七つの城を渡りあるく女
シゲキ
過去から現代へ
第1章・幕末のるい姫
嘉永六年、幕末、梅雨の頃、豊後の国竹田、岡城の西、一里の地点にある騎牟礼城の物見櫓の水瓶の中に、生まれたままの赤ん坊が泣き声を上げていた。前日の夜半、豪雨と共に雷が鳴り、眩いばかりの閃光が物見櫓に落ちたのを女衆(ミヨ)が見たと言う。夜明け前に物見櫓の大きな雨水貯めの水瓶に女中頭が水汲みに出掛けた時に、端にある手洗い用の水瓶の中に手足をバタつかせた女の赤ん坊を見つけ、着物の袖に抱きかかえるようにして物見番の甚助の元に駆け込んで来た。
「甚助兄!甚助兄、大変じゃ!赤子が、ほれ!水瓶の中に、」
「赤子てな!こりゃ?たまがった、水瓶の中におったってな?こりゃ?女子(おなご)ん子じゃなかか?」番屋の囲炉裏の丸ゴザに胡坐をかき、先ほどミヨが運んで来た麦飯と汁を食っていた甚助は箸を投げ出して女中頭の腕の中の赤ん坊を覗き込んだ。
「どげんしたら良かとじゃろか?こん赤子、赤い紐がついちょる懐剣も一緒にあったけんど、・・私ゃ他の藩士様にも朝飯運ばにゃいけんで、こん子ここに暫し置いちょくれ、後から又来るけに」赤ん坊など抱いたことが無い若い甚助は番屋の棚の行李(こうり)の中の柔らかそうな肌着を取り出し、赤ん坊を包み、囲炉裏の横の籠の中にそっと置いた。そして先ほど放り出した箸を取って朝飯を済ませた。赤ん坊がくっくっ、と声を出して気持ち良さそうに笑っているようにも見える。つぶらな瞳がこちらを見据えているような目の光にぎょっ!とした甚助は慌てて白湯を飲んだ。
「これは果たして普通の人間の子なんじゃろうか?」髪の毛が生えそろった生まれたてらしからぬ赤子に、さすがの野生児の甚助も動揺の色を隠さなかった。・・・・
幕末の動乱の中、アメリカの東インド艦隊ペリー提督が四隻の黒船を率いて浦賀沖に到着し、徳川幕府に開国を求めた年でもあった。日本中が驚き、黒い鉄の船の圧倒的な脅威の前に諸国大名もなす術がなかった。何も見えない山奥で狩猟を生業としていた甚助はこの山城の藩士の注文に応じて、仕留めた獣の肉やワラビ・シイタケの山の幸をこの城に納めていた。十八歳の若者は百姓と物々交換するよりも銭と交換する方が割がいい事を既に知っていたのだ。注文は城主がいる岡城からも引き合いがあり、仲間を集めて猪肉・狸汁用・キジ・カモの鶏肉やワラビ・ゼンマイを大量に納めた時もあった。仲間が甚助に聞いた、
「何で?お城の侍は獣の肉を食うんじゃろうか?」
「今は動乱の時代じゃき、獣の肉を食った方が戦うときに体の力が長持ちするんじゃて?」
「へ~っ、そぎゃんじゃろか?俺は米の飯と汁が美味いけんどな?じゃけんど、米の飯は良う食えんわ、」
「米は高いけに良う食えんけど、お前らも獣の肉を食っちょるけん体が持つんじゃ、」・・
しかし岡城と騎牟礼城の二つの城に納める事で、獣も取り過ぎたのか少なくなっていた。そんな時、藩士から遠目が利く得意性を買われて甚助は騎牟礼城の砦の物見の番に抜擢されたのだが、主従の関係を好まない野生の若者は良い返事をしなかった。一人の藩士が
「甚助、お前 女おらんじゃろ?山城にはべっぴんの女子衆が仰山いるじゃき、嫁もらいに苦労せんぞ、」で騙された形で山城に上がったのだが、丸太で作られた砦のような城の中には藩士の奥方と女中らしき女子衆が数名で、べっぴんな女は見当たらなかった。甚助は毎日 番屋で寝泊まりし、狩猟用の鉄砲を構えて一日中、四方の森を睨みながら物見の番をする仕事で、それだけで給金も貰えるし、楽な役回りだと思っていたが、三日で次第に野生児の甚助には耐えられなくなっていた。 藩士 曰く、
「物見の番の仕事は三百六十度 夜も昼もない、城への侵入者、城の周りの異常、立木の揺らぎ、どよめき、微かな煙、闇の中の光と音、月夜の中の動く黒い影、風に乗って来る音と臭いと振動、虫や鳥の異常、すべてが敵に関係するのだ」と、
野生の中で育った甚助には其れに近い感覚を持ち合わせていると藩士が考え抜擢したのだが、甚助にとっては東の方角にいつも見慣れてる岡城がそびえているだけで、その下に点々と城下の藁屋根が見えるが、山の上から見える、生まれてからずっとある風景で、あとは森と高原と尾根が永遠と続いているだけの今も昔も同じで、一か所に留まることが出来ない甚助には既に退屈さが訪れていた。四日目から昼間は番屋で寝っ転がることにし、夜に成ると砦内を動き回って、星の数を数えたりしていた。野生の男は管理されたり束縛されると本来の力が半減してしまうが、夜の空気は管理と束縛が不思議と消えるのだ。夜目を働かせて城内を歩くと、時には見回りの藩士と出会うが、それは上司ではなく単なる味方に変わるのだ。闇は相手がすべて見えない事から上役と部下の関係と云う気使いを互いに取り去ることが、エネルギーを消耗しない事に繋がるのだ、甚助は真夜中、城外に出ることもあった。切り立った擁壁も大木の枝を使い、野生の身軽さを発揮した。仲間の所から夜明け前に砦に戻ることがあった。
ある曇天の夕刻近く、北側の遥か彼方に微かな煙が立ち上ったのを甚助は藩士の一人に伝えに行った。藩士は
「あのような煙はよくある事じゃきに、気にせんでもいいっちゃ、」甚助は
「いや!藩士殿、これは俺の勘ですが、あの煙は敵の臭いがするっちゃ、是非、待ち伏せをされては如何かな?」
「お前がそれほどまでに言うのなら、一応、石川様にお伝えするぞ。ちょっと待っちょれ,」
暫くして戻って来た藩士は、
「石川様からの命令をもらって来た。お前も含めた五人で探索することになった。日暮れにそこに着くことにするぞ。夜になってしまうと向こうが動き出すからのう。それからのう、嘘んじょじゃったら、お前の首を斬るからな、」
「そげな!ひどかこつば、」甚助は恐怖で抗議した。
「わしはむげねぇと言ったんじゃけどなあ?石川様が野生の目を持っちょるから雇ったんじゃから、用無しじゃったら首を斬れと仰せじゃ、」
甚助を先頭に腕利きの藩士四人は砦を出て目的地に向かって山道を急いだ。甚助は首切の恐怖を感じながらも目算はあった。それは昨夜 砦を抜け出して仲間と会った時、仲間の話から何処かの間者らしき五~六人の武士が煙が上がった方角で、騎牟礼城を見つめて密談をしてるのを目撃した事を小耳に挟んでいたのだ。甚助は大物用の一発玉の銃を担ぎ、藩士に心意気を見せた。一団は林を抜け 谷を渡り大径木の中を息を凝らして進んだ。甚助は目的地に武士の集団がいなかった場合は物見の役を返上して、途中で逃げ出そうと思っていた。
「こんなことで首を斬られるのは真っ平じゃ、」と、思いつつ、野生の中で育った身軽さで四人の藩士から逃げ果せるのは訳もないとも思っていた。更に
「この山城の石川と云う主は酷え~奴だ!こちとらは城を狙っている集団を教えてやろうとしてるんじゃねえか、その志を、集団がいなかったら俺の首を斬れだ?まるで、魔物か邪鬼だ、こんな城には金輪際 居たくねえ、例え城を狙っちょる集団が居ても居なくても、俺はこの城を下りる。」と、甚助は頭の中で呟いていた。一ッ時 行くと、突然、大木の陰から平たい窪みに五人の黒装束に鎧を付けた武士が円陣を作って腹ごしらえをしているのが垣間見えた。緊張が走った。大木の幹に銃身をあて、甚助ともう一人の藩士が銃弾を発射した。二人の黒装束がもんどりうって倒れたが、甚助の獣用の一発玉は一人の武士を跳ね飛ばし、たき火の中の火の粉と白い灰を舞い上げさせた。
三人の藩士は刀を抜き、正面を走った、残った二人は銃に弾を込め直し、尚も正面に出るべきところ、甚助は初めて人間を撃ったことでその場に座り込んだが、藩士に叱咤され、よろよろと正面に出て行った。戦いは壮絶を極めた。甚助が撃った相手は即死だったが、もう一人は肩口を負傷したらしく、両手で刀を持って突進して来た。藩士が撃った二発目は命中しなかったらしく、銃が途中に投げ出されていた。小一時間、入り混じった激闘の末、三人の相手が絶命し、二人は夕闇の中に消えて行った。甚助は身がすくみ、鉄砲を撃つことも、小刀を抜くことも出来ずに座り込んでいた。両腕の震えが止まらないのだ、味方は二人が深手を負ったことで、一人を甚助が支えて戻る事になった。若い甚助は頭の中が真っ白になっていた。他の藩士の手には相手の赤い紐が結わえてある剥ぎ取った鎧が下がっている。敵対する強敵の城の鎧らしい、城に持ち帰って確認するのだ。甚助たちが砦に帰り着いた時は深まった闇に霧が出て、その静けさが先ほどの戦闘が幻だったように思われた。・・
ひと月ほど経った晴れた日の午後、まさかの侵入者が騎牟礼城の女中部屋に現れた。切り立った絶壁を楠の大木の枝から這い上った一人の忍びが女中衆全員を人質に取ったのだ!女中頭の首には刃が添えられていた。女中たちに動きがない事で、様子を見に来た一人の藩士が不意を突かれて倒されていた。小一時間が経った頃、昼寝から目覚めた甚助が気づき、藩士を呼び、女中部屋の裏窓から鉄砲で黒装束の敵が仕留められたのだが、甚助の怠惰にも昼寝をしていた事に怒った老藩士が甚助の首を落とそうとするのを、女中頭と若い女子衆のミヨが必死に哀願して止めに入った。甚助は又もや自分の首を斬ろうとするこの城の藩士に対して鉄砲を向けようとしたが、白髪の混じったその藩士の気迫に圧されて仰け反ってしまったのだ。・・
「藩士様!甚助兄は昨夜、城外の林にざわめきがあると言って一晩中,寝ずの見張りをして頑張ったんです。私共も白湯とにぎり飯を番屋に持って行って、じゃあけえ、勘弁して貰えんでしょか?お願い申します。」と、特に若いミヨは額を床に擦り付けて哀願したのだった。甚助は子供の頃、流行り病で死んだ妹と自分の為に必死に哀願するミヨが不思議と重なった。そして忍びに倒された若い藩士を見ながら、鬼のように怒った老藩士の口走った
「武士の魂にも劣る不埒者・・・」の“武士の魂”が妙に心に引っ掛かった。
ミヨは木こりの娘で家が貧しく、口減らしの為に一五歳で遊女に売られようとしているところを女中頭の口利きで、一年前この城に上って下働きをしている。見張り役として来た野生の匂いがする甚助の姿が山仕事で大木の下敷きになって死んだ兄と重なって、甚助がこんな事で手打ちになって死んでしまうのが絶対に嫌だったのだ。
甚助とミヨは首筋に傷を負った女中頭の手当てをしたのだが、甚助は傷に効く野草と父親から受け継いだ大型の獣の肝臓を煮詰めた腹薬を持っていて、これは藩士にも重宝がられたが、城の主の石川政夫に気にいられる糸口となった。・・
騎牟礼城は竹田の町を挟んで岡城の西三キロにあって、その昔、平安時代(一一五〇年)日本史最強の伝説的武者 源為朝によって砦として作られた山城で、その後 頼朝に追われた義経の為に作られた岡城(鎌倉時代一一八五年)の支城として其以降、天正十四年(一五八六年)の豊薩戦争、明治十年の西南の役などでは、重要な戦略上の陣地となり続けた。五ヶ所の廓土塁(くるわどるい)や空濠が掘られ、敵の侵入を防ぐ壁が作られた。幕末の天保時代、岡城主から遣わされた藩士、石川政夫が主を務めていた。・・・
甚助は度重なる不本意な首切りと手打ちの未遂を受けた事から、城を逃げ出す算段を考えていて、以前にもまして夜半に城を抜け出し仲間とその機会を伺っていた。城の内情を知った者が逃走した場合は城の中の秘密が漏れるのを防ぐために、追手が来るのが分かっていた。女衆も里帰りする時は藩士が付いてくる場合がある。甚助の木こりの家族が住む山小屋の場所も藩士には知られており、その場合は家族にも累が及ぶ。逃亡する時は家族諸共この地には留まらない事を決めていたが、決行する日は梅雨で人の集中心が乱れる時期を考えていた。やがて梅雨の時期に成り、大雨が降った夜に逃亡を決行する準備を整えている時、番屋の窓の外では雷が鳴り、物見櫓付近が見た事もない眩いばかりの白銀の光に包まれ、その神々しいばかりの白い渦巻を目の当たりにして、足が竦み暫し留まっている間に夜明け近くになってしまった。意を決して外に出ようとした時、突然!女中頭が生まれたままの赤ん坊を抱えて番屋に飛び込んで来たのだ!甚助は驚いた。そして城を抜け出す算段を巡らすどころでは無くなった。夜半からの白銀の渦巻きが脳裏に続いている。慌てる甚助は受け取った赤ん坊を行李の中の適当な柔らかそうな布地で包んで籠の中に置いて、呆然と座っている所に藩士たちに朝飯を運び終えた女中頭が少女のミヨを伴って戻って来た。
「大変だよ!甚助兄、この娘が昨夜見たって、あれあれ、為朝様の姿を?」芯が通った女中頭の声が上擦っている。・・ミヨは肩を震わせながら俯いている。頭が混乱する甚助が聞いた、
「ミヨ、何を見たんじゃ?」ミヨは顔を上げたが、目を閉じていた。そして、
「寅の刻じゃった、廊下の隅から見えたんじゃ?物見櫓の横に、見た事もないような眩しい銀色の渦巻きに、雲を衝くような鎧姿のお武家様が現れたんじゃ?何か塊を持っていなさった。・・」
「雲を衝くような鎧姿のお武家様?・・何じゃそれ?・・」
「石川様のお部屋にある源為朝様の絵図そっくりの?」ミヨは両手で耳をふさいで俯いた肩が震えていた。・・・・・・
赤ん坊は番屋の中ですくすくと育っていた。人知れず、甚助と女中頭とミヨ以外には知られず、・・女中頭ははち切れんばかりの乳房を与えていた。
「こん赤子の吸う力は凄かよ、私の乳は出るかな?と思ちょったら出たわな、ほじゃあけん、山羊の乳を持って来んと足りんばい、」女中頭は一昨年、嫁に行くことで一度、城を出たのだが、子が死産だった事で離縁されたのか?再びこの城にミヨを連れて舞い戻って来ていた。幸いなことに乳が出たが、足りない事は判っていた。責任を負わされた下働きのミヨも食材を城外に仕入れに行ったついでに動物の乳を貰って来た。しかし煩雑さを感じた女中頭は主の石川様に知らせしようとしたが甚助が止めた。甚助は源為朝なる人物を良く知らなかった。
「姉さん!為朝と云うのは一体誰なんじゃ?でけえ侍なのかい?」
「あんた!なんも知らんとじゃね?石川様のお部屋に大きな額縁があって、絵図に描いてあるとよ?身の丈七尺(二メートル一〇センチ)もあるお武家様で、ずっと大昔、この城をお造りなさった方じゃと?」
「ずっと、大昔?・・為朝?・・鎮西八郎じゃなかとか?・・大弓を引く武者?」
「そうじゃ、その武者じゃ、」
「ガキの頃、寺子屋で絵本を見た事あるぞ、・・あの武者がこの城を造ったとか?たまがった、」
「為朝様はそこの物見櫓から大弓を引きなさって、敵兵が恐ろしゅうて近づくことが出来んかったらしか?矢も長かったらしゅうて、一ぺんに三人も射抜いたらしか?」
「本当のこつな?そりゃ凄か~武者ばい、恐ろしかな、」
そこにある石の上部をくり抜いた水瓶は、矢が滑らんように手を洗われなさったと石川様が仰せられとった。
「俺はそげな、恐ろしか所で物見ばしとったとか?・・で、ミヨはそこに為朝様が現れたのを本当に見たとかな?」
「あん娘は嘘を言う子じゃなかとよ、」
「・・・・・じゃ、黄泉の国から為朝様が連れて来た赤子か?こん子は?本当のこつとは思われん、気色ん悪か、と云うか、ほじゃあけん、恐ろしゅうなった。俺は、」
「ほじゃけん、石川様にお話ししようと言うたら、甚助兄が止めたじゃろうが?」
「姉さん、俺は二度、首を斬られそうになったんじゃ、石川様も白髪の藩士様も怖いお人じゃ!大昔の為朝様が空から連れて来られた赤子です。なんて言うたら、嘘んじょな奴だ、と言って又手打ちに遭うんじゃねえか?・・俺は言いたくねえよ!それと、これは誰にも言わんだった事じゃけどな、俺はもう、この城は嫌なんじゃ、いつ殺されるかわからねえよ?安い給金で、・・いつか逃げ出そうと思うとるんじゃ?だから俺は武者が赤子を抱いて空から舞い降りて来たなんてぇのはどうでもいいんじゃ、」
「そりゃ、だめじゃ、逃げたらいつか見つけられて殺されるに決まっちょるよ!敵の城に密告すると思われて?・・甚助兄が逃げたら、私とミヨはどうしたらいいんじゃ?赤子は女だけじゃ生まれないんじゃ?」
「姉さん?それどういう意味じゃ?」甚助は癇癪を起しそうになって目が充血している。
「ミヨにも話したんじゃけど、この赤子は甚助兄とミヨとの間に出来た子だと云う事にしたらどうじゃろうか?」
「ええっ!・・そげんこつは出来ねえよ、俺は!・・それに信じてねえよ!大体!赤子が空から来たなんて?・・武者は、昔ここで弓を引いていたんじゃから、まあ?おかしくはないんじゃけど?・・本当はこん赤子は姉さんが何処かの男と交わって出来た子じゃないかと思ったりもしたんじゃけど?・・それが恥ずかしゅうて、藩士様にも顔向け出来んで、俺たちのせいにしたいんじゃないんか?・・とか?・・姉さん肥っちょるけん、いつも身ごもっちょるように見えるんじゃし?」
「何ば!言うか?このバカたれが!私が死産したとは一年も前じゃ?・・この城の藩士様が私のような醜女子ば相手にする訳がなかろうが?・・」女中頭も癇癪を起して来た。
「じゃ?誰が生んだんじゃ?」
「だから、ミヨが見たと言うたじゃろうが?私が朝水汲みに来た時、この赤子がいたんじゃから、」
「ああ!俺には何が何だかわからねえよ?」
「だからな!甚助、一番いい方法は、女中見習いと物見番との間にできた子だと云う事にすれば、お咎めは無いんじゃなかろうか?不貞を働いた事にはならんじゃろう?・・いつまでもこの番屋に赤子を置いちょく訳にもいかんじゃろうて、今に藩士様に分かってしまうけんね、二人の子だと言えば言い逃れができると思うんじゃ?」女中頭は精一杯の頭を巡らしているようだった。
「ほじゃけんなあ?・・・・?」若い甚助は頭を抱えた。そして己の先行きにいよいよ暗雲が立ち込め、狼狽にも似た不安が襲って来た。こうなれば逃げるが勝ちだ!
「いつか、城を抜け出そう、」と心が呟いた。・・・
三人は赤ん坊の為に動かざるおう得なかった。女中頭は城の近くの離縁した百姓の娘だったが、里帰りした折に山羊の乳や野苺の汁を持ち込んだ。ミヨは城内でおかゆの汁を作った。甚助は百姓に嫁いでいる姉に、ほうれん草の汁を作って貰った。時には女中頭の巨大な乳房を吸わせてみるも、出る時期は無くなっていた。しかし三人の世話で泣き声一つ出さない赤ん坊は一回り大きく育って行った。
そして生まれ堕ちてひと月経ったある夜、突然!城内に響き渡る声で赤ん坊が泣いた。逃亡の段取りに集中していた甚助は、火が付いたような泣き声に驚いて腰が抜けそうになっているところに、番屋に近い部屋の女中頭とミヨが駆け込んで来た。ミヨは山羊の乳を竹筒に入れている。
「お乳が欲しかとよね?こぎゃん泣いて、」竹筒を口に添えるとごくごくと音を出しながら、凄まじい勢いで竹筒一本の乳を飲み干した。乳飲み子の瞳が爛々と光を放っている。
「この子はやっぱり只の子じゃなかね?怖いくらいじゃ!あの為朝様がお連れなさったんじゃからね!」三十路に近づいた太った女中頭は赤ん坊を抱きあげ、あやしながら見つめている。ミヨは横から指で頬をつつきながら、
「えらしかなあ(可愛い)!ほっぺが赤くて、私がこうしてほっぺをつつくと笑うんじゃ!甚助は気が抜けて座り込んでいた。
その時、二人の藩士が番屋の入り口に現れた。
「最近は何事もなく平穏な日々が流れておったが、久しぶりに来てみれば、何だ!その赤子は?先ほど赤子らしき泣き声がしたんで、まさかと思ちょったが?」白髪の厳しい藩士が見下ろしていた。甚助は逃げ腰になって、這って外に出ようとしていた。女中頭はとっさに赤ん坊を籠に置き、床にひれ伏した。
「藩士様!申し訳ありませぬ。実はひと月ほど前に、このミヨにやや子が出来まして、どぎゃんも出来んで、この番屋で育てちょりました。」
「相手は誰じゃ?甚助か?」女中頭はひれ伏しながら頷いて、
「二人は若こうございますが、互いに好き合った仲でございます。」
「ひと月も隠し得たのか?」
「下働きをないがしろにしたつもりはありませぬが、どうか二人をお許し下さい。」
ミヨは額を床に擦り付けている。甚助は這い出ようとしたままの恰好で動きを止めている。
白髪の藩士は甚助の背に目を移し、
「お前は野生の勘が良い男だと思ちょったが、女子(おなご)に垂らすのも得意のようじゃな?・・実は今日来たのはだな、お前の勘のお陰で敵の間者を待ち伏せして追い払った事と、動物の肝臓を煮た腹薬を石川様が感心されてな、お目通りを伝えに来たんじゃ、」
とっさに甚助は向き直り、正座をして藩士にひれ伏した。
「この番屋に赤子がおったとは?たまがったのう、・・ひと月前と云うたら、雷が鳴って、白い稲妻がこの物見櫓に立ったのを、わしは本丸から眺めていたんじゃが、あの頃じゃなあ、ミヨが赤子を生んだのは?・・」白髪の藩士の眼の奥に不思議な緊迫感が漂っていた。
騎牟礼城はこんもりとした丘の上にある砦の様な城で、長い楕円形で北側は切り立った断崖の擁壁がある。本丸は七~八〇〇坪ほどの敷地の中心に位置し、頑丈な丸太造りで、階下に各藩士の部屋と武器倉や雑所、女中部屋が続き、東側の先端に物見櫓が建っている。甚助は本丸には入った事が無く、最上階の石川様にお目通りに行く時、女中頭を同行した。本丸正面入り口の横の敷地に見た事もない大きな鉄の輪が付いた大砲が三基並べられているのを恐る々 眺めた。初めて対面した石川様は想像と違って、やせ型で思慮深い静かな人物であり、魔物か邪鬼には程遠い顔相で甚助は少し緊張が解れた。確かに女中衆が言ったように部屋の背面には横に長い大絵図がある。月に向かって強弓を引く武将が描かれ、鬼をも貫く眼光で見据えている。字を知らない甚助には、縦に書かれた八文字が或いは“鎮西八郎為朝〇〇”だと思われた。石川様は静かな声で、敵の間者を見つけて追い払った事や重宝な腹薬を持参した事に対する褒め言葉と共に、甚助に正式な家臣として取り立てる事を申された。赤ん坊については何もなかったが、
「お前たちは未だ若いが、ミヨとは夫婦(みょうと)として今後もこの城に仕えてくれよ!」の申し渡しを聞いた。甚助は懐が深い主に対して、為朝様が抱いて来た赤ん坊の事を申し上げようと思ったが、女中頭と顔を見合わせたあと、言うのをためらった。・・・・・
甚助は子持ちということで、見習いの藩士として本丸の階下の隅に三帖の荷物部屋を与えられていたが、その部屋に未熟な夫婦と赤子と三人で寝泊まりする事は一度も無かった。
ミヨは娘に添い寝はするが、殆んどは女中部屋で他の衆と一緒に過ごし、甚助は相変わらず番屋で過ごした。半月ほど過ぎた頃、甚助が荷物部屋から慌てた様子で女中部屋に駆け込んで来た。
「赤子がいなくなったんじゃ、小一時間ほどの間に!部屋で寝ちょったんじゃけどな、」女中頭とミヨは煮付けの真っ最中だったが、ミヨは大根を放り投げて走った。三人は城内を探し回ったがミヨは悲壮な顔をしている。その時、女中部屋から甲高い女中衆の声が上がった。
「ミヨ~、こっち、こっち、裏窓の外の石垣の縁を赤子が這ってるよ~、」甚助は疾風の如く、駆け出した。
「あぶねえ、あぶねえ、下に落ちるぞ、」甚助が着いた時は女中たちが数人で赤子をあやしていて、
「この赤子はハイハイと言うちょるよ、誰が教えたんじゃろな?ハイハイ、」生まれて半年の赤ん坊が荷物部屋を這い出して廊下伝いに石垣の縁まで来たのだ。膝小僧を少し擦り剥いているが、機嫌よくハイハイと幼い声を出していた。
見回りに来た老藩士が、
「ハイハイとは、はて?敵の間者の赤子?・・」と呟いた。
白髪の老藩士は主の石川様の側近で作戦上の参謀の役を受けていた。老藩士は中津出身だったが、あるきっかけで、騎牟礼城に入城したのだが、豊後の英雄・大友宗麟が築城したと言われる臼杵城の稲葉藩と岡城の中川藩が、つばぜり合いを来り返していた頃、岡城の支城藩士として稲葉藩の内情を探りに行った事があった。稲葉藩は藩主の家督争いが激しく、長男、次男、三男が先代の藩主の座を争ったが、長男が病死した後、次男が家督を引き継ぐことに成ったが、岡城の中川藩に近い三男に跡目を取らせるために、若い老藩士が様々な策略を巡らす役目を受けたのだが、その時、敵の陣営に味方の種がある子を秘密の内に潜り込ませたことがあった。しかしその計画は露見し、その子供は首を刎ねられ、老藩士は命からがら逃げ帰ったのだが、その老獪な策士としての腕を石川様に買われてここにあるのだが、老藩士はこの騎牟礼城の赤子の出現に、稲葉藩への策略以上の不可解さを感じていた。・・・
三年が過ぎ、時は安政、ペリー艦隊襲来後、幕府の権威は地に落ち、諸国の倒幕の気運は益々高まりつつあった。豊後の国の小藩に分立した幾つもの城は複雑な家系を成し、互いに結んでは離れ、小競り合いを続けていた。其れは肥後藩(熊本)や肥前藩(長崎)にも及び、随一、開国の必要性を説いていた薩摩藩十一代藩主の座に就いた島津斉彬は猛烈な勢いで、独自の産業革命を推し進めていた。過去商いがあったオランダやヨーロッパ諸国の技術研究を進め、蒸気船の製造、汽車の研究、溶鉱炉の設置、小銃の製造、ガラス製造、更にガス灯や写真術、電信機まで、そして土地柄作物を増やす為の農作物品種改良と、改革は留まるところを知らなかった。各藩も開国が近代化につながる気配を感じてはいたが、薩摩の勢いを目の当たりにし、過去の島津藩の侵略とは異にした、政権そのものを目指している事に便乗するか?静観するか?の選択を迫られていた。親城である岡城共々、迫りくる動乱の激しさを見据えて、騎牟礼城の甚助は二十一才の武士となり鉄砲隊の副長に取り立てられ、藩士の地位を得ていた。鉄砲隊では砲術も習得し大砲の砲撃の指導もすることになり、人員も増やされた。甚助は三年前、身に降りかかる難題で、城を抜け出そうとした過去が見事に消えうせていた。
物見役には新たに佐吉と云う十八才の若者が任にあたった。佐吉は甚助の猟師仲間の弟で、遠目が利く利発な若者で甚助が一番に推挙した。
甚助は正式な藩士に取り立てられたことで、本丸の階下に部屋を与えられたが、女中頭によってその部屋に通された時、仮の夫婦として互いの遠慮もあったが、ミヨも一八才の女盛りを迎えていて、勇壮な侍になった甚助に憧れてもいたのだが、大天下一の幻の為朝様の忘れ形見の前には、契りを結ぼうにも恐れ多い靄のようなものが漂っているのだった。
夫婦は間に娘を挟んでぎこちない生活を送ることに成った。
そして三才の娘は昼間は、よちよち歩きで物見櫓の番屋に来るのが日課となっていた。娘は名をるいと名付けられた。この名はミヨが渡り廊下で鎮西八郎の幻影を見上げた瞬間に脳裏に焼き付いた二文字だった。
るいはもの心着いた頃から野生の虫が好きで、地上を跳ねる昆虫、空を飛び回るトンボを、天使のような瞳を輝かせながら、捕まえようとする三才の少女に、城内のすべての者が目を見張った。女中頭の福がゆで卵を少女に与えてみると気に入ったらしく、盛んにそれを無心するようなり、そこで佐吉は城内に巣くっている鳥の卵を茹でて与えたところ、城壁の縁で食べている少女に鳥たちが群がり、中には突いて来る親鳥がいて、その事を敏感に感じ取った少女は代償として昆虫や虫を鳥の餌に与える要求をし、佐吉は野生の動きに興味を持ったるいに心を奪われ、番屋に大きな虫籠を作らされ、トンボやバッタを捕獲する取網を用意させられた。お福の案で城内の樹木の周りに小さな鶏小屋も設けられた。るいが動き回る範囲は城内すべてに至り、女中部屋から藩士の部屋、武器倉から、日ごろ誰も近づかない大砲の設置場所、四方の擁壁、石垣の際を何かを見定めるように愛くるしいよちよち歩きの幼子が、たたずんだり、天を仰いだり、・・・出生の秘密を知っているミヨや女中頭の福は何かが起こる前触れではないかと心が休まる日は無かった。そして言葉を発さない三才児の反抗期が訪れてもいた。
よちよち歩きをしながら、自分のしたい事は何でもする。注意しても止めないどころか、藩士が何か言っても意に介さない。しかし番屋の佐吉にとってるいは天使でもあり女王様でもあった。兄貴分の甚助から出生の秘密をそれとなく聞いて、半信半疑の思いだったが、それでもるいの背後にはただならぬお方が付いている事を感じていた。毎日、番屋に居座られ、愛くるしさとわがままが同居したおねだり娘と対峙する。山野を暴れ回った佐吉にとって何故か心落ち着く時であり、次第に己に僕としての役割が備わりつつあることを悟っていた。
その尋常でない姿をじっと見つめる白髪の藩士がいた。その老藩士はこの数年、成長を続ける幼女を見続けて来たのだった。それは三年前、物見櫓に立った白い眩い閃光と、ひと月後の城内に響き渡るほどの赤子の泣き声と、番屋での赤子を含む四名の“いな存在 ”?
「赤子の実の父親があのように這いながら逃げ腰になるのか?・・ミヨは一五才だったが、更にあの頃、女中衆に胎児を宿した妊婦らしき女がいたか?・・」、老藩士は何かの謎を読み取ろうとしていた。・・・・
それから騒乱がない年が二年ほど続いたが、この時の豊後の国が静かだった事は後にも先にも無いことで、中津城、臼杵城、府内城、佐伯城、そして岡城や杵築城、一六〇〇年の関ケ原の闘い以来、分立した藩の小競り合いが続く中で、暫しの嵐の前の静けさと云わんばかりの期間が生まれた。形ばかりの夫婦を成した甚助とミヨはるいを連れて里帰りを果たそうとしていた。甚助は鉄砲隊の副長として多くの部下と訓練にいとまが無く、しばしば主の石川様の共をして岡城にも登城することもあった。ミヨは下働きを終え、女中衆の中核として采配を振るっていた。るいは五才となり、主食はゆで卵で更に尋常さを増すと思われたが、何故か、蝶が飛び回るのを眺めるだけの、愛くるしい利発な少女に戻っていた。
三人は騎牟礼城の北、九重山の方角に向かって林の中を歩いていた。五才のるいの胸には小さな赤い懐剣が差されていた。尾根を登り、谷を下り、それを繰り返す険しい道のりだ、幕末の不穏な時、甚助は散弾銃を担ぎ、腰には藩士としての一本の脇差しを付けていた。ミヨは城の女中であっても侍の嫁として懐剣を胸に差している、女子の短刀は戦う為のもではなく、敵に捕らえられた時、城の秘密を守る為と辱めを避ける為だと云う事を嫌というほど老藩士に教えられていた。同じく甚助は戦術の中で一番大事なものが算術だとの事を教えられ、戦う前にすべてを計算する事の大事さを身に付けようとしていた。甚助は心が躍った!
「父ちゃん、母ちゃん、俺の晴れ姿を見てくれよ!そして仲間たちも!」甚助は呟いた。甚助にとっては大出世だった。暴れん坊で手に負えない悪ガキだった己の勇壮な姿を、そして仲間の佐吉をも引き上げようとしている。貯めた給金を家族に渡す楽しみもある。得意満面だった。次第に甚助の足が速くなり、ミヨとるいとの差が離れていた。付近にざわめきがあり、甚助が後ろを振り返った時には、ミヨと娘の姿が消えていた。
「くそ!しまった、・・」甚助は散弾の撃鉄を起こし、後ろの方に走った!黒い人影が藪の中に隠れるのが見えた。散弾がその方向に発射され、爆音が谷にこだまし、無数の鉛が葉を貫通するパラパラッという音が続く!甚助は野生の血を集中させ算術を巡らす。
「人数は少なか、」耳を澄ますと竹笹の中を擦りながら転がる音がする。甚助も竹笹の中に飛び込んだ。竹笹の斜面を滑り降りると、谷のせせらぎに黒装束の兵士がうつ伏せで苦しそうに水を飲んでいたが、甚助が近づいても立ち上がろうとしない、背中に無数の出血があり、せせらぎに幾筋もの血の帯が漂っている。甚助の散弾は基準より大きい鉛の粒を詰めている、或いは内臓に達しているかもしれない。甚助は肩口を掴み、
「女たちは何処じゃ?」
「わしは囮だ!」兵士は身体を震わせて静かになった。
「さては?尾根の方角に連れ去られたか?」甚助は油断した己の頬を拳で殴りつけた。
更に銃弾を空に向けて撃鉄を起こした!爆音が大空に響いた。・・・
甚助は兵士の服装から連れ去ったのが何処の城の者か?おおよその見当はついたが、心配なのはミヨが白状するのを拒否して自害する事だ。そして幼いるい様が・・・?、味わったことが無い不安感が頭をもたげて来た。未熟な己に何度も地団太を踏みながら甚助は東の方向に向きを変えた。・・・
ミヨとるいは二人の男たちにさるぐつわを噛まされ、担がれながら東の尾根越を運ばれていた。ミヨは腹に当身を食らわされてぐったりしていたが、娘は尚も担ぐ男の髪を引っ張り顔を叩き抵抗を続けていたが、尾根が切れたところで大木の下に二人は下された。男たちは胴当だけを付けた兵士だった。
「やれやれ、この娘は大変な暴れ者んじゃ、」もう一人の兵士がミヨに尋問を始めた。
「女子衆の名前は何と言う?・鉄砲を持った男は夫か?・名は?・これは娘か?・何処かの姫か?・何処に行こうとしていたか?・騎牟礼城の者だとは分かっている、」に対してミヨはぐったりしながらも毅然と答えた。
「夫は猟師で、この子は娘で、麓の温泉に出かけて、今、住処に帰る途中なんじゃけど、」
「お前たちの正体は判っとるぞ、騎牟礼城のもんじゃろう?その胸に差している懐剣は百姓や猟師の嫁の物じゃないじゃろうが?」もう一人の兵士が
「鉄砲を担いだあの男は以前、騎牟礼城の物見の役をしておった者じゃろう?・・わしたちは女、子供は殺したりはせぬから、騎牟礼城の事を話してくれればそれでいいんじゃ?」
ミヨは追い詰められていた。ぐったりしていた体を起こし、座りながら後ずさりし、大木に背を付け、武士の妻らしく、胸の懐剣を抜いて己の喉を刺そうとしたその時、立ち上がったるいが短刀の刃を幼い右手で握り締めたのだ!
