運命の巡る夜Ⅲ

「いいわ。あなたにも伝わるよう、わかりやすく説明してあげる」


「…………」


「みながわたしのことを水辺の白鳥しらとりのようだと例えたのはね……湖畔こはんに美しくたたずむ鳥の姿と重ねて、このうえない気品とけがれなき純白をたたえているのよ」


 そこは悪くないセンスだ。褒め言葉として素直に受け取っておこう。


 令嬢は一度言葉を切って、唇を湿らせた。「けれども、同時にこんな意図を絡ませているの――」と、肩をすくめて続けた。


「フィオナ・ベルベットは白鳥のごとく……お高くとまった、気難し屋の高慢な女である、ともね」


「…………」


「なによ、ちょっと被害妄想が過ぎるとでも言いたいの?

 でも、わたしとは対照的に、リリアのことを『カナリア』なんて例えているところがまた嫌らしいじゃない? 悪意がはっきりとうかがえるわ」


 沈黙の従者に、令嬢はさらに饒舌じょうぜつにまくしたてる。いまの彼女を止められる者は誰もいない。溜まりに溜まった鬱憤うっぷんがせきを切って、胸の奥からあふれ出した。


「図体と態度ばかりが大きな鳥よりも、ピチピチさえずる小鳥を手のひらに乗せて可愛がりたいって言いたいのね。……ふふふっ、本当にもうっ……世の中ってのは……っ!」


「…………」


「ええ、わかっていますとも! わたしとて、なにも水鳥みずどりのように、のんびり気ままに流されていたわけじゃありませんから!

 社交界という次なる舞台ステージに立った瞬間から、わたしの新たな戦いが幕を切って落ちましたもの。華やかな貴族社会の戦場いくさばで、わたしは研究に研究を重ねたわ!」


 興奮のままに、令嬢は従者の外套がいとうえりをつかむ。華奢きゃしゃな細腕に引っ張られたところで、ひとまわりも大きな体格が動くはずないのに、彼は律儀に主のもとへ半歩ほど靴先を詰めた。


「……そして、わたしは知ったの」


「…………」


「世の殿方たちの多くが、ああいった女を――白鳥よりも可愛らしいカナリアじょうを好きこのむという、おぞましい真実をッ!」


 ほとんど半狂乱になって、令嬢は叫ぶ。いた手で従者の胸を叩き、憎々しげに我が屈辱を訴えた。


「あんな小娘のどこがいいって言うの! 舌をモゴモゴさせてばかりの陰気で恥ずかしがり屋な子が! ダンスではドレスの裾を踏んづけて、すっ転んだ間抜けな子がッ!

 けして完璧にはほど遠いあの子に、どうして誰も彼もが頬を赤らめて手を取るのよ! わたしにはそんな顔一つしやしないくせにッ!」


「…………」


「ハンッ、もういいわ! 全員、こちらから願い下げてあげましょう!

 おなじ侯爵家のフィヨルドさまはマザコン気質ですし、伯爵家のオルフェウスさまは女中まで手広く引っかけているご様子ですし――あの方は趣味が悪い! この方は顔が好みじゃない! ええっと……それから、それからッ!」


 たしかに幼き日の誓いのとおり、わたしはどこへ出しても恥ずかしくない完璧な貴族令嬢になれた。


 しかし、完璧が過ぎて、今度は釣り合いの取れる良き人が現れないという壁に直面してしまった。たまに良人候補キープゾーンに収まる殿方を見つけても、彼らの目は隣のリリアに移ろうばかりであった。


「銀と金、銀と金ッ! なぜ、わたしが銀扱いなのよ! あの子よりも格下だって言いたいの! そうなのッ!」


 腹の底から絶叫しきったのち、とうとう十七歳のわたしは橋の欄干の上に身を伏せてしまった。葡萄の赤き魔性により引き出された高ぶりは、最後は涙となって地に落ちた。他所の庭園だということも忘れて、伏せた顔の下で令嬢はすすり泣いた。


 無情な世に抗うための鎧を手に入れたはずなのに。やっぱり現実は甘くない。逆に己の弱さがより引き立てられてしまった。


 それでも昔よりかは少しばかりたくましくなったようで、しばらくして令嬢は自ら身を起こした。


 目元を赤く染めた顔に、従者からハンカチが差し出される。漆黒のなかに浮かんだ布の白さが奇妙な感覚を誘う。令嬢は無言でそれを握りしめると、涙を拭くわけでもなく、再び池のなかを覗きこんだ。


「わたし……侯爵令嬢をうまくやれているかしら……?」

「…………」


 水の鏡に映る己の姿を見つめて、彼女はそっと唱える。聞き覚えのある魔法の呪文を――鏡よ、鏡と、夜気に冷えた吐息で言葉をつむぐ。


「ねぇ、答えて。わたしはいったい、どこの誰かしら?」


「侯爵令嬢のフィオナ・ベルベットさまでございます」


 すぐ、背後で返事が聞こえた。

 遠い昔の戯れにすぎなかったはずなのに、彼は覚えていてくれたようだ。世辞せじ一つない、短めの返答であったが、いまのわたしにはそれだけで十分だった。


 もっと言ってほしい。

 渇きにあえぐよう、令嬢はおなじ呪文をくり返した。わたしは誰? と水に投げかけるたびに、そばで好きなだけ望ましい答えが返ってくる。


「侯爵令嬢のフィオナ・ベルベットさまでございます」


 声の調子まで終始、均一であった。変わらない問いと答えを、うんざりするほど二人のあいだで続けた。両手の指からあふれたところで、わたしは顔を上げる。


 欄干から身を振り返らせて、漆黒の双眸を目にめる。


 わたしはたずねた、「あなたは誰?」と。

 漆黒は答えた。


「ディオス・シュス。あなたのつるぎです」


 そう言って、彼は静かにこうべらした。


 愚直すぎる、わたしの従者。年月としつきを経てたどり着いた道の先でも、変わらずに仕えてくれたその姿に……わたしも、十七歳の過去のわたしも、ほのかに口元をゆるめるのであった。


「ほんと、季節の変わり目ってイヤね」


 素知らぬ顔を繕って、彼女はおもむろに欄干から離れた。そのままディオスのかたわらを通り過ぎて、四柱の東屋のほうへ足を運ぶ。


 異国の宮殿を思わせる白い石の屋根。飾り彫りの刻まれたベンチに、先程手渡されたハンカチを敷いて、令嬢は優雅に腰を下ろした。


「気持ちが変に憂鬱に惹かれてしまうの。冷たい風は嫌いよ。これから長い冬の季節が待っていると思うと……そうね、塞ぎがちになるのも無理はないわね」


 令嬢は従者のほうへ顔を向ける。忠実なしもべは柱に寄り添って、黙ってこちらを見ていた。


「…………」

「春は遠いわ。辛抱しんぼうづよく待ちましょう」


 執着を手放した令嬢は静かに息をつく。重たくない浅い吐息は、秋風にさらわれてどこかへいってしまった。

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