う、この人は。
「今度はあなたが溜め込んだ呪いを振りまくことになってしまうから。今の君はあの箱と同類だ。ヒトの体は、その状態に耐えられるようにはできていない」
多分、僕のことを案じているのだ。
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