「るい様!」ミヨが見た少女の目は爛々と光を放っていた。慌てたミヨは幼い手を短刀から離し、血が滲んでいる手を、胸から出した晒で巻き始めた。自害を止めようとした少女の真心に涙が流れた。呆気に取られていた兵士が
「お前の娘じゃ無かな?城の姫か?」ミヨは無言を決め込んでいる。突然!るいは兵士たちに向き直り、幼い声で
「私の名は鎮西城のるい、」、・・愛くるしく、唖だと思われていた幼女が言葉を発したのだ!ミヨは唖然とるいを見ていたが、兵士は呆然としていた。そして
「鎮西城?・・お前たちの城の別名じゃろ?・・あの鎮西八郎為朝公が造ったと云う?」
二人の兵士に驚きと怯えの表情が現れていた。そして成すすべもなく、女と幼子を同行させて己の主君の城に急ぎ始めた。さるぐつわを付けること無く、
「あの鉄砲野郎が追いかけち来ちょる、急がねば、・・」兵士たちは呟いた。
ミヨは幼女を背中に担いだ。途中、蝶や昆虫に幼女が興味を示し、立ち止まったミヨに兵士たちは何も言わなかった。・・・
甚助は東の尾根を探し回ったが、かっては自分の庭 同然の森だ、高い呼び笛に似た音を口で鳴らし山の仲間を呼んだ。小一時間後、一人の仲間が竹田の領域の外にそれらしい四人が出て行くのを目撃した事を伝えに戻って来た。甚助は長い旅になる事を悟った。そして仲間に城の物見の佐吉に一部始終を伝えることを言い含め、一人 豊後の東の方角に向かった。
騎牟礼城では甚助の仲間が走り伝えると佐吉と女中頭は気が動転せんばかりに、特に女中頭は気が触れたように錯乱状態に成りかけていた。
「るい様を最初に抱いたのは己のこの手なのだ!赤子の時、乳を飲ませたのも私だ、甚助には本当は自分の子ではないかと疑われもした、自分の子であればこれほど名誉なことは無い、そしてわが子のような姫様が敵の城にさらわれたのだ、」女中頭は人格が破綻したように己の精神を支えることが出来なく成っていた。その不憫な姿を見かねた佐吉は主の石川様にすべてを申し上げるしかないと進言した。女中頭は厳しい老藩士に事情を打ち明け、石川様にお目通りを願った。騎牟礼城の最上階で老藩士と石川政夫は一言も発せず、無言で腕組みを続けていた、石川の奥方が、
「あの娘を数回見かけたことがありましたが、あの顔立ちは只の幼子ではないと思うておりましたが?・・」
「そう言えば長年の謎に合点が行くような?・・しかし?・・」老藩士は一言呟くように言葉を放った。
「この城が出来たのは久安二年、平安時代じゃ、日本で最も古いと言われているが、我ら武士の誇りである源為朝公がお造りになられた事は武士なら誰でも知っちょる!当時は為朝公が九州全土を制覇された事もあったと云うが、・・あのお方が連れて来られた娘とはのう?・・無事であってくれれば良いが?・・甚助は果たして無事で帰って来るか?・・」
石川政夫は目を閉じて黙とうしていた。女中頭は本丸を下りる時、がっくりと肩を落としていたが、そこで待っていた佐吉が、
「姉さん!俺もるい様を助けに行かしてもらう訳にはいけんじゃろうか?」
「佐吉どんは未だ、藩士じゃ無いけに、お聞き届けは無理じゃろうて、助けに行くんは、老藩士様たちがお考えになるじゃろう?」
「敵に忍び込むんは、俺に勝る者はおらんじゃろうて、何とか、るい様を助けにゃならん、」
「その思いはお前なんかより、私の方がうんと強いんじゃ、赤子の時、私が乳を差し上げたんじゃぞ,」
「思いが強うても助けに行かなんだら、何にもならんじゃろうが?」
「バカたれ!私が男じゃったら矢でも鉄砲でも持って行くけに、・・心配じゃ、るい様は無事じゃろうか?ミヨも?・・それに甚助兄は藩士になって、学問もやっちょるけど、るい様を助けなんだら、不覚を恥じて腹切るんじゃないじゃろうか?」太った女中頭は胸のつかえを更に撫で上げていた。
「俺!主様にお願いして来る、」佐吉は下郎の分際で本丸を駆け上がって行った。・・・
甚助は豊後竹田の東の尾根に立っていた。敵は臼杵城の稲葉藩だと云う事は判っていた。五年前、竹田の森で待ち伏せして追い払った間者は稲葉藩の兵士だったのだ。岡城の中川藩とは以前から因縁の間柄で、大野川の川船を利用した米の荷上げが、両藩の紛争の口火を切った。中川藩と稲葉藩とは激しい応酬が繰り返されていたが、岡城が相手に仕掛ける時は、支城の騎牟礼城の石川政夫の出番となっていた。
がしかし、今回は相手がこちらの要員を拉致したのだ。ミヨとるい姫にこちらの内情を聞き取るつもりだ。喋らねば自害するか?首を刎ねられる恐れがある。
「急がねば!」甚助は足早に進みながら、戦う前の戦術とそれを組み立てる算術を図った。
「ここから臼杵城まで約十二里と少し、大人の足で十三時、るい様は担がれている、二時遅れで多分追いつけまい、着くのが夜半になる。追手を防ぐ為に警備が厳しくなるじゃろう?ここは一度引き返して城に戻り、石川様に作戦を頂いた方が?・・いやいや?事は一時を争う!手遅れになるやもしれん?」甚助は迷いながら足早に進んだ。峰を下り、豊後街道に出た、夜目に慣れた足取りで小走りに走った。月夜で星が瞬いている。走るのを速めた!
「ひょっとしたら、追いつくかもしれん?」山野を駆け回った野生の足は未だ衰えてはいない、肩に下げた鉄砲の銃身が月明かりに反射して光を放っている。峰を下りる時、散弾から一発玉に装填を替えた。大型の獣用で鎧でも貫き通す。
「こいつは俺の頼もしい味方だ!俺の言う通りに動く!自由自在に何発でも撃てるんじゃ、」敵陣に独りで挑む己を鼓舞しながら、・・・
街道を二時ほど進んだ時、後ろからヒタヒタと足音がする?甚助より早い足音だ。甚助は聞き耳を立てながら走った。確かに足音が確実に近づいている。とっさに立ち止まり、後方に銃身を構えた。月明かりに若い男が軽やかに走り寄って来るの見た。藩士の姿ではない、
「兄貴!甚助兄、俺じゃ、佐吉じゃ、」甚助は聞き覚えのある声に、おもむろに銃身を下げた。
「佐吉か?何で来た?どうしてだ?」若者は歩き始めた。月明かりに照らされた精悍な佐吉がひょうたんの水筒の水を飲んで一度息を吐いた。そして、
「一時前から追いついていたんじゃ、甚助兄かどうか?鉄砲を確認したんじゃ、」
「お前!城を抜け出して来たとか?」
「いや!石川様から短銃を預かった。甚助兄の援護をしろと、」佐吉は甚助が見た事もない回転式の短銃を紐で首に掛けているのを手にとって見せた。・・・
二人は足早に夜道を急いだ。丁度六里ほど来た時、闇の中に野武士らしき一団が街道添いにうごめいているのが見えて来た。検問でもないようだ、五~六人の男たちが火を焚いて円陣を組み、何かを話し合っている其々の顔が焚火に照り返されてその表情が浮かび上がっているが、盗賊や山賊の類ではないようだ。甚助は屈託ない言葉を掛けた。
「貴公たちは元松尾城藩士の末裔の方々かと見受けたが、この地にも騒乱の兆しが起こってるのか?伺って見るが?・・」全員が甚助の方に振り向いた。
「お主はどちらの配下から?」
「竹田の騎牟礼城の者じゃが甚助と申す。連れは物見の番の佐吉と申す。」こういう場合は武士らしく身元をはっきり言うのが筋道だと甚助は知っていた。この地の豊後大野は菅尾磨崖仏や原尻の滝などの歴史が深く、一六〇〇年の関ケ原の闘い前後に島津藩侵攻の為、山城は陥落し、その後岡城の中川藩が島津藩を追い返した史実があって、中川藩の分家の墓地もある事を甚助は知っていたのだ。それ以来この地は各藩からの様々な攻防があり、今をもって城無しの状態は続き、バラバラになった末裔の豪族がこの地を守る為に街道の見回りしているという、これも上役である白髪の老藩士の教えによるものであった。
今はこの地には各藩の力は及ばず、逆にこの地の豪族も身寄りのある藩を探しているのかも知れなかった。甚助は聞いてみた。
「一ッ時前に女子と幼子連れの藩士たちをご存知あるまいか?」
「通ったぞ!因幡藩だと言うちょったぞ、幼子を藩士が背負ってのう、藩士の背中で寝むっちょった。母親らしいのが付き添ってな、」
「さらわれたんじゃ、因幡藩に、」
「ほう?・・さらわれた様には見えんじゃったけどな?」野武士たちは笑っていた。甚助と佐吉は礼を言って立ち去ろうとした時、一人の野武士が濁酒を注いでくれた。
「騎牟礼城にはその昔、恩がある,役に立つことがあれば我らも、・・」そして街道の近道を相手から聞いた。
「かたじけない、恩に着る、」二人はその場を去り、更に足早に急いだ。
三ッ時ほど小走り、街道の近道を抜けたところで、幼女を背負った藩士とミヨらしき女が月明かりの下に見えた。甚助たちは街道から雑木林に入り、先回りしようとした時、佐吉が足を止めた。
「甚助兄!雑兵がいる、数が多い、」
「敵だな?・・」二人は更に街道から離れた雑木林に進んだ。ここで逃がしたら、あとが無い、臼杵城に入られたら打つ手が無くなる。雑木林をいきなり抜け、横に走ってるい様を担いで逆の雑木林に走りこむ、その時はミヨは死ぬ?・・佐吉の案は止められた。敵も追手が来るのを警戒している。銃の数はこちらが二丁、敵は数十丁だ、こちらの誰かが死ぬ?・・とすれば城に入る直前、敵が油断した時がチャンスかもしれない?甚助は算術を巡らした。更に三ッ時、街道には敵の雑兵が続いている。夜が白みかけた頃、城門に辿り着いたが、救い出す機会は訪れなかった。敵の守りは鉄壁で鉄砲の数で勝負が決まった。・・・
甚助は次の算術に移った。大野の豪族は島津藩に攻められ、岡城に寄り添われ、血筋を永らえて来た事で、あるいは等距離にある臼杵城にも過去 通じた事があるかもしれないと?・・
佐吉は単独で城に忍び込む算段を持ちかけたが、失敗は許されない事から、二人はその足で大野に戻って、見回りをしていた野武士を探した。二人は元あったと云う松尾城の城跡を訪ねてみた。街道から林の細道を歩いて行くと一枚岩に掘られた数体の磨崖仏があり、更に進むと谷川に出た、水音が聞こえる、前方に目を落とすと二人は息を飲んだ。
「これが原尻の滝か?・・」半円形の絶壁が取り囲み、幾筋もの滝が飛沫を上げながら、流れ落ちている、二人は暫しその様に見入った。広い湖のような滝つぼの畔に腰を下ろすと大滝の世界があり、世の一切の物が水の轟にかき消される。突然、睡魔が襲って来た。
大岩に背をもたれ腕を組みながら二人は眠った。一昼夜山野を歩き通し、佐吉においては物見の番をした事から二昼夜眠っていない。二時も眠っただろうか?甚助は頭の真上に日差しがあり、息苦しさを感じた時、ざわめきがあった。開いた目の前に五~六人の野武士が覗き込んで何事か言葉を交わしている。
「騎牟礼城の方々、お目覚めかな?」甚助はとっさに脇差に手を掛けたが、敵ではない事で手を下した。横を向くと佐吉が何やら頭を掻きながら野武士と言葉を交わしている。・・
二人は大野の野武士の案内で岡城の中川藩の先祖の墓を参拝した。そして壊れかけた橋を渡り、小さな山間の松尾城の城跡に案内されたが、まさに隠れ里だ、大野武士の一つの象徴としての櫓が組んであり、焼き芋と薬草茶でもてなしを受けた。
甚助は己の不注意から、城の姫と女子衆を稲葉藩にさらわれて、取り返しに行ったが、上手く行かなかったことの顛末を話し、大野衆に力を貸してほしい事を依頼し、見返りに大野の地に対し、岡城からの守護を約束する条件を出してみた。拒否反応は無かった。甚助は考えていた作戦を実行に移そうと問うてみようと思ったが、相手から。
「わしたちは松尾城の主の直系ではないじゃけに、よう分からんが、百年ほど前に薩摩藩が侵攻して来た時、同じ豊後の武士として立ち向かってくれたことはあったと思うんじゃが?じゃから稲葉藩とも行き来はあったと思うんじゃ?大野は文字通り、山野ばかりで耕地が無い、石高が少なくて、割に合わないんじゃろう、付き合っても、」野武士は苦笑いをしながら言った。
「いやいや、どうして?中々、由緒ある虹潤橋や磨崖仏、壮大な原尻の滝、それに城跡も二つ三つあるんじゃろう?・・と云う事は其れだけのものが備わっていると云うことじゃけに、この地は、」
「騎牟礼城のお方は中々、褒め言葉が上手じゃ!・・よろしい、手助けをしよう。騎牟礼城の姫を救い出すことに、」
その日の夕、甚助たちは酒を酌み交わし、腹ごしらえを受けた。櫓での宴には人が集まって来た。その中には年老いた近隣の長や野武士の嫁たち、若い妹や娘まで出揃った。甚助は岡城と騎牟礼城について友好が途切れていなかった事を思った。娘たちが若くて男ぶりが良い佐吉に飲めない酒を注ごうとしている。
「若けぇ女子の酒が飲めんとは鎮西八郎城(騎牟礼城)の藩士の名が廃るぞ!」と言われて佐吉は注がれるままに数杯飲んで真っ赤になった。その中に野武士の妹でタエと云う娘がいた。タエは佐吉より二つ年下で、戦いに加わった事があるのか?女伊達らに野武士の恰好をしていたが、不思議と酔った佐吉に寄り添っていた。・・・
佐吉には兄がいるのだが、猟師であった父親が酒のため不祥事を起こした末、其れを挽回するために結局、あの世に行ったのだ。
冬の九重連山、父親は二人の狩猟仲間と狩りに向かい、雉数匹と猪一頭を仕留めた。そして連山の麓の山小屋で夜を明かした時、父親だけが雉を焼いた折に、酒を飲んだのだ。他の二人は熊が出る地域では飲まないようにとの、取り決めを守ったのだが、父親は酒に強い事もあって腕にも自信があった。熊は腹を空かした時は酒の臭いに寄って来るとも言われている。案の定、真夜中に入り口の扉を破って熊が現れたのだ!鉄砲の音が二度したが、暗闇で命中はしなかった。去った後には一人の仲間が背中を爪でえぐられ、狩った獲物はすべて消えていた。復習を誓った父親は仲間が止めるのも聞かず、その足で熊の足跡を追った。仲間が下山する時、二発の銃声が雪山に轟き、父親は大木の根を赤く染めて絶命していた。右頬と首の頸動脈を鋭くえぐられていた。大木の上九尺(二、七メートル)の高さに熊の縄張りを誇示する三つの爪痕が残され、林の中に点々と熊の血痕らしきものが続いていた。
佐吉の兄は鉄砲を止め、山の幸を敵地で栽培するようになった。それに因って佐吉の家は家計が安定し、無理な挑戦はしなくなったのだが、父親の鉄砲を引き継いだ佐吉だけは大物狙いに何度か挑戦したが、遂には父親を倒した熊には出会うことは無かった。そして父親から絶対に引き継がなかったものが狩りの時以外でも酒はなるだけ飲まない事だった。・・・
酒盛りの場で、野武士たちから冷やかされた佐吉は、酔いの為、真っ赤になって頭が回転して、ぐったりしていた。それでも、
「皆の衆、俺は酒には弱いんちょじゃけど、闘う事じゃ、誰にも負けんぞ、姫は絶対、俺が救うちゃる、・・」横で初めて会った男勝りのタエが、甲斐がいしく介抱していた。
翌朝、甚助たちと大野の野武士たち十四人は臼杵城に向かった。野武士たちの中には野武士姿のタエもおり、甚助たちは大野の土着姿に変えていた。街道添いを警備する稲葉藩の兵士には堂々と助っ人らしく振る舞い、また相手の顔見知りがいた事が好都合でもあった。昼過ぎに臼杵城に到着したが、断崖絶壁の一枚岩の上に建ち、造りは二階ほどだが、高い岩から斜めに城壁が伸びて、正面の張り出し櫓は鉄壁の要塞と化している。甚助たちは外部から侵入するのは尋常ではない事を悟った。この中にミヨとるい様がいるのだ。
城内には八名全員が入れそうもなかったが、タエと代表の兄と佐吉の三人で入城し、
「我ら、大野武士は過去のしがらみを清算し、幕末の騒乱の中、貴藩共々手を握り、恭順し延いては大野の地の庇護もお願い申し候ろう」の親書を家老に手渡す計画だ。顔を知られていない佐吉を含めて、三人は斜めに下りている城壁の通路を登って行った。城門の張り出し櫓の前には四~五人の稲葉藩士が待ち構えていた。
「大野武士の代表は二人の美少年を従えての登城か?・・粋な御仁じゃのう?」稲葉藩に顔が割れている代表は、
「不信感を持たれぬよう、実の弟と妹を同行致した。」・・城門の中に入ると本丸の横に番屋があり、家老らしき人物が親書を受け取り、三人を見定めながら読んでいたが、
「貴公たちの親書は確かに受け取った。我藩も大野陣営が恭順してくれれば有りがたいことじゃが、困窮の折、大した援助はできぬが、敵が来れば共に戦こうてくるれば、其れなりの見返りはある事になるが、・・これは大野全域の者が恭順すると云う意味なのか?」タエの兄は大ぼらはつけないと思った。大ぼらを吹きすぎると正体が分かってしまう。
「全域を把握しとる訳では有りませぬ、二~三割と云うところでしょうか?大野には昔、三つの藩がありまして、我 松尾城の配下だけでございます。後の共に消滅した二つの藩は其々が野放しになっておりまして、幕府の庇護もありませぬし、まとめる財力も当然のことながら、厳しい現状があります。ただ大野武士としての心意気だけは忘れぬよう心掛けております。」まさに大野の現状だ、家老らしき男は頷いたように見えた。
「それでは大野の御仁には、城壁の前と街道を守って頂こうか?」
タエと兄と佐吉が臼杵城の門前に位置し、甚助と他の野武士が街道の一角の見張り役となった。
佐吉は寅の刻(午前三時頃)城内への侵入を試みた。かがり火の為二度失敗し、豪雨の時侵入に成功した。城の中は静かだ、さらわれ人が捕らわれているキナ臭さは無い、佐吉は回廊を登って行った。天守の下の階の部屋の一つに薄明かりが灯っている。女子衆の香の臭いが漂ってくる。佐吉は首に掛けた紐の短銃を懐から取り出し、薄明かりの影に近づこうとしたその時、背後から
「くせ者!」の鋭い声と共に数人の間者らしき黒装束の藩士に取り囲まれた。佐吉は短銃を相手に向けながらその部屋に入り込んだ。薄明かりの中に眠る幼女をあやすミヨの姿が浮き上がった。佐吉は両膝をついて、
「るい様ご無事で、ミヨさんも、」背後には三人の藩士が立っていた。
「佐吉さん!来てくれたんですか?・・有りがたい事に、ここのお殿様は私共を大事にして頂いちょるんですよ、」幼女はすやすやと眠りについている。佐吉は呆然と振り返った。三人の藩士は落ち着き払っていた。
「騎牟礼城の者よ、来るのは判っていた。・・お主が城内に忍び込もうとしていた事も分かっていたんじゃ、我ら武士の誇りである鎮西八郎公の黄泉の国から連れて来られた娘子であれば如何んともしようがない。連れて帰られよ、殿の仰せでもある。」・・・・
朝、日が昇った頃、門の扉が開き、三人の姿が城外に現れた、城の回廊の出口に主 稲葉公の姿があった。稲葉藩にとって、るいの存在は今のところ使い道がないと云うか、無理に拘束すると、対外的に評判を落とすことになる。との計らいだった。ミヨと佐吉は深々と頭を垂れたが、るいは振り返り幼い手を振った。
大野武士は親書の約束通リ、臼杵城の門前と街道の警備を果たそうとしていたが、代表の妹タエは幼いるい姫から離れようとしなかった。十二名を警備に当たらせ、タエの兄(代表)は甚助、ミヨたちに同行することになった。途中一行は大野の松尾城跡で休息を取り、タエと兄と甚助との三者会談の中で一六歳のタエの騎牟礼城に上ることの処遇が話し合われた。
他の城の藩士となるには家族との縁を切る覚悟も必要だとのことも含めて、タエは
「私はるい様というこのお方に一生ついて行きたい。・・」と言った。
タエを含む五名と大野の代表の兄は豊後街道を一路、騎牟礼城に向けて出発した。大野の代表は幕末の生き残りをかけ、騎牟礼の主、石川政夫に面会し、一つの縁を繋ぎたかったのだ。・・・
タエは佐吉と気が合う間柄になっていたが、佐吉は己の手柄が水泡に帰した事でがっくりと肩を落としていた。甚助が
「佐吉!今からだ、・・姫様をお守りして行くのは、・・姫様はわし達が思いも及ばねえ威光と力を持たれたんじゃ、・・それ故に敵もその威光を狙ってくる。・・この度、稲葉様は
お戻し頂けたんじゃが、運がよかったんじゃ、・・それに姫様の噂はすぐに豊後全域に広まるじゃろう?・・いやいや、それ所じゃないぞ、薩摩藩やら肥後藩、九州全土じゃ、いや幕府にも行くぞ!これは、」・・・
るいは相変わらず愛くるしい瞳を輝かしてミヨの手を離れてトンボやら沿道の草の上を刎ねるバッタのような昆虫に目を向けている。人間社会に興味が無いかのように、・・・
豊後街道をさかのぼり大野川を渡り、暫く進んだところに原尻の滝より一回り小さい沈堕の滝が見える木陰で休息を取ることになった。一行は銃刀を下し、黄な粉餅の団子を食いながら、竹筒の水を飲んでいた。るいが川の水辺に降りて行って何かに注目している。両側に寄り添っているミヨとタエが川魚の名を教えている。一行が出発の合図をしても動こうとしないるいを佐吉が手を引こうとすると、その手を払いのけ、尚も魚と戯れたいと駄々をこねるのを誰も手を出せないのを眺めていた甚助と大野の代表の元に、別の大野武士が息を切らして駆けつけて来た。
「大変じゃ!東の方から三十騎ほどの武士の一団がこの街道に向けて進んじょるのを目撃したんじゃ!」
「どのような風体じゃったか?」
「何やら?貝殻の模様をつけた鎧じゃったようじゃ、」
貝殻は勿論、海岸近くの藩だとすると佐伯城の毛利藩の配下ではないか?と同時に安心出来る藩ではないと甚助は思った。とっさに川べりに駆け下り、呆気に取られているミヨたちを尻目に、
「姫様御免!」暴れるるいを小脇に抱え、駆け上がって来るやいなや、
「皆の衆、出発じゃ!」るいの小さな拳が何度も甚助の髷の鬢を崩し、気に食わなかった跡を残していた。西の空が赤く色ずき、間もなく日が落ちる。るいを佐吉が背負い、一行は先を急いだ。更に街道を上り、沈堕の滝に注ぐ緒方川を横切った所で、前方に武士の一団が
見え隠れする。街道を真っすぐ整然と下って来る。かなりの数だ、此方の藩士は三名と女二人、甚助はとっさに、
「佐吉!姫を林の中に、」佐吉とタエはるいと共に素早く林の中に消えた。薄暗い山道で、相手には気づかれないと思われた。街道の曲がり角で双方の一団がぶつかり、先方の藩士が名乗った。
「我々は東の佐伯城の毛利藩の者じゃが、騎牟礼城の藩士の方々とお見受け申すが?」
「如何にも、わしは騎牟礼城の甚助と申すが、連れは嫁のミヨと言う、もう一人は大野の武士で、我藩に向かうところじゃが?・・」
「如何にも、わしは元松尾城藩士の末裔で、名も無い野武士じゃが、騎牟礼城の石川様に
お目通りを願いに行くところじゃが?」
「これはこれは、・・実は貴殿の城に、かの鎮西八郎為朝公の縁者の娘子が滞在しておると聞き及び、我殿、毛利公が是非とも佐伯城にお招きしたいとの事で、ここまで無理を承知で進軍して参った、」と、先頭の藩士の言葉は丁寧だが、配下の兵士の目は血走っていて、一触即発の準備は整っている様子だった。各兵士の鎧の端々には貝殻の飾りがぶら下がってる。
「我々も城の幼子がそのような縁者だと噂が立って驚いちょる所じゃが、実は臼杵城の稲葉公も是非お招きしたいと所望されてな!・・本物の鎮西八郎公の縁者だとは思わないんじゃけど?稲葉公の強い御意向でお預け致して来たところじゃ!」、
「騎牟礼城の方!これは異な事を?・・貴殿たちが臼杵城からその姫を連れて出てくるところを見たものがおるんじゃ、」
「いやいや、一度、城を出たんじゃが、後にもう暫く滞在願いたいと再度、所望されてな!
そのような縁者ではない事が分かるまで、又預けて来てしもうた。」甚助は如何にも迷惑そうな表情の演技をした。しかし先頭の藩士は何か?余裕が有りそうな表情で
「相分かった!」と後ろの全軍に向き直り、
「今より、我城に戻る、」と言うや、街道から西の方角に向けて進軍して行った。・・・
その一団を見送った甚助は、
「しまった!又やられた。俺は今度こそは腹を切らねばならんかもしれん?」ミヨは唖然と甚助を見上げたが、大野の野武士も気づいていた。
「わしの同僚が伝えに来た時は確か三十名くらいだと言っちょったが、今引き上げて行ったのは二十名位じゃったな?・・後の十名は?・・先回りしたんじゃな?」
「佐吉は捕まったか?・・」甚助たちは林の中に駆け込んで言った。半里ほど進んだ所に野草を踏み荒らした跡があり、街道に近い大木に佐吉がぐるぐる巻きに縛り付けられていて、口には舌を噛み切らないよう枝木が詰め込まれ縄で留められていた。武士の情けだ、
佐吉は悔し涙を流していた。野武士は呟いた。
「タエがついて行ったな、」・・・
「又、ドジを踏んでしまった!俺は、・・もう、石川様に合わせる顔は無いっちゃ!」甚助はがっくりと肩を落としていた。ミヨは悲しそうに見上げながら、
「多勢に無勢ですよ、貴男一人が腹切らなくても?甚助さんは私の旦那様ですから、」・・
詰め込まれた枝木を吐き出しながら佐吉は、
「甚助兄!腹切るっち、そげなこつ言わんでくれ!甚助兄が腹切ったら、俺はどうしたらいいんじゃ?・・こげな大木に縛られて、口に木詰められて、ぶざまじゃ、おいしく死にたいのは俺じゃ、」
「るい様はどうするんですか?貴男がいなかったら?石川様もお困りですよ!」ミヨは歯を食いしばって夫との別れを拒否しようとしていた。
胡坐をかき、肩を落としている甚助に大野の野武士が挑んだ。
「甚助どん!こうなりゃ、一族郎党じゃ!わしもこのままじゃ石川様にお目通りする訳にゃいかん!野郎たちを集めち来るけに待っちょってくれ、」野武士はいにしえの松尾城の甦った藩士のように肩を震わせて足早に大野に戻って行った。・・・
「ミヨ!里帰りは又、先に延びたな、」甚助は呟いた。・・・
夜明け前、総勢十人の男たちが豊後佐伯街道を東に向かって歩いていた。傍から見ると女を交えた山賊か盗賊の類にも見えた。途中、幾度となく険しい山道に侵入したが、全員が脱落するものはおらず、タエの兄は甚助より半回り年上で、別の男たちは年を取った者や猿のように身軽い若者が混じっていた。遠慮会釈がほゞ無い、野生の臭いがする男たちだ。五十に近い男が二人もいて、甚助より二回りも年上らしき髭面の大男は寡黙で殆んど喋らない。老獪さが漂い落ち着いた静かな男もいた。片目の黒い眼帯の男、いつも空間を見つめている大男、野武士たちの足は速く、ミヨは必死について行く。所々に石仏が現れ、街道の見晴らしが良い部分は避け、再度、山道に入った。昼過ぎに谷川添いの風連鍾乳洞で休息を取った。全員がひょうたんと竹筒の水筒を持っていて、水を汲み直し、大野の男たちが持ってきた山菜の炊き込み飯の燻製で腹ごしらえをした後、一人の老獪でもの静かな五十男が話を始めた。
「わしたちが住んじょる大野の地はのう、野の丘陵地が広くてなあ、土が肥えておって、昔は畑が広がっちょって作物がいっぱい取れたんじゃ!じゃから佐伯の毛利藩も大野を治めようとちょくちょく侵攻しよったんじゃが、西に岡城の中川藩、北東に臼杵城の稲葉藩の目が光っちょって、中々思うようにならんじゃった。あの地は海岸じゃけに山野の肥えた土地の作物が欲しんじゃろ?・・今は幕府の力が落ちてしもうて、各藩もお互いにつばぜり合いをしちょるだけじゃが、昔は潰したり、奪われたりで豊後も戦国じゃった様じゃ。わしの親父は縁があって朝廷の国司様に仕えとってな、わしは子供の頃、親父の話を聞いて思ったんじゃ!大野の松尾城は大野の人間が造ったんじゃないと、」それに対して若い野武士が言葉尻を挟んだ。
「わしは親父から聞いちょるぞ、わしらは大野の松尾城の藩士の末裔じゃから、その気位を忘れるな!俺もそうして生きて来たんじゃと、」
「藩士の末裔としての心意気を持つことはいいんじゃが、松尾城と云うのは今から二百六十年ほど前、関ケ原の闘いの少し前じゃ、その頃、薩摩の島津軍が大野に侵攻して来た時に、朽ち果てとった櫓跡に陣地として造り上げた山城なんじゃ。そして豊後をほゞ制圧したんじゃが豊臣秀吉軍に攻められ、薩摩に戻ってしまった。その時、城はすべて焼き払われてしもうたんじゃ、城が消失した後も薩摩軍の一部の者が大野に隠れ残っておって、松尾城の藩士の子孫として、その心意気を守って来たとも考えられるのじゃ?」国司に関係するオヤジは豊後の歴史に精通していた。
「オヤジさんが言う事は大体分かった。と云う事は、俺たちは薩摩の血筋があるのか?こりゃ!皆の衆に教えちやったらたまがるぞ、」
「じゃから、昔の事はそれでええんじゃ、騎牟礼城の姫様を無事救い出して、石川様にお目通りをしたら、ひよっとして岡城の支城として、考えて頂けるかも知れんぞ?そうなりゃお前たちも堂々と藩士を名乗れるぞ?」
「そうじゃ、甚助どんたちを助けて、姫様を救う事じゃ!それからじゃ!」大野の野武士たちは肩を震わせた。昼の休息が終わり一行は鍾乳洞からのわき道を出て街道を歩き始めたが、暫くして他の大野の若者が五十男に昔の事を聞き始めた、
「オヤジさん、大野には他にもいっぺえ城跡のようなものがあるっちゃ?おいらが知っちょるだけでも鶴ヶ城跡、高尾城跡とか他にもかなりあるぞ、うちの婆様に聞いても、知らねぇち言うだけじゃ、・・あれは何なんじゃ?」甚助にミヨが竹筒の水筒を渡した。
「わしも、親父が足腰立たなくなってから、国司様への使いとしてたまに行くだけじゃから、詳しくは分からんのじゃけど、国司様の話では、大野には松尾城跡の他にも沢山の城跡があると言われちょる。幾つかは他の藩の侵攻の為の陣地となったんじゃが、大半の跡地は更に大昔、お前たちに解るかのう?・・
今から一二〇〇年くらい前じゃ?飛鳥時代、聖徳太子の頃じゃ?・・」
「ええっ!一二〇〇年前?聖徳太子の頃?・・源氏、平家の前か?」
「そうじゃ!源氏、平家より五〇〇年くらい前じゃ、・・その頃、朝鮮半島に新羅とか百済という国があってな、この九州の北側が倭国という名前で、その三つの国はお互いに協力したり敵対したりしとったんじゃ?」甚助とミヨと佐吉は目を皿のようにしている。若者は、
「へぇ~!朝鮮が出てきて、訳がよう分からんごつなった。かぐや姫が月に戻った頃か?」
「バカたれ!かぐや姫はおとぎ話じゃ、ふざけおったら、話し止めちょ!」
「若造はだまっちょれ!・・オヤジさん、続き教えちくれ、」・・タエの兄が恫喝した。
「ある時だな、九州の倭国が協定を破って、朝鮮の新羅を攻めようと画策した時、情報を入手した新羅が倭国に宝玉や美女を送って和睦を図ったんじゃ、その時、新羅と百済の人間が大野の地を訪れ、櫓を幾つも造ったという話もある・・」皆、唐突な話で頷いたが、よく呑み込めないまま、無言で歩き始めた。一ッ時、連れ去られたるいの事が忘れられていた。・・
タエの兄が思い出したように言った。
「うちの婆様が持っちょるぞ?朝鮮の手鏡を、先祖伝来、家に伝わっとるんじゃ?柄に “百済 ”と書いちある。」
「ほんなら?兄貴んところは百済から送られち来た美女の末裔か?・・じゃから、妹のタエが器量がええ訳か?・・」
「うう?・・美女は兎も角として、刻印された手鏡がお前のうちにあるとは?・・先祖にその百済から来た女子がいたんじゃろうな?・・」・・・
五十男は豊後の各藩の状況に詳しく、歩きながら更に話を続けた。
「騎牟礼城のるい様は大変なお方ちいう事じゃが、毛利藩も殺したりはせんと思うちょる。何故かちゅうと、国司様の屋敷ではその話が持ちきりでなあ、今の時代、南蛮船が貿易だけじゃのうて、鎖国を止めて、国を開け!ち、言うとるらしか? 外国の船は鉄で出来取るそうじゃけに、日本の木造船は相手にならん、じゃから幕府も慌てちょる、力がのうなっちょるんじゃ、じゃから、豊後の各藩も覇権争いで、無益な戦いをして藩の力が消耗するのを避け取るんじゃ、その点、薩摩は違うぞ!島津藩は昔から島津藩じゃ!変わっちょらん、幕府の言いなりにはならんからじゃ、独自に南蛮と交易して武器や鉄砲を仕入れちょる、・・薩摩が今後、幕府を引っ張って行くじゃろうち、国司様も言われちょった。・・
他の藩はそうはいかん!足の引っ張り合いじゃ?相手の利点(玉)を握ると優位にたてる!戦いをせずに優位にたちたいのは何処の藩も同じじゃ!・・その利点(玉)がるい様なんじゃ!」甚助は先を見通した博学の五十男に目を見張った。己のにわか覚えの算術が歯も立たない、そして騎牟礼の白髪の藩士のいう、
「武士の魂にも劣る・・は二度も不始末を起こした己にも当てはまるのか?」甚助は本物の藩士としての自信を無くしかけていた。
「オヤジさん!確かにるい様は、かの鎮西八郎公の縁者だと云う噂がたってはいるが?実は俺はその事については今も半信半疑なんじゃ?」
「甚助どん!そこなんじゃ!姫様の本性がそうであろうと、無かろうと、武士の世で最強の武者だという為朝公の忘れ形見となっちょる今、そのものが強力な玉なんじゃよ!・・じゃから、毛利藩もさらったんじゃのうて、招待申し上げたち、言い方をするじゃろう。・・ただ、お返しするのであれば、何かの見返りを求めち来るじゃろうな?・・」甚助はこの大野の名も無い五十男が、騎牟礼城の軍師である白髪の老藩士と重なるのを感じた。そしてるい様を無事、救い出して城に戻る時、五十男とタエの兄共々、石川様にお目通りを願おうと思った。とその時、控えめで気丈なミヨの口から、甲高い鋭い声が放たれた。
「姫様の本性がそうで無かろうとなどと、・・私はこの目で確かに見たんです。五年前の夜、お城の渡り廊下から、大雨の稲妻の中に雲を衝くようなお武家様が、何かを抱いておられる姿を、・・そして私の頭の中にるい様の文字が、・・為朝様が私に伝えられたんだと思います。石川様のお部屋の絵図にあるお武家様そっくりの方が、・・」、ミヨは興奮で肩を震わせていた。・・甚助がそっと、肩を抱いた。五十男は立ち止まって、
「いやいや、ミヨ殿、これは失礼した、わしはただ、例えを言ったんじゃ、しかしその場に居合わせなかった者、ましてや、わし共、城外の者んにとっては半信半疑じゃち思うのは仕方が無いじゃき、・・為朝様が騎牟礼城をお造りになられたんは、六百五十年位前じゃ!豊後にも他に城は無かった頃じゃき、そのお方の縁者とは?もう、神がかりじゃ!国司様でもお分かりにはならんじゃろ、」・・今まで一言も言葉を発しなかった佐吉が、
「俺には分かるぞ、るい様はまだ幼いが、山野で獣たちと暮らした俺には分かるんじゃ、尋常な幼子では無いことが?大野の衆も会うたら分かるじゃけに?」
言葉を発しない髭もじゃの大男が静かに佐吉を眺めていた。
一行は黙々と東の方角の佐伯城を目指して歩いた。そしていつの間にか日暮れが近づいていた。
山間の街道から見下ろすと佐伯城の門前に赤々とかがり火が焚かれて城壁の勇壮な全貌を浮かび上がらせている。その背景には月夜に照らされた豊後水道の黒い大海原にキラキラとした無数の小さな海面ホタル(プランクトン)の光がうごめいている。甚助が昔は武闘派で鳴らしたという黒い眼帯の男に聞いた。
「オヤジ殿、どうじゃろか?」
「相手は此方が追って来ると分かっているじゃろう?じゃから、夜はまずい!闇夜に紛れて、忍び込むと攻撃に出たと思われて、斬り合いになって、逆効果になるかもしれん?」
「それでは、夜が明けてからじゃな?」甚助は勇んでいた。
「そうじゃ!正面から行くんじゃ、・・甚助どん!騎牟礼城に大野の者んを甚助どんの使者として行かしちょる」
「恩に着る!大野の野武士どんが、おらんじゃったら、俺は腹を掻っ切るだけじゃった。俺は二度も、るい様を奪われて、・・」
「若いの、落ち着くんじゃ、急いては事を仕損じる。・・」眼帯の男は武闘派の本領で甚助を諭した。・・・
十人は林の中に火を焚き、大野武士が持参した混ぜ飯の燻製と付近に生えているキノコを焼いて腹を満たした。甚助はミヨと添い寝をしながら、騎牟礼城に登城した頃の己の生き様を脳裏に描いていた。乱暴で粗野な山野の暴れん坊が騎牟礼の物見の役を仰せつかって、石川様に思いがけず気に入られ、るい様の守護役としてここまで来た事が何故か?信じられなかった。そしてここに来て二つの不手際を重ね、大野のオヤジどんの世の中を見通す眼力の前に、二十四年の少ない経験から培った己の力が、吹けば飛ぶような軽い小さなものに成り、今後、るい様と騎牟礼城の生末がどの様に進んでいくのか?その中での己の存在そのものに、漠然とした怖さと不安感が襲い始めた。不安と恐れというものには無縁だと思っていた心の中に恐怖が忍び寄って来たのだ。甚助は添い寝しているミヨの手を握り締めた。ミヨは甚助の心の動揺を察していた。そしてそっと呟いた。
「甚助さん!親父様や身内の皆さんに甚助さんの晴れ姿を見せたら喜んで貰えるじゃろうね?」甚助は握り返すミヨの指の力に心で頷いた。傍で佐吉が高いびきで眠っていた。
翌日、林の中に日が差し込み夜明けはとっくに過ぎて日はかなり登っていた。甚助たちは連日の強行軍で疲労が激しく、ミヨは頬が少し細くなっている。街道の降り口から斜めに見える佐伯城は一つの山頂に三階の天守閣を持ち聳え立っていた。斜面を使って造られた城壁は、海を見下ろす半円形で敵の侵入を完璧に遮断している。この難攻不落な城に忍び込むには正面からは無理で裏山の急な崖面を転がり落ちるのを覚悟で侵入するしかないと佐吉は思った。街道を降りた道添いには既に監視役の兵士が長槍を持って立ち並んでいる。甚助は先頭に進み出て、
「我々は竹田の騎牟礼城の配下じゃが、先日、我が城の姫が、此方の城に向かったと聞いて、迎えにまいった、」と大声で叫んだ。
兵士は慌てもせず、城内に向けて伝令を飛ばした。正面の三の丸櫓門が開き、乳母を含む三名の入城が許され、鉄砲は控えさせられた。甚助とミヨ、タエの兄、三名が入城したが佐吉は短銃をそっと甚助に渡した。
分厚い梁の櫓門を潜る時、石畳の橋となっていて、強固な造りが伺える。櫓門を潜ると番屋が有り、更に長い石畳の案内が続き、本丸の中庭まで通された。堅固で勇壮な造りを見せつけられ、中庭の中心を見た三人は唖然として息を飲んだ。何と!花の宴が催されていたのだ!そこには毛利公と奥方、数名の藩士、女衆の中に幼いるい姫がいて野武士姿のタエが傍に傅いている。呆然とたたずむ三人の前に毛利公自らが歩み寄って来た。三人はひざまずき、其々の名を言い、甚助が
「我が騎牟礼の姫のもてなしを頂き、かたじけのうございます、」その圧倒的なものに己の声が震えているのがわかった。
「騎牟礼の姫は良い家来衆をお持ちじゃ、幼いながら、かの高名な為朝公の縁者だけの事はあるのう、わしの事を怖れぬもせぬ、花の宴を喜んで頂けたかのう?」・・
その時、ゆで卵を頬張りながら、るいが歩み寄って来た。
「甚助!るいは、ここの花はきれいじゃけど?騎牟礼の蝶々も眺めて見たいな!」と幼い声で呟いた。
「るい様!」見上げたるいの目は寂しそうにも見えた。ミヨの目には涙が潤んでいた。
海原を眺めていた毛利公は、タエの兄を指して、
「当、佐伯藩にはこのような花と海の幸は豊富じゃが、大野のような肥沃な作物が少のうて困る、」・・甚助とタエの兄は五十男のオヤジの予想が的中した事に驚いた。そして弱小の山城の下部藩士を邸内の膝元まで招き入れる底知れぬ度量の大きさと老獪さの前に身動きが取れなかった。女中衆の花踊りが行われた後、家老と思われる藩士が
「我が藩と騎牟礼の互いの繁栄の為、熟慮されて本日はお引き取り願おうか?」
「タエ!姫様を頼むぞ、」兄は立ち上がり、三人は元の石畳を案内されて三の丸櫓門を出た。沿道の両側には長槍を持った数十人の兵士が整然と立ち並んでいる。
甚助はるい様を二度まで奪われた落ち度の重さと、己の無力感と圧倒的な人物を前にして、前に進む道筋が見えなくなっていた。しかも大野の領土は騎牟礼城のものでは無いのだ、待ち構えていた佐吉と六人の大野武士と共に、甚助たちは佐伯からの街道を上り、城が斜め後ろに見える道添いに来た時、甚助の呻く声がしたかと思うと、
「やむ無し」、草むらにどっかと胡坐をかき、胸の甲冑を外し、広げた腹に抜いた小刀を突き刺そうとした瞬間、佐吉とミヨが両腕にしがみついた!気配を察知していたタエの兄が腹に抱き着き、
「無念さはわかる、甚助どんはそれで楽になれるじゃろうが、我々大野の者は又路頭に迷うことになるんじゃ、石川様にも会えんごと成るっちゃ、死んでくれたら困るんじゃ、」
がんじがらめになった甚助は歯を食いしばって目を閉じていた。・・黒い眼帯の男が甚助の肩に手を置き、地獄から聞こえる低い声色で
「甚助どん!お主は歳はいくつじゃ?わし共の半分も行かぬ若造のくせして何が腹きりじゃ!お主がこれくらいで腹切るんじゃったら、わし達は何十回、腹切ったじゃろうか?それでもわし達は、路頭に迷いながらも、恥を晒して生き続けているんじゃ、手はある、手はあるぞ、我々大野武士が石川様と話し合えばいいんじゃ、お主の様な若造には荷が重すぎる!お主が腹切ったら、姫はそれこそ帰る手立てが無くなるっちゃ、おいしく」甚助は目をあけて、片目の深い窪んだ男を見据えた。
「何故じゃ?帰る手立てが無くなるとは?」
「お主も分かっとるじゃろうが、るい姫の守護役はお主だけじゃ、お主一人だけじゃ、お主が消えたら、姫は騎牟礼城の姫では無くなるぞ、るい姫が為朝公の縁者だと云うのは、今はすべてが半信半疑なんじゃ、それを証明する人間はお主とミヨ殿だけじゃ、お主が消えたらミヨ殿も生きてはおれないじゃろう?・・わかるか?若造、お主が死んだら、るい姫も消えるんじゃ、」
甚助は立ち上がった。そして甲冑を締め直し、小刀を鞘に収めた。
「わかった!よ~く、わかり申した、」頭を垂れた騎牟礼城の藩士の目が蘇っていた。・・・・・・
騎牟礼城は新たな局面に入っていた。大野の武士が伝令に走った事で、石川政夫は岡城の中川公に日参していた。大野には中川家の分家の墓地があり、遠からぬ土地ではあったが、今は管轄は届いてはいない、竹田は農地は広いが果物、柑橘類が多く、大野の水田、肥沃な野菜畑には劣っている。中川藩の歴代藩主にとって、大野の地を管轄することは二倍の石高に成り得ることは目に見えていた。幕府の権力が強い時期はそれを成し得ることが出来なかったが、幕府の力が弱まり、念願であるその時機到来がまさに迫っている。忽然と現れたるいと為朝公の威厳に対する奪い合いが、各藩の中で始まっている事の焦りと、迷いが混在していて、半信半疑の為朝公るいの扱いが石川政夫と岡城中川公の頭の中で混迷が続いていた。・・
その日の夕刻、騎牟礼城に甚助たちと、大野の野武士総勢十名が入城した。
石川政夫と白髪の老藩士の前で、七人の大野武士が名乗りを上げた時、何故か?髭もじゃの大男は名乗るのを止め、会釈をしただけだった。老藩士と大野の片目の武士との間で話が始まり、石川政夫と髭の大男との言葉の交わし合いも突然始まった。
「これはこれは、そちらの髭の大きいお方は鎮西屋の御主人、いつぞやは、刀鍛冶ではたいそうお世話に成り申した、」
「いやいや、あの時は数が多うございました故、鈍らも数本はあったかと?不出来な物が有りましたら、又焼き打ち直しますので、お申し出ください、」大男が初めて低く口を開いた。
「私も一通り見たが、鈍らは一本も無く、すべて見事な出来栄えじゃった。礼を申す!」
「此方の城とは先祖から縁を頂いておりまして、数人の弟子と共に一心不乱で刀を打ち直させて貰いました!・・」
やり取りの後、石川政夫と大野の野武士との今後の話し合いが持たれた。騎牟礼城にとっては有りがたい客でもあった。そして腹を満たす質素な宴が催された時、鎮西屋の大男の傍に女中頭が、何か話しかけていたが、その親密な間柄である事を悟った老藩士は、
「ひょっとしたら女中頭の女衆が六年前、一時、城を出て嫁いだのは、此の刀鍛冶の家だったのではないか?」とも勘ぐった。
話し合いは紆余曲折の末、岡城と相手側の佐伯城との交渉の中に大野の存在を如何に位置付けるかの、ある秘策が組まれた。・・・
翌日、タエの兄と国司に父親が仕えていたというオヤジと若い大野武士の合計三人が残り、あとの野武士は騎牟礼城を後にした。その日から城の中では軍師である白髪の藩士を中心に話し合いが続けられた。
「肥沃な大野の土地の支配が欲しいのは何れの藩も同じじゃち思われますが、佐伯藩が欲しいのであれば、この際、当藩と二等分が最善ではないかと思われますが?・・今は幕政の力が落ち、外(外国)からの圧力が迫っており、豊後の藩同士の無益な争いは禁物であります。そこで大野を二つに分ける事について、それがすんなり可能であるか?大野の方々に伺いたい?」
「我々郎党は此方に付きとうごございますが、他の郎党ははっきり言うて分かりませぬ?」
とタエの兄が言った。石川政夫が
「それならば帰られた御仁はどうじゃろかのう?」
「鎮西屋は此処の城と縁が深いと言うとりましたけに?・・もう一人の片目の野武士はわしが良う知っとりますけに、大丈夫かと?」老藩士が見定めるように言った。
「いや、それは判りませぬぞ?」大野の国司に通じるオヤジが横から口を挟んだ。
「何故ならば?鎮西屋どのはこちら騎牟礼に刀を納めるだけではございませぬぞ、お申しつけがあれば、どちらの城にも納めるのが刀鍛冶でございます。私も一度、頼まれて杵築城と府内城に鎮西屋を紹介した事がございます。私が知る範囲内ではそれはもう、・・・商売でございますゆえ?・・それに独眼竜の御仁も昔はあちらこちらの城に武闘派として立ち寄られた事があると存ずるが?・・」
「大野にはあれほど、肥沃な土地があるのに何故?現存する城が無いんじゃろうか?とわしも思うちょったが、ず~っと昔の因縁があるようじゃと、中川公が言われておったが?・・」石川政夫が呟いた。
下座にいた大野の若者が、
「国司のオヤジ殿が言っちょった朝鮮の国の新羅が来たっていう話じゃなかとな?九州に倭国と言うのがあって?・・」、そこでタエの兄が、
「わしの家には確かに新羅とか百済と刻印された手鏡があるんでございます。新羅が貢物として送った美女が持っておったという?・・」
「う~ん!三国時代じゃのう?一〇〇〇年も前じゃ、」石川政夫は腕を組み呟いた。
「石川様!やはり大野の地は他の民族が入っておったのかも知れませぬな?倭国の攻撃を抑えるために宝玉や美女も一人二人じゃありますまい?かなりの数?・・そしてその後、新羅と百済の連合軍が攻めて来た時、大野の地に沢山の兵士が居残ったとも言われちょります。肥沃な土地ゆえ住みやすかったのではないかと?・・」国司に通ずるオヤジは知る限りの博学を示した。
「ところで、大野のオヤジ殿、かの鎮西屋と云う刀鍛冶はいつ位から大野の地にあるんじゃろうか?」石川政夫は博学の大野のオヤジに丁重に聞いた。
「石川様!それは私には到底 解りませぬが、祖父の時代以前からじゃと思いますが?」
「鎮西八郎公の名を捩(もじ)ったものかのう?」
「それは、鎮西屋に聞いて貰うた方がよろしいかと?」頷きながら石川政夫はいにしえの遠い過去に、今にも埋没しそうになっていて、無言の白髪の軍師は目を閉じていた。・・・
三日後に出来上がった秘策は大野の畑の部分を岡城が管理し、水田を佐伯藩に委ねることで石高が岡城の三分の一にも満たない佐伯藩との交渉が成就するのでは?と、・・その代わり岡藩、佐伯藩は其々、大野の地を守護するべき名文書を作り、甚助と大野武士が佐伯城に届けることになった。三日後、佐伯城の家老藩士と対面した甚助たちは名文書と引き換えにるい様を取り戻すことを申し出たが、佐伯藩の石高が上がった後に、姫をお返しするという返事で、事は易々とは運ばなかった。一年後、大野の水田は佐伯藩管轄となり守護も行われたが、姫は帰っては来なかった。るいは七才となり、大野のタエは一八才の女若武者として、るい姫を支えていた。・・・
一年前、佐伯城で、大雨が降る夜、城の天守閣の端の部屋にいたるいの姿が見えなくなって、同じ階にいた毛利公の奥方から呼ばれたタエは城中を探し回ったが、見つけ出すことが出来ないでいた。タエと数名の藩士は天守閣から転げ落ちた?るい姫を降りしきる闇の中、城内の木陰、植え込みを血眼になって探し回った。 タエは転げ落ちた死体を探し出した時は、己の命を絶とうと思っていた。顔と顎には無数のひっかき傷と手と爪には血が滲んで雨に溶けていた。最初にるいの姿を捕らえたのは毛利公だった。天守閣の屋根に通ずる引戸から出た屋根瓦の隅棟に立ち、空に向かって叫んでいる姿があった。六歳の全身ずぶ濡れの幼子が稲妻の渦を指さし、
「兜のお祖父ちゃん!るいはいつまでここにいるの?」
「・・・・・・・・」、
「この城のおじちゃんもおばちゃんも優しいけど、るいは騎牟礼に帰りたい!」
「・・・」
「るいは今度はね、遠くに見える海に泳いでるお魚さんを見たい、」
「・・・・」
「じゃ!またね、」
異様な幼子の姿、稲妻の閃光に浮き上がる愛くるしい瞳、・・勇猛で鳴らした毛利公は一歩後ずさりした。そして、
「噂に聞いた、騎牟礼の幼子はまさしく?・・あの閃光の中には強弓を引く鎮西八郎為朝公が仁王立ちしているのだ?」と感嘆の声を上げた。
暫くして、るいは一人で屋根瓦を伝い、引戸から天守閣の回廊に戻って来た。主は奥方を呼び、大きな手拭いを何枚も重ねて、濡れたるいの身体を拭き上げた。その光景を見た女中衆の目には孫娘を愛しむ老夫婦の姿が映った。
次の日は打って変わった空模様の中、るいはタエと数名の藩士に連れられて、城下の漁師わらを歩いていた。そしてそれは晴れた日には毎日のように続いた。ある時、
「るいはお船に乗って見たい!」と言い、藩士は止めたが、るいの気性を知っているタエに促されて藩士と共に漁師の操る小舟に乗り込んだ。六歳の幼女の興味は留まるところを知らず、
「るいはお魚さんと一緒に泳いでみたい!」とも言い、タエと藩士は数名の漁師と共に浅瀬の岩場での素潜りを開始した。
「城の幼い姫様が佐伯の漁師わらに毎日遊びに来るんじゃて?」という噂が巷に広がって来た。そして更に
「あの姫様は、かの最強の武将じゃち、鎮西八郎為朝公の忘れ形見じゃそうな?」との噂が次第に豊後一帯に広がり始めた。佐伯の漁師わらには他方から人が集まり、魚の仲買いが盛んに成り、海産物の食い物屋(食堂)が建ち、佐伯藩二万石の実質上の石高も上がり始めた。十一代藩主毛利高泰はペリーの来航で海防が重視されると、西洋の軍制を競って導入した砲術訓練や大砲鋳造を推し進めるための資金が弱小石高で足りず、頭を悩ましていたが、一つの象徴を持つことがこれ程の威力をもたらすことを身を持って思い知らされた。一方、幼いるいにとってこの地では、人がこれほど関心を寄せる魚と、戯れることが、野生の自分を感じ得る手立てと成っていた。・・・
その頃、大野の土地の攻防戦は大野の郎党と佐伯藩士との間で紛争が起こり、岡藩も交えて、大野の地は元の木阿弥と帰した。
騎牟礼城の主、石川政夫は大野の地の混乱を鎮める為一年を費やしたが、その後、タエの兄と大野の若者一人を城に留め、岡城での会合に明け暮れていた。各藩の状況把握に長けた国司に通ずるオヤジは白髪の軍師と意見が合わないとの理由で騎牟礼城を去っていた。
そして佐伯から聞こえて来た “魚と戯れる、るい”の安否を求めて甚助とミヨは佐伯城に向かった。るい姫に会える喜びが二人の足を早めた。佐伯の港は打って変わった風景に変貌し、魚を扱う小屋が並び、商人が行き交っていた。佐伯の武士が漁師わらに腰を下ろして、互いに歓談する姿が、まだ見ぬ封建の時代が変わりゆく兆しを表わしていた。
城門に辿り着いた甚助たちが名を名乗ると中から家老職の藩士が飛び出して来た。
「騎牟礼のお方!大変でござる!姫様が海賊にさらわれ申した、たぶん、瀬戸内の海賊の残党どもじゃと思われますが?」甚助は唖然として天を仰いだ!ミヨはその場に座り込んだ!
「何んと!・・・付き添いの女武士も一緒じゃろうか?」佐伯の藩士は頷いた。
「当藩も二艘の船を出して追いかけているのじゃが?・・」
佐伯の浪打際に、広大な豊後水道を望みながら、肩を落とした二人の男女の姿があった。
「これで、三度目の切腹じゃ!・・」・・・・
舟遊びに興じていたるいはタエと若い藩士二人を伴って沖合に出ていたその時、明らかに海賊船と判る船べりに錆びた鉄板をあしらった中型船が近づいて来るや否や、釣り舟に衝突させ、投げ出された女二人をロープを使って引き上げ、沖の方に走り去ったのだ。海の上を漂っていた漁師と藩士は別の釣舟に拾われたのだが、るいが大きな金になる人質として狙われていた節があった。瀬戸内の水軍は幕末に成ると、交易の為のオランダ船や薩摩の頑強な船と出会うことがあり、運搬交易の正業に鞍替えする者が殆んどだったが、その中のあぶれ者が海賊として出没していたのだ。
女武士姿のタエは縛られ舟柱に括りつけられていた。八才に成ろうとする幼女は臆することなく、甲板に腰を下ろして走る海原を眺めていた。そして若い海賊の少年に、
「おにいちゃん!おねえちゃんは縄でぐるぐる巻かれて痛そうだよ?・・」
るいの噂を既に知っている少年は
「姫様!あの女子は女武士じゃから、放すと危ないんじゃ?」と言いながら、幼女でありながら凛とした眼光にたじろぎながら、るいの濡れた髪を布でふき始めた。周りにいた髭だらけの男たちは流石に幼女には近づかなかった。
暫くして、海風が吹き始めた頃、船内で言い争う声が聞こえ始めた。数人の男たちの崖っぷちの声だ!髭ずらの男が、
「じゃから、言わんこっちゃないじゃろう?あの姫を見てみい、まこと、凛とした顔、あの、鎮西八郎の申し子じゃ?佐伯城の上にも現れたという噂じゃ?姫が呼ぶとすぐ現れるんじゃて?」
「何が現れるんじゃ?化け物か?」狐の顔をした男が聞いた。
「阿保か?お前、佐伯の殿様が天守閣で、たまがったそうじゃ?じゃから、姫が漁師わらに遊びに行くん許したそうじゃ?」海賊の少年が、
「狐の兄貴が言ったんじゃぞ?姫をさらおうというたんは?」
「俺たちも真面目に海運業をやろうち、思うちょったんじゃけど、仕事がないじゃけに、食い潰したんじゃから?・・姫の身代金を貰ったら何処かに逃げればいいんじゃ!これだけの大物じゃったら銭は大きいぞ?」
「その前に首刎ねられるっち?」
「この間、漁師の魚盗んだんじゃから、もう元には戻れないんじゃ?俺たちゃ死ぬまで海賊じゃ?」
「俺は下りるぞ、おっ母さんに合わす顔がないっちゃ、」少年がるいの前に膝を立てて許しを乞うている。狐男が、
「根性が無い奴ばかりじゃ、大きな水軍は昔は皆海賊だったんじゃ?略奪や人殺しもしたんじゃ?じゃから、大きく成ったんじゃ?びくびくすんな、」別の男が
「黒船に見つかったら、皆銃殺じゃ?・・その前に鎮西八郎の武者が空から現れて、強弓で串刺しにされるっちゃ?」
「弱音を吐くな、捕まったら皆同じじゃ?秘密の住かに入るぞ、」
豊後水道の風雨が強くなり、帆かけ舟の速度は一段と早まった。
海賊船?は国東の突端の海上にある姫島の北側の入り組んだ入り江の中に入って行った。海辺には村人が数人、海藻を取っている姿が遠くに見える。あぶれ者の寄せ集めの男たちの住まいは島の中にはあばら家が一軒あるだけで、とても姫を招待するところではない。
この船も以前、水軍の闘いの後、漂流していたものを、分捕って来たものだ、船底もあり、甲板にも部屋の仕切りが二つもあり、小さい船ではなかった。
リーダー格の髭ずらの男は意を決したように言った。
「何処かの藩に見つかったら?勝つ訳ないんじゃから、その時は高名な姫様を招待申し上げた、と言い逃れも出来るんじゃねえか?・・佐伯の毛利藩も、最初はさらったって言うじゃねえか?・・それをご招待申し上げたと?・・」
「それは城主じゃから言えるんじゃ?俺たちゃ通用しねえよ?」狐男も考え込んでいる。
別の猿智慧の働きそうな男が、
「身代金じゃなくて、どっかの藩に売ればいいんじゃねえか?あっちこっちの藩も今は名がある姫様を欲しがっているらしいじゃねえか?・・そしてご招待申し上げたと云う事にして、・・少なくても百両くらいは?・・」
「じゃ!誰が交渉に行くんじゃ?お前か?」
「俺はご免じゃ、行った瞬間、首刎ねられるんじゃ?」海賊?たちに動揺が走った。
その時、るいが何かを言った。
「るいはお腹空いた、,おねえちゃんは縄で縛られて可哀そうじゃ、お金はるいがお城のおじちゃんに貰ってくる、」
「お城のおじちゃん?・・」
「城の殿様の事じゃろう?・・」
甲板にいた全員が膝を着き、るいを見つめた。そして少年が柱の陰に縛られていたタエの前にひざまずいて一部始終を語りかけた。タエはぐったりしていたが、縄が解かれた瞬間、小刀を抜いて小年を刺そうとしたが、額を甲板に擦り付けた少年は、
「許してくれや!姫様には許して貰ったじゃけに?許してくれや!許してください!」
と繰り返した。タエは踵を返して、るいの元に走り寄った。るいの周りには海賊?の男たちが跪いていた。その中で狐に似た男だけが横を向いていた。日が暮れて風雨が強くなって雷が鳴り響いたが、るいとタエは甲板に区切られた部屋に案内され、男たちは焼いた魚と炊いた飯と飲み水を運び込んだ。
翌日、甲板の窪みには雨水が溜り柱からまだ乾かない水滴が落ちて、青く晴れようとしている海原を船は国東の根元に近い杵築城の入り江に向かってゆっくりと走り始めた。
風も消え穏やかな海には、何艘かの小舟が糸を垂れている。海賊に成り切っていないと不思議と相手は反応しない。
船が杵築の船着き場に錨を下すと、数人の藩士が異様な船を見届ける為、船の降り口に立った。先頭には髭の男と少年、その後ろに女武士のタエがるいの手を引いて降りて行った。
髭の男が恐る々、
「ええっ、こ、この度、騎牟礼城の姫様が佐伯城に、ご、ご逗留されておられましたが、我船が此方の杵築城にお連れ申し上げました!・・」
「お主は大そう風体が悪そうじゃが、漁師か?」
「へい、さようで、瀬戸内で魚を取っております、」
「何んと?騎牟礼の姫?・・・後ろの女、名を名乗れ?」
「この方は騎牟礼城のるい様でございます。わたくし目は配下の大野のタエと申す、」女武者のタエは、るいに添いながら名乗ったが表情は苦虫を噛み潰していた。
一人の藩士が城に伝令に駈けて行った。その時、突然、乗って来た船が桟橋を離れ始めた、
「あのバカが、臆病風吹かせやがって、」髭の男と少年はその場に土下座した。
しかし、逃げた船は停泊していた杵築藩の中型船が追いつき捕らえて引き戻した。
そして七人の海賊が城内に引き立てられ、伝令が再度、佐伯城に走った。
引き立てられて行く通路で、狐に似た男が逃げ出そうとして、通路の後ろに走ったが、後方にいた藩士によって背中を袈裟懸けに切られ、血しぶきを上げながら絶命した。
「さては貴様らは海賊?」動揺した髭の男と若者たちを藩士が切ろうとした時、八歳の幼女が藩士の前に立ちはだかった。
「このおにいちゃんたちは、るいを大事にしてくれたから、殺したらダメだよ、」愛くるしさと同居した凛とした姿に、藩士は刀を振り下ろすことが出来なかった。
「るい様!」タエは膝を立て幼女を抱きしめた。
翌日、佐伯から二頭の早馬が届いた。一頭の馬には甚助とミヨが乗っていた。
当時、杵築城は三万二千石、第九代藩主松平親良によって治められ、親良自体は側室の子で、徳川幕府に拝謁(はいえつ)して、幕閣に加わったことから佐幕派となり、長州征伐にも協力的であり、藩内では台頭する尊王攘夷派と佐幕派が分裂して対立が続いていた。その頃、勢力を急激に拡大しつつあった薩摩がイギリスとの近代戦争で引き分け、幕府がその賠償金を払ったことから、佐幕派としての力が萎みつつあった。苦悩する藩主親良、そんな時、佐伯で噂になっていたるい姫が突然現れたのだ。 “鎮西八郎るい”の象徴としての権威は何ものにも勝るのだ、幼子の申し出である、
「お城のおじちゃん!私をお船に乗せてくれたこのお髭のおじちゃんたちはお金が無くて困っているの、」
杵築藩は一〇〇両の金を即座に船主に渡した。海賊六人は城主に尻を向け、るいの足元に額を擦り付けた。
「るい様、ありがとうごぜぇます、」そして長い間、額を上げなかった。・・
その光景を端から眺めていた甚助は二度目の天を仰いだ。・・
海賊たちは海賊働きの中で、人殺しをしていない事で、無罪放免と成ったが、杵築藩の事情でもあり、藩の海軍力として召し抱えられた。状況を把握した甚助とミヨは松平公に深々と平伏し、騎牟礼城への帰途についた。
「松平の殿!我姫をご招待頂き、お礼を申し上げます。何卒よろしくお願い申し上げます。」帰途の途中、ミヨの目には流れる涙が止まらなかった。・・・
るいはこの時から、女武士のタエと海賊一味であった少年匡一を従え、杵築の海で少女の時代を過ごした。るいの身体は十二才になると、どん々 伸びて、小さくはないタエや匡一と肩を並べる高さまで成長し、あどけなさは取れ、鋭い眼差しに変わりつつあった。俊敏さは増し、自ら杵築藩の軍船に飛び乗り、藩士たちと共に回遊する事も度々あり、為朝公の忘れ形見としての片りんを見せ始めていた。タエは動きやすさを進言して、姿を女武士の服装を進めたが、元来、姫の姿に慣れ親しんだるいは袴を履くだけの姿に留めた。・・
海上に霧が立ち込める豊後水道をるいたちが乗り込んだ杵築藩の木造の軍船と薩摩藩から佐伯藩へと武器の交易に来ていた外国船との衝突が起こり、相手の鉄船に劣る杵築の船が浸水し、全員が鉄船に引き上げられた。そのオランダ船も何度か杵築の港に交易を進めに立ち寄った事が有り、敵とは見なさなかったが、黒人ともう一人の大男の水夫が、全身ずぶ濡れとなったタエが甲板の裏で、二十三才の豊満な体を拭いている姿を見て蛮行に及んだのだ!女武士であるタエは悲鳴は上げず抵抗を繰り返したが、倍もありそうな大男二人に組み敷かれ、あえなく舌を噛み切ろうとする寸前に、気が付いたるいが敢然と大男の背中に飛び乗り、何度も跳ね飛ばされながら、遂には赤い懐剣で二人の大男の首を刺し通した。
血しぶきが上がり、るいの顔は返り血で真っ赤に染まり、タエの胸には血の海が流れていた。オランダの鉄船は太い綱で沈みかけた木造船を引きながら杵築の船着き場に停泊した。城内でオランダ船との話し合いが持たれ、蛮行に及んだ事と、二人の船員を失った事を秤にかけ、必要な武器の交易を始める事で、賠償金無しで和解とされた。
船内での事件を見落とした杵築藩士の責任も問われたが、藩内の感情を鎮めるために、るいたちが杵築城を出ることを申し出た。松平公は押し留めたが、別府湾の隣にある幕閣ではない日出(ひじ)城の招待を受けて、数人の杵築藩士と共に、るい一行は杵築城を後にした。タエは本拠地の騎牟礼城に戻る事を進言したが、るいの心は日出城に向かっていた。
十二才の幼女が船上で南蛮人二人の首を刺し通した事は、瞬く間の内に海岸地帯を駆け巡った!そして幕閣の城主からは続々と、るい姫への招待の意が届けられた。
日出城は別府湾の奥の入り江にあり、杵築城と同ように海岸に海を見据えた位置に建っていた。松平公の口利きの通り日出藩は外様だったが、二万五千石、十五代藩主、木下俊程(としのり)を拝し、幕政には一切関わらず、むしろ外国船を警備し遠見番所が造られていた。正門が開かれ、沿道には数十人の歩兵が並び、正門に若い背の高い藩士が待ち構えていた。一行は正門の前で立ち止まり、タエが名を名乗った。
「騎牟礼のるい様でございます。この度、日出藩にご招待いただき、かたじけのう御座います。」たどたどしい口調で挨拶を申し上げた。
「私は城の若じゃが、騎牟礼の姫を大そう心待ちに待っておりました。」背が高い色白の若の直接のお出迎えだった。るいはその美少年が気に入ったらしく傍に近づき、
「お城のおにいちゃん?・・よろしくね!・・」と握手を求めたのだ、一同は唖然とした!
日出の若は面食らったように顔を崩してるいの手を両手で握った。るい曰く、
「おにいちゃん、握手は片手でいいのよ、」
「麗しい姫は南蛮の方式ですな?・・」若も慌てなかった。膝を着き、見上げていたタエは愛くるしさが戻ったるいの表情を久々に見た。
藩主、木下俊程は学問と算術に秀でていた。裏切りと謀 に明け暮れる幕政には関わらず、表向きは外国船を見張っていたが、ペリーの来航以来、西洋の文化と近代化をいち早く見据え、
台頭する薩摩の裏側にある西洋学と算術を密かに取り寄せていた。数人の藩士と長男を長崎の平戸に送り、ポルトガル人との接触も果たしていた。俊程は噂の勇猛で麗しいるい姫を大そう気に入り、次男坊を正門で迎えさせたのだ。
るいが最も興味を持ったのは城の本丸の中にある書室の机に座っている赤い髭のポルトガル宣教師だった。その机の上には様々な算式と西洋の船と武器の絵柄、織物機械、種子の交配の仕組み等、目を見張るものが拡げられていた。るいはそれには目もくれず、矢継ぎ早の質問がポルトガル人を驚かせた。
「赤いお髭のおじちゃんはどこの国から来たの?・・どうして目が青いの?・・黒いあげ羽蝶々と黄色い蝶々はおじちゃんの国にはいるの?・・鈴虫は?・・おじちゃんの国の女の子は髪が赤いの?・・おじちゃんの国は大きい国?小さい国?・・もっと大きい国があるんでしょう?・・氷のお菓子もあるでしょう?」宣教師は青い目を見開いて、両手を開いて天を仰いだ!
「姫様は先の世の人?・・マリヤ様のお子?・・」・・・
るいは学問に慣れないタエと匡一を呼び、毎日のように宣教師の前で算術などの教えを乞うたが、宣教師が未だ習得していない算術の動きを、るいが進むのを見て、
「これは?・・姫様はまさに神の子ではないか?・・」と呟いた。
日出は別府温泉に集まる人々の海の幸の食料地として栄えていたが、噂のるい姫の影響は人の往来を更に激しいものにしていた。
るいは馬にも乗った、二頭の馬が海岸の砂浜を駈けるのを、木下公は天守閣から眺める日が続いた。るいが跨る気の荒い白い馬が、海に注ぐ河口を飛び越えるのを漁師たちは不思議な風景として眺めていた。腰まで浸かりながら後を追う若に、るいのほのかな恋心が生まれつつあった。成長が人並みより早く、早熟だったるいの心に恋慕の情が芽生えて来たのだ。
るいは十五才となり日出城二年目の月日が流れていた。タエが見上げるほどの身体に成り、麗しさと鋭い眼差しは更に増していた。
ある日、若に案内されて、るいとタエ、匡一が別府の湯の香りを散策することになって、こんもりとした丘で一休みしながら、広がる別府湾を眺めている時、突然、るいが丘の一点を見つめ、その方向に歩き出した。そして長い間たたずんでいた。
若とタエたちが恐る 々 近づくと、小さな苔むした石碑が埋められてあり、“鎮西八郎為朝公の砦”の文字が彫り込まれていた。日が落ちて薄暗くなって、タエが其処を去ることを進言したが、るいは動こうとしなかった。数百年の時を超えて、巨人武者の忘れ形見が、遥かなこの地に足を踏み入れたのだ。
湯治宿に着いた時、日出藩の藩士が数人控えていたが、宿では四人全員で酒を飲んだ。湯の中でタエが姫の背中を流していたが、湯煙に妖しく揺れる、るいの女体を若は眺めることが出来なかった。・・・
数日後、るいの申し出により、若と二人で二頭の馬にて再び、その丘を訪れた時、傍の若草の上で、るいは若に初めての生娘の身体を開いた。恋慕の情を果たしたのだ。日出藩一六代最後の藩主木下俊愿(としまさ)公の弟、春高一八才の時であった。その後、一年ほど、るいはこの城に留まったが、尊王攘夷派の高まりで城内に紛争が起こり、口論の末、数人の藩士の斬り合いが始まり、若が制止しようとした時、後ろから袈裟懸けに切ろうとする藩士を、居合わせたるいの懐剣が太股を刺し通した、バランスを崩した藩士はあえなく大刀を振り下ろすことが出来なかった。城内での紛争に女伊達らに刃を交えた事で姫としての立場が問題視され、不穏な空気が消えなかった。木下公の次男坊の妃にという必死の静止にも関わらず、タエ、匡一と共に城を後にすることに区切りを打った。
送りに出た若の目には万感の涙が流れていた。・・・・・
平成二十八年四月、熊本震災が起こった。大分の至る所でも微震が観測され、鎮西瑠衣は二年間の入院生活の末、北九州セントメリヤ神経病院を退院し、大分市内に戻って来ていた。
二十才になっていた。暫く静養するために大野の北にある鎮西家の元鍛冶屋跡で現在は別荘になっている屋敷の離れに来たばかりだった。・・・
瑠衣の神経症は生まれつきで、それは五才に成った頃に顕著に表れた。寝ぼけ癖のような症状は夢にうなされ両親を揺り起こすのだが、母親は頻繁に起こる時はさすがに自分の胸に抱きしめて眠ったが、父親は寝ぼけ癖は子供の頃はよくある事だという理由で特に気にも留めなかった。活発で体は大きめの瑠衣が保育園から帰って来た時、
「お母さん、瑠衣の夢にはこんなお武家様が出て来るよ!」、と、保育園でもらった絵本を見せた。そこには大昔の源平合戦の絵図の子供用のイラスト画が載っていて、平安朝の男女の公家の姿や弁慶の頭上に飛び上がる牛若丸、義経の八艘飛び、強弓を引く鎮西八郎為朝の姿が描かれていた。母親は絵本を見ながら、
「どの人が夢に出て来るの?」、
「このお帽子をかぶった人、」幼い五才の娘は兜をかぶった為朝の武者姿を指さした。
瑠衣の幼稚園の頃から始まった寝ぼけ癖は次第に度を増し、夜うなされたり、夢の中で会話をする神経症的特質を持ったまま活発な娘に育って行った。小学生の時、弟が母親に言った。
「お姉ちゃんが夜中にお城のおじちゃんとか、おにいちゃんとかと、お話しして僕は目が覚める!」その後、子供部屋は別々となった。更に中学生になると、
「寝てる時、隣の部屋からお姉ちゃんが誰かと喧嘩して叫んでる声がする!」と・・・
瑠衣は中学の終わり頃になると一メートル七〇センチをはるかに超える高身長に成り、バレー部に入部していたが、夢にうなされる事で、泊りの合宿やキャンプにはなるだけ行かない事が多かった。
「お母さんに似てたら、私も小柄でもっと可愛かったかもね?」
「体がデカいのは先祖の血かもしれんな?弟は母さん似だからチビなんだ。女の子でもチビよりもデカい方いいじゃろう?」と父親が言った。
それでも瑠衣はデカい体は男の子から可愛くない、と言われて嫌だったが、巨大な武者の夢を見ることは何故か?懐かしく次第に嫌では無くなって来ていて、むしろ、夢の中に厳つい武者が出てくるのは何かを導いてくれるような?不思議な神秘性をも感じていた。・・・
瑠衣の家は曾祖父の時代、大野の山間部で刀鍛冶と農具の鍛冶屋をしていたが、更に一族で杵築の港で海運業と金属加工業の会社を持ち。祖父の代で海運業を他社に譲り、時代に合った精密金属加工会社を大分市(豊後府内)に移した。金属の旋盤機械を導入し、文明の機械類の部品造りに邁進した。経済成長時の注文には追いつかず、従業員も両手の数から数倍に増やし、大手機械メーカーの下部組織に入り込んだ。大野の鍛冶屋跡は長い間、空き家となっていたが、父親の代で別荘兼従業員の保養所として改装し、鍛冶の作業場はアンティークな建物として残してあった。夏休みなどは家族でこの別荘に赴き、弟は野山を駆け回るのに比べて、瑠衣は一日中このアンティークな場所で、茶色になった砂鉄の中に残っている農具や刃物の破片をトンカチで叩いたり、円盤状の石臼を回したり、遊ぶには事欠かなかった。ほの暗いその場所は物心ついた瑠衣の心を不思議と和ませた。
この作業場は一時、何処からか帰って来た父親の弟が髭面を掻きながら、刀鍛冶を始めたのだが、手狭で生活がやりにくいと云う理由で、大分市の精密工場の敷地の横に作業場を移し、二人の若い弟子を取り、既に瑠衣が生まれた頃は、叔父は刀剣工として名を馳せていた。瑠衣は幼少の頃から、その叔父の傍にいるのが好きだった。真っ赤に焼けた鉄を黙々と打つ、寡黙な横顔、父親より更に大男でワイルドな厳めしい鼻筋が通った姿が、夢に出て来る武者に似ているからだった。
「叔父ちゃん!瑠衣ね、・・夢の中に武者のおじちゃんが出て来るんだよ、」叔父はふいごを押しながら、瑠衣の顔をまじまじと眺めていたが、
「その武者は瑠衣のず~っと昔のご先祖様で、瑠衣を守ってくれちょるんじゃ、」
灼熱の炎の中から真っ赤な長い鉄の棒が抜き出され、細長い黒い水槽に差し入れられる瞬間、締め付けられるような水音に、ビクッ!としながら、瑠衣の身が力強く脱皮して行くような感覚を覚えた。叔父は赤い炉を見つめながら、
「瑠衣はその夢の中に出て来る武者のおじちゃんが怖いか?」
「う~うん?叔父ちゃんみたいに優しい、」瑠衣は顔を横に振りながら呟いた。
「そしてね、・・武者のおじちゃんの横に瑠衣みたいな女の子がいるんだよ、」
「その女の子とは何かお話をするのかい?」
「うん!いろんなこと・・・」しかし幼い瑠衣にはその事がよく理解出来ないでいた。
寡黙な叔父とは二言三言話しするだけで何かが溶け合っている二人だけの世界があって、ふいごの摩擦、鉄が締まる声、打たれる鈍い金属音は不思議な瑠衣の揺り籠となってしまう、「あら!又寝てる、この子ここに来ると眠くなるのね、」母親は日課のようにこの作業場に幼子を連れに来る。
「瑠衣はトンカチの音が子守歌なんじゃ!」刀工の叔父は黙々と刀剣を打ち続ける。
「この子、女刀工にでもなるのかしら?大きいから重いのよね、この子、」母親は作業部屋の隅の座り畳に丸くなって眠っている瑠衣を抱きかかえた。
「姉さん、そうは成らないよ。その子は?スポーツ関係じゃねえかな?身長が伸びそうじゃから?」
「真っすぐ育ってくれればいいんだけど?」午後9時、母親と瑠衣は金属加工会社の裏手の母屋に戻って行った。
瑠衣が小学二年の頃、夏休みに家族と共に精密工場の従業員、刀鍛冶の弟子が大野の別荘に保養に来たことがあった。その年は兎に角、暑くて焼ける様な毎日が続いていた。
別荘は昔の大きな母屋をリフォームしたもので、敷地は四百坪も有りそうな広さで、周りはうっそうと樹木に囲まれている。門柱は無く、大木の枝の下には、十数台の様々なマイカーが並んでいる。本屋は幾つもの和室と洋間があり、十二畳の板の間、物置部屋が二つあるのだが、その対になった一つの部屋はリフォームがなされていない古い座敷で、黒光りする板戸で仕切られ、真っ黒になった四方の梁は松ヤニが染み出ていた。この部屋には誰も泊まりたがらず、壁が変色した床の間には長四角の額と横には虫くれた黒色の長槍が立てかけられ、額の中には、部分的にはげ落ちた仁王立ちする武者の姿の絵図が描かれていた。山の中で涼しいとの事でクーラーは一台も無かったのだが、最近は温暖化で寝苦しいと工場の従業員と刀剣工の弟子たちが寝泊まりする部屋にはいつの間にかクーラーが取り付けてあった。和室の窓は開けられ、古池からの蚊を入れない為の網戸だけはきちんと取り付けられていて、大木の枝が被っている右端の鍛冶の作業場の家屋だけは、暑い日でもひんやりとしていて、その横の十五坪くらいの古池の水面が、何処からか浸み出て来る湧水が、せせらぎの様な波紋を打っている。池の周りには水仙や様々な水草が生え、底には枯れた樹木の葉が堆積しているが、中央だけは黒く底が見えず、三つの大きな睡蓮の花が白色の花びらを広げ、紫の花弁が円形に仲良く立っている、古びた風景の中にひと際鮮やかに。・・・
夕方、瑠衣と弟と二人の刀鍛冶の弟子がそこで涼んでいたが、男女の弟子は若くて理工系の大学を出たばかりで、刀剣工に魅せられて弟子入りしたのだが、既に夫婦となっていた。瑠衣はこの若夫婦が特にお気に入りで、叔父の仕事場にも常にいて、いつもアイスクリームをくれるのだ、その日も四人でアイスを食いながら、弟が、
「ここは変な臭いがして嫌だ、」と言った。
「暗くて汚い、」とも言った。弟は背が小さくていつもちょろちょろしていて、黒い板戸で仕切られた座敷の武者の絵が怖いとも言う、瑠衣の母親も同じように、
「あの部屋は気味が悪くて行きたくない、」と言うのを何度も聞いた。瑠衣はその逆で、ひんやり感が好きで、その暗い座敷が、子供心に妙に懐かしさを感じるのだ。
若い弟子の女性が、
「瑠衣ちゃんは身体がどんどん大きくなるね、クラスで一番大きいでしょう?」
「ううん?二番目、・・一番大きい子はね?ポルトガルから来た子、髪が赤いの?」
「ええ~?そうなんだ、ポルトガルから来た子がいるの?」
「先生もいるんだよ、その子のお父さん、でもね、髪がないの、」
一年生の弟が笑った、
「あの先生、頭禿じゃ、・・僕があの子にそう言ったら、ほっぺ殴られた、」
弟は溶けだしたアイスの汁をこぼしながら神妙な顔になった。弟子の青年は弟の頭を撫でながら笑っていた。瑠衣は若い女性よりもその青年のことが好きだった。瑠衣の心の中のことを良く解ってくれるのだ。髭の叔父ちゃんといつも一緒にいるからだとも思った。・・・
その日は全員が広い板の間でテーブルを並べて夕食となった。アルコールが入って歌いだす者もいた。夕食後、従業員たちはそのまま板の間で、ランケーブルのパソコン数台を持ち込み、中継されていた国際スポーツ大会に見入っていた。母親と叔父の妻(生け花の師匠)は一つの和室に、瑠衣と弟はクーラーがある叔父の弟子の若夫婦の部屋、男の従業員は全員、広い板の間に大型扇風機を数台持ち込んで、食事用の長テーブルにはパソコン、缶ビール、摘み、フルーツが並び、思い々の寝具が横にあって、雑談と宴会は深夜まで続いた。女の従業員はクラーがある幾つかの洋間に数人ずつ寝るようだが、半数は雑談と宴会に加わる可能性がある。弟はいつの間にか若夫婦の部屋を抜け出して、雑談と宴会に加わっていた。
パソコンのエキスパートの若者にくっついていて、男の子の本来の好みに向かっている。多分その辺で雑魚寝に加わるだろうと思われたが、夜が更けた頃、オシッコの付き添いを若夫婦に眠気眼で頼みに来た。若夫婦と二人の子供が寝ている部屋で、深夜、甲高い叫び声が上がった。
「大きなお船が近づいてくるよ、変なお船がぶつかって来たぁ~、大変だ!泳げないのに、・・」
「海の底は斜めにずうっと深くなって、・・暗くなって、、・・その先には竜宮城があるのかな?・・」
姉の夢のうわ言がトラウマとなっている七才の弟が飛び起きた。そして毛布を抱えて豆電球の下の汗ばんだ瑠衣の口元を見つめていた。
「このお船は海賊船だったの?・・海賊船は泥棒さんとか人さらいをするんだよね?るいをさらうとお金を貰えるのかな?・・沢山貰えるのかな?・・」
海賊船のうわ言を聞いた弟が立ったまま泣き出した、その声に昼間の労働と酒で熟睡していた若夫婦は目を覚ました。
「どうしたの?坊や、」
「お姉ちゃんが怖い、」若夫婦は瑠衣の寝顔を覗き込んだ。その愛くるしい額は汗ばみ、薄目を開いたような瞼は僅かながら動めいている。突然、小女の絞り出す様な声が上がった!
「女武士のおねえちゃんはお縄でぐるぐる巻きにされて痛そうだから?お縄を解いてやって!・・解かないと兜のお祖父ちゃんを呼んで懲らしめてやるよ、・・解きなさい!・・」
弟は毛布を抱いて浮足立った。
「僕はお母さんのお部屋に行く、」そして、よろよろとした足取りで廊下の方に歩き出した。尋常でない少女のうわ言に夫婦は寄り添った、娘は動乱の世界に入り込んでいるのだ。
「このお船はどこに行くんだろう?お腹もすいたな、おねえちゃんも辛そう、」
今の世の中のインフラが整い、一様に人権が与えられ飢餓もない社会とは全く違う場所に
百数十年の時をさかのぼり瑠衣が向かい合っているのだ。
「お姉ちゃんは辛そうだから、お縄を解いて、・・お金が欲しいなら、るいがお城のおじちゃんに貰ってやるよ、」少女のうわ言は続いている。若夫婦は娘が発する言葉の意味を考えてみた。
「海賊?・・海賊が消滅する頃の時代かな?・・兜のお祖父ちゃん?・・武者?・・」夫婦は目を合わせて頷いた。妻がスマートホーンを開くと午前二時を示していた。
「どうやら終わったかな?動乱の夢は?・・」少女の表情はぴくつく瞼が治まり、安らかな寝顔に変わり静かな吐息さえも聞こえて来る。
「今度は楽しい夢を見てるのかな?」二人はゆっくり自分の床に戻った。暫くして天井の豆電球が点滅し、静寂が途絶えた。
「このおにいちゃんも、お髭のおじちゃんも悪い人じゃないよ、・・お金が無いだけ、・・
殺したらダメだよ!」寝言では無く、生々しい少女の鋭い声が部屋いっぱいに響いた。
「この子は一体?・・」二人の刀剣工の弟子は朝方、やっと眠りについた。・・・
朝になって全員の朝食が庭に設置されているアウトドアのテーブルに並べられた。準備したのは瑠衣の母親と叔父の妻、工場の女性たちと年配の男が手伝った。広い板の間は若者が深夜まで飲み明かし、まだ雑魚寝から目覚めないまま、料理が庭に運ばれる物音を聞いて、二人の若者が起き上がって来た、
「庭で何が始まるんですか?」
「地元の三年熟成、麦味噌に山菜仕込みのスッポンのぶつ切り、豆腐、油揚げ、のスッポン汁だよ、あんた達が起きないから、板の間が使えないから庭でやるのよ、」母親は手慣れた仕草で会社の大蔵省の別の顔をのぞかせている。
「ひえーっ!朝からスッポン汁か?・・鼻血出ませんか?」
「夏バテに最高だよ、金属加工は重労働だから、うんと精を付けて貰わなきゃ、皆起こしなさい、」
工場の従業員は夏の避暑地滞在だが、若い従業員が夏バテで体調を崩して仕事に支障をきたす事があって、特に精密加工においては製品に狂いが生じて取引上の大問題となったことがある。瑠衣の母親は従業員の健康管理が事業経営の上位を占めると考えていた。瑠衣は早くから台所や庭を元気に駆け回っていて、庭のテーブルの上で、教えられた通りに黄色い大根漬けを丁寧に切っていたが、寝不足の顔で刀剣工の若妻が何かを運んで来た。
「あらっ!瑠衣ちゃん、早いね、お手伝いも出来るのね?・・偉いね~、」
「おねえちゃんたち朝寝坊さんね、眠れなかったの?」
「・・?うん、何んかね?眠れなくてね?・・」
「ああっ!ひょっとして?瑠衣の夢の声が怖かったりして?」
「ええっ!瑠衣ちゃん、それ、判ってんの?自分の夢の事?」
「うん!でもすぐ忘れるの、弟がね、怖いって?瑠衣が、」
「あっ!そう、夕べも何んか?あの子、お母さんのお部屋に行ったみたいね、」
「だから、お家では別々のお部屋で寝るよ、おねえちゃんたちは怖くなかった?」
「ううん?怖くないよ、だって、瑠衣ちゃんはこんなに可愛いんだもん、瑠衣ちゃんの夢も凄くて素敵だよ、」瑠衣は嬉しそうに笑ったが、子供心に全く気にしていない様子ではなかった。
瑠衣は小学校の夏の泊りの臨海学校や冬の少人数のクリスマス夜会(一泊)にも殆んど行かなかった。母親が断りを入れていたのだ。故に家族旅行はなるだけ行くように成っていた。
瑠衣が小学の高学年になった春休みに再びこの別荘にやって来た。その時は両親と四年生の弟、刀剣工の叔父夫婦が一緒だった。今回は父親の金属加工会社と叔父の刀剣工とのいわば、同族業務提携らしからぬ約束事を決める為のものだった。
父親の会社が通常の粒子の十万分の一のナノ水を抽出する攪拌ドラムを作り出したのだが、高速で水を切って行く、らせん状の刃が、どうしても砂鉄で重ね打った日本刀の刃に勝るものは無く、この度、協力体制を本格化せざるを得なくなったのだ。この攪拌ドラムはドラム缶三本くらいの大きさで、需要価格で一基数千万円で国内はおろか、外国からの注文が殺到していて、今後両社にとってはメインの製品と成りつつあったからだ。叔父は最近になって新しい刃作りに、盛んにここの旧作業場を訪れている。従業員と弟子の増員の話し合いも行われる。
瑠衣たちが到着すると暗い座敷と作業場に生け花が植えてあった。叔父の妻も新たな事業展開に気分を新たにしているようだった。叔父たちの住まいは別府温泉にあり、めったに会わない叔母が瑠衣を見て、
「瑠衣ちゃん、大きくなったわね、お母さんと変わらないんじゃ?」
瑠衣は愛相笑いをしたが、この一年、同じ事を言われて耳にタコができそうで、しかも同級の男の子からは電信柱が歩いているとか、デカ過ぎて可愛くないとか、からかわれて、口を尖らせていた。学校から帰った弟が、
「お姉ちゃんがデカ過ぎるので、僕がチビに見えるから嫌だよな、」
「男はチビだったら将来、女の子に持てないぞ、」と弟の脳天に拳骨を食らわした。
「何んで、殴るんだよ?」
「アンタの頭にコブができたら、身長伸びるでしょう、」
太刀打ちできないと分かっている弟は、泣きべそをかいて何処かに走って行った。一週間前のことだった。その弟も今日はジュースやチョコレートを貰って楽しそうに走り回り、知り得た知識を振りまいている。その姿を見て男の子の可愛さはこの辺にあるのかと瑠衣は思った。
叔父夫婦には子供がいないので、小使いは二人で総取りだ、夜の食事は大野市の何処かの寿司店からの出前で、二つのお子様ランチが追加で配達が行われた。父親も大きい方だが、相変わらず叔父は髭ずらで髪は少しカットしていたが、肩口が敷居の梁に届かんばかりの大男だ、顔は厳ついが兄には従順だった。日本酒のとっくりを傾けながら、その夜は砂鉄の刃を納める価格と互いの従業員と弟子の増員の話が持ちっきりだったが、瑠衣の母親が話の中にかなり食い込んでいる。
新製品の高さ二メートルの攪拌ドラムにはらせん状に半径に一〇列だから、四十本の日本刀を使用することになり、しかも錆びないように特殊加工の設備投資の問題も上がり、叔父の刀鍛冶事業もこれまでの数十倍の収益をもたらすことになり、大男の口からため息が漏れた。小柄の母親が発破をかけていた。全体の大蔵省なので、誰も頭が上がらないのだ。生け花の師匠は静かにお茶を飲んでいて、話がほぼ終わり、叔父は鍛冶の作業場に足を向けた。新作の砂鉄の塊が並んでいるのだ。いつもの通り、瑠衣は叔父の片袖に捕まって作業場について行った。後ろから弟が
「お姉ちゃん、叔父ちゃんからもっとお小使い貰おうと思って?」
瑠衣はくるりと後ろを向いてあかんべぇ、をした。
作業場に着いた叔父は体を丸めて、隅にある南天の生け花を眺めていた。大きな体が電球の影をつくり、部屋全体に覆いかぶさるように揺れている。瑠衣が
「叔父ちゃん、お仕事増えるの?」叔父は僅かに頷いて小さな金づちで砂鉄の塊を叩き始めた。仕事が増えることがあまり嬉しそうではなさそうだ。叔父の大きな影が又揺れて、黒い別の世界が金属を叩く音と共に近づいて来た。金づちの音が催眠術の仕掛けになった。
瑠衣は大男の傍で小さな毛布を掛けられて眠った。暫くして父親が作業場に入って来た。
「るい様はもう始まったかな?」髭の弟は頭を横に振った。
「兄貴、水切りの刃は刀の刃のようには行かんかもしれん、」
「特殊コーティングで何んとかカバーするか、」
「コーティングで刃の鋭さが鈍るが?」
「砂鉄の刃以上の物と云うとダイヤモンドしかないんじゃから?今はそれしかない、」叔父は頷き、父は煙草に火をつけた。その時、瑠衣の寝息が消えて、るい様が現れた。
「杵築の海は佐伯の海と同じだね、るいは武士の姿はいやだ、・・袴だけなら履いてもいい、・・兜のお祖父ちゃんが言ってたけど、孫(義経)のおにいちゃんもこうしてお船に飛び乗ったりするの得意だったんだって?・・」父親と刀剣工はじっと寝言に聞き入った。
突然、うわ言が高まった、
「黒い大きな鉄のお船とぶつかるよ、るいはもう泳げるようになったから、大丈夫だけど、タエは泳げるの?・・」
「このタエと云うのは従者らしいな?今まで何回か聞いたぞ、」父親は呟いた。
「また、体中が濡れてしまった、・・タエはどこに行ったのかな?・・タエ~、」
何かが起こり、瑠衣の閉じた瞼が次第にぴくぴく動き始めた!
「タエ~、・・タエ~、」、と繰り返す声が続き、毛布の中で瑠衣の体が震え始めた。
父親は思わず、毛布で巻いたまま瑠衣の体を抱きしめた。
「この子は動乱の世界で戦っているんじゃな?」刀剣工は瑠衣の汗ばんだ髪をそっと撫でた。父親の腕の中で瑠衣の体は何度も引きつったように硬直した。
「タエ~、・・タエが、・・やめて、・・タエをこんなにして、・・許さない、・・」鋭い声が上がった。
父親は腕の中でわが娘の両腕が硬く硬直し続け、更に引き付けを起こすのを抱きしめながら、目を閉じて耐えていた。
暫くすると、瑠衣の身体から硬直が抜け、安らかな寝顔が戻って来た。
「先祖からの因縁はお前から瑠衣が引き継いだんだな?・・」父親と髭もじゃの弟は目を閉じて互いに頷いた。父親は眠った瑠衣を抱いたまま、部屋に戻って行った。・・・・・
翌朝、子供の騒ぐ声がする、瑠衣と弟がプロレスごっこをしていた。自然の中に来ると元気を取り戻す弟、広い板の間に座布団を敷き詰め、倒された時、痛くない様にしてるのだ。
庭先で煙草をふかして睡蓮の花を眺めていた髭の刀剣工の前に、黒のランドクルーザーから降り立った弟子夫婦が近づいて来た。
「先生!お早うございます。」
「ああっ、・・ジープ買ったのか?」
「あの~、ランドクルーザーって言うんです、これ、」
「う~っ、昔はこう云うのはジープと言ったんじゃ、ちょっと大きくなっただけじゃねえか?」
「先生!これ馬力が強くて便利なんですよ?トラックの代わりにもなるし、」
「お前ら個人で買ったんじゃねんだろう?」
「勿論ですよ、先生~、これ大型で五百万位だし、事務所用ですよ、」
「先生!請求書貰ってます。鎮西刀剣工様宛で、」若い妻が自動車メーカーの封書を差し出した。大男は背を丸めて封書の中身を目を細めて眺めた。そこにエプロン姿の瑠衣の母親が朝食を呼びに来たが、
「あらっ!もう二人分追加ね?朝まだなんでしょう?あなた達、」
若い夫婦は頭を下げた。紙片の明細を眺めている髭の大男に
「刀剣工さん処もちゃんと法人にして経理担当を作らないと、この若いお嬢さん大変よね?・・今度、攪拌ドラムの刃もやるんでしょう?今のままじゃ貴男?・・」
「姉さんの会社でやって貰ってもいいんじゃけど?」
「嫌ですよ、うちも二人の事務員を雇ってるんよ、無理 々、この若嫁さんをちゃんと事務として決めればいいでしょう?この際、今度、スタッフ増やすんでしょう?」
若夫婦が相づちを打った。この苦労人の大蔵省には皆頭が上がらないのだ。瑠衣が板の間の窓から若妻を呼んだ。
「おねえちゃん、プロレスやろう?・・」若妻は笑って手を横に振った。・・・
数年後、金属加工会社は新製品の増産の稼働を本格化させた。敷地も拡げ新社屋を建て、工学部関係の社員が入社して来た。母親は連日帰宅が遅く、父親はと云うと通訳を雇って
中東やヨーロッパ周りを始めていた。子供たちに対する両親の不在を補うためと刀剣工の弟子夫婦に懐妊の兆しが見えた事から、いつの間にか瑠衣の家の離れに若夫婦が引っ越して来た。若妻は事業所には行かなくなり、瑠衣の家の主婦代わりと成っていた。髭の鎮西刀剣工が工場の金属を叩く振動や金属音が胎教に悪いと心配したらしい、刀剣工の妻が懐妊しなかったことがこの事と関係があるのかは今と成っては知る術はない。
若妻と瑠衣はプロレスファンという趣味が高じて、以前は弟を含めてリクレーシォンのつもりでプロレスごっこをやっていたのだが、瑠衣が余りにも高身長になった為、最近は若妻と弟が避けるように成っていた。瑠衣は中三で十五才となり、高校に入ったら体格を利用してバレーボールの部活を考えていた。弟は母親から国際的な金属加工会社の後継者と成れるかの発破をかけられ、中二で電気工学の本を持ち込んで解らないでも読まされていた。
弟もこの頃は姉の夢のうわ言がただ事ではなく、叔父の存在も含めて何か鎮西家の先祖からの大きな力、強靭な繋がりが漠然と存在している事を感じて来てそれが自分には全く繋がっていないことで、こうなれば父親たちが経営する事業を受け継いで自分自身も姉に匹敵する存在になる事を考え始めたのだった。それと同時に父親が夢でうなされる姉を抱きしめている姿を何度も目撃し、姉も特殊な能力の中で苦しみながら生きていることを不憫だと思いやる気持ちが芽生えて来た。すると更に激しくなる姉の夢の中からの叫びに恐怖感がなくなり、逆にそれを理解してやるための知識と能力を養いたいとも思うようになっていた。・・・・・
ある日、両親不在で刀剣工の若夫婦と三人で過ごした夜、姉の部屋から今まで聞いたことが無い男女のむつ言が聞こえ始めた時は十三才の少年の胸に衝撃と言い知れぬ不安が起こったのだ!弟は若妻の部屋に駆け込み、
「お姉ちゃんが嫌らしい?変な声を出してるよ、誰か入って来てるのかも?」
二人はそっと瑠衣の部屋に入り、他に誰もいない事を確かめ、寝顔を見守ることにした。
「これは?・・瑠衣ちゃんは何処かのお殿様の息子さんと?・・愛の語らいをしているのかもね?・・」若妻が言った時、少年の脳裏の中に自分には知り得ないベールに包まれた女の子の早熟さと神秘性が流れているのを不安な心で受け止めていた。・・・・・・
幕末、日出城を出たるい姫一行は日出藩士三人の案内にて一路、中津城に向かった。長い道のりとなった。日出城での日々は鎮西八郎為朝が九州を制圧した時、陣を構えたと云う砦跡の若草の上で若と情を交わし合った時から、るいは藩主木下公も認める事実上の若の妃として寝所を共にしていた。次の世を見据えて西洋学を取り入れようとする聡明で武力が嫌いな学者肌の若の姿勢が、るいにとってもこの上なく心を惹かれたのだ。青い目の赤毛の宣教師と対峙するのも好きだった。日出城を一生の地として心に決めたのだが、兜の巨人武者がそうはさせなかった。
一行は日出から日出山香街道を行き、山蔵川に沿ってさかのぼり中津までの中間地点、安心院の茶店で休息を取っていた時、見慣れない西洋風の軍服を着た藩士らしき一団が通り過ぎた。西洋人と見間違うばかりの大男揃いだ、案内役の日出藩士が、
「ありゃ、最近、薩長同盟を結んだばかりの薩摩藩士じゃ、あの連中は毎日さつま芋と豚肉ばかり食うっちゅあげな、大きんじゃ、関わらない方がいいちゃ、」
るいの袴を履いた女装束は人目を引いた。暫くして、数人の薩摩藩士が追いかけて来て、
「我らは長州から戻る途中の薩摩藩士でごわす、豊後の何れの藩の方とお見受け申すがまっこと相すまんが、おはんらの藩の名前と、そこの背の高っか女人の方のお名前ばうちの隊長が聞いち来いと言うもんで、名乗って貰えんじゃろかいのう?」
女武士姿のタエが前に進み出た。
「この方は竹田の騎牟礼城のるい姫様で縁あって中津の奥平藩の招待で只今向かう途中です。私は姫の共でタエと申す、此方は案内役の日出藩の藩士どの達です、」
「これはこれは、名乗って頂いて有り難うごわす、日出藩と云うと幕閣ですろう?・・早速!隊長に伝え申す、ご免、」
「おじさんたち、豚肉を食べるとそんなに大きく成るのかな?・・」立ち去ろうとする大男たちに、るいが突然聞いた。男たちは不意を突かれた言葉に一瞬立ち止まったがおもむろに振り返り、
「さよう、豚肉とさつま芋でごわす、」と言って頭を振りながら去って行った。・・・
「いよいよ豊後も始まりもうしたな、倒幕の準備が?・・今のところ幕閣中の幕閣は肥後藩と唐津藩だけじゃのう?」
「じゃ、どの藩も?」タエが訪ねた。
「当、日出藩も揺れちょる、なんせ幕府に遠慮しとっても力が無いけに、幕府は・・今の勢いじゃ薩摩の西郷が実権を握るんじゃないか?」その時日出藩士の顔色が曇った。
暫くすると十数人の薩摩藩士の一団が近づいて来た。先ほどとは違う隊長らしき藩士が前面に立った。大男で研ぎ澄まされた鋭い目つきに三人の日出藩士のたじろぐ怯えが見えた。
「おいどんは西郷さんの斬り込み一番隊長、薩摩藩、中村半次郎(桐野利秋)でごわす、昨今、中津藩に寄り申したが、幕閣を捨て尊王攘夷の志を検討中じゃち、念書を貰い申した。これより日出藩に寄り申すがおはんらの藩は今以って幕府に寄り添う臆病者じゃちとは思い申はんが、藩主木下公は如何に?・・」
その恫喝にも似た圧力に日出藩士と女武士のタエは一歩たじろいだ。
新選組の土方歳三も避けたと言われる薩摩藩きっての使い手であるこの桐野と云う男、血生臭さがほとばしっていた。
「先ほど聞き申したが、此方のおいどんの目ぐらいの背の女人は、かの騎牟礼城の姫様じゃち聞き及び申したがそれは真んこつな?」
「私は鎮西城のるいと言う、おじさんたちは豚肉で大きくなったと聞いたけど、私の兜のお祖父ちゃんは猪肉を食べたからだと夢の中で言うの、」
男の眼光が一瞬、緩んだ、そして首を傾げながら、
「兜のお祖父ちゃんとは?・・あの?・・七尺もあったと言われる、鎮西八郎為朝公?・・でごわんぞ?・・」
「皆怖いと言うけど私には優しいのよ、お祖父ちゃん、」
「為朝公はわしら武士の頂点じゃち、・・」
「皆、そう言うのね、」るいの屈託のない瞳の奥に兜の大巨人が見えるのだ、桐野の武闘派としての心意気が消えていた。
「姫のその言葉は?」
「ずっと、先の世に私と同じ瑠衣がいて、その娘と何時もこうしてお話しするのよ、」
「不思議な姫じゃ?・・その愛くるしさでもって南蛮の大男の首を刺し通したこつも聞き申した。うちの西郷さんも一度はお会い申したいっち言うとるごわんど、」血の気がある鋭い目が少年のような無垢な表情に変わっていた。・・・・
目的地の城は、今まで見た事のない勇壮で美しい姿を現した。城下町に入ると人通りの賑わいがある中津の港の魚の水揚げに精を出すふんどし姿の男たちの前にるいは暫く立ち止まっていた。思い出していたのだ、親代わりと成って愛しんでくれた甚助とミヨの事を、・・・
あれから一〇年、甚助の律儀で勇猛な姿と母親代わりとなったミヨが生まれた子供の手を引いて寄り添っている姿が脳裏に浮かんで来た。行く流れに身を任せ、遂に此処まで来てしまった。赤い糸に引きずられるように、るいは呟く自分を思った。
「私は何処で生まれて、そして何処に行くのか?・・案内者はいるのだ、兜のお祖父ちゃんと先の世の瑠衣が?・・」・・
「るい様!お迎えの藩士が?」・・タエが促した。
正面の門が開き五~六人の藩士が歩いて来る。白髪の城代家老が杖に捕まりながら、深い皺の中から窪んだ眼を瞬かせながら、るいに近づいて来る。日出藩士が、
「お出迎えかたじけのう御座います、此方が、・・・・」
老人は間髪を入れず、曲がった腰を起こして、
「いや、いや、これはこれは、騎牟礼の姫様、ようこそ、この中津の城にお越し頂きました。殿もお待ちかねでございます、しかし、これは?大きゅうなられた、・・わしはな姫が幼少の頃お見かけした事があるのじゃ、石川政夫どのはお元気かな?」
るいは見覚えがあるようなその老人を眺めながら、
「お爺ちゃんは騎牟礼に来たことがあるの?」老人は再び腰を伸ばして、
「姫はこのわしを覚えておいでかな?まだこのくらい小さくて、元気が良い姫でトンボやら蝶々を追いかけていなさった、」
「ふ~ん、・・騎牟礼にお爺ちゃんと似たお侍がいるんだけど、もしかして兄弟?・・」
「ほお~、流石、姫は鋭い、よくお判りになった、・・実は向こうが弟なんじゃ、話せば長いが、わしは中津に、弟は騎牟礼に世話になっておるんです、」
その時、中津の藩士が、
「城代、そろそろ、殿がお待ちでござる、」
一行は中津藩士の案内で門を潜った。中津川の河口にそびえたつ城は、堀には海水が引き込まれ、二十二基もの櫓があって、門を数えると八棟もあった。総構えには六か所の虎口が開けられている。警備も手抜かりが無く鬼門である北東には闇無浜神社(くらなしはま)が祀られていた。海防強化のため海から城への入口に当たる山国川河口の三百間突堤には砲台が構えられ海原を見張っている。美しさと鉄壁の要塞を誇っている中庭には、手入れが行き届いた池が掘られてあり、大蛇が鎌首をもたげている様な松が水面に横たわっていて、縁には水仙と花菖蒲が顔を出し互いに鮮やかさを競い、中央に白色の睡蓮の花が紫の花弁を立てて一本だけ浮かんでいる。るいは足を止めてその景色に見入った。老藩士の、
「どうぞ、こちらへ?」の声もどこか聞こえず、周りの者の気配が消えて小さな水音だけが響いていた。
「母様!・・」るいの声が漏れた、・・そして長い時が訪れた。・・・・
目の窪んだ白髪の老藩士の挑むような目線があって、やがて平伏するタエと藩士たちの姿が、枝垂れ柳の下にひとかたまりになってすぐ近くに待女を従えた藩主奥平公が立っていた。
「騎牟礼の姫は何れか?花園の世界に迷い込んでお出でだったかな?」るいは軽く会釈をして
「お殿さま、この睡蓮の花はずうっと此処に浮かんでるんですか?」
「おおっ、姫はその睡蓮の花にご執心になられたか?・・その睡蓮は不思議な花でのう?ずっと以前に何処からか運ばせた物でのう、何処にも無いと云う紫の花弁が枯れもせず、その太い茎を保ったまま、・・確か?わしが若い頃からそこに浮かんでいるのじゃ?・・・
それはさておき、長旅でお疲れじゃろう?わしも鎮西八郎公の忘れ形見である姫を待ちかねたぞ、昨今は我藩も島津藩と契りを結んでのう、大男ばかりじゃったが、姫もこれは中々!・・七尺もあったと聞き及ぶ鎮西公の縁者だけのことはあるのう?さあ!さあ!城の中へ入られよ、・・」
そこに居並ぶ者すべてが、睡蓮に目を向けていたが、只一人白髪の城代家老が目の前の土を見つめていたのを、何故か?るいは見落とさなかった。
案内役の三名の日出藩士は労をねぎらわれ暫くして帰りの途に就いた。るい、タエ、匡一は城代家老に案内されて、本丸の中に入って行った。客人をもてなす豊後水道を望む長椅子に武士らしき男女が腰を下ろして海原を眺める姿があった。男は髷を落とし、ざんばらの髪を後ろに纏め、文明開化の様相を成していた。るいは城代家老が引き止めるのも構わずその人物に近づいていった。
「おじさま、その髪は新しい世の髪型なんですよね?」男女は腰を下ろしたまま目を細めてるいを見上げていた。暫くして
「おまさん、どちらの女人か知らぬが?おぼこい顔しちゅうがまっこと異国の者んのごつごっつう大きい女子ばい、・・こん髪が新しか世の髪型ちい知っちゅうはひせる(驚く)ぜよ、・・おまはんの名前をぜひ聞かせとうせ、・・」ざんばら髪の男は立ち上がって握手を求めて来た。るいは手を差し出しながら傍のタエに、
「タエ!るいは先の世を見据えたこんな素敵なおじさまに初めて遭いました、・・」周りは呆然と見つめていたが、るいは握手をした後汗臭い羽織袴の男にハグを求めた。
「おう!わしもこげなおぼこい娘に抱きつかれて思い残すことは無いぜよ、・・確か?西洋ではこうして軽く抱き合うのも一つの挨拶ぜよ、・・」
腰を下ろして見上げた共の女は静かに微笑んでいた。・・・・
薩長同盟を果たした土佐藩士は薩摩藩士と共にこの中津城に暫し留まっていたが、次の日、肥前の国(長崎)の唐津城に向かった。幕政の老中も兼任した唐津藩は幕閣の中で随一、藩財政が潤っていた。他の藩は幕閣になると諸費用がかさみ、老中などの役職の手当ては殆んど出ず、名誉だけが付いて来るのみであったが、その中で長崎奉行は外国からの輸入品を検査の名目で無関税で買える権利があり、買った輸入品を大阪や江戸の商人に高値で売り渡し、数年で蔵が複数立つと言われていた。しかし潤うのは藩内だけで、町民には届かず時代の流れで未来が無い幕閣を捨てさせる為にこの男は小笠原公を説得しに向かったのだ。
十六才のるいの心が揺れた、これほどまでに先の世を見据えたスケールの大きい男に初めて出会ったのだ!
「るいはあの男について行きたい、」
「姫様!それはなりませぬ、あの方は今を時めく幕末の獅子です。やっと十六になられた姫様の相手になるお方ではありませぬ、」
「どうしてだ?タエ、・・るいも十六で、もう大人だよ、憧れる君に心を燃やすのが何故?いけないんじゃ?」
「るい様は勝手過ぎます、余りにも我まま過ぎます、姫様がついて行かれたらタエはどうすればいいっちゃ?」
「タエたちも一緒について来ればいいんじゃ?」
「そんな事をすればタエは騎牟礼の甚助さまに手打ちにされます、・・それにあのお方には共の女の方がいらっしゃるじゃありませぬか?」
「私はあのおにいちゃんのお嫁さんに成りたいと言うのではないんだ?・・あの人の先の世に向かって進む姿に憧れるの?・・だから一緒に行きたい、と言ってるの?・・」
「それは絶対にダメです、あのお方が迷惑がられます。それに女の方も嫌だと思います?」
「どうして?それが判るの?」
「タエには判ります、・・もしタエがあの女の方の立場だったら?嫌ですもの?姫様が一緒について来るのは?」
「・・・・?」
「やはり、姫様はまだ子供なのです、お判りになってない、・・背は男たちよりも高く麗しいお姿をされていて、どんな大人の女子も見劣りがするのです。あの藩士さまも男ですから、最後は共の女の方から姫様に心が移って来るのは判っています。英雄はより美しい女子を好むものなのです。そうなったら私はあの方から恨まれます。」
「タエは何故?そう云うことが分かるの?」
「大野の兄たちや父親を見ていると分かります。最初、一緒になった女子を離縁して若い麗しい女子に乗り換えるのです。私の母親が苦労した姿を思い出すのです。お殿様たちもそうではありませぬか?正室の奥方を差し置いて、より若い、より麗しい側室を何人も持たれるじゃありませぬか?正室のお方は実は胸の内は苦しくて切ないのです。・・」
るいはずっと支え続けてくれたタエの必死の願いに頷いた。
平伏していた匡一が、うな垂れるタエを見ながら言った。
「タエさんも情を交わした佐吉と云う人と、本当は逢いたいのです。佐吉さんもそうだと思います。」
「わかった、わかりました。るいはもう、我がままは言わぬ、・・この城にいつまで居るか、わからないけど、騎牟礼に使いを出して佐吉に来てもらうように、此方の殿さまに頼んで見る、・・」・・・
るいは明け方の暁の頃、本丸の窓から遠ざかって行く藩士と共の女の姿を長い間、見つめていた。・・・・
藩主、奥平公は情に厚く文武に兼ね秀でた人物だった。学問の為の藩校を作り、文明の足跡を教えようとした。歴史上最強の武者だと歌われた為朝公の忘れ形見のるい姫をこよなく向かい入れ、天守閣の下の階に住まわせ、中津藩一〇万石の威光を更に示そうとした。
るいとタエ、匡一は藩校にも通い、西洋の文化にも触れた。それは城の外の町並みにも表れていて、るいは次第に去って行った藩士が話していた以前から開かれた肥前の国(長崎)の平戸という町を見たいという思いに駆られたが、その思いは叶えられなかった。
中津城には頻繁に薩摩藩士が倒幕の準備の為に出入りしていた。中津藩も豊後の各藩を回り、倒幕の意思を確認すると共に、幕閣を譲らない隣の肥後藩の監視をした。
幕末の本格的な動乱が動き始めた。あちらこちらで勤王側との小競り合いが始まり、藩を上げての争いに発展していた。
一年ほど経った頃、城内の花菖蒲の池にて奥平公主催の夜会が行われた。夜会には城への出入り商人や名だたる名士や藩士、滞在していた薩摩藩士も招かれていた。かがり火の中に睡蓮の花の紫の花弁がひと際、奥深さをたたえている。るいは何故か?まだ見ぬ母親を思った。
珍しい西洋の金管楽器が吹き鳴らされ、演奏する薩摩藩士も多数夜会を盛り上げていた。酒宴も終わり頃になった頃、最後のひょっとこ踊りが飛び出し商人や藩士の混在組が列を作って池を一周し始めた。薩摩軍の進軍太鼓とラッパの音に合わせた踊りに手拍子が加わり、夜会は最高潮に達した。ひょっとこの列が、るい姫の傍に近づいた時、突然、ひょっとこに化けた忍びが竹筒に忍ばせた刃で、るい姫に切りかかった。るいはとっさに懐剣でその太刀を払いのけ立ち向かおうとしたが、タエと匡一が既に太股と肩口に深手を負っていた。・・傍で酒を飲んでいた薩摩藩士、桐野が鋭い刃を二人の狼藉者に向けたが一人を仕留め、二人目は七尺の石塀を乗り越え闇に消えて行った。
仕留められた忍びは胴を水平に切られていたが、池の中で舌を噛み切って絶命していた。
中村半次郎(桐野利秋)が静かに言った。
「るい姫の敵は既に城中にいるかもしれもんど?」・・・・
奥平公は激怒した。
「これほど、盛り上がった夜会でさもあらず、鎮西八郎為朝公ゆかりの姫のお命を狙うとは?一体?何の因果で?・・かの強弓の矢で持って串刺しにされんや、」・・・
この夜会事件は出入りの商人や藩士から口づてで瞬くの間に世間に広まった。一月ほどして、騎牟礼城から甚助、ミヨ、佐吉が中津の城に到着した。城内に入った一行を、るいは花菖蒲の池で迎えた。ミヨはいきなりるいの膝元にすがりついて離れなかった。
「姫さま!ご無事で、・・これは?・・見間違うほど、麗しくとてつものう、大きゅうなられて、・・甚助は胸が張り裂けそうでございます。杵築で一目お会いした時から十年ぶりでございますなあ、・・あの小さかった姫がこぎゃん?大人になられて,・・あの時このわしの不注意で姫を奪われなんだら?・・」頑強な甚助が目頭を押さえている。
「よい!よいです、甚助、親代わりとなってくれた二人の事は一時も忘れませんよ、・・私も会いたかった。・・ところで甚助は幾つに成ったの?」
「二十四で姫と別れました故、三十五のいい親父に成り申した。」
「ミヨには子供は?」
「娘と息子がおりまする、」るいの膝元から離れたミヨが言った。
「タエが佐吉に会いたがっちょると云う知らせがこの城から来ました故、佐吉だけを向かわせようと思うちょりましたが、夜会で姫のお命が狙われた事を聞いて、石川様の許しを貰うて駆けつけました。お怪我は?・・」
「私は何ともない、タエと佐伯城で共とした匡一が深手を負ったが、傷も大分治ったようじゃ、・・心配をかけました。・・」るいは十七才となり、背は六尺(百八十センチ)に届こうとしていた。
「ところで、甚助?・・騎牟礼の白髪の藩士どのはお元気か?・・」
「はい!あの御仁は、今は騎牟礼の軍師になっちょられますから、・・」
「この城の城代家老と騎牟礼の御仁は兄と弟だと聞きましたが?・・」
「それはわしも聞いちょります。」
「それと?・・私はそこの池の睡蓮の花を見ると何故か?まだ見ぬ母様の面影が浮かんで来るのですが?・・」るいは静かに呟いた。
その瞬間、ミヨは堰を切ったように顔を上げた。
「女中頭の福さんが私にそっと言っていました、・・縁がある大野の刀鍛冶の鎮西屋さんの庭の池に、珍しい紫の花弁が立った睡蓮の花があって、そこの美しい奥様と名工の旦那様があることでお亡くなりになって・・そして・・?」・・、
「そして・・?・・何じゃ?そのあとは?・・」甚助が問いただした。
「分かりませぬ?・・福さんもそのあとは何も?・・」、ミヨは怯えていた。・・
「刀鍛冶の鎮西屋と云うと一度、我が城に?・・寡黙な大男じゃったが?・・」
「あのお髭の大きな方は亡くなった旦那様の腹違いの弟子じゃち聞いちょります。」
「ミヨは夫婦でありながら、わしには黙っちょったのか?」
「甚助さん!すいませぬ、・・福さんがこの事は絶体に他言しないでくれと、・・」、
「ミヨ!・・わしには言うて欲しかったのう?・・」・・・
そこに奥平公が奥方と共にまいられた
「これは、これは、騎牟礼城の方々、名がある姫をこの度、ご招待申し上げておる、長旅ごゆるりとくつろがれよ、」
「我姫をこの度、暖かくご招待頂きまして、誠にかたじけのう御座います。主の石川政夫も殿には何とど宜しゅうにと、」甚助はこの言葉をこれまで何度も繰り返して来た胸の痛みを感じた。
「昨今、当夜会でるい姫の命を狙う輩が現れたが、騎牟礼では何か?心当たりは?・・」
「我姫は五才より幾つもの城にご招待を受け、幼き身で南蛮の無法者を刺し殺したり、あっぱれな仕業をされており、わたくしめも他の城の事はよう解りませぬが?・・当騎牟礼ではトンボを捕まえたり以外には恨まれるような心当たりは一向に?・・」、甚助も頭が混乱していた。・・・
タエと匡一が見回りの藩士と共に外から戻って来た。匡一は着物の肩口から血が滲んだ白い晒がはみ出ている。タエは赤い襦袢に袴を履いていて、傷が完治したような晴れ々しい姿は無かった。しかし二七才の女ざかりをとうに超えたにも拘らず、佐吉の姿を目の当たりにし、一瞬、乙女のような初々しさを取り戻していた。・・
るい姫の言う睡蓮の花を見つめながら、甚助の脳裏は一点に集中していた。十六年前、物見番として騎牟礼城に上がった時、女中頭のお福どんが、赤ん坊を抱いて番屋に飛び込んで来た後、お福どんが誰かの子を宿したのを隠そうとしたのかも?と疑った時の一件が、まさしく走馬灯のように蘇っていた。・・そして今、るい姫の思う睡蓮の花の母様の面影?・・
大野の鎮西屋の庭先にある睡蓮が何故?この中津城にあるのか・・?、甚助はるい姫の出生と大野と中津とに横たわった得体の知れない禍々しい鎖が繋がっているのを感じ取っていた。そして時が過ぎ、身の丈は見上げるほどの愛くるしさが残る姫の身の上には禍々しさのタガは消えている事を?願った。
「姫!私は姫の無事を確認致しましたので、すぐさま騎牟礼に立ち返りこの事を石川様にお伝えし、その足で大野の鎮西屋に向かいます。佐吉は姫の共に付け薬草にも秀でておりますのでタエたちの傷の養生にお使い下さい、」
翌朝、甚助とミヨは睡蓮の花が浮かぶ花菖蒲の池で、るい姫に別れを告げた。・・・
夏が終わり、秋の足音が近づく小雨の中を甚助たちは、足早に豊後街道を下っていた。
「るい様は大きゅう成られたのう、わしが見上げる位じゃった、お会いした時、我目を疑ったぞ、南蛮の女子ちい思った、」甚助はため息に似た感動を思い起こしていた。
「幼い頃の姫様の面影が重なって、私は涙でお顔が良く見えませなんだ、眼差しが鋭くなっておられましたが、愛らしさは残っていました。麗しくなられて、・・騎牟礼にはいつお帰りに成るんでしょうかね?」ミヨは後ろ髪を引かれる思いだった。
小雨で湿った体を休める為、二人は安心院の茶店に腰を下ろした。餅が入った善哉をすすりながら甚助は五才のるい姫が騎牟礼城でトンボを追いかけている頃、騎牟礼の老藩士の兄と云う人物が訪ねて来た事を思い出していた。中津のるい姫がそれとなく老藩士の事を聞いたからだ。そして中津城でも兄と云う人物は姿を見せなかった。・・・
甚助はミヨに尋ねた、
「ミヨが騎牟礼の城に上がったのは十六で、今の姫様と同じ年じゃが、あの頃、突然姫様が現れた一連の流れに対する我が城の軍師殿の動きをミヨはどの様に取るか?・・」
「ミヨはあの老藩士様は怖いお方であると云う事だけでそれ以外の事は良く解りませぬ。それと?・・私があの夜、為朝様のお姿を光の中に見た事を女中頭のお福さんに伝え、それを石川様に申し上げた時、御一緒だった老藩士様がひどく怯えた表情をされておられたことを、お福さんから聞きました。」
「わしもあの当時は半信半疑じゃったが?石川様はそれは有りがたいことじゃけに、姫の事は大事にせにゃいかん、と申されとったがのう?・・」
「甚助さんは今でも半信半疑じゃち思ちょるんですか?」
「いや!それは消えた。・・あの背の高さ、・・精悍な美しい顔、正(まさ)しく七尺もあったと云う為朝様の忘れ形見に間違いない、・・わしはのう、ミヨが為朝様の夢を見たち思とったんじゃ?石川様の部屋の武者の絵図を何度も見てのう?・・しかし、中津で姫の姿を見て確信したんじゃ、」
「あれから老藩士様はるい様のことについては一切何も語られませぬ、お福さんもそのように言っていましたが?」
「う・・、さて?・・中津で姫の命を狙う輩が現れた。・・睡蓮の花に母様の面影を見られたのか?・・刀鍛冶の鎮西屋の庭の睡蓮の花?・・ああ!分からぬ?・・」絡んだ因縁の鎖を手繰り寄せるのは並み大抵ではないことを甚助の脳裏で激しく駆け巡った。
「お福さんは何かを知っています、・・生まれたばかりのるい様を抱いて来られたのはお福さんですから?・・」
「こうなりゃ?お福どんに聞かずばなるまい、るい様の一大事じゃから、」
二人は皮底の草履の紐を締め直し、茶店を出た。・・・
るい姫に関わって十七年、甚助とミヨの人生は波乱が待ち構えていた。しかし、幕末の世、るい姫の存在が二人の生きる道しるべでもあった。十一年前、るいの親代わりとして、初めての里帰りの途中から、突然、るい姫と甚助たちの動乱が始まったのだ!甚助は姫を奪われた己の不始末を悔やんだが、ミヨの献身な支えの内に二人の子を成し、一度目の里帰りは長女が生まれた七年前だった。二人の子は甚助の年老いた親元から、農家であるミヨの実家に移している。
ミヨも煩雑な騎牟礼の山城で甲斐 々しく立ち働くことで、体は丈夫に成ってはいたが、流石に竹田まで三十里の道を壱日で歩くのは無理があった。途中、足を引きずるようになったことで、まだ日は落ちていなかったが、甚助は街道から少し入った由布院温泉の宿で一泊することを決めた。
その宿は金鱗湖の横にあって、長屋風の繋がった部屋があり、奥には露天の茅葺き屋根から湯気が滴り落ちていた。何処かの部屋で大勢の男たちの憩う声がする、夕食の前に二人は露天に立った。誰もいない湯の底に足を置くと沼地と石ころが混在していて、広い湯殿は所々に岩が頭を出している、甚助はミヨの背中を眺めた。濡れた鬢が肩にかかり苦労を共にしてきた肩口から湯気の滴が流れ落ちる。
「ミヨの背中を流してやるか?・・」甚助の優しさにミヨはそっと笑った。
その時、露天に通ずる板の通路から荒々しい酒に酔った十数人の男たちが飛び出して来た。
逞しい若者が多い、先頭の三人が洗い湯もせずに湯殿に飛び込んで来た。湯飛沫が甚助たちにかかった、ミヨはすぐさま甚助の陰に隠れた。
「貴殿たちは元気が良いのはいいんじゃが、風呂にはもう少し静かに入っちゃらんな?」
甚助は顔の飛沫を払いながら諭すように言った。
「なんじゃ?・・静かに入れじゃと?・・此処の風呂は静かに入るように決まっちょるとな?」若者が言った。
「子供じゃあるまいし、他の客に飛沫がかかるのが分からんちゃ、馬鹿たれじゃ、」
「馬鹿たれじゃと?・・長州藩士をコケにするんか?おはん、」若者は湯殿に立ち上がって、股間の一物も忘れて逆上せ上がっていた。
「長州か薩摩か知らんが?男の一物は立派なくせに、そぎゃん飲んでからに風呂ん中で又逆上せちょったら脳みそがひっくり返るぞ?お主は?・・」
ミヨは成り行きを見ていたが、甚助の陰からチラッと振り返り、くすっ!と含み笑いをした。
その瞬間、目眩がしたのか若者は湯殿に倒れ込んだ。一同に笑いが起こった。
後から入って来た男が甚助に聞いて来た。
「どちらの藩士でごわんど?」
「わしは竹田の騎牟礼城の砲兵副長で甚助と申す、これは妻のミヨで中津城からの帰途で此処に一泊致した。」
「あっ!これは女人同伴のところを、ほんなこてぇ、失礼ば申した。騎牟礼の甚助どんは、おいも知っちょり申す。今度、長州ん者と一緒にあっちこっちの藩を回っちょりますが、お陰でだいぶ尊王に変わり申した。先ほどこの長州っぽに薩摩焼酎を飲ませたところ、この有り様でほんなこてぇ、お詫び申す。」薩長同盟が快進撃を続けている息使いが聞こえて来る。
「わしも一度、薩摩焼酎を口にした事があるが酩酊し申した。そちらの若い衆は一物が立派じゃけに多分大物じゃち、」甚助は酩酊者を湯に流した。・・・
甚助とミヨが夕食を取っていると、先ほどの薩摩藩士が彼らの座に招待を申し出て来たが、ミヨは行かず甚助だけが薩摩焼酎の相伴に預かることになった。
この頃は既に騎牟礼城の本城である岡城は時代の流れと共に薩摩と手を結び尊王派の指導者として倒幕活動に邁進していた。
さかのぼる一五八六年頃の岡城は薩摩 島津藩の豊後に向けての攻撃に再三に渡って、島津藩を撃退し、豊臣秀吉から褒状を受けた程の因縁の間柄であったが、その後、中川藩になり大規模な修築を施し、本丸、二の丸、三の丸御殿を造営し、敷地を拡げ、重臣屋敷をも設けた。本丸には御三階櫓を造り、城下町を整備し、当時、豊後一の七万石の石高を収めていた。・・・
甚助は薩長藩士とひと晩飲み明かした後、翌夕に騎牟礼城に辿り着いた。
そこには既に薩摩藩士が訪れていて、主人の石川政夫を中心に、幕閣を捨てない肥後藩と肥前唐津藩の攻略を進めていた。石川政夫から肥後藩の攻略に向かう事を進められたが、中津城でのるい姫の一部始終を伝え、鎮西屋にまつわる過去を探ることを進言した。軍師の老藩士は岡城での作戦会議で不在だったが、石川もその事には少し不可解さを感じていた事で、秘密の行動として含みを持たせた。ミヨの話の筋道から、女中頭の福どんに詳しく聞き取りをした結果、固く閉ざされた口元から一筋の過去が語られた。
それは十数年前、鎮西屋一家に不幸な事件があったこと、福どんは以前一時、鎮西屋で女中奉公をした事があって、後釜に知り合いの農家の女を奉公させたが、奥様がお産をされた次の日にお祝いの為に山菜を取りに行って、帰って見ると惨劇が起こっていて、何者かに深手を負わされて亡くなっていた鎮西屋夫婦を弟子の人たちが介抱されていて、髭の弟子の人から、
「この鎮西屋にはかの鎮西八郎為朝公にまつわる因縁がずっと続いており、忍びない事じゃが、災いをこれ以上、増やさない為に他言はしないでくれ、」と頼まれた事、そして皆で生まれたばかりの赤ん坊を探したが、何処にも見つからず、さらわれてしまったと云う事になった事の顛末を聞いた。更に、
「それから他の女中衆が言うとりましたが、当時、中津からの兄の老藩士様が訪れていて、兄弟でひと月程、騎牟礼を不在にされていた事を聞きました…戻って来られたのは騎牟礼の老藩士様だけで傷を負っておられて、大変お疲れになっておられたようです。」と、
小声で話し終わった福どんは額に汗をかき、怯えた顔をしていた。
「わしはあの当時、この城に上がったばかりで、老藩士様のことも、よう分からんかったじゃけに?・・しかし石川様も鎮西屋事件については不可解さがあった。と言うておられた。・・」・・・
甚助は一人大野に向かった。街道から逸れた山道を進んだ。鎮西屋は大野の北西、湯布院の方角の山間部にある。途中険しくなった所で街道に出た。見覚えがある。以前姫を奪われた折に、佐吉と共に走った道だ。案の定、数人の大野武士と出会った。顔見知りもいる。二人の年老いた武士らしき老人が輪の中で腰を下ろしている。佐伯城から引き上げて来た時、片目の五十男だったオヤジと数年間、騎牟礼城に留まったが、同じ軍師どうし、騎牟礼の老藩士と馬が合わず大野に戻った国司に通じていたオヤジだ。二人とも佐伯城と岡城とで大野の土地を分配した後の紛争の為、甚助はそれを治めるために一年以上を要した。結局、土地は大野の元に帰ったのだが、その時の苦労を共にした仲だ。甚助は懐かしさもあって輪の中に腰を下ろした。二人の老武士曰く、
「あれ以来、大野の地は草刈り場に戻ってしもうた。大半の者は、臼杵周辺の藩に米や穀物を治めるか、城に招かれて給金を貰っちょる。なんせ?幕末の動乱の中、先行きが見えん者が多いんじゃ、国司様は今の幕府はなす術もなく、尊王攘夷の台頭で間もなく倒幕は現実のものとなると、・・ここにも薩長の藩士が来たぞ!わし共は別にあがらうつもりは無いんじゃけど、大野は昔から持ってる此処のいにしえの言い伝えがあるんじゃ、」二人の大野武士はかなりの高齢となっていたが、心意気は一向に衰えない目の光があった。
「岡城も今は時代の流れじゃき、倒幕の方向に行かにゃ、時代に取り残されて何も無うなってしまう、・・じゃから支城である騎牟礼の石川様も一生懸命じゃ!わしはある事で、今から此処の地の山中にある刀鍛冶の鎮西屋に向かうところじゃ、・・」、甚助はまくし立てた。
「鎮西屋の髭男も一時、わし共の郎党に加わったんじゃが、最近は鍛冶屋に籠って一向に外には出て来ぬ。あの男もわしと一緒で騎牟礼の軍師どのとは馬が合わんようじゃ、・・と云うよりもあの御仁たちは昔から何か確執の因縁があるようじゃ、・・・軍師どのには一人の兄がいたようじゃが、元はと云えばあれ達の曾祖父はこの大野の地から訳あって何処にか去って行ったち、わしの親父から聞いたことがある。」国司に通じている老人が思い出すように呟いた。
「鎮西屋との因縁とは何じゃろか?・・」、甚助は問うた。
「う~ん!わしが子供の頃、親父が国司様から聞いた話じゃけに、定かでは無いんじゃが?・・騎牟礼城をお造りになられた為朝様が、一時、この豊後を統一された事と関係するんじゃ無いじゃろうか?・・それと軍師どのの家系はタエの家の家系と同じで大昔、朝鮮の新羅と百済からの移住者の家系で、曾祖父の時代には移住者同士の紛争もあったようなんじゃ?・・で、袂を分けた軍師どのの家系が何処かに行ってしもうた?・・」国司に通じる老人は眉間に皺を寄せて、唸るように言葉を探した。
長い時間が経って山際に日が落ちて、甚助は岡城の中川家の菩提の近くにある番屋で、大野の郎党と酒を酌み交わし一夜を過ごすことにした。
翌日、夜も明けきらぬうちに甚助は番屋を出た。街道を少し進み、再び山道に入った。丘の上に来ると前方にうっすらと由布岳が見える。この方向で間違いない事を甚助は確信した。山々は秋の紅葉が始まろうとしている。枯葉に覆われた道に、栗の毬がはじけて実が転がっている。甚助は少年の頃、山猿のように暮らしていた。腹が減ったら、栗や柿を食い、小鳥を一網打尽にして串に刺して並べて火にあぶり、午前と午後に分けて食ったりもした。時には仲間同士で出刃包丁を長い樫の棒の先端に括りつけ、猪の雌や子供を狙って捕らえ、皮をはぎ、頭から尻まで槍棒で貫き回転させながら火であぶり、一週間の食事処とした。毎日火であぶりながら食うので腐らないのだ、腹を空かした娘を見つけると、その食事処に案内して、腹いっぱい食わせ、引き換えに思春期の体の見せ合いっこ(お医者さんごっこ)を強要した。素直に従う時もあれば、娘の親父に言いつけられて殴られたりもした。・・・怖いもの知らずの少年の夢と思い出がいっぱいになった。・・甚助は浮かんで来る過去に含み笑いをしながら転がっている栗の実をそのまま噛み割った。甘い!芋より甘い!一〇個くらい食ってみた。水筒が無く喉が渇くので、道端に群生している野苺を片っ端から摘み食いした。甘酸っぱい汁が渇きを潤した。自然は昔も今も変わってはいないのだ。
先ほどから遠くの方で山犬の泣き声が聞こえていた。それは暫く歩くと道の斜面から落ちた谷のせせらぎから聞こえて来るのが分かった。目をかざして見ると砂と小石が混じった沢を数頭の茶色の山犬が円を描きながら、中心に向かって吠えている、中心には大きな灰色の猪が頭を低くして、唸りを上げ、周りを威嚇している姿があった。突然、一頭の犬が猪のしっぽの根元に噛みついた、猪は何故か?動かない、更に痩せて骨ばった狼に似た斑の犬が、猪の耳元に一撃を加えた、低い怒声を上げた猪は、耳を咥えさせたまま、素早く回転し、しっぽからずり落ちた犬の股間と鼻先がぶつかった、犬は跳ね上げられたように見えたが、その光景は猪の頭と牙に、二頭の山犬がぶら下がっていた、甚助は我を忘れ、膝を折って野生の闘いに見入った。
斑の犬は耳に歯を入れていて、もう一頭は後ろ脚の股間から外側にかけて牙で貫かれ、逆さ吊りになって、金属音の泣き声を上げていた。甚助は偶然にも、このような光景を初めて目にしたのだ。尚も牙を頭上に差し上げ、引っ掻けた犬を見せしめの様に揺さぶっている、犬は片方の後ろ脚を痙攣させながら猪の鼻先を蹴っている、そのうちに、今度は耳から離れた斑の犬が大木の根に向かって突進している。木の根には子豚がうずくまっていたのだ。親猪は頭を下げ、引っ掻けた犬を振り払い、大木の斑の犬に向かって牙を剥いた、犬は子豚の鼻に歯を立てて引きずろうとしている、そこに雄猪が突進した、山犬は体をくの字に曲げてかわそうとしたが、遂に子豚を離して藪の中に消えた。沢を下流に向けてびっこを引きながら三匹の犬が引き上げている。
甚助は獣の闘いを呆然と見送ったが、長い間、其処に留まっていた。
「獣の世界にも幕末の動乱が来おったか?・・」と呟いた。
山道を黙々と歩いた甚助は昼過ぎに鎮西屋に着いたが、三人の藩士が入れ違いに十数本の鞘に収めた刀を縄で括って肩に担いで出て来るところだった。服装から見ると、薩摩藩士のようだ、双方は互いに名乗りあった。
「幕末の先頭を切られる薩摩のお方には、わし共、騎牟礼城も遅れてはならずと発破掛けちょりますが、」と甚助は勢いを鼓舞した。一人の薩摩藩士が聞いて来た、
「騎牟礼のお方!ここの刀鍛冶の鎮西屋どんは、騎牟礼城を造り申された鎮西八郎為朝公と何んか?関係がごわんどか?・・」
「実は某もそこんところが分からんじゃけ?聞きに参った、」
「おいどんに、こん前、半次郎はんが言うとったが、中津城で騎牟礼のるい姫を見たと、真っこと背が高っか、美しか女子じゃった、と・・・」
「姫は五才の時からあっちこっちの城に招待されちょって、わしも十年ぶりに中津城で会ったばかりじゃけに、」
「ほんなこつ?おいどんもるい姫に一度、会うて見たかもんじゃのう?」
薩摩藩士は互いの無事を祈り、一礼して帰って行った。
鎮西屋は四~五人の弟子と共に池の傍の丸太に腰を下ろし、昼の休憩を取っていた。皆手ぬぐいを首に掛け、にぎり飯をほうばっていたが、疲労の色が見える、薩摩藩士に十数本の刀を納めたばかりなのか?・・髭面の大男が甚助を見ると暫く目を細めて眺めていたが、
「おう!・・誰かと思えば、騎牟礼の甚助どん?・・いつぞやは?と言うてもだいぶ昔じゃったが?・・」
「如何にも、騎牟礼の甚助でござる。鎮西屋さんとはあれ以来でござるな?・・」
「よう、来られた、・・さあ、さあ!こちらでお茶でも飲まれまいか?・・」
見上げる様な男が肩を丸めて手招いている、髭面だが意外と若くて甚助より半回り年上のようだ。そこに二人の女人がお茶と漬物らしき物を運んで来た。
「わしの妻じゃ、若いのが妹で、人手が足りんで来て貰っちょる、」
「刀鍛冶は力仕事でしんどいでしょう?・・熱いし!」甚助は問うてみた。
「ああっ、腕が固まって動かん時もある、この弟子たちもいつまで続くか、わからんじゃけに?・・」
「俺は絶体、辞めんぞ、辞めたら行くとこ無いじゃけに?・・」一番若い弟子が言った。
甚助は佐吉の若い時に似てるその若者に出身を聞いて見た、
「俺、大野じゃ、親戚のタエ姉ちゃんちの紹介で此処に来たんじゃけど、親方は俺が長続きしない、もうお前は辞めるじゃろうち言うんじゃ?・・変な親方なんじゃ?・・俺の親父はお城なんかに上がったら、戦争に駆り出されてすぐ、死んじまうんじゃけに、・・鍛冶屋はそれが無いけに、ずっとそこで我慢しろち言うんじゃ、」素直なその若者の言うことに甚助は成る程と思った。甚助自身この動乱の中で生きながらえるのは難しいとも思っていた。
鎮西屋の妻が運んで来たお茶と、どろっとした小豆の善哉があった。刀鍛冶は疲労回復の為に善哉を食うらしい。甚助は善哉を馳走になりながら来る時に出会った猪と山犬の闘いの話をした。妻の妹が目を大きく見開いて子豚が助かった事を手を叩いて喜んでいた。・・・
甚助は腰を開いて向き直り屋敷全体を眺めて見た。池の横に鍛冶の作業小屋が有って正面に茅葺きの大きな住まいが周りの樹木に溶け込んでいる。目の前の池の真ん中に二つの睡蓮の花がくっきりと首を伸ばしていて、縁の周りには湧き出してくる波紋に菖蒲と水草が優しく揺れている。
「先日、我るい姫が中津城に留まっているという知らせを受けて、わしは妻のミヨと佐吉を伴って訪れて見たのじゃが?・・城の庭園にある池にこれと同じ睡蓮の花が浮かんでいてのう?姫が突然、母様の思いがする、と言われてのう?」甚助は鎮西屋の表情を見つめた。
髭面の男の表情が険しくなって、沈黙の時が訪れた。
「中津城にるい姫が?・・睡蓮の花があったとはさて?・・」、鎮西屋が低く呟いた。
「それが中津城で花会が催された時、るい様が何者かに襲われたんじゃ!」寡黙な髭面の男の目が大きく見開いた。
「何んと、」
「二人組の忍びじゃったらしゅうて、一人は丁度、居合わせた薩摩藩士の使い手によって、打ち取られたようじゃが、共のタエと匡一という若者が肩と太股に怪我を負っていた。」
「タエ姉ちゃんが?・・」刀工の若い弟子が叫ん。
「大丈夫じゃ、・・わしが行った頃には治りかけていた。じゃから、好き合っていた佐吉を向こうに置いて来た。・・勿論、忍びなどに討たれる姫では無くなっていたが、まだ十六才じゃが、背は鎮西屋どのくらいはあったじゃろうか?鋭い眼差しで美しゅうなられて、」
鎮西屋は目を閉じた。・・
「わしとミヨが五才の姫を連れて里帰りの最中に姫を奪われなんだら?・・姫はあれから十年位もあっちこっちの城を引っ張り回されて、わしの落ち度じゃった。何度か腹を斬ろうち思うたが?・・・・」
「甚助どん、貴公だけに苦労をかけてすまん、許しちくれ、」鎮西屋は目を開けた。
「この二週間、えらいな忙しゅうてな、弟子たちもゆっくり寝ちょらんし、二~三日休ませにゃならん、甚助どんには色々と話しせにゃならんけに、今夜はゆっくりして貰って良いじゃろか?」鎮西屋は妻が用意して来た給金を弟子たちに配った。・・・
甚助は鎮西屋の座敷に通された。板戸も梁も古く、すすの為か全てが重く黒光りしている。
百数十年の歴史が伺える壁は黒ずんでひびが走っている。床の間には騎牟礼の石川様の部屋にある源為朝公の絵図が枠に入って立て掛けてある。
「鎮西屋どの、この家の屋号(鎮西屋)と言い、この絵図と言い、鎮西八郎為朝公とは如何なる関係があるのか?差し障りがなかったら?・・いやあったとしても、これはもう、教えて貰わにゃいかん、わしの以前からの懸案じゃった、」
「この家は元から鎮西屋と言う屋号じゃったんじゃ、わしは此処の亡くなった主人の従弟でな、二十才を過ぎてから此処に弟子入りしたんじゃが、この部屋に為朝公の絵図があるんじゃから、何も関係が無いとはわしも思うちょらんのじゃが?主人はその事については固く口を閉ざしちょった。為朝公からの何かの因縁が続いていたんじゃろう?なんせ七百年も前のことじゃけに?」
「ところで、此処の鎮西屋の主人と奥方は何故?命を取られたのか?お話し頂けるかな?」
「それも長い々 過去からの怨念というか?復習に次ぐ復習じゃ?・・主人は頼朝公の血を強く引いたのか?気質が荒く、刀剣を打つ横顔は鬼の様な気迫がほとばしっていたが、女、子供には慈愛に満ちた表情もあり、わしは主人夫婦が不慮の事故であの世に行った事じゃけに、もう心の中に静かに納めようと思うちょったが、るい姫が中津城で襲われたと聞いて何も知らない姫が不憫じゃ、しかもあの男がいる城で?・・・」
「それと睡蓮の花が中津城にあった事は如何に?・・・」甚助は最後の疑問を問うた。
「あの男たちが怨念を晴らした時に、一輪 持ち帰ったものじゃろう?あの睡蓮は主人の奥方が大事にしていた花で、奥方そのものの様じゃった、じゃから、姫もあの睡蓮に母様の姿を見たのじゃろう?」鎮西屋は盃を傾けた後、肩を落として目を閉じた。沈黙があった。
「もう、十六年も経つんじゃな?・・あの時は三人の弟子と一緒に刀と槍を荷車で岡城に収めに行く日に、るい姫が産声を上げたんじゃ、・・岡城に着いた時、大雨になってのう、岡城の番屋でひと晩夜を明かし、昼過ぎに戻った時には主人は鍛冶場で胸を刺されて絶命していた。奥方は庭先の池の畔で胸を押さえて息絶えていた。刀傷は無かったんじゃが、乱闘騒ぎを見て、難産の直後に無理な動きをされたんじゃろう?下半身に大量の出血があって、その血が池に流れ込んでいた。・・そして赤ん坊がいなかったんじゃ?・・わしたちは山菜取りから帰った下働きの女子衆とあっちこっち探したんじゃが、生まれたばかりの赤ん坊が歩く筈がなく、泣き声一つ聞こえなんだ。・・わしはるい姫はあの男たちにさらわれたと思うた。わしは主人夫婦を亡くしたばかりか、その一粒種の娘も守れなかった事で生きる気力を無くしたんじゃ、相談相手の国司に使えるオヤジのところに何度も足を運んで、赤ん坊の行方を探ったが、新羅一族は赤ん坊までかどわかすほど、武士の魂を無くしてはおらん筈、との事で、家の混乱に乗じた下郎の金目当ての誘拐じゃないかとの見解じゃった。わしは気力が失せ大野の山野をさ迷った後、屋敷に戻った折に、岡城に上がっていた奥方の妹君がそのまま居ついてしもうていて、後に夫婦となったんじゃが、わしの心はこれに支えられて、この鎮西家を守って来たんじゃ、弟子から睡蓮の花が一つ無くなっていた事を知らされた。不思議なことに床の間にあったこの家に代々伝わった女人用の小さな懐剣も無うなっていて、気が利いた人さらいじゃと周りが言うとった。わしは新羅一族と云うのは亡くなった奥方から話を聞いていただけで、面識が無かったんじゃが、国司に使えるオヤジに呼ばれて甚助どん等と一緒に佐伯城に行った帰りに騎牟礼城で新羅万兵衛なる男に初めて会ったんじゃが、正体の解らぬ御仁だと思うたが、当家で主人と争うた新羅の関係者とは思わなんだ。奥方から聞いていた新羅は中津城の城代をしていた長兵衛という男と、その縁者の新羅屋という豪商が中心人物だと聞いちょったが?・・騎牟礼の弟である万兵衛の真意は解からぬ?」
鎮西屋は絞り出すように呟いた。更に、
「数日して騎牟礼からの使いの者から、城の物見櫓の手洗いの瓶に稲妻の中で武者姿の為朝公が抱いて来られた赤ん坊が現れた事を、最初は信じられんじゃったが、その後、騎牟礼城からお福どんが来て、自らが赤ん坊と赤い懐剣を見つけた事を聞いて、正(まさ)しく奥方の赤ん坊じゃ?と思ったんじゃ、やはりるい姫は為朝公から代々引き継がれてきた、選ばれた人格じゃと確信したんじゃ、同時に成長して行く娘の生末には、天下の武者の影が現れるであろうことの身震いするほどの興奮を覚えた事もある。」
「やはり、お福どんが言うちょった事は本当じゃったんじゃな、ところで鎮西屋どの、もう一つ腑に落ちない事があるんじゃが?睡蓮の花のことじゃが?・・中津城の奥平公が言われちょったが、世にも珍しい色合いだとか?・・」、甚助は思い出していた。
「この紫の花弁と云うのは多分、昔、朝鮮から来たもので、大野のある農家の沼で育てられて来たようじゃ、それまで王族への貢物として重宝がられて、世に二つと無い色合いだと言われちょる。・・それがいつの日か農家の沼から此処の池に移されて、前の奥方が米のとぎ汁を与えたら、何んと?一つが三つに増えた!らしい?奥方の魂が乗り移っていたんじゃろう?」鎮西屋は低く呟いた。
「とすると?・・この睡蓮の花の取り合いが、元々因縁の始まりと考えるのは、如何なものか?世に二つと無い花ならば、公売にすれば黄金にも匹敵するじゃろうから?」
「いや?まだ根は深い、為朝公がこの豊後はおろか、九州を制圧した時代に、闘いの最中、一族滅亡の憂き目にあった末裔の怨念が始まりじゃ、」
「七百年も遡ってですかいのう?」
「怨念はいつまでも相続されて続いて行くものらしい?平家の落人の怨念と同じじゃ?滅亡の憂き目にあったのが、あの白髪の老藩士たちの家系で先祖は朝鮮の新羅か百済からの移住者らしい?タエたちの家系は百済じゃったかな?」
「その事は此処に来る前に国司様に仕えていた老人から聞き申した。」甚助の頭のつじつまが合ってきた。騎牟礼の老藩士の名は新羅万兵衛、
「鎮西屋の家と新羅家は過去も何度か?血を流す復讐劇が行われちょる。痛ましいことじゃ、」髭面の男はかなり酔いが回っていた、妻が山菜の豚汁らしきものと焼いた握り飯を運んで来た。
「この家は為朝さまから御寵愛を受けたご先祖様(女人)が、守って来た家じゃと亡くなった姉さまからいつも聞いちょりました。」鎮西屋の妻は私共姉妹は元々岡城の家臣の娘だと言い、るい姫の行く末がいつも心から離れない事を付け加えた。
翌日、甚助は鎮西屋を後にした。途中、山道で鎮西屋の一番若い弟子と出会ったが、従姉のタエの事が心配ならばタエの兄が騎牟礼城にいるので会いに来れば良いことを告げ、動乱が激しくなる竹田へと足を早めた。来るとき、猪との乱闘で敗北を期した斑の灰色の大型の山犬が土手の上から甚助を見下ろしていた。甚助は見上げながら拳で合図を送った。
動乱にも増して守るべきるい姫の新たな敵が姿を現したのだ。重い怨念を携えた二人の老獪な藩士、甚助は言い知れぬ怯えと萎える心を跳ね返そうと歯を食いしばった。再び土手の上を振り返った時は既に犬の姿は無く、誰にも頼れない男一匹武士になっていた。・・
山道の枯葉を踏みしめる己の音とは別にサクサクと小さな音が着いて来る。気のせいかと思いきや、振り返ると灰色の山犬が遠慮がちに着いて来る、立ち止まると相手も止まる、今度は走って見た、・・ク~ンと泣き声にも似た喉を鳴らしながら追いかけて来る、甚助の胸に開放感がみなぎった、再び自然と溶け合ったのだ、・・少年の頃、この状況は何度か訪れた。張り詰めた大自然の中で、野生の犬は何処か人間に頼るところがあって人も情を投げるのだ、甚助は鎮西屋から貰った鰹節入りの握り飯を一個、放り投げた、・・骨ばった大柄の山犬は狼の牙を剥きだして握り飯をかぶりついた、野生の男と獣の契約が整ったのだ。・・・
中津城で慌ただしい哀しい衝撃が走っていた。江戸城の無血開場が行われ、倒幕が果たされ勤王の世と成った時からわずか一月後に、立ち寄った薩摩藩士から京都での坂本龍馬という勤王の獅子の悲報の話が出たのだ。呆然と聞いていたるい姫の脳裏に、あの時天守閣から見送った備前の国(長崎)へ旅立つ二人ずれの姿が突然浮かんで来た。
「もしかしたら?あの男が坂本龍馬という藩士だったのでは?」・・・
薩摩藩士の中村半次郎が急きょ来たのは、甚助とミヨが中津城を離れた数か月後の事だった。勤王の獅子に対する幕閣の最後の反撃だった。豊後にも隠密の残党が潜伏しているのではないか?との噂が荒れ飛んでいた。九州にも幕閣から離れなかった城が幾つも残っていて、倒幕を鮮明に表明している城も数えるくらいで、殆んどの藩が流動的な姿勢を取っていた。いざと云う時の自己防衛だ、しかし城としての存在感は誇示しなければ成らず、るい姫が進んで歓迎されるのは、歴史に轟く鎮西八郎の忘れ形見を招待する事が、城主としての心意気を示すものであり、そのものが武士の世の有終の美を飾ることに繋がるのだ!
騎牟礼の主、石川政夫は当初、るい姫がさらわれた時からそれを知っていた。己の落ち度として切腹も覚悟していた甚助も次第にその意味を理解するに至った。
幕閣側としては武士の象徴である、るい姫が倒幕側に立ち寄る事が『誠に困った由々しき事』の一つに数えられていたのだ。当時、幕閣はその由々しき事の一つを消し去る為に悟られぬよう倒幕側の城にいる藩士に狙いをつけ、過去の伝手を辿り、鎮西の流れを汲む者に怨念を持つ白髪の新羅万兵衛、兄の長兵衛に白羽の矢がたった。
幕閣側への内通は一説不要、由々しき者を消し去るのみ、報奨金、数千両が隠密から届けられていた。この当時、幕府が余命幾ばくも無いことを一番知っている隠密は敵(倒幕側)に内通する者が続出した。すべて金が罷り通る世に成っていて、事態が混沌として動いていたが、遂に幕府が倒れたのだ。・・・
城主と其々の藩は解体されるという噂は聞こえて来たが、地方にはその実感が届かず、尚も城主と藩は辛うじて居座り続け、消えたのは幕閣、隠密、倒幕の文字で、武士の世が薄らいで来る足音だけは聞こえて来た。残ったのは隠密から莫大な報奨金を受け取っていた新羅長兵衛と新羅屋の怨念は尚も続いていた。・・・
一年後、るい姫は一八才となり、眩しいほどの麗しさを放っていた。中津城最後の藩主奥平公はるい姫を奥平の姓に入れることを再三に渡って望んだが、竹田岡城の中川公より、騎牟礼に戻すことの強い申し入れがあり、十二年ぶりの帰郷を目の当たりにしていた。西郷が新政府の設立に辣腕を振るい、我が世の春を謳歌していた薩摩藩士は名城の中津城に入り浸っていた。中津の奥平公は聡明な藩主で特に食に関して熱心で庶民に好かれていたが、自然環境豊かな中津干潟て取れるひがた美人(牡蠣)は絶品で鱧(はも)の骨切りやジビエ(鹿料理)を薩摩藩士が好んで食ったのだ。るい姫もこの牡蠣は大好物だった。数少ない剣さばきで鳴らした(桐野)中村半次郎が頻繁に顔を出していたのは微味を味会うのとは別に、高身長の麗しき、るい姫に会う為だった。倒幕の血なまぐさい闘争に明け暮れていた半次郎にとってるい姫の姿は血を吸った刀を清める随一の泉だった。動乱が一区切りついた事で薩摩藩士はるい姫一行を誘って中津の干潟で酒盛りをする日が続いた。特に半次郎に憧れたのが野生児である佐吉だった。佐吉はタエが止めるのも聞かず薩摩藩士の仲間入りを願ったが、半次郎がそれを許さなかった。・・・
るい姫の憧れが、備前の国(長崎)に旅立って行った今は無き、ざんばら髪の藩士から次第に半次郎に移っていた。半次郎の血生臭さの中に少年の様な澄んだ瞳があったのだ。るい姫は共を従えて薩摩への旅を願い出たが、奥平公はるい姫のわがままを許さなかった。
ある夕刻、干潟での酒盛りから引き上げる時、黒松の林に、るい姫への二回目の刺客が現れた、二発の銃弾が同時に発射された。一発は肩口に、もう一発は胸に命中した。
るい姫の長い体が仰向けに空中に跳ね上がったように見えた。姫は砂地に生えた葦の中にくの字になって落ちた。薩摩藩士は既にいなくて、中津藩士と佐吉が二人の黒装束を追ったが、松林の奥の山林に姿を消していた。タエと匡一、城の女衆が葦の中に飛び込んだ時、葦の屑だらけになったるい姫は目を細めていた。
「私の憧れの君はいつも兜のお祖父様がじゃまするのよね、あいつも駄目だ、こいつも駄目だ、って?」タエたちは目を見張った、葦の屑を払いのけながら、むっくりと立ち上がったるい姫の肩口は服がほころび血が滲んでいた。胸の谷間にあった懐剣の鞘が割れて、胸元が細長く赤く充血してる、
「お祖父様から伝えられている懐剣が私を救ったのね、」哀しそうに呟く、るい姫の膝にタエと匡一はしがみついた。
「母様~!るいは生きていますよ~、」甲高い声が海原に響いた。・・・
中津藩十四代藩主 奥平公と奥方は天守閣から南の方角を見下ろし、城下町の中を日豊街道に向かって歩いて行く、るい姫一行を見送っていた。
「殿さま!薩摩藩士 桐野利秋が申しておったようですが、るい姫の敵は城中にいる。と言う意味はどう云う事でしょうか?・・二度もこの城で刺客に襲われた姫の今後の安否が気遣われます、」奥方は奥平公の横顔を見つめた。
「・・・・・? 為朝公に絡む者か?・・過去の正体がよく解らぬ者はこの城では城代の新羅長兵衛しかおらぬが?・・新羅?・・滅多にない姓、大昔の朝鮮にあった国の名でもあるが?・・帰化した新羅の一族の復讐と考えるか?・・為朝公が歯向かう一族を殲滅した過去が今の世に続いているのか?」
「まさか?城代が?・・」奥方が呟いた。
「桐野の勘は鋭い、と見た。・・しかし不憫な星の元に生まれた鎮西るい姫、麗しい姫であった。」気高い奥平公の目にうっすらと涙が浮かんでいた。
るい一行は共の佐吉たち三名、警護送りの中津藩士五名、迎えに来た甚助とタエの兄、大野の若者を含め、総勢十二名、中津藩士の中には城内きっての使い手二名がついていた。
鉄砲隊は中津藩士三名と甚助、佐吉、大野の若者は長槍を携えていた。鉄壁の警護と見られた一団に動揺が起こった。それは昼の休憩を取った安心院の茶店で団子とお茶を飲んだ時、中津藩士三人が喉を押さえて呻きながら、血を吐いて倒れた。剣の使い手の二人は団子と一緒に吐き出して、水でうがいをして指を喉に突っ込んでくすんだ目で胃物を吐き出していた。甚助をはじめ、騎牟礼、大野の者は自然の中で育ち、お茶の異臭を捕らえていて、口に当てただけで、喉に入れなかったのだが、食っただんごも吐き出そうとしていた。甚助と佐吉は店の中に入り、主人を問い詰めようとした瞬間、つい最近下働きに入ったと思われる男が前掛けを投げ捨て、裏口から逃走して行く姿があった。甚助が鉄砲で狙い撃ちし、佐吉が追いかけようとしたが、弾は当たらず無駄な事だと甚助が止めた。
忍びが使うトリカブトの毒は、お茶と似て、苦みがあるのだが独特の異臭に野生の勘が働いたのだ。るい姫は不思議と当初から団子にも手を付けなかった。・・・
中津藩士の一人が伝令の為、城に戻り、るい姫一行は近くの宿に足止めとなった。翌日、中津藩士四名と日出藩士三名が警護の為、到着した。強者揃いだ、増員されたるい姫一五名の一行は日豊街道から豊後街道を南下しながら、一路竹田を目指していた。るい姫の生い立ちを知っている甚助は容易ならぬ敵の存在を感じていた。曇り空で蒸し々と空が晴れるには程遠い日が続いていた。全員が気が重く得体の知れぬ敵に苛立っていた。
「敵は幕閣から取り残された忍びが多い!皆も用心しちくれ!姫は麗しく目立ち過ぎるんじゃけに、むさ苦しい山男に変装して貰えると助かるんじゃが?」甚助は本気で言った。
「甚助!私は一人で大丈夫、返ってこんな大勢だと目立ちます。毒を飲まされたり、鉄砲で撃たれるだけです。そして私は身を隠すために浮浪児の姿をしたりしたくはない、」
「姫!甚助は姫様のことが心配で言っちょるんです。幼い頃から姫はどうしてそぎゃん、我がまま何じゃろなあ?甚助は姫の為に何度?腹切ろうと思ったか知れん?」
「誰も頼んだ覚えはありません、」
「何んと?姫は、・・甚助は本気で怒りますよ、」
二人の言い争いを伺っていたタエの兄が空笑いをした。
「姫様と甚助兄は絶妙の主従関係じゃ、今後も思いやられるがな?」とその時、此方と同じ数の武士の一団とすれ違った。お互いに先頭が名乗り合う、薩摩藩と長州藩士だった。幕府が倒れ、大政奉還がなされ、豊後にも平静が訪れたように思われたが、各藩の姿勢を見届けるための視察とも考えられた。商人たちの一団も見受けられる、物流が動き始めたのだ、その中に久々に見る旅芸人の一座とすれ違った時、るい姫の表情が険しくなるのをタエが見て取った。藩士たちが笑いながらチャイナ風の道化師を眺めている。
「あの風体は西洋ではピエロと言うんじゃて?」
「道化師をピエロと言うんか?異国は?」
「日出藩から一度、薩摩の島津藩に表敬に行きよった時にのう、城の表でああ云うのが踊っちょった。」・・
「あの道化は日本人じゃないかもね?」突然、るい姫が呟いた。
「そういえばかなりの大男でございましたな?バカでかい奴、」るい姫の表情を見た甚助の目が険しくなった。
「新たな敵か?」
「私もそのように思いました。それもかなりの者かと?・・私たちを見て道化の化粧が笑っておりました。私たちを舐め切ったように?」タエは姫を見ながら言った。
「俺もそう思ったんじゃ、あいつは危ないぞ? 口に飾りの付いた筒を咥えちょったな、道化用の異国の青龍刀を下げて、・・」佐吉も身構えていた。
安心院から由布岳を正面に眺める位置の温泉宿で休息を取った。そして全員が温泉茶を飲んだ時二人の藩士が痙攣をおこし動けなくなっていた。日出藩士は知っていた。
「これは薩摩が使うしびれ薬じゃ、薩摩も異国から仕入れたもので、熱い物を体の中に入れると体がしびれて来て、戦意が無くなるんじゃ、冷えて来ると元に戻る。多分一時的なもんじゃ、」水を飲んで数時間横になっていた二人の藩士が起き上がった時、首筋に小さな吹き矢のような豆針が刺さっているのを同僚が見つけて爪で引き抜いた。・・
「相手は力を見せ付けたんじゃろう?挨拶代わりにな、多分あの異人は大枚な金で雇われたんじゃろう?その大枚な金で雇う事が出来る相手とは?・・」、甚助は温泉宿に腰を下ろし、腕組をしたまま動かなかった。
「敵は大きい、そしていにしえの深く重い怨念が関わっちょる、わし達のような若輩者に
歯が立つ相手じゃ無いっちゃ、・・誰か助言してくれる者は?・・国司に関わってきた大野の老武士しかいない。・・騎牟礼城に入れば敵からの刃は防げるが?・・いや?騎牟礼には新羅万兵衛どのがいる。・・残るは岡城に直接向かうか?・・」甚助は迷走していた。・・・
安心院でのトリカブト事件としびれ薬攻撃の為、日数と時間を浪費した一行は迫って来る夕闇を避ける為に、薩長藩士がよく滞在する由布院温泉の金鱗湖の宿に再び一泊を余儀なくされた。
着いてみると案の定、薩摩藩士が十数名滞在していた。この前出会った時の様な血走った緊迫感は無い、互いに名乗り合い当然酒を酌み交わすひと時が生まれた。西郷の名が頻繁に出て来る。惜しまれながら非業の死を遂げた龍馬、益々剣客ぶりを発揮しているという桐野(中村半次郎)の話題が飛び交う中で一人の薩摩藩士がるい姫に近づいてきた。
「こちらにおわす、真っこと背の高っか女人はひょっとしたら?騎牟礼のるい姫さまじゃなかとな?うちの半次郎がいっつも、言うちょるお人?」るい姫は頷き、にっこりと微笑んだ!
「やっぱり、そうじゃ、るい姫さまじゃ、真っこと麗しか、」
「薩摩の人達は今日は何用で?もう動乱も終わったのに?」
「あっ、これは手厳しか、こんな姫に言われ申したら、おいどんも立場無かとでごわんそ、」
「桐野さんはお元気ですか?」
「はい!半次郎は・・西郷さんの一番弟子じゃち、天狗になっちょります。
「ところで、姫さまは中津から騎牟礼にお帰りでごわんそ?」傍にいた甚助が、
「まだ、早ように帰ろうち思うちょったが、いわれの無いふとどき者が現れち、困っちょる!送り警護して貰うちょる中津藩士がトリカブトでやられち、今日もしびれ薬が飛んで来もうした。」
「しびれ薬?・・そう言えば半次郎が言うちょったな、中津城での夜会の時、姫の刺客が現れたと?」
「その刺客が又現れたんじゃ、じゃからもう二日も泊まっちょる、」甚助は頭を掻いた。
「藩士様は異国風の道化師を知りませんか?旅芸人に混じった?」タエが聞いた。
「あの道化師なら先ほど、其処の庭で見たぞ?バカでかい奴じゃろ?」甚助たちは騒然となった。
「その道化師に吹き矢でやられたんじゃ!しびれ薬は薩摩で使うちょるじゃろ?」中津藩士が挑むように言った。
「おまんはあの道化師を薩摩が使うちょるとお思いか?」焼酎が入った薩摩藩士がいきり立った。
「まあ 々、ご両人とも、薩摩焼酎は脳みそは痺れても体はよか気持ちになるだけじゃから、薩摩と中津藩は一番の仲良しじゃけに、」日出藩士が間に入った。
「ご足労いただいたトリカブトの毒に当たられた中津藩士殿のその後の容態は如何に?」
甚助は護衛の世話になった二人の中津藩士が気になっていた。
「あの二人は頑丈に出来ちょる、だいぶ吐き出しちょった様で、荷車で城に着いた時には目を開けちょったで、ひと月も養生すれば元に戻るち思います。城には異国の毒消しの薬もありますし?」腕利きの中津藩士が答えた。
「それは良かった、私も心配でした。」大人になったるい姫が言った。
「ところであの道化師は異国人じゃち姫が言うちょられましたが本当じゃろうか?」
タエの兄が薩摩藩士に聞いた。
「確かに、あの男は朝鮮経由のオランダ船に乗って来航した男で藩主の島津公が異国より薬物や農業用の種子、肥料、絹糸や朝鮮人参を取り寄せた時の船の乗組員で、こっちに居ついてしもうて、奇術なんかも披露して、薩摩でも気に入られ申したが、銭を誤魔化しよって、半次郎が朝鮮に返せ、ち言っちょりましたが、そのうちにおらんごと成って、兎に角、得体が知れん奴じゃ、先ほどもそこの庭で会うた時、顔料を塗りたくって居申したが、わしにはあの異国人ち判り申した、声を掛けたらびっくりしよってからに、どっかに消えてしもうた。・・奴は奇術も見せよるが青龍剣も使いよる、」酔いも覚めかけた藩士が答えた。
「敵は様々な族を雇っちょる、幕閣くずれの大金を持ち越す人物が何処かにいるのか?」甚助は呟いた。・・・
その日は大勢の藩士に囲まれてるい姫たちは静かな夜を過ごした。・・・
江戸幕府が倒れ、新政府が樹立され、世の中の混沌とした流れの中で、武士の世が実質的に終了する廃藩置県が行われようとしていた。藩主制度が消滅し、其々雇われていた藩士も職を失い、路頭に迷うのだ。最後の藩主は新政府より莫大な金と引き換えに城と領地を其々の公(県)に移譲するのだ。先の世を見据えた有能な藩士たちは新政府の役人と成り、或いは経済人や商人として野人としての道を模索していた。倒幕の先頭を切った薩摩の西郷の存在は九州全土が世の流れの変貌を直接的に感じ取っていた。・・・
動乱で走り回っていた各藩士も続々と城に戻り始めていた。湯布院で二泊目の宿を取ったるい姫一行は翌日、故郷竹田の方角に足を進めようとしていた。その時点で、警護の為に同行した各藩士、最後の湯治をした薩摩藩士も含めて、其々の城に戻って行った。
「敵はこれを見計らっていたな、トリカブトとしびれ薬は挨拶代わりだったか?」と甚助は呟いた。
るい姫一行七名は昼過ぎ大野竹田街道を遡っていた。迫りくる敵に対して逃げ隠れは出来ない状態の中で、甚助が先頭を闊歩していた。一発の銃声が谷あいにこだました瞬間、るい姫の横を長槍を担いでいた大野の若者が弾かれたように回転しながら倒れた、
長槍の柄がるい姫の脇腹に引っ掛った、
二発目の銃弾が全員が伏せていた頭上を唸りをあげて通過した、
甚助は獣用の二連発銃を立て続けに、弾が飛んで来たと思われる方角に打ち込んだ、
空薬莢が音をたてて砂利道に転がる、
倒れた若者を引きずり、全員が土手下に身を潜めた、更に土手下に身を伏せながら甚助とタエの兄は十発ほどの撃鉄を起こした、
「敵はあの山影じゃ、二人組じゃな!仕留めたかな?」タエの兄が荒い息をしていた。
タエが若者の割れた甲冑を外してみると弾は体内に入ってはおらず五寸くらいの擦り傷が真横に筋をひいていた。佐吉は付近の蓬生(よもぎ)を磨り潰し傷を覆って若者の肌着を引き裂いて胴に巻き付けた。
「さて、どうするか?」。甚助が呟いた。その時、るい姫から声が掛かった。
「大勢だと狙い撃ちになるよ。私は別に行く、佐吉を共として、」甚助も素早く佐吉に目配せを打ちながら、唖然とするタエたちを尻目に二人は土手下の林の中に走った。
「姫!岡城ですぞ、」甚助は又もや、愛しい愛娘と再び別れんばかりに生唾を飲み込みながら叫んだ。振り返ったるい姫の笑みが残された者に限りない勇気を与えていた。
甚助一行は祈願をするために、大野の松尾城跡の傍にある岡城、中川公の別れ菩提に立ち寄ることを思い立った。・・・
るい姫と佐吉が身を伏せながら林を抜け、原尻の滝の近くまでたどり着いた時、佐吉がるい姫に進言した。
「姫!これから何処に向かわれますか?岡城への通路は待ち伏せがかなり多いかと?」
「この大野の北にある母様の菩提に行きたいと思います、」
「それこそ、敵の一番の思う壺だっちゃ?危ない、々、」
「私は大丈夫、・・それより母様の菩提に早く行きたいのです、早く、会いたい、」
「一番の思う壺だっち、言っちょるでしょう?親御さまの顔を知らない姫は不憫じゃち思いますが、敵はとてつもなく大きいと甚助兄が言うちょりました。」
「甚助は情が深すぎる故に先が見えない所があります、涙もろいと云うか?」
「甚助兄ほど姫さまのこつ大事に思うちょる男はいないっちゃ?」佐吉はるい姫を見上げながら抗議していた。
「もう、今からは城も無くなって、殿さまもいなくなるし、姫と呼ばれることも無いんですよ、私の大昔のお祖父様に恨みがあるのか分からないけど?今さら私に刺客を向けて何になるんでしょう?そんな者のためにこそこそと逃げ隠れしたくありません、母様に会うまではどんな敵にでも立ち向かいます、負ける気はしない?」
「そりゃ、鎮西八郎さまの血を引いた姫じゃから、心意気はそうじゃろうけど?・・真っこと、姫は、甚助兄も言うちょったが、我がままじゃな?・・おまけにひねくれ者じゃ?俺はもう、知らんぞ?」佐吉は地団太を踏んで横を向いた。
「佐吉どんは好きなタエの処に帰っていいですよ、タエも離れたく無かったと思うけど私が佐吉どんを共にしたから?・・」
「俺はタエと云い交わした仲じゃけど、姫さまと一緒なら本望じゃ、たとえ命を落としても、姫さまを守る為に、騎牟礼に来たんじゃから?」短い脇差を差して短銃を首にぶら下げた野生の、とうに若者ではなくなった男が、るい姫を睨みつけた。
「姫に万が一があったら俺は甚助兄に対して腹切らんにゃならん、そうなっちゃ、一番悲しむんはタエじゃ、・・タエの為にも姫、俺の言うこと聞いちくれ、お願いじゃ?」
「佐吉もうまいこと言うようになったね、中津城で学問を少ししたからかな?」
平常心に戻った佐吉が言った。
「中津城で?・・今思い出しちょうが、中村半次郎はんが言うとったぞ?城代の新羅長兵衛の縁者には新羅屋という豪商がおって幕閣から尊王攘夷の藩を寝返らせるために莫大な報奨金を預かっちょって、倒幕が成された後もその金は持ち越しちょって、それで大勢の刺客を雇っちょるんじゃなかろうかち言うちょりました。」
「あの、中村半次郎が?・・新羅屋?・・」、るい姫の眼光に鋭さが増した。・・・
「それでは佐吉どんの向かう処は何処ですか?」
「姫!しばらく姿をくらますんじゃ、・・大野の北に鳥屋城跡ち、山の上の竹林の中にあって、タケノコやキノコもそこら辺に生えていて、段々畑の作物もあるし、狐や狸、猪もいるぞ、俺が山猿の頃、良く行ったんじゃ?仲間もぎょうさんいるっちゃ、忍びも入っちゃ来れねえ、」
「面白そうな処ね?」るい姫の野生の血が騒いだ。・・・
原尻の滝は相変わらず豊富な水量を保ち、幾つもの飛沫を上げながら滝つぼに吸い込まれている。水鳥が甲高く鳴きながら水面を走っている。静寂だ、動乱の欠片さえも聞こえて来ない、・・・突然、巨大な岩陰から四人の黒装束の刺客が現れた。小刀が回転しながら飛んできて、後ろの岩に当たり跳ね返った。
「姫!忍びくずれじゃ?ご用心を、」佐吉は短銃を二発発射しながら、岩の間を駆け上がり街道に出ようとした。るい姫が引き返して来た。街道にも攻め来る敵がいたのだ。十数人はいる。大岩に立ち上がった男が叫んだ、
「姫を打ち取ったりは黄金五百両、成さぬは我の後は無し、」
「敵は必死じゃ、姫!向こうの川岸に!」佐吉は回転銃を撃ちまくっていたが、命中した手応えが見えて来ない。佐吉は滝つぼに飛び込んだ、るい姫は浅瀬を渡った。振り向くと束になった黒装束が背に迫っている。水面を走り抜ける水飛沫が滝つぼの飛沫を上回る、るい姫はでん部に刺すような痛みを感じた、飛び上がり身体を回転しながら、懐剣を水平に払った、手応えがあった。まじかに迫った二人の男が顔面を押さえて浅瀬に膝をついた。
袴と尻との間にぶら下がるのが敵の短剣だと分かったのは浅瀬を渡り終え、林道に駈け上がった時だった。佐吉が滝つぼの端から這い上がって来た。背中が血に染まっている。るい姫は佐吉の背中に刺さった数本の短剣を引き抜いた。忍びが使う五寸釘に似た長さで致命傷は受けない。河原を見下ろすと二人の男が顔面を押さえてしゃがみ込み、三人が岩の側面に倒れ込んでいる。短銃が威力を発揮したのだ、敵は負傷者を抱えて引き上げようとしていた。
るい姫たちは街道から川を隔てた山道を下り始めた。途中佐吉は進む方角を北に向け、林の斜面を登り始めた。尾根を越え、谷を下り、再び尾根に向かって登り、小一時間進んだ時、佐吉は鳥をおびき寄せる竹笛を吹き鳴らしていた。何処かで同じような笛がこだまする、
「佐吉どんの仲間?」
「如何にも、山猿たちじゃ、」佐吉の濡れた着物の背中が血が滲んで、染まっていた。
「血が出過ぎて頭がくらくらしちょる、」と言いながら、笛の音は繰り返し鳴らされた。
「私はお尻、」るい姫の右足の革の草履が赤く染まっていた。・・
暫くして笛の相手が近づき、薄い毛皮を着た二人の若者が走り寄って来た。少年に近い若者たちだ、
「此方は騎牟礼のるい姫さまじゃ、・・背中が痛い!薬草を塗っちくれ、姫さまも負傷しちょる、」佐吉はいきなり枯葉の上に腹ばいになった。若者たちは一度、谷を下り、戻って来た時、二種類の蓬生に似た薬草を手で揉んでいた。
「お前ら、姫の尻にも塗っちょくれ、」横座りしている、るい姫の臀部を見やりながら佐吉は唸るように言った。
「私はよい、自分で塗る、」山猿の若者は唖然として次の指示を待った。
「姫!この際じゃけど?草履が血で真っ赤になっちょる、黴菌が入ったら歩けなく成るっちゃ、大事な尻が?・・」るい姫は袴の裾を結わえていた紐を解き、腹ばいになって右足の襦袢(肌着)をまくり上げた。真っ赤に染まった白い襦袢の内側に伸びきった白い太股と臀部が露わになった。小さな傷口から血液が間隔をおいて噴き出している。
「お前ら、目をつむってやれ、姫の尻を見るなよ、」佐吉は呻きながら言った。
るい姫は傷口を薬草で湿布させ、襦袢の端を股に通して右の腰で結わえた。
佐吉は背中に無数の傷があった。ハチに刺されたような程度のものもあった、薬草を塗ってフンドシやら、ありとあらゆる薄手の布で背中全体を縛り付けた。
「アンタたち私のお尻見て笑ったでしょう?」るい姫は右手を尻にあてがいながら、少年たちに言った、
「・・・・?」、少年たちは首を横に振った。
「兜のお祖父さまだったのかな?」るい姫は意味不明に呟いた。
「私は大丈夫、」るい姫は立ち上がった。
るい姫たちは傷が癒えるまで、その場から近い若者の狩猟小屋に逗留することになった。
張り詰めた緊張が解け、刺さった跡を治療すると浅い傷はズキ 々 と痛み出す。
数日間るい姫は歩く事をしなかったが、佐吉はしかめっ面で常に動き回っていて、背中に血の斑点が滲んでいた。
「背中が痛んで、どうしようも無いっちゃ、動いて痛みを忘れた方がいいんじゃ、」
若者たちの狩猟小屋は立ち木を柱にした原始的な小屋で、屋根と壁面は大量の茅で覆われ、
床は小丸太を並べ、様々な動物の革が幾重にも敷かれていた。
るい姫は毎日殆んど床に寝そべっていた。歩くのも木の株に腰掛けるのも、患部が尻のため、ままならないのだ、佐吉は食料調達やらで何処かに出かけていた。るい姫は北の方角を眺め、
「佐吉どん、鎮西屋はここからどの方角にあるの?」
「ああっ、全く遠いっちゃ、騎牟礼城から進むとして、鎮西屋は、ほぼ北の方角じゃけど、真っすぐ進むんじゃったら谷と尾根を十回ほど越えにゃならんけに、とても無理じゃ?」佐吉は傷が痛むのか、相変わらずしかめっ面を続けている。るい姫は二人の若者に三両の手間賃を差し出した。一月後、体の傷が癒え、るい姫が佐吉の案内で目的の鳥屋城跡へ出発しようとしている時、騎牟礼城の甚助に伝令を走らせていた山猿から返事が来た。それによると、佐吉の言い交わしたタエが身ごもった事、そして体調がすこぶる悪いこと、騎牟礼城で不穏な動きが起こっている事、を伝えて来た。
青天の霹靂、るい姫は佐吉に騎牟礼に戻る事を指示した。佐吉は二人の若者に狩猟用の鉄砲を持たせ、竹林の鳥屋城跡に姫を案内する事を言い含め、飛ぶように騎牟礼に向かった。
佐吉は竹田大野街道を走った。夕刻、騎牟礼城に到着した時、城の中は混沌とし主人の石川政夫と甚助は不在でタエは女中部屋でミヨたちに介抱されていた。身ごもった事で体調が崩れる中毒症との見立てで、女武士として活動してきた為、母体に無理が掛かったのかもしれず苦しそうで顔が青ざめていた。
ミヨから聞いたところに因ると、廃藩置県によって職を無くそうとしている不平士族の反乱が各地で起ころうとしていて、藩士の数が多い岡城で騒動が起こって、それを鎮めるために石川と甚助が中川公に呼ばれたとの事だった。気になっていた軍師の新羅万兵衛どのは、
「武士の世は終わった。我が道を行く、」と言い残され去って行かれたこと、中年になった女中頭のお福どんは、再度請われて鎮西屋に奉公に行った事、
「私は歳を取りました故、鎮西屋さんで奉公しながらいつまでも、るい姫さまを待っちょります、」と言い残していた事、代わりにミヨが女中頭になって采配を振っている事、騎牟礼の藩士もかなり減って、タエの兄をはじめ匡一や若手の藩士が残っているに過ぎなかった。・・
一か月が経ち、一向に佐吉からの知らせが届かないことで、るい姫は二人の山猿を連れて、騎牟礼城に向かった。刺客を避ける為に街道は使わず、林の中を進んだ。不思議と刺客には合わず、藪から飛び出して来たのは猪と狸だけだった。幕末の動乱の一つの節目が終わり、新たな混乱が起こりつつあることを空気から感じながら、母さまの菩提がある鎮西屋に向いたい気持ちを抑え、忍びが出そうな暗闇に山猿に二丁の鉄砲を向けさせ、るい姫も懐剣を抜き握り締めて進んだ。
「刺客は去ったのか?」るい姫は思った。・・・
夜明けに街道に出て、竹田に入って暫く進み、騎牟礼城の丘が見え始めた時、大型の野犬が現れた。人間を怖れない様子でチョコンと座って、るい姫が近づくと「クウ~ン」と鼻を鳴らして横にぴったりと付き従って来る。
「人間に飼われた形跡があるっちゃ?何処から来たんじゃ?・・」若者が言った。
るい姫が頭を撫でた瞬間、犬は二度吠えながら駆け出し、又戻って来て元の位置に治まった。
「多分、甚助どんの犬かもしれない?」るい姫は直感した。
「姫さまのお迎えじゃ、」若者は銃を下した。・・・
十三年ぶりの騎牟礼城は何一つ変わっていない様に思われた。樹木が大きくなっていて、登る通路が枝に覆われている。五才の頃、植えられた銀杏の木が空に伸びて、十数年の年輪を
目の当たりにし、呆然と立ち尽くす、るい姫の傍に、城にいた殆んどの者が駆け寄って来た。
ミヨ、体調が良くなかったタエは早期死産で蘭方医の処から帰ったばかりで女武士の勇ましさは影を潜めていた。女中衆や最上階から石川政夫の奥方がやつれた姿で駈け下りて来た。男は年老いた番人を含めた数人の藩士と佐伯城で海賊船から拾い上げた匡一だけが残っていた。城主制度の崩壊の影響が城に残る者にも不安と動揺が起こっている。ミヨはるい姫の膝にすがりついた。
翌日、岡城の中川公から、るい姫に登城することの伝令が来た。数人の藩士が慌ただしく出入りする中、匡一と大野から従えた二人の若者、山犬と共にるい姫は岡城に向かった。途中、城主と藩士たちの困惑とは裏腹に竹田の城下町は活気が溢れているように思われた。露天に並ぶ品物や乾物に人が溢れていて、ある一角に人だかりがして旅芸人の笛太鼓が小気味よく鳴り響いている、山犬が二度吠えた、一座の中にひと際、背が高いチャイナ服の顔にどうらんを塗りたくった道化師が、造り物と思われる青龍刀をくるくる回しながら演武をする姿があった。一座の小娘が棒に刺した飴玉を群がる子供に配っている。
枯葉が舞い上がり一時の日が差し込む秋の終わり、るい姫は一度も登城した事が無い岡城に入った。本丸、二の丸、三の丸御殿の櫓があり、何処よりも広大な岩山の上に建つ堅固な城がるい姫の前にそびえていた。大手門から入り、城内の長い通路を進むと本丸の三階の天守閣から降りて来た最後の藩主、中川公は両手を広げて、るい姫を待っていた。るい姫は中川公に促されて天守閣に登り、そこから眺める東の蛇行する大野川、西に丘の上に小さく騎牟礼城が見える。中川公は武士の世の最強の存在である為朝公の血族のるい姫を迎えた事の感激を表わし、城主の最期を迎えんとする哀しさの物語をした。るい姫はじっと聞いていたが、ある質問をした、
「殿さま、騎牟礼の石川様や甚助どんたちは何処に行ったんでしょう?」
中川公は俯いていた。厳しい苦渋に似た表情が滲み出ていた。
「武士の世が終わり、皆もわしも其々の道を歩むことに成るんじゃが、誰でも士族としての本領を中々捨て切れずにのう?城代家老や主な藩士の無念の内を考えると、わしも心が痛む、わしも各藩士たちの先行きについては出来る限りの力を注ごうと思っているのだが、
「志はご無用、かくなる上は城を枕に討ち死にでござる」・・と申す者ばかりで、これからの世を考えよ、と言うのじゃが?・・実は肥前の佐賀城で明治政府に対する士族たちの反乱が起こってのう?鍋島公も抑えることが出来なかったのじゃ?当藩と鍋島藩とは共に尊王攘夷を主導した立場で盟友でもあったので、当藩の切れ者数名と石川政夫や甚助を差し向け、何とか鍋島公に力添えが出来まいかと?・・」中川公が熟慮した結果だった。
「世の中の流れに立ち向かう事は出来ませんが?武士を捨てることは死ぬことだと思うことも解りますが?私にはその判断は出来ません、・・ただ、どんなことに成っても生き抜くことは大事かと?・・」十九才のるい姫にとっては精一杯の返す言葉となった。
「間もなく、この城は廃城に成るが、るい姫には最後までわしと一緒に此処に留まっていて欲しい、・・」と中川公は静かに呟いた。
一八七一年阿蘇の大噴火が起こり、火砕流と落石に依って一四〇〇人に及ぶ死者が出た。其れは阿蘇の一帯から竹田方面にも及び、るい姫は立ち昇る噴煙と灰色の空を、数カ月の間、落城まじかの天守閣から眺めていた。長く続いた武士の世界が大阿蘇の大噴火と共に崩れ去るのだ!噴煙にくすんだ星空には強弓を引く兜のお祖父さまの姿はなかった。
一年ほど経って甚助と佐吉、タエの兄と数名の藩士が帰って来た。佐吉はるい姫の警護として岡城に残り、甚助たちは主人が不在の騎牟礼城に戻って行った。石川政夫と数名の岡藩士が佐賀に残り、佐賀の役の闘いに加わることの知らせは岡城と騎牟礼城に青天の霹靂の様相を呈した。あくまでも武士の本領を遂げたい者、新しい世に柔軟に対応しようとする者との混沌とする中で、どちらにするか判断が着かない者が殆んどだったが、甚助たちは後者を選んだのだ、・・新しい県という組織に入るのは藩主と各藩士幹部が主だったが、中には商売を大きく成功させた商人も入庁した。るい姫は廃藩置県という新制度について中川公に従ってありとあらゆる事を学んでいた。岡藩士の幹部も数名入庁する事で、中川公に従って、府内城の中に造られた大分県庁舎に何度も顔をだした。るい姫が驚いたことはその県庁舎の初代の知事が地元豊後ではなくて備前(岡山)藩士森下影端という人物だった。
中川公の話では元農家の出で勤勉な学問家で官選(政府が選ぶ)によって就任したとの事だった。るい姫は三年間この岡城に留まった。幕末の動乱が始まる頃、五才の時から七つの城を渡り歩いた様々な記憶が走馬灯のように蘇って来る。岡城から見えるのは幼い時親しんだ丘の上の騎牟礼城がある。東と北の山々が連なる先に、親しんだ思い出の幾つもの城があるのだ!少女の頃、幕末の英雄 坂本龍馬に憧れて肥前の国について行こうとして、タエに必死に止められたことが、妙に懐かしかった。・・・
るい姫が二十一才の時、最後の岡藩主中川公が政府の司法省に出任すために岡城を去ることになって、再三の同行を求められたが、るい姫はその道を選ばず、騎牟礼城へと戻って行った。そこには兜のお祖父さまに抱かれて空から現れたという?・・水瓶が六月の雨水を湛えていた。砲台もあり、甚助の山犬が城内を走り回っていた。父親代わりの甚助、母親代わりのミヨもいた。佐吉とタエは夫婦と成って初めて寄り添う姿があった。タエの兄も女中衆の一人を嫁に貰ってこの山城で共に働いている。大野の若者二人が、るい姫に言った、
「俺たちゃ!姫さまを鳥屋城跡にお連れするためにこのみすぼらしい山城に居残っていたんじゃけど?・・これから俺たちどうすればいいんじゃ?」・・・
数か月後、佐伯の港に行っていた匡一が知らせを持ってきた。
佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱を鎮圧するために出掛けたのが、ある事か、佐賀の役に加担した石川政夫と数名の岡藩士が討ち死にした事、電信の情報力と蒸気鉄船の輸送力、政府の迅速な対応の前に反乱軍は激戦の末、鎮圧されたこと、しかも政府軍の鉄船に、佐伯で別れた海賊の仲間が、立派な水夫と成って活躍していたことを我ことの様に語っていた。甚助と佐吉は大恩ある石川政夫の為に見張り櫓の傍に墓石を立てた。
各城と敷地、支配していた農地、山林が県に移譲され、各城の石高が無くなった事で、城に残っている藩士、女中衆、使用人の給金は無くなっていたのだ、
甚助は庁舎に入る気はさらさら無く、今後の自己の身の振り方を考えていた。其れは騎牟礼のるい姫を中心に事業を起こすことだった。甚助は主なものとして海洋輸送事業を考えていて、複雑な入り江が多い豊後の海岸線、それが四国に繋がる豊後水道の海洋輸送はこれから栄える事業だと踏んでいた。そのために海賊船に乗っていた匡一を佐伯に向かわせたのだが、石川政夫の悲報が別に飛び込んで来て、葬儀をこの騎牟礼城で執り行うことで万事休した。甚助は石川と佐賀に向かった時、石川から盛んに反乱軍に加担する事を誘われたが、根っからの武士ではない甚助は役人でもない、上も下もない、経済の世が来ることを予感したのだ。そして本来の目的は半生を投げ打って来た我娘と等しい、麗しいるい姫を警護し、共に生きて行く事だと断りを入れた。
今や、るい姫一族と成り変わったタエの兄は大野の自己の支配が及ぶ土地を開墾し、異国からの種子も含めた穀物と果樹栽培に手を染め始めた。佐吉と二人の若者は知り合いの山猿を集めた地鶏を含めた養鶏事業を始めた。
騎牟礼の武士集団が連合事業体に生まれ変わったのだ、・・事業体の商号を騎牟礼物産と名付けた。佐伯の港に小さな事務所を設け、海運事業に必要な輸送船の調達に甚助とるい姫は
一年を費やした。匡一の元海賊の仲間が大分県の政府船の乗り組員として就業していたが、退職し、ボロ船を調達し独立した海運業のまね事をしていたのを匡一によって、騎牟礼物産に入ることの誘いを一つ返事で快諾した。
るい姫は世話になった六つの城を回り、大型船の調達資金を願い、傍で甚助が海運業の構想を捲くし立てた。佐伯の藩主だった毛利公からはすぐさま莫大な資金が調達された。それに負けじと杵築の松平公、特に日出城の木下公の次男坊は一度るい姫と情を交わし合った事が忘れられず、木下家を出て、るい姫に入り婿として相続した資産と共に願い出て来た。中津の奥平公と元岡城の中川公からは黄金に近い資金が提供された。臼杵の稲葉公からは不思議と資金提供の音沙汰は無かった。
その知らせを聞きつけた薩摩の桐野利秋(中村半次郎)は西南戦争が勃発し始めた中、西郷に特別の許しを得て、イギリス海軍が扱う鉄の輸送船を調達して来た。るい姫が集めた資金で不足の額があったが、将来のツケとして最後まで払わなかったらしい。
半次郎には政府軍との戦いで勝算が無い決死の死の影が漂っていた。別れの日、るい姫は血の匂いが漂う半次郎にハグを求めた。痩せた骨ぶとの半次郎はるい姫を抱きしめた。
「この、利秋、麗しい姫を抱くことが出来て、真っこと、思い残すことは無いでごわんど、」
体が折れるほどの半次郎の腕の中で、るい姫は兜のお祖父さまと同じ血の匂いを脳裏の何処かに感じていた。
「騎牟礼海運が大きゅうなる頃は、おいどんはあの世の地獄にいるじゃろうが、姫は鎮西公の血を、行く末永く引き継いで貰う事がおいどん達の望みでごわんそ、」と、さよならを言った。ざんばら髪を後ろで括り、広い背中の男が去って行くのを、るい姫はいつまでも見送っていた。九州の一角の士族反乱であった佐賀の役にも増して、政府を離れた西郷を盟主にした熊本、宮崎、大分、鹿児島を巻き込んだ新政府への反乱は留まるところを知らず、武士を捨て経済人として進もうとする、るい姫たちの騎牟礼海運だけが知らずの仏を決め込む事は出来ず、薩摩連合軍の新たな砦として岡城と騎牟礼城が役目を果たそうとしていた。
騎牟礼物産の本体をタエの兄の穀物用の倉庫に移し、最上階にあった石川政夫の部屋の為朝公の絵図と、るい姫が生まれ堕ちたという手洗い用の瓶を甚助と佐吉が担ぎ出した。・・・
豊後水道から帰って来た匡一の仲間が乗船する騎牟礼物産の船からの知らせに、中津に終結した反乱軍の中心人物に白髪の新羅万兵衛がいた事、兵士には一人 々 大枚な金が渡され、出兵する時、家族に報奨金を手渡す光景があちらこちらで見られた事、その数は百数十人に及び、陰に大金持ちがいるとの噂が持ちっきりだった事、その後,、北に進んだ一団は政府の福岡軍と熊本軍に挟み撃ちになり、全員、討ち死に、武士の本懐を遂げた事、
甚助は新羅万兵衛が先祖のおどろおどろしい恨みから離れて、武士としての心意気と本懐を見事に果たしたのだと思った。・・・
佐吉たちはるいの発案でもあったが、大野の北東、鳥屋城跡近くに幾つかの鶏舎を建て、鶏の卵を集めると共に、地鶏の燻製を始めた。西南戦争が激しくなるにつれて、簡易なゆで卵と地鶏の燻製は男の筋肉を作ることで、両軍に飛ぶように売れた。大野の山間部は戦いの場と成らなかった事が幸いとなった。タエの兄の穀物と果樹も港方面に出荷した。西南の役という戦いが、新しい世を創ろうとする新政府と、建前を重んずる地方武士との意地のぶつかり合いに、自分たちの経済を進めて行こうとする庶民には、ある意味では迷惑千万なのだが、戦争で品薄の為、物は売れた。穀物も鶏も豊後で捌けないものは騎牟礼物産の二隻の船に乗せて豊後水道から瀬戸内の港に荷卸した。帰りは小豆島で城主が奨励して栄えたという地元の良質の大豆を原料とした醤油を満載して、豊後の各地で売り捌いた。戦いと商売が並行して進んでいたのだ。
騎牟礼物産の中型木造船は地鶏の燻製を満載し、鹿児島周りで阿久根、天草、長崎北松浦郡で荷卸しを完了し、北松浦郡の良質のそう麺を積んで帰途についた。
るい姫は甚助と共に二隻の船に乗り込んで、精力的に動いたが、広い海原からは内地で武士の本懐の闘いが行われている事が信じられないほど、海に面した各山々の緑から灰色に変わり行く佇まいが美しかった。しかし港で荷卸しする時、傷ついて座り込む落ち武者の藩士を横目に商用で忙しさに暇がない庶民との間に渡れない川が横たわっていた。その打ちひしがれ絶望した血だらけの藩士が数人、岬の縁で割腹し合い、楽に成ろうとする姿を前にして、るい姫は武士の栄光と哀しさを思った。
「兜のお祖父さまはいつもその武士の頂点に君臨しているんですよね?武士は嬉しい時は何故、笑わないの?哀しい時は本当に涙を流すの?」るい姫は島かげの空を仰いだ。兜の武者は何も答えず、再び空を仰いで、
「私が苦しい時は何も答えず、お尻を刺された時は笑ったでしょう?お祖父ちゃん、」
るいは兜のお祖父と語り合うときは幼子になることを思った。何故か楽なのだ、五才のるいも二十一才のるいも兜のお祖父にとっては同じなのだ。
日出城最後の藩主、木下俊愿(としまさ)は十六代で城を降りたが、その弟、春高は木下家を出て、るい姫の正式の姓である鎮西に成ろうとしていた。るい姫の乗る大型の鉄船には当時、二十数人の乗組員を雇っていたが、甚助は木下の次男坊を鉄船に乗せようとはしなかった。元海賊男たちが操縦する中型木造船に関わらせた。学問に秀でた若者が主と成り得るには海賊男たちを操ることが早道だと考えたのだ。幼児の時から愛娘のように愛しんだ、るい姫の夫として認めたくないジェラシーがあったのも事実だった。しかしるい姫の相手としては申し分ない知性と風格を持っており、なに分にも一度、別府の丘の上の為朝公の石碑の傍で二人が情を交えた事をタエからそれとなく聞いていた事が、甚助の父親代わりとしての心に消えない傷として残っていた。・・
るい姫より五つ年上の匡一は海賊少年上がりではあったが、聡明な姫に付き従い、日出城ではタエと共にポルトガル宣教師から様々な異国の知識を学び、中津城では更に戦術、軍術、武士道を貪欲に己のものとした。其れは常に憧れのるい姫の傍にいる事が成せる業でもあったが、武士の世が終わり、百姓が志を起こし、政府の役人に就任したり、殿さまの子息が商人になる世の中に成って来た事で、努力次第では己の位置も、商人に成ろうとする木下春高と肩を並べる事が出来るのではないかと思うようになった。匡一は五才の頃、孤児になったが、あの世に旅立った母親から首に掛けて貰ったお守りを肌身離さず持っていたのだが、日出城でポルトガル宣教師によって、お守りの中の布に描かれた文字を解読して貰った時に、匡一の父親はあるキリシタン大名の家臣で城が攻められ、両親共に杵築の港に落延びて来た事を教えられ、密かに宣教師よりキリシタンの洗礼を受けていたのだ。幕末にキリシタンの解禁が成されイエス様を堂々と世に表明出来るのだ、宣教師から、
「すべての人間は平等で、殿さまも百姓もないのです。愛する人が現れたならば、その人に認められるように努力して立派な人間に成ることはイエス様のお導きなのです。そうすればイエス様は愛する人を貴方に与えるでしょう。」と、匡一はこの言葉を完全に信じたのだ。目標は雲の上の人で絶対に手が届かないと思っていた、るい姫から男として認めて貰う事、そして姫の婿候補の春高と肩を並べる器の存在に成り得る事、の妄想にも似た思いに憑りつかれていた。
匡一はるい姫がいる鉄船に乗って、常に秘書のように付き従った。・・・
騎牟礼物産の本部はタエの兄が経営する大野の鎮西農場の近くにあって、海運業の事務所を佐伯の港に置いている為、三月に一回集まる会議には港から歩くのに、一日以上もかかることから、匡一は中津城で懇意となっていた薩摩藩士に頼んで、大砲などの重量物を運ぶための蒸気運搬荷車を人間が乗れるように改造して佐伯に運んで来た。更に細かい部分は日出城で身に付けた異国の技術を応用し、近くの鍛冶屋で鉄の枠を取り付けた。宣教師によって図を見せられた蒸気機関車の仕組みだ。 “蒸気乗物 “なる後部の荷台を取り除き、そこに釜どを設置し薪を燃やすようにして蒸気を発生させるのだ、乗車人数は三人で運転は匡一がした。雨除けには幌を張った。るい姫は最初は乗らなかったが、匡一の好意を無にすることなく、横に魚を積んで大野までの街道を進んで見た。街道は平坦な所ばかりではなく麻を束にして車輪に巻いた輪は地上との振動で乗り心地はかなり悪かったが、途中、一団の兵士たちや村人の物珍しさと驚きの視線の中を大野までの時間を半日で乗り切った。昼過ぎに大野に到着した時は全員が集まっていたが日出藩主の弟、春高が演説調で何事かを叫んでいた。
「わが騎牟礼物産は海運業と穀物部、養鶏部が其々、遠距離にあるのは仕方がないが集まる時に此処まで歩くのにくたびれてしもうて?・・それと海運の事務所を佐伯港から杵築港に移すべきです。半分の距離に成りますよ。皆さん合理主義と云うのが分かりますか?合理主義と言うのはですね?・・」春高の精力的な姿に甚助は満足そうに煙草を吹かしていた。
「大将、もう少し頭を使うたらどうじゃ?外を見てくれ、俺が造った乗り物じゃ、薪を焚いて蒸気で走るんじゃ、姫を乗せて半日でここまで来たぞ、・・もっと大きいやつを造って穀物や鶏を港まで運べば一度に片付くぞ、」匡一は春高に対抗するように、声を張り上げた。暫くして全員がぞろぞろと外に出た。荷馬車やトロッコが並ぶ事業所の前に蒸気を立ち昇らせながら停車している金属の幌車があって後部の釜の両端に鉄の筒が出ていて、一つの筒から煙が、もう一つの筒からは蒸気が噴き出している。
「なんじゃ!こりゃ?・・匡一、お前、これに姫を乗せて来たんか?」佐吉たちが笑いながら言った。
「そうじゃ、これは日出の宣教師さまから教えて貰うたんじゃ、・・異国にはもっと大きいやつを長く繋いで、大量の穀物や大人数の人間を運ぶんじゃて?・・向こうは薪の代わりに石炭を焚くんじゃ、今からの世はこれじゃ、」匡一は懸命に捲くし立てた。
「そういえば薩摩の港にこれに似た運搬車がいたなあ?」甚助は腕を組みながら頷いた。
女たちはるい姫の傍に集まっていた。
「この蒸気車もいいと思うんだけど、お尻が痛くなってしまった。馬の方が楽かも?・・こう云うのは男たちに任せて、私たちは料理教室をしようか?お腹も空いたし、」るい姫は久々にミヨやタエと残っている女中衆に会うのが嬉しかった。そして乳母だった福も鎮西屋から呼ぼうとも思った。匡一の不満の声が遠くから聞こえた。
「姫!馬が良いって、馬の世話は誰がするんじゃ?餌もいるぞ、」るい姫は構わず建物の中に入って行った。
その夜はタエの兄の家に全員が集まり、くつろぐ中で新政府に不満を持つ薩摩を中心とした九州の各旧藩士の連合軍と福岡、熊本を含む政府軍との間で激戦を繰り返す西南戦争が佳境に入り、豊後の国でも形勢不利と見た薩摩連合軍から抜ける旧藩士が出て来たり、薩摩連合軍の砦となっていた岡城と騎牟礼城の先行きが危ぶまれているという噂が飛んでいた。
乗船して海にいる者にとっては、各港に寄っても荷卸しと代価の事が先行し、その地域の状況がよく掴めないのだ。武士の世界を抜け商人として生き抜くことを決めた甚助は、戦いに付いては胸の中に押し殺していたが、我が故郷の騎牟礼城の行方は常に心の中にあった。
翌日、甚助とミヨ、木下春高たちは杵築の港に向かい、るい姫と匡一そして甚助から宛がわれた斑の山犬は竹田街道を通って騎牟礼城と岡城を見ながら佐伯の港に戻ろうとしていた。
戻りの幌車は車輪に巻いた麻の束が綻びて、道の小石と擦り合ってパタパタと音を奏でている。騎牟礼城は灰色の絶壁を現わしながら静まり返っているように見えたが、街道のあちらこちらに真新しい戦いの痕跡が残っている。絶壁の根元の草の中には埋葬されていない死体らしき黒い布地が見える。山犬が吠えた!そして幌車の外に飛び出して絶壁の下から故郷の山城に向かって悲しそうに遠吠えを二度繰り返した。るい姫は目を閉じていた。脳裏には何も聞こえて来ない、・・山犬が突然、山城に向かって斜面を駆け上がって行った。
暫くして、城に到達した山犬の呼ぶ声が木霊した。
るい姫と匡一は途中幌車を降り、門番がいない小さな櫓を飛び越え、細い通路を頂上に向けて登った。人の気配が無い、犬の遠吠えだけが微かに響いている。山城の入り口に門番が座って俯いていたが、明らかに近くの農民で雇われた者らしかった。
「この騎牟礼城のるい姫さまじゃ、」と、匡一が名乗った言葉に反応が無く呆然とるい姫を見上げている。城の前には怯えるように二人の老人が同じように座っていた。
「薩摩の藩士たちは何処に行ったの?」るい姫は優しく語りかけた。
「お侍さんたちは皆、熊本に行っちょります。なんか?大きか戦があるっちゅうて、薩摩じゃにゃ~(無い)侍もいたんじゃけど、いつの間にか皆いなくなったんじゃ、わしらは給金貰うとるけに逃げ出す訳にゃいかんのじゃ、」怯えたように老人が言った。
「わしゃ、この近くの百姓じゃが、るい姫さまのこつは聞いちょるぞ。真っこと背が高っか麗しかお人じゃのう、・・姫さまにお願いじゃが、わしの息子は岡藩士になるちゅうて出て行ったんじゃが途中薩摩軍がいいっち言うて、一緒に熊本に行ったんじゃが帰って来たら、武士の世は終わったんじゃから百姓に戻るように、姫さまから言うて貰えんじゃろうか?」もう一人の老人もすがるようにるい姫を見上げた。
「息子さんは歳は幾つ?」
「二十五に成っちょります。嫁を貰ったばかりで、何を考えとるんか?・・姫さまお願いします。」
「分かりました。会った時はそのように言いますね、・・私たちも武士はやめたんですから、」
「へえ~、城の姫さまをやめたんですか?・・で、やめて何をしちょるんですか?」
「船を買って色んな品物を運ぶ仕事です。穀物なんかも運びますよ、」
話が聞こえたのか入り口に座っていた男が恐る 々 るい姫に話かけて来た。
「姫さま、わしんとこの息子は長男も次男も岡城の見習い藩士になっちょったんじゃが、この騎牟礼にも砲術を習いに来たこつもあるちゅうて、ところが戦に出ているうちに岡藩士と薩摩連合軍の旗色が悪くなったもんじゃから、長男は逃げて家に戻って来たんじゃ。その後、政府軍がわしらの部落に食料調達に立ち寄った時に、息子がもう一度侍になりたいち言うて、政府軍に入れても貰ったんじゃが、途端に戦いで死におってからに、そいで次男も侍は割に合わんちゅうて見習いはやめて、帰って来たんじゃけど、田んぼも畑も持っちょらんし学問をさせるのに銭もないし、どうじゃろうか?姫さまの船の仕事に雇って貰えんじゃろか?」朦朧とした男が、懸命に生きようとする表情に変わっている。
「息子さんは学問が好きなの?」
「へい、小まい時から好きじゃった。いつも寺子屋の外に立って中を覗いていたんじゃ。銭がないから行けんじゃった。父親のわしが不甲斐無いばっかりに、・・わしも植木職人で稼ぎもいい時もあったんじゃが、この豊後で小競り合いがある度に仕事がだめになって貧乏のし通しじゃ、」
「それなら、佐伯の港に騎牟礼物産というのがあるから、この匡一を一度訪ねて見なさい、」
「それは、姫さま有り難うございます。お眼鏡に適えばいいんじゃが?・・その時は一生懸命やらせますけに、」目の色が変わった男が人生の最後に朽ち果てようとしているこの山城で幸運を掴むかの不思議な緊張感が漂っていた。もう一人の穏やかそうな老人が近づいて来て、
「姫さま、わしの息子もいろいろありましたが、最後は薩摩軍に入って手柄を立てるち言うちょりましたが、帰って来たら商売をさせたいと思うちょりますが、その時は姫さまにお願い出来んじゃろか?」
「おじいさんの息子さんはあっちこっちの藩に出入りしてるようだけど商売は出来るの?」
「はい、わしが細々と乾物の商いをしちょるもんじゃから息子にもそれを大きく広げて貰いたいんじゃ?」
「名は?」
「佐々木村の吉次、言います、」
「分かりました。ふるさとのこの騎牟礼城跡で一時でも働いて貰った人の息子さんだから、縁があったら訪ねて下さい。大野に鎮西農場というのもやっていますから、」
老人は拝むような表情でるい姫を見つめていた。古い山城が夕日に染まるのを眺めながら、るい姫たちは狭い通路を下った。山犬が嬉しそうに尻尾を振りながら一散に駈け下りて行った。
犬を乗せた幌車が竹田の城下町に近づき夕日に染まった赤い大野川を渡り温泉街に入り込むと人っ子ひとりいない通りを、旅芸人の一座が踊りながら歩いていた。串に刺した飴玉を長屋から飛び出した子供がひったくる様に手にし、素早く長屋の中に引っ込む姿があった。
ゆっくり進む幌車の中から山犬が激しく吠えて、旅芸人たちが一斉に珍しい幌車を振り返った。旅芸人の中の恵比寿姿の男と目が合った時、るい姫の臀部の古傷がぴりっと疼いた。 ・・霧は晴れているのに岡城の天守閣が見えない、七つ目の城として心行くまで親しんだ岩山の砦は中川公が去った後、大部分が取り壊されていて、それでも正面の櫓門と武器を収納する倉庫と幾棟かの番屋が残っていて、薩摩連合軍の砦として巨大な赤く染まった岩山だけが、勇壮さを残していた。あちこちに煙が立ち上って、戦に備えての腹ごしらえの為の焼き鳥、焼き豚の匂いが漂って来る。薩摩藩士には、るい姫の騎牟礼物産の存在は分かっていて、幌車を止めて、暫しの間そこに留まった。薩摩藩士たちは懐かしそうに蒸気幌車を手で触れながら薩摩軍の製品を満足そうに眺めていた。中村半次郎の安否を聞いたところ、薩摩軍第四番隊を率いて西郷と並ぶ働きをしているとの活躍振りが聞こえて来た。藩士たちが燃やす焚火の太い松明を蒸気釜に投げ込み、桶に水を満載し、岡城跡を去る時、鈴虫の音がいにしえの鉄壁の牙城を懐かしむ声に聞こえた。
夕焼けが落ち、空が黒ずむ頃、幌車は竹田、佐伯街道に入った。街道の途中、両脇から大葉のシダ類のヘゴがはびこっていて、雷に討たれたような枯れ木が数本白っぽい幹を剥き出しているのが前方に見える。突然!匡一が幌車のブレーキを踏んだが、前車輪が道をふさいだ枯れ木の幹に乗り上げるように衝突して、全員が前倒しになり、犬が前に飛び出して激しく吠え始めた。車の後部から使わない蒸気が噴き出している。
夕暮れの緑のヘゴの中から黒っぽい人影が数人立ち上がり、早速、小さな短剣がパラパラと飛んできて幌車の鉄の部分に当たって跳ね返った。るい姫は素早く幌車の後部の陰に身を隠したが、匡一は戦いに慣れてないのか、落ちている短剣を拾ってヘゴの中に投げ返した。敵の次の攻撃はなく、ヘゴの海が波打って中で丸まって争う気配があって、山犬の唸り声だけが聞こえる。二人の男が首を押さえてヘゴの中から飛び出し、突っ伏した声を放ちながら谷に向かってヘゴの中を転がり落ちて行った。一瞬の出来事だった。
土手上の敵の気配は無くなっている。匡一は銃身が長い拳銃を握りながら山犬を呼んだ。
「ワン公!返って来い、もういい、ワン公、」
勝ち誇ったように狼の牙をむき出して、斑犬がヘゴの中から降りて来た。甚助が育てたこの狂犬は無敵に見えた。姫が近づくと上目ずかいでク~ンと鳴いて姫の手を嘗めた。
「匡一!薬草を、」るい姫は犬の後ろ脚の腿の付け根に刺さっている小さな短剣を引き抜いて、薄い手ぬぐいを引き裂いて犬の腰に斜めに巻き付けた。其のあと、匡一が揉み解した蓬生(よもぎ)を傷の間に挟み、車外に飛び出さない様に首輪をして、車内の金具に繋いだ。
「敵は又来る、」るい姫と匡一は道をふさいでいる灌木を斜めに引きずり道を開けようとした瞬間、敵が後方に現れた。五~六人の顔を隠した男たち、背が異常に高い恵比寿様の恰好をした男が名乗りをあげた。
「わたし、るいひめに、ちょくせつのうらみ、ない。しらぎやと、しらぎちょうべえから、いっぱい、銭をもらった。わたしのくにでは、銭もらったやくそくは、死ぬまで、はたさなければならない。」たどたどしい日本語だ、
「その新羅とかいうオヤジと、この騎牟礼城のるい姫のず~っと昔の先祖の争いの恨みを果たそうなんて馬鹿野郎じゃ、お互いの先祖が何をしたんか?知らんが、この姫に何んの関係があるんじゃ?どうしてもと言うならこいつを使わにゃいけんな、こいつはペリーの黒船が持ちこんだのを薩摩藩士から貰ったんじゃ、メリケンの拳銃じゃ、百発百中じゃ、・・それにこのるい姫には、背後に、かの鎮西八郎為朝公が大弓を持って現れるんじゃ、十人や二十人の相手じゃ、とても無理じゃ、」匡一はあらん限りの大声を出して捲くし立て、銃身が長い拳銃を空に向けて発射した。弾が空を切る鋭い炸裂音がこだました。
「わたし、ちんぜいはちろうという、ぶしょうのことはわからない、わたしのくににも、むかし、えいゆうのぶしょうがいた。いまでも、かたりつがれている。」恵比寿姿の東洋人の言葉とは裏腹に五人の忍び崩れらしき男たちが、鎮西八郎の名が飛び出した事で、戦意を無くしたように後ずさりを始めた。
「わしたちは新羅の爺さまから五百両貰って、極悪人の娘を抹殺してくれと、あの娘は普通の人間じゃにゃあ、魔物じゃ、それに逆恨みしちょって、じきにわし達を殺しに来る。じゃからその前に殺ってくれ、と頼まれたんじゃが、どうも話が違う様じゃ、それに仲間がもう九人も返り討ちに合って死におった。まあ、分け前が増える分はいいんじゃが?・・
二百両は死んだ仲間の家族に渡しちょる。今そちらの若いのが言うたこつは、酷悪人とは鎮西八郎の事じゃないんか?とすると、あの爺さまの言いおったこつは嘘っぱちじゃ?こんな麗しか姫が極悪人の娘ちゃ、おかしいち?思うちょった。もう金輪際、仲間を死なせたく無いっちゃ、・・それよりも薩摩軍が落ちたら、本当の新しか世の中じゃけ、ちゃんとした仕事をしていかにゃいけん、なあ、お主たち、」
「そうじゃ、こんなところでうっ死ぬより、六〇両貰うて国に帰るっちゃ、かかぁと三人の子が待っちょるんじゃ、俺は、」
「恵比寿さまのおっさんよ、おまさんも国の約束がどうのこうのと言うとらんで、貰った金持って、おまさんの国に帰ったらどうじゃ?家族もいるんじゃろ?」
「はい、います、かわいいよめさんと、かわいいこどもたちが、・・わたしもほんとうははやくかえりたいのです、でもやくそくをはたさないと、おばあさまにおこられます、」
東洋人の生真面目な意外な面があるのを知ったるい姫は、
「それならば、異国の人よ、私と一騎打ちと行きましょうか?飛び道具は無しで、どっちが勝っても恨みは無しで、」匡一は目を見張った。そして自分が姫の代わりにと言うのを、るい姫は手で押さえた。
「おう、すばらしいおひめさま、このようなうるわしいひとと、たたかいたくありませんが、しかたないです、やりましょう、」
街道の真ん中に恵比寿姿の長い髪を真上で束ねた大男と、袴を足首で束ねた長身の女が向かい合って立った。五人の刺客だった男たちと匡一は固唾を飲んでいた。幌車の中から山犬が首を伸ばして行方を見守っている。勝負は一瞬で決した、大男が青龍刀を横に払った。ブルン!と風を切る音が鳴る、女は走りながら土手の岩場から弾みをつけて、男の真上を飛び越えた、着地した時、右手に懐剣を、左手に頭髪の束を握っていた。
「おおう、わたし、はずかしい、おばあさまにおこられる、かえれないよ、もう、」大男は膝をついて片手で頭部を押さえて天を仰いだ。
周りの呆気に取られている中を匡一が、釜の中に薪を数本投げ込み、蒸気を吹かしながら、幌車を発進させた。見送る忍び崩れたちに、
「やる気があれば仕事はあるっちゃ、佐伯の港に騎牟礼物産という輸送船の事務所があって、雇っちやる。忍びじゃったら身体は身軽じゃろう?」匡一はハンドルを握りながら男たちを鼓舞した。・・
幌車は動いたが揺れが大きくなっている。夜明けに佐伯に到着し、海運船の中で犬に傷薬を塗り、革の腰当を付けた。数日して杵築にいた甚助が木下春高を伴って二頭の馬で駆けつけた。るい姫は未だ傷が癒えない山犬と海岸を散歩に出かけていた。
一同の船員の前で、甚助は考えを述べた。その方針は明治新政府がいよいよ始動し始めることで、産業の海のルートが九州と江戸湾(東京湾)とを繋ぐ航路が重要視される事、その需要を満たすにはもう一隻の大型船が必要である事、騎牟礼物産を纏(まと)めて行くために、るい姫の夫としての木下春高を社主として育てて行く事、そしてその身内の組織が纏まって行かなければ、海運業の競合に勝ち残って行けない事を力説した。
更に新政府を主導していた薩摩が負け戦の公算が強まって来た事で、薩摩の後押しが無くなって来た事、鶏や穀物の陸上の輸送が大野から杵築の港が最短にある事、が追加された。・・早速、大型の鉄船に木下春高と甚助が乗り込むことになって、匡一は古巣の中型木造船に乗船することが言い渡された。に対して匡一が反発した。
「俺は甚助どんから言われて、佐伯城にいる時から何年も姫さまの警護を任されて来たんじゃ、蒸気車も苦労して薩摩から調達した。忍びから襲われた時も、俺は身を呈して守った。俺はずっと、姫さまの傍にいて守って行きたいんじゃ、」匡一は懇願した。
「のぼせるんじゃねえ、お前に誰が姫の警護を頼んだ?お前は逆に姫に助けられたんじゃねえか?そのまま姫にくっついていただけじゃねえか?お前より佐吉やタエの方がずっと姫の助けになっている。姫がここにいたらお前の言い分に多分噴き出すぞ、・・今からの海運業と云うのはなあ、匡一、個人の自由勝手な行動は許されないんじゃ、聡明な頭がいて、その統制の下で動かにゃいかんのじゃ、その点、春高さまはのう流石、城主の次男坊じゃ、頭もいいししっかりしたお人じゃ、・・お前の兄貴分たちの木造船に乗せちょったが、元海賊たちの人望も高くなっちょる。この人は立派な社主になる。姫の夫としても相応(ふさわ)しい、」・・春高は俯いて恥じらいを見せていた。
「るい姫が私を夫として認めてくれるかな?」と謙遜したが、その中で匡一は横を向いていた。
「俺だって宣教師さまから異国の学問を習って姫さまの為にやって来たんじゃ、城主の子じゃないだけじゃ、俺は伴天連の子でイエス様がついているんじゃ、」と呟いた。・・・
三か月後、騎牟礼物産の会議が大野の鎮西農場で開かれた。るい姫と甚助、春高たちは大型の蒸気車二台で杵築から大野に向かった。佐伯の事務所の跡を取った匡一たちは兄貴分の髭男とチャイナ服の大男、忍び崩れの男たちを含めて幌車で大野に向かった。
佐吉たちは鳥屋城跡の麓に大きな鶏舎を数棟造り、卵の生産と地鶏の燻製を拡張し、鶏の飼育の契約農家の数を更に増やす事を計画していた。今日の定例会では甚助から陸上輸送用の大型蒸気車を受け取る手筈だ、もう一台はタエの兄が経営する鎮西農場の大量の穀物運搬に必要不可欠で、収穫と港に運ぶのが手間と時間が掛かっていたのだが、広い農場内を走り回る小型の蒸気車も要求していて、次の会議までに調達する事を話し合われた。
「土を耕して、新種を植え付けし、収穫するだけでも人手が一杯で、効率が悪いんじゃ、以前薩摩藩士から聞いちょったが、温室栽培ちゅうのが、外国にはあって、質と効率が数倍に成るらしいんじゃ?甚助兄い、そこん所を考えて欲しか?」タエの兄も妻と一緒に、新しい生産と販売の方式を模索し、真っ黒になって走り回っている姿があった。
武士の世界が終わり、城主制度が崩壊した今、百姓の年貢が無くなり働いた分、手元に落ちるようにはなったが、大半の土地は地主が押さえており、小作制度は続いていた。ある程度の土地を持っている者は細々と自立して行くか、契約農家で鎮西農場に寄りかかる事で成り立つのだが、土地を持たない労働だけを売る者が大勢押し寄せたのだ、それを受け入れるにはタエの兄が所有する土地を更に増やす必要があった。所謂、鎮西農場の土地、ひいては騎牟礼物産の農地を増やすことに成るのだが、タエの兄の頭は一つ心配なことを抱えていた。大野と云う土地は水田が少なく、高からず、なだらかな高原地帯が多く季節風の変化によって空梅雨、冷夏、冬の低温凍結がいきなり来る時がある。その時は作物の飢きんが訪れることを何度か経験しているのだ。タエの兄はその時の予防策として外国の温室栽培を考えていたが、その方法を見い出せずにいた。そこで甚助たちは明治政府と云う近代化に伴って、西洋の影響で肉食の時代が訪れるのではないか?と予想し、農耕用の牛を放牧して牧場経営にも乗り出す方向に出た。早く西洋と取引を始めた薩摩藩士から牛のステーキ成るモノを試食したことがあって、其れを現実に実践したのだ。タエの兄は土地を持たない男たちを牧童として育てようと思い、鎮西農場は新たに原野だけではなく、切り開くための安く手に入る山林をも購入したが、初めての実践計画は多難を極めた。
甚助は海運の競争に打ち勝って行く為に、もう一隻の輸送船を調達することを考えていたが、鎮西農場の牛肉と穀物の量が増えると益々それが必要となるのだが、その為には莫大な金がいる。その大きな調達資金の割り振りをする頭脳が甚助には無理だと考えたのだ。山猿から騎牟礼城の見張り役となり、砲兵の副長まで成りあがって、武闘派と海運業の礎を作り上げ、るい姫を祭り上げる事でどうにかやって来たが、大きな資金を動かし多角的大仕事を牛耳って販路を拡大して行く社主として、元、城という大組織を経営していた城主の子である聡明な春高が相応しいと改めて痛感していた。・・・
幕末のどさくさ、人が皆、平等意識を持ち始めていて、初めてこの騎牟礼物産の定例会に出席したるい姫の敵だった者、得体の知れない者達の遠慮のない要望が出始めた。
「わたし、ひめさまをころすために、やとわれましたが、ひめさまと一対一で、しょうぶしました。そしてみごとにまけました。くにいちさんに、やとってもらいましたが、ほんとうはひめさまのしたで、はたらきたいのです。えたいのしれない、しのびだったひとも、そうおもっています。そしてきむれじょうで、やくそくをもらった、どこかの、のうかの、わかものも、ひめさまのしたで、はたらかないとあんしんできないと、おやごさんがいったようです。どうか、ひめさまのいる、てつせんにのせてください、」ピエロの化粧をきれいに落とした大男の東洋人が肩を落として両手を合わせて拝むように言った。
「ああ、そうかい、俺じゃなくて、姫さまの所が良いのかい?わかったよ、お前らがおらんでも雇う者は他にいっぱいいるんじゃ?」匡一の心は乱れていた。本心はるい姫の傍に仕えていたい気持ちと自分にはまだ人望が備わっていない事へのジレンマが錯綜していた。父親の血を引き継いで、キリスト教徒の洗礼を受けていたが、その教えである “与えなさい、そうすれば報われる ”の教典を身に付けていないのか?要求することの欲望から逃れられなかった。・・・
翌日、定例会を終えた時、誰ともなく、竹田の方向で数日前から大きな煙が立ち上っていたことが話に出始めた事で予想はあったのだが、全員が騎牟礼城の方角に向かった。途中の街道に暫く姿を消していた甚助の斑犬が走り寄って来て、皆が乗る蒸気車の先頭を走って行った。
騎牟礼城は薩摩軍も政府軍も既に去っていて、樹木も含めて、全てが焼け落ちて、甚助と佐吉が建てた石川政夫の菩提石碑が黒い煤(すす)に覆われて残っていた。続いて岡城も巨大な石済みだけが岩山の上に聳(そび)えていた。
るい姫は長い間その上にたたずみ、本当の武士の世の終わりと城の終焉を胸に刻んだ。そして最後の憧れの存在だった中村半次郎(桐野利秋)の死を思った。・・・
一年後、木下春高は姓を鎮西に変え、正式にるい姫の夫となり騎牟礼物産の社主となった。鶏と卵、牛と穀物部、海運の多角経営のすべてを把握する為に春高は現場を周り、勿論るい姫も同行した。雇う者と雇われる者との動向、数、給金の合計と売り上げの額、当時は会計規則が無かったので、どんぶり勘定に近かった。そして不思議とるい姫が勘定した額に大きな誤差がなかったのだ。
「未来の技法を持ってるんじゃな、るい姫は?」春高は呟いた。
「貴方も城主の子息では無くなったのですから、私ももう姫ではないのですよ、」るいは春高に言った。・・
懸案であった新しい運搬船の購入に関して、春高の考えが取り上げられ中型の鉄船に決まった。春高は新政府から産業復興資金を借り入れた。大型船の購入に比べると費用は三分に一で、あとの三分に一を農地の購入と穀物栽培の西洋方式、数百頭の牛の飼育、新たな鶏の燻製施設の建設に当て、残りの三分の一は予備資金に充てた。鎮西農場は雇い人が二倍に成り、牛肉と穀物産出量を三倍に拡大する事を目標とした。
中型の輸送船を新たに調達し、事業拡大を図った騎牟礼物産には噂を聞きつけた元藩士や西南戦争を途中で抜け出て来た男たちが殺到した。更に海運業に付帯する商人の出入りが激しくなり騎牟礼物産の支配の中に入りたがる一団も現れた。長期の輸送に大型船を使い、中型船を各港の荷卸しに使い回転を速めることで、合理性という言葉が当てはまることを春高が唱えた。・・そして大野は一大穀物地帯と変貌して、チャイナの大男と農家の子倅(こせがれ)と二人の忍び崩れをタエの兄が雇用し、忍び崩れの残る二人は佐吉の養鶏部に落ち着かせた。鎮西農場には収拾が付かないほど契約農家を申し込む人間で溢れ、封建制度が終わり、自由な経済活動の世で迷走する農民の姿があった。甚助は増え続ける穀物をはかせる為に大型船の航路を大阪湾と東京湾まで伸ばした。大型船の乗組員の中には騎牟礼海運創設の時、薩摩藩士、桐野利秋からの恩恵を受けたことから薩摩の男たちも顔を並べていた。大阪湾、東京湾での荷卸しの中に、薩摩焼酎白波のラベルもあった。・・・
東洋人の大男や忍び崩れの男たちが抜けた匡一たちの木造船は元々髭男たちの持ち船であったことからるい姫に命の恩がある髭男たちと匡一との間で言い争いが起こったが経営力を身に付けていた匡一にやはり軍配が上がったが、人望に問題があり纏まりが無かった。そして独自の道を進むことを伝えて来た匡一だったが、木造船の所有権を持つ髭男との確執は尾を引いた。進むか?戻るか?しかし現実の稼ぎとして、卵と地鶏、大野の穀物と販路拡大が見込める牛肉の海上輸送については今まで通りの契約を頼んで来た。
一年後、るい姫に切られた髪が伸びたチャイナの大男は、以前の様に頭の上で髪を束ね、
「これでおばあさまに、おこられずにすむので、ぼこくへかえります。わたしもひとりむすめと、およめさんにあいたくて、しかたがありません。るいひめさまと、じんすけさん、みなさん、おせわになりました。さらばです。」東洋人は再び顔にピエロの化粧をし、旅立って行った。佐吉がピエロの化粧の謎を聞いた時、
「国ではお祭りの時、いつもピエロの化粧をしていたのでこの化粧をすると心が落ち着ける、」との返事だった。
春高とるい、甚助との話し合いの結果、廃城となった騎牟礼の名を、変更して騎牟礼物産から鎮西物産海運としたが兜のお祖父さまからの音沙汰は何もなかった。甚助と春高は新たな海運の仕事に忙殺されていて、西洋から輸入した小麦(パンの原料)を神戸港から四国~九州へ運ぶ大仕事や鉄鉱石を八幡製鉄と長崎の三菱へ運ぶ契約にも手を伸ばしていて、二隻の鉄船はフル回転を繰り返していた。
るいは懐妊した事が判り、府内の住まいで、家事を取っていたミヨと連れ添って大野の奥にある、母さまの菩提が眠っている鎮西屋に甚助が差し向けた斑の山犬と共に向かっていた。大野までは佐吉が運転する蒸気車に乗り山道に差し掛かる所からるいの指示で山犬を含め、三人で歩く事とした。タエも連れ添う予定であったが二人目が生まれて間もない男の子の世話で来れないことを佐吉が伝えた。
「タエに似ているといい男?・・佐吉どんに似てると山猿顔かな?」とるいが言った。
「残念じゃ、山猿顔でござったよ、」
「佐吉どんも精悍でいい男ですよ、」
ミヨが褒めた。
「いい男と言うとタエの兄さんは意外とそうかもね?」と、るいが呟いた時、
「いい男選びは其の位にして、俺がこの前この蒸気車に卵と地鶏を満載して、中津の商人に卸した時、以前、中津の城代だった新羅長兵衛どのと、もう一人長兵衛どのに似てる爺さまがいて、その中に鎮西海運から別れた匡一が居たように思ったんじゃが?何か、気になっていたんじゃ、」佐吉は頭をひねっていた。
「長兵衛さまは騎牟礼の新羅万兵衛さまの兄(あに)さんで、もう一人、親族の新羅屋さんがおられる事をうちの甚助さんから聞いていましたが、そこに匡一が居たとなると何か?不穏な感じがしますね?」ミヨが切り出した。・・・その時、るいが思った事は、
「鎮西家と遠い過去から争ってきた新羅家の本家の末裔が、その新羅屋本人であって万兵衛、長兵衛は分家の端々の人間ではなかったのか?・・とすると鎮西屋への刺客は新羅屋が中心となって企てたのではないか?」の謎解きが、るいの懐かしい母さまの菩提と重なった。るいは何度も大野と騎牟礼城との往復のあいだに母さまの菩提に行きそびれた己の心を詫びていた。身重になった我身が初めて生まれ故郷に向かうのだ。紅葉が眩いばかりに美しい中を枯葉が重なる山道を歩く三人の姿があったが、突然るいの歩足が早まった、斑犬がるいに合わせて走り始めている、鋭い眼差しに変わったるいの横顔を見ながらミヨは不安げに、
「姫さま、そんなに早く歩かれるとお体に障りますよ?」ミヨの声は厳しかった。..
数年ぶりに故郷に戻って来た斑の山犬が立ち止まって懐かしむように遠吠えをした。
谷の向こうから仲間の山犬の声が響いて来る、るいは波打つ心を山犬の遠吠えで鎮め、暫し立ち止まりながら、
「仲間が腹を空かして呼び合っているのかな?」と呟いた。
鎮西屋は五十才近くになり、白髪の刀工になっていた。生まれたばかりの肌着に包まれた赤子を見た時から二十数年の月日が流れていて、身の丈が己の体格と同じ娘と対面し、信じられないような驚きと共に、胸の感激を抑える事が出来ずにいた。白いあご髭が伸びた男は、るいを見据えた目をいつまでも逸らさなかった。太った初老のお福は台所から転がるように出て来たが、盆に乗せたお茶が小刻みに震えていて、遂にちゃぶ台の上に溢してしまった。
「るい様!何で?今までお顔を見せて頂けなかったんでしょうかね?私は姫さまの事で真の臓が悪くなりました、」ミヨがそれに合わせるように、
「姫さまは益々、我がままに成ってしまわれました。睡蓮の母さまも本当にお待ちだったと思いますが?」二人の肉親同様の待女は愛のうっぷんを晴らしていたが、るいは己の出生と鎮西の睡蓮の母さまの謎と対峙する心の動揺を隠すように俯いていた。早速、女たちは懐妊したるいの寝所を整えるために甲斐 々しく離れで動き回っていた。幕末の戦乱で刀や槍、鉄の荷車、鉄砲の銃身、あらゆる武器の受注が後を絶たず、鍛冶小屋は二倍に拡張され、弟子たちの宿舎を含めて、屋敷も増築されていた。最も受注が多かった薩摩軍からの斡旋で二台の蒸気車も備わっていて、車の前頭部に、今は無き,日本中を折檻した薩摩の桜島の彫り物が侘しさを現わしていた。るいとミヨは離れの寝所に逗留することになり、るいを守るために共をした斑犬は数日間、姿を消していたが、いつの間にか現れて皆を驚かせた。るいが池の傍に佇んでいると何処からともなく近づいて来て横に座って、舌を垂らすのだ。
「何処に行ってたの?仲間のところでしょう?・・もう、主人の甚助のことは忘れたのか?」犬は二度吠えて尻尾を振った。鎮西屋の妻が、
「亡くなった奥様から聞いていましたので、米のとぎ汁を与えていましたら、又、一つ花が増えたんですよ、」
「睡蓮が母さまと叔母さまを間違えたのかしら?」るいは叔母に母さまの匂いを感じていた。刀工の弟子は十人に増え、二十代、三十代、四十代の男たちが鍛冶を競っていた。その中にタエの従弟だと云うボサボサ頭の若者がいてるいの懐剣を見せてくれと言って来た。
「これは母さまの形見ですよ、」タエの兄によく似た礼儀正しい若者に、るいは胸の懐剣を差し出した。龍の装飾が彫られてある鞘を抜いた従弟は、
「この刃は相当に古いもので名刀です。そして何度か血を吸っているようで波紋に現れています。」
「解るのですか?・・その刀は私が杵築の船に乗っている時、南蛮船と衝突して、引き上げられた船の中でタエを助けるために二人の南蛮人の首を刺した事があります、」
「えっ!タエ姉さんを助けるために?・・」従弟は恐る々、るいを見ながら 懐剣を返した。
「貴方が刀工に成ろうと思った理由は何なの?」
「はい!俺は戦う事が嫌いなんじゃ、一度や二度勝っても、いずれは負ける時もあるし、その時は死ぬ時じゃ、それよりも武器(刀)を造って、生き永らえて、名工に成った方が絶対良いと思うし、それと俺の家には百済から来たと云う手鏡と平たい青龍刀があるんじゃけど、あれには刃金(はがね)が無くて、すぐ刃が潰れてしまう。だから俺は刃こぼれがしない砂鉄の刀を造りたかったんじゃ、」
「タエは佐吉どんと一緒になって、養鶏事業に精を出しているし、兄(あに)さんは広い農場を開拓して、鎮西物産の売り上げに貢献して貰っているのよ、貴男も立派な刀工さんに成りなさいね、」
「姫さま、有難うございます。俺も頑張ってやります。」若者の目は澄んでいた。朝鮮のいにしえの百済の血を引き継ぐこの三兄姉弟は鎮西家と密接に繋がりを持っているのに比べ、同じ国同士の新羅家は何故、因縁の相手として鎮西家と争う事に成ったのか?母さまの温もりがある、この睡蓮の花を眺める毎に、今だ新羅長兵衛と新羅屋という怨念に燃えた男が何処かにいる事が、るいの脳裏に焼き付いていた。それにしても新羅家について、兜の祖父さまが何一つ口出して来ないのが、不思議だった。
「兜のお祖父ちゃん、昔々大昔、朝鮮から来た新羅家の人との間に何があったの?父さまが死ぬことになって、母さまもショックで亡くなって、私もお祖父ちゃんか又は誰かの手で騎牟礼城の手洗い瓶の中にこの懐剣と一緒に運ばれて、もう!あれから誘拐されたり、招待されたり、大変だったんだから、でも、優しい春高さんが私の夫になってくれてお腹にやや子が出来たのよ、・・男の子かな?・女の子かな?・・この子には私と云う母親と春高さんと云う父親がいるんだけれど、幼かった私には誰もいなくて自分の事がわからなくて、私は一体何なのか?トンボや虫さんと同じなのか?でも、トンボや虫さんはお友達に成ろうとするとすぐ逃げてしまう、だから、虫籠に入れたの。小さいころから一人ぼっちで本当は寂しかったのよ。でも寂しくないふりをしていたの、寂しそうなところを人に見られると、自分の魂がバラバラに成って身体もバラバラに成って、るいはいなくなってしまうと思ったの。・・生まれるこの子の為に、私と春高さんはいなくなったり、死んでしまったり、絶対にしないようにしようと思う。・・あの頃は甚助やミヨが父と母の代わりをしてくれていて、・・そうだったんだ!甚助と佐吉が私の父さまと兄さまでミヨとタエが私の母さまと姉さまだったのかもしれない?だからそんなに寂しくなかったんだ。・・そうだ!私は寂しくなんかなくて楽しんだのだ。沢山のお殿さまもお友達になれて、愛して貰ったんだ。甚助、ミヨ、佐吉、タエには心から愛しんでくれたお返しを絶対にするとるいは天に誓う、」幼いるいと大人のるいが同居していた。
「姫さまは空の雲を眺めるのが好きなんじゃね?雲は色んな形になって動きよるから、面白いんじゃな?」生真面目な若者の言葉に、るいはふと、我に戻って頷いた。池の底から湧き出る清水が波紋を呼び、木立の隙間風が三本の睡蓮を揺らしている。
母さまが微笑んでいるのだ!
「昔の怨念は忘れなさい、そして生まれて来る子を育み愛しなさい、」と言わんばかりに、
るいは少し大きくなった下腹に手を当てて、我が子の鼓動に耳を澄ました。・・・・
大野の北に雪が降り積もり、雪溶けの春になり、梅雨が過ぎてセミが鳴き始めた。大木の枝から夜いきなり降った雨の滴が睡蓮の池の水面を叩く音がシ~ンと静まり返った真夜中、るいの離れの窓に間隔を置いて響いて来る。
何度目かの水音に誘われて、るいの眠りが深まって行く。・・未来の瑠衣の呟く声が聞こえた。・・
第2章・(過去から現代へ)
(るい姫は虫刺されに強く、現代の瑠衣は弱い)
「貴女は鎮西屋の離れにいるんでしょう? 今、」
「一四〇年後のその離れにいるのよ、私、神経病院から退院して来たばかりなんだけど、大分市内の自宅よりもここの別荘の方が静養出来るんじゃないかと母さんが言うから、自宅にいるとまた変な事言いだすからここに追い出されたって訳、」
「神経病院に入院してたって、貴女、頭変に成っちゃったの?」
「だって!貴女のせいよ、深い眠りにつくと貴女と私は一緒になるんだもん、貴女は幕末の戦乱の世界にいるから、当然、戦ったり、時には刀で相手を倒したりするでしょう?確か、あれは小学校六年生だったかな?もう、大変だったんだから?・・」
「小学校六年生と云うと十二才位かな?あっ!そうだ、船の上で南蛮人とやり合った時だ、」
「そうよ、外国人の大男の首を短刀で刺したでしょう?タエに何をするんだ、許さないって言って、タエの胸は血で真っ赤に成ってるって、・・私ね、あの時、小学校最後の臨海学校に行ってて、夜中にうなされたらしいの?その乱闘の状況を叫んじゃったのね、みんな驚いて飛び起きて、その後、みんなに怖がられて、母さんも学校に呼ばれたりしてね、」
「うふふ!そうかあ、・・時代の差ね、・・あの時、私、無我夢中だった。だって、タエが殺されそうに成ったと思って、・・」
「貴女って凄いね!同じ血が流れてるのが怖くなった。結局、その二人は死んじゃったんでしょう?」
「うん、私が五才の時からお姉さん代わりとなって守ってくれたタエを失いたくなかったし、今考えると大男たちに犯されようとしていたのね?」
「・・う~ん、でも、肉親みたいなタエさんがそんな目に成っていたのなら、正当防衛が成り立つけど、犯されそうに成っていた事で、首を刺し通して殺す事は私には出来ないな?私が知らない幕末の動乱の時代の差はあるけど?・・・」
「私は十二才だったのよ、私も必死で大男たちの肩をげんこつで何度も叩いたのよ、全く効き目無し、跳ね飛ばされたりして、」
「棒切れで叩くとか?」
「貴女ね!あの状況が本当に我身に降りかかった最悪の時だった事を理解できないんでしょう?正当防衛がどうのこうの?って、」
「ちょっと、待って、・・そう言われたって?・・人を殺すって?・・私、学校で生命学を専攻したのね、人間は生まれた時から悪い人はいないって、幼児の時から肉親との触れ合いが重要、肉親の愛情を知らないで育った人間は危険な人物に成るケースが多いのよね、」
「なに言ってるの?貴女、頭に来ること言うわね!・・どうせ、私は危険な人物よ、父さまも母さまも知らないし、肉親との触れ合いも無かったし、触れ合ったのは昆虫だけだった、だから人間に対する愛情が育っていないと言いたい訳?」
「ごめん!そうじゃなくて?・・貴女は姫さまとして育ったし、色んな人の愛情も貰っただろうし、大事にもされたと思う、だから貴女には当てはまらないと思うけど?・・」
「だったら,そう云うふうに言えばいいじゃない?いきなり肉親の愛情を知らない子は危険だとか、」
「ご免なさい!いきなり言ったからね、・・私が生命学で習った事は両親から貰った優しさとか大事にされたら、他人の事も大事にする、殴ったり、殺したりとても出来ない、その気持ちが大事だということ、・・現代はね、いろんなことが混乱して、甘いところを見せると舐められ、騙されて、最後は大事なものを奪われて殺される。大事にする事も優しくする事も其れを遂行するには強い意志が必要な事が多い、相手の事を考えずに突き進めば最終は戦争になり、どちらかが死ななければならなくなると、」
「ふ~ん!幕末と未来は少し違って来てるんだね、・・思い出したけど、あの時タエは犯されようとして舌を噛み切って死のうとしていたのよね、女武士は辱めを受けたら自決するのが武士の世の教えなのよね、タエを助けるには男たちの首を刺し通す事しか十二才の私には出来なかったことが、この事の顛末なんだよね、」
「うん、・・貴女の事が少し理解できたわ、専攻した理屈を偉そうに言ってご免なさい、ただ貴女のやった事の怖さと凄さに私は縮み上がって、つい私の浅はかな生命学なんかを持ち出して対抗したかったのよね、」
「瑠衣も一三才の時、自転車で二人の男に突撃してやっつけちゃった事があるでしょう?私、あの時はね、日出城でポルトガルの宣教師さまから、お勉強を教えて貰っていたのよ、夜中までお勉強していて、うつらうつらしてる時に瑠衣が悪い男に突撃する光景が現れたのよ、」
「ああっ!恥ずかしい、だって、あの時、お友達の女の子が変な二人の男に乱暴されようとしてたの、周りには誰もいないし、私は土手の上から自転車で斜面を下りながら乱暴者にぶつかって行ったの、気が付いたら男たちは顔に青あざと血が流れていて逃げて行ったわ、女の子はずっと泣いてて、・・私の事は誰にも言わないでと言ったの、」
「人を助ける事はいいことだけど?」
「だって、私、それまで凄い夢見る毎に何度も叫んだりして、みんなから怖がられてもう、恥ずかしくて外に出たくなかったのよ、」
「ふふっ!でも瑠衣から未来の算術を習ったから宣教師さまも驚いて、マリアさまの再来だ、なんて言ってた、ふふっ!」
「百数十年で世の中の文化と科学は凄く違って来てるからね、・・でも貴女はあまり知らない方が良いみたい、」
「そうね、あまり知りたく無い、私が将来、幸せに成るとか?成らないとか?・・春高さんと最後まで添い遂げるとか?別れるとか?知りたくない、怖いから、」
「あれ~?貴女、結婚してたの?知らなかった、」
「そう言えば、この数年の間、瑠衣とは交信なかったよね、」
「だって、私何年間は神経病院に入院していたんだもの、誇大妄想とか時代錯誤症とか色々言われて、いつも脳波を測るために計測器をはめられていてね、夢を見たり貴女と交信したりする暇が無かったの。あの計測器ってマイクロ波でしょう?交信は途絶えてしまう、・・でも良かったね、相手はどんな人?」
「日出城最後の藩主の弟君で春高という人、私の処に婿養子よ。優しくて聡明な方、」
「日出城の君と云うと貴女が十五~六才の時、別府城跡の兜のお祖父さまの石碑の傍で初体験した人でしょう?・・初体験の人と一緒になれるなんて素敵、」
「瑠衣は初体験はいつ頃?」
「私は遅かった、ず~っとバレーやってたでしょう、他の男の子を見下げる目線だったし、なんか?敬遠されちゃって、・・でもね、大学一年の時、ギターを弾く人と知り合ったのよ。私、その人の追っかけやっててね、その内に仲良くなって、そして歌のメンバーに誘われて、舞台で背が高くて見栄えがするからって、・・その人、私の背の高さに魅力を感じてたのね。福岡のフオークの貴公子と言われてたんだけどその後、その人は東京に出て行ったし、私はバレーボールを続けたかったからついて行かなかった。それっきり会っていない。」
「フォーク?西洋の食べ物突き刺すやつ?」
「ちゃう!ちゃう、三味線みたいなのでギターって云うんだけど弾いて歌うの、」
「三味線講談師みたいな男に憧れたりして、変な瑠衣?・・」
「三味面講談師は良かったわね、ちょっと違うけど?」
「貴女の時代は情報が溢れていて、人と出会う機会は多いけど心の出会いが少なくて模倣や偽りの出会いが多いみたいね?でも瑠衣にもきっと本当の出会いがあるよ、絶対に、」
「そうかな?そうだといいんだけど、」
「私の時代は皆、命がけで生きてるから模倣したり、遊んだりする余裕と暇が無いのかもしれない?春高さんなんて、城主の次男坊の地位を捨てて、私の姓に入りに来たのよ、」
「羨ましい、私なんかこの図体だから、近寄って来る男もいないのに、・・そう言えば家の仏壇の引き出しの過去帳に何代か前に春高という名があったような?」
「鎮西物産海運の創始者としてね、」
「でも、今は鎮西物産海運というのは無いよね、どうかなっちゃったのかな?今は鎮西金属工業だけよね、それと叔父の刀剣事業、」
「鎮西農場とか養鶏場は残ってない?タエの兄とか佐吉どんが始めた事業?」
「ふ~ん?父さんと財務にうるさい母さんが話していたけど、曾祖父の時代に海運業ともう一つの事業を鎮西の名から切り離したらしい、鎮西の名に纏わる因縁とか怨念がその人たちに及ばない様に、そしてその海運会社と農場をその人たちに無償譲渡したらしいよ。今は大きくなって海外支店もあるらしい。暮れには凄いお届け物が来るのよ、だから母さんが言うの、何で曾祖父さんはあんな大きい会社をただであげたりしたんでしょうかね?其のままだったら今頃、うちは大企業ですよ。本当に,曾祖父さんは人が良かったんでしょうね?本当に、を繰り返してんのよ、父さんがご先祖さまにはそれなりの考えがあったんだからいいじゃないか、弟がやってる刀剣事業と共同でナノ攪拌ドラムの開発も大変な事業だから、それで精一杯じゃ、と二人で揉めてるの、」
「ああっ!それは私の子供たちがやったんだ、私はね、もう事業はいいと思ってたの。バリバリ競争ばかりするのはもう飽きちゃったから、それよりも私たちの為に尽くしてくれた者に恩返しをする方がみんなの為に、・・色々あって私には出来なかったから、代わりに子供たちがやってくれたのね。良かった、」
「だったら、良かったんだよね?本当に、」
「一四〇年も経つと様変わりするんだ。鎮西屋の刀鍛冶は瑠衣の時代も続いているんだね?」
「金属会社は曾祖父の頃、刀鍛冶から別に立ち上げたみたいね、」
「ふ~ん?そうか、三世代間の変貌か?時代と共に色んなものが変わって行ったのか?・・」
「うん、色んなものが変わって、発展して、私にもどうなってるか解らないけど、それに季節なんかも変わって来てるのよ、」
「と、云うと?」
「夏涼しかったり、冬あまり寒くなかったり、・・」
「何それ?雪が降らなかったりするの?・・」
「今年は少し降ったんだけど、毎年段々降らなくなっているわ。地球が温暖化になって、」
「・・温暖化ねえ?・・あまりピンと来ない?私がここにお産の為に来た時は、雪がたくさん積もったのよ、でも、もう夏に近いし山の中だから蚊が多いのよね、あっちこっちから入って来るのよ、一応、蚊とり線香つけてるけどね、瑠衣の時代は蚊はいるの?」
「いるいる、網戸はあるけど、家が古いから隙間から入って来るのよね、嫌だよね、蚊って?」
「私は野性で育ったから割と平気なんだけど、子供が生まれたら心配、」
「現代人は皆それには弱いよ、食生活も関係あるみたい?自然食が少ないから、身体が弱ってるのかな?貴女の時代は自然の食べ物ばかりなんでしょう?」
「そうね、殆んど、鶏肉とか薩摩軍から豚肉も貰うかな?・・鎮西農場で飼育する牛肉はギトギトした南蛮人を思い出すので私はあまり食べないの、」
「お肉は今も同じよ、スイーツなんかは無いでしょう?美味しいのよ?」
「なによ?それ、」
「寒天みたいなのにミルクとか牛乳と砂糖を入れて冷やすの、」
「ふ~ん、美味しそうだね、貴女の時代、食べ物も様々でしょうね?」
「うん、世界中の食べ物がある。何か月も保存できる食べ物もあって、私が知らないものもいっぱいある、」
「卵はどう?ゆで卵とか?」
「あるある、どこの家庭も一ダース満載、一日一人一個ね、あれは貴重なタンパク源ですよ、今でも、・・で、鳥インフルエンザって~のがあるんだよね、あれが問題、」
「鳥インフルエンザって、なんだそれ?」
「うん、鳥が集団で風邪をひいて死ぬのよ、」
「変な世の中、」
「まあ、説明すると長くなるんだけど?・・それとね、貴女と交信するように、インターネットと云うのがあって、手の中に治まる通信用の電話機のようなもので携帯電話って言うんだけどね、世界中の誰とでも交信できるのよ、写真も送れるのよ、」
「へ~っ、そんなのがあるんだ?あの世の人とも交信できるの?私みたいに、」
「それは出来ない、貴女と私は特別ね、霊感エネルギーってやつかな?これ、」
「ふ~ん、それでみんな幸せに成れるの?インターネットで?」
「それが、姫さま、最初はそう思っていたんだけど、段々そうじゃなくなって来たのね、」
「どういう意味だ?」
「そのインターネットを支配する者がいて、逆に私たちは監視・管理されて、やがて一部の人間に支配されて行くのね」
「ほう、それは幕末以前の封建社会みたいに城主がすべての民を掌握するような?そして戦争へ向けて再武装か?」
「そう!似てるね、そうなるかも?・・それと貴女の時代から石炭とか石油を燃やし始めて、それで走る車も出現してるんだけど、現代はそれを燃やし過ぎて空が暖かく成って、この地球の温度が段々、上がって来てるの、さっき言った温暖化、北極と南極の氷が溶け出して、海面が凄く上昇して海の下に沈む島も出て来てるのね,世界中で大洪水が起こって、森林の火事が何ヵ月も消えないの、もう,大変、・・これ迄、経験した事が無い災害の規模だと、連日騒いでいるわ、」
「ふ~ん、そんなに成ってるの?私が岡城に暫くいた時にね、阿蘇山が大爆発して千数百人が死んだ事を中川公が言ってたけど、西の空がばい煙で数か月間覆われていて、世も終わりかっていう感じだったけど、自然が悪化すると云うのはこの火山の問題とは違うのかな?」
「火山は自然のものだけど、これは人間たちが仕出かした事なのよ、石炭と石油を燃やし過ぎると云うのは?」
「は~、瑠衣はネンネだと思ってたけど、意外と厳しいこと知ってるじゃないか?」
「はい!これでも幕末の戦乱を駆け抜ける勇壮な、るい姫さまの血を引き継いでいますからね、それくらいは知っていなきゃ、」
「・・・まあ~、そうなったら、世の中終わりじゃない?」
「そう、そのターニングポイントがもう、過ぎてるのね、」
「何?そのターニングなんとかと云うのは?」
「引き返す時点がもう過ぎてしまっていると云う事、」
「じゃ、どうするの?貴女たちは?」
「どうも出来ない、その辺を無視するか忘れるか?又は・・・・・・?」
「又は、何よ?」
「あのね、それはるい姫さまの力でターニングポイントの時期を変えて貰うか?又は貴女の時代から文明が進むのを止めて貰うか、ね、」
「ふざけてるの?・・瑠衣は私が文明の事を知らないと思って、からかってるの?」
「るい姫、そうじゃなくて、本当の事よ、嘘じゃないの、」
「だったら、私の時代が一番いいことになる。酷い幕末の戦乱が終わった頃が?」
「そうよ、そうかもね?ごめんね、こんな希望が無いこと言って、」
「幕末の戦乱では残酷にも、年端も行かない少年たちもあの世に行ったのよね、白虎隊とか、・・・」
「白虎隊?男の子、少年たちでしょう?可哀そうに、抱きしめてやりたい、・・・」
「あーあ、忘れましょう、ターニングポイントなんて?本当にそう成ると決まった訳じゃ無いんだから?おまけに一四〇年も先の時代に、・・・ところでもうすぐなのよ、私のお腹?お相撲さんみたいに膨らんでる、」
「ひゃーっ、私の曾祖母ちゃん、きっと背が高い女の子かも?貴女に似て、」
「春高さんの子よ、まだ決まってないんだけど?女の子もいいな、でも男の子も可愛いかな?」
「男の子も女の子も貴女に似てれば大きいかもね?春高さんも大きいの?」
「うん!私と同じくらい、最初出会った時は向こうが大きかったんだけど、途中で私が追いついちゃった。 瑠衣も大きいんでしょう?わたしくらい?」
「うん!七八センチだから、六尺は無いね、背が高いのは私あまり好きじゃないんだけど、弟がいつも言うのよ、姉ちゃんはデカいからモテないんだって、私はもう少し小柄で可愛く生まれたかった。・・今は、お父さんが経営する会社の親会社の企業バレーチームに所属してるけど、私より大きい女子は何人もいるわよ、男子なんか、凄く大きいね,」
「兜のお祖父さま位の
「一人いるよ、巨人みたいな人が、」
「日本人の身長も伸びてるんだ、西洋人並みに、」
「でも平均身長はそこまで行ってないね。・・・実はね、私、酷い目に遭ったんだけど、合宿に行った時にね、・・夜、貴女と交信してて凄い寝言、言って、皆から怖がられてね、その後コーチに神経病院に入院させられてね、・・」瑠衣は泣き声になった。
「ごめんね、瑠衣、私が幕末に生まれたから、そして時を超えて私と交信する事に成って、」
「ううん?いいの、父さんと叔父さんは解ってくれてるから、それとコーチも少し解ったみたい、お父さんが話に行ったから、最初は中々解って貰えなかったらしいけど、でもね,解ってくれた人は皆、驚いてる、凄過ぎるって、」
「そうか?私の時代は皆、野武士とか、お殿さまは解ってくれたけどね?・・」
「うん、今の時代は科学万能で迷信とか神仏の世界が否定される部分もあるんだけど、逆にね、宇宙船で、宇宙遊泳したり、月に行った宇宙飛行士が宇宙空間で神に出会った事で、のちに牧師として神の僕になった人もいるみたい、だから、解る人にはわかるのよ、」
「ほう、宇宙にも出かけられるようになったのか?そうか、瑠衣の時代は複雑で難しくなっているらしいけど、楽しいこともあるんじゃないの?その宇宙に行ったり、深海に潜ったり、神秘を追及するのって、愉しそう?」
「やっぱり、貴女は野生児よね?ワイルドなんだ、探求心が強いというか?」
「幕末の動乱はみんなそう、先が怖いというか?死にもの狂いで行かないと不安なんだよ、・・瑠衣も死にもの狂いでバレーをやれば一流になれるかも?」
「貴女だったら、なれるかもね?忍者みたいな人だから?」
「兜のお祖父さまに選ばれてるのよ、貴女も私も同じよ、・・ところで、瑠衣は神経病院に二年も入院してたなら、お金、沢山かかったでしょう?」
「うん、最初の半年間は会社から休職という形で入院費として出てたんだけど、その後からそれが無くて、父さんが面倒みてくれたの。刀工の叔父さんがねチームのコーチとやりあったらしい、企業のバレー要員として全部面倒を見るのが当然だろうって、そしたら、コーチ曰く、うちのバレーチームも経費がギリギリでとてもこれ以上は、と、そして神経病院は脳波の検査とか聞き取りカウンセラーとか色々あって費用がベッド費を含んで高いのよね、二年間で数百万に成ったんじゃないかな?」
「それ、親が払ってくれたんでしょう?瑠衣はちゃんと両親がいて、何でも甘えられていいね、」
「貴女だって取り巻きの支えてくれる人が沢山いて、いいじゃないの?私よりるい姫の方がずっと恵まれているかも?私の父さんは厳しいのよ、母さんなんか、自分の好きな事してるんだから自分で責任取りなさい、って冷たいんだから、刀工の叔父さんだけが庇ってくれて、お前は優しい性格なのに、先祖の因縁の血を引き継いでいて、苦労が多くて可哀想なんじゃからって、ドレスでも買いなさいってお金もくれたりして、・・だから、るい姫だけが苦労してるんじゃないのよ、」瑠衣は腹立たしそうに不機嫌に言った。
「わかった、わかったから、そんなに怒らんでよ、・・ところで私も辛い事ばかりじゃないのよ、私ね、桐野利秋(中村半次郎)ともハグした事があるんだよ、鎮西八郎為朝の末裔の娘だといって、」
「桐野利秋?・・知らないな、新選組の人?」
「違う!薩摩藩の凄腕の人、人斬りと言われて有名な人、」
「そんな怖い人、好みじゃないから知らないの、私、」
「一見、怖そうだけど、お話すると少年の様な目をしてるのよ、ぐっと、来るのよ、あの人」
「貴女は武闘派の人が好きなんでしょう?私は人斬りなんて、絶対いや、」
「・・・あっ!そうだ、もう一人、勤王の獅子で有名で京都で襲われて死んだ人いるでしょう?土佐藩士の?」
「それ、坂本龍馬でしょう?幕末の最高の有名人、現代でも語り継がれているわよ、兎に角、かっこいい人、・・で、その人ともハグしたって訳?」
「う~ん、中津城で会ったんだけど?名前は聞いてないんだけど、“おまはんの名前をぜひ聞かして貰わんといかんぜよ、”と言われてハグされたんだけど、・・その坂本龍馬って云う人だったかも?・・」
「坂本龍馬は私大好きよ、男の色気が、・・ちゃんと名前聞けば良かったんじゃない?貴女もその辺、少し億手ね? でも、現代はそんな凄い人いないし、出会わないし、楽しいことあまり無い、やっぱり昔が良かったかも?」
「瑠衣と交信してると、何だか?未来はあまり楽しい事なさそうね?・・世の中が発展すると楽しい事が減るのかな?」
「かもね、・・きっと、そうだよ、何でも解って来ると、愉しく無くなるのかも?」
「でも、小さい頃は楽しくなかった?・・ほら、五才頃、トンボとかコオロギとか捕まえたりして、」
「あっ!それ、楽しかったね、貴女はお城の庭で、私はここの庭で、蟻さんの行列なんか、良く見てた」
「そう、そう、私もそうだった、・・あの~、思うけど、瑠衣もきっと好きな人が現れると絶対、楽しくなるよ?」
「そうかな?現れるかな、そんな人?」
「現れるよ、絶対、だって瑠衣は背もスラーッと高いし麗しい私譲りでしょう?」
「ふん、ふん、」・・・
「ふん、ふん、って、随分、他人事みたいに言うね、瑠衣は?・・」
「本当はね、いるんだと思ってる。私、父さんの会社で理工系の部所にいる人で、多分片思いじゃないと思う、」
「なんか、ややこしい?はっきりしなさい、」
「それと、叔父さまの処にいる工学部から刀剣工に弟子入りした人で、お髭があって、私より大きい人、私の事良く解ってくれるの、」
「こらっ、二股かけて愉しんでる、先祖のるい姫さまをからかったら駄目だぞ、」
「ご免なさい、貴女があまり幸せそうだったから、でも、私の方は確定的じゃない、」
「何か?不確定ね、貴女の時代の人間は?・・私たちは幕末の動乱の中で死ぬか生きるかの中を潜り抜けて来たから、だから確かなものって本能でかぎ分けるのね、」
「ごめん、今は世の中が複雑に成って解りにくい事が多いの、でも、二人の男の人が私の目の前にいるのは確かなの、・・それと話は違うけど幕末の頃、貴女の敵だった新羅兄弟っていたよね?それが今のバレーチームのコーチの名前が新羅なの、新羅コーチ、私を神経病院に入れた人、チームメイトは私が夢でうなされるだけで少し怖いけど、病院に入れるまでもないと言ったんだけど、コーチがね、このチームに残るんだったら変な寝ぼけ癖を病院で直さないと駄目だ、と云う事になって、泣く々病院行き、貴女と交信しただけなのに?」
「・・・・・・・?」、目覚めたるいは睡蓮の池の水音を聞きながら、後世まで続く新羅の怨念が脳裏を走った。
一八七〇年代の後半、豊後の国、大野一帯で飢きんが起こった。その年は空梅雨で冷夏、冬は低温が続き、数か月間凍り付いた。米、野菜、その他の穀物の実りが無く、成長しないで刈り取った作物が不味く売り物に成らなかった。牛も不思議と良い作物しか食わない、順調に生産を伸ばしていたタエの兄たちの立場が鎮西物産海運の中で落ちて行く、新しい大型の鉄船を中型に変えて余った資金を耕作地購入に充てた分が大赤字の公算となった。契約農家以外の百人に近い雇い人への給金の未払いが近づいていた。農産物の不作はその年に限らず、影響は数年続く。天候という自然の驚異の前には成す術が無かった。契約農家に関しては作物を納入できない事から、鎮西物産は売り上げが減るだけで資金には影響しない。不味い穀物を食って生き永らえる事は出来るが、雇われる者は己の労働力以外は何も持っておらず、其処には土地を持たない農民から勤めを無くした武士崩れも多数いて、給金無しで、不良作物を辛うじて食う事は出来たが、慎ましい武士の家で生活して来た幼い息子や娘の物乞いをする姿を見て、社主の春高は心を痛めた。城主の家系に生まれた者として、鎮西物産海運を立ち直らせる事よりも、落ちぶれた武士の家庭を立ち直らせたい気持ちに駆られた。しかし其れは鎮西農場に雇われる者だけの範囲に留めた。情に流されて風呂敷を広げ過ぎると取り返しがつかなくなる。春高は暫く海運船を降りて鎮西農場のタエの兄たちと善後策を雇い人の中に混じりながら講じようとした。
不作の作物や成長しない穀物を検収して行く中で、土の中の肥料が少なくても育つ、麦と蕎麦の穂だけが出ているのを見た。天候にも余り左右されない逆境に強い品種だ!
しかし、不味い麦や栄養価が低い蕎麦を生産しても農場が立ち直るのは無理なのは解っていた。雇い人の中に種史郎と云う下級武士一家がいて、貧しい中、酒が買えない分、様々な濁酒(どぶろく)を長年造り続けてきた男がいた。江戸時代から貧乏人が飲む酒に粕取焼酎が造られていたが、これは清酒粕を発酵させたものに、もみ殻を混ぜ、セイロで蒸してアルコール分を抽出したものだったが、幕末になると白糖や穀物を原料とした焼酎が造られようとしていた。種史郎は五十才近くに成っていたが、武道が苦手の分、穀物の出来栄えの良し悪しを見極める才と勘定が得意で、城に上がっている時は穀物係として蔵勤めをしていた。そこで城中の侍の為に清酒や焼酎の造り方を既に知っていたのだ。種史郎は逆境に強い穀物は酒にした場合に味にキレが出る事を予感していた。
春高はタエの兄に命じて、種史郎とるい姫を慕ってきた農家の子倅と忍び崩れの二人を中心に麦焼酎と蕎麦焼酎の製造を開始させた。勤勉な子倅と巧みな技法を持つ忍び崩れはその後の焼酎造りに欠かせない人材と成った。そして鎮西物産海運の事務所と穀物倉庫の一部が酒蔵に生まれ変わった。しかし一年後、百人いた雇い人は五十人に激減したが、侍崩れの雇い人の一家は不思議と減ってはいなかった。
二年後、穀物生産は回復し、鎮西物産の中に小さな酒造部門が出来上がっていたが、飢きんにより、麦に関しては二年間、特別の統制が許されただけで、一九五一年までは麦の統制が続いたので蕎麦焼酎と他の穀物酒を手掛けるだけとなった。種史郎は貧しい中で体が弱い妻と五人の子供を育てるために武士の誇りと云うものを既に忘れていた。田舎侍はどんなに頑張っても三十俵二人扶持が五十俵四人扶持に成るくらいで着物も買えなかったのだ。同じ着物が買えないのならば農家の子倅のように、米はたらふく食って、足りなければ芋でも食う生活がよっぽどいいと考えた過去があった。後は志の問題だと、・・・
兄を岡城の戦乱で亡くした農家出の子倅は年老いた両親と二人の妹たちの生活を支える為に種史郎と知恵を出し合って焼酎造りに精を出したのだが、種史郎は酒のもろみに関する知恵と、子倅は麦と蕎麦の品質に関する知識に精通していて、二人は歳の差があったが不思議と馬が合った。酒蔵の中で
「お主と気が合うのはどうしてじゃろうのう?」、
「よう、解らんじゃけど、種史郎どんと俺は、侍と百姓の違いだけで、後はみんな同じじゃ!」
「どうしてじゃ?」
「貧乏で貧乏で仕方がなかったところが同じじゃ、」
「ふん、そうか、・・・武士は食わねど高楊枝てぇのはくだらねえ言葉じゃ、」
「何?言うちょるんじゃ?」、
「お前のように生きるのが一番いいっち事じゃ、」
二人は麦が統制のために使えなくなってからは、蕎麦以外の穀物の蒸留酒にも挑んだが、他の売れ筋の焼酎は開拓できず、蕎麦焼酎一本に絞ることになったが、かえって一本に絞った事が製法を集中することになって、売り上げを伸ばし、名産にまで引き上げた。その後、竹田の湧水を使った醸造酒にも挑戦し、銘酒となって鎮西農場の財務に貢献した。
穀物生産と両輪であった西洋かぶれの肉牛は当初の目論見が外れて、採算性が思うように伸びなかった。牛肉については冷凍設備の発展を待つことになった。
一八〇〇年代後半に成ると日本は海外の法律や技術、教育、文化などを積極的に取り入れ、欧米の強い国々に負けないよう、富国強兵の如く国を豊かにして強い軍隊を持つことに力を入れ始めた。欧米諸国はいち早く中国大陸や朝鮮半島へ進出し、貿易や軍事力で支配しようとしていたが、力をつけて来た日本はこれらの国々に対抗しようとした事が、日清戦争の始まりだった。
一年後、るいは女の赤ん坊を抱いて鎮西屋を後にした。刀工夫婦には子がいなかった事で内心はるいを帰したくなかったのだが、
「るいよ、お前の本当の故郷はこの鎮西屋じゃから帰りたくなったら、いつでも帰ってきておくれ、」年取った白髭の大男は寂しげだった。るいはお福にも声をかけたが、年老いて足手まといになるのを避けたいと言った。
「父さまが昔、お福どんに言った事を思い出しましたが、鎮西八郎為朝の血を引き継いでいるのは、わしでは無く、叔父さまだって聞きましたが?」
「・・・・為朝公の血を引き継ぐのもしんどい事じゃ!」鎮西屋は呟いて目を閉じた。
鎮西屋、妻、お福、タエの従弟の若者たちは無言の内にるいを見送った。
鎮西農場までは鎮西屋の蒸気車で、その後はタエの兄の蒸気車に乗り継いだが、それにはタエが乗り込んでいて、数か月不明だった斑犬が舌を垂らして車の横に座っていた。
目指すは杵築の港に停泊する春高の乗る鉄船だ、車中の中でミヨとタエは赤ん坊をあやすばかりで事業については誰も殆んど口にしなかったことが、るいには事業不振を感じさせた。久々の街道の紅葉は来る時とあまり変わらないと思ったが、地域によって紅葉の色が変わって来ることを、己の分身(子供)が出来たるいは初めて思った。
杵築の港には様々な船が停泊し、富国強兵に乗り出そうとする国の勢いが、はっきりと見えていた。春高は杵築の港で出迎えた。現在、鎮西物産海運の本部となっている事務所の前だ、春高は赤ん坊を抱いて機嫌はすこぶる良かったが、どこかに冴えない顔色があって、
「海運の競合が現れて、どうも、上手く進まない、」の弱音が漏れた。
中型の鉄船のホールで、るいの出産のお祝いが催され、中年になった斑犬が人間より嬉しそうに甲板の上を走り回っていた。甚助は遠い海上の上にいて、姿が無かったが、祝いの花束には
「姫の赤ん坊は最初、わしが抱き上げる、」の色紙に書いた文字がぶら下がっていた。
るい夫婦は未だ、特定の住まいを決めていなかったので、殆んどは船の上を生活の拠点とし、盆と正月は府内にある甚助の屋敷の離れで過ごすことにしていた。船の客間と事務所に泊まった付き添い人達は翌日、其々の自分の持ち場に帰って行った。るいが今後何処に向かうのか?目玉をキョロつかせて探る斑犬の意地らしい姿があった。杵築の港は混雑していて船と陸とで別れを惜しむ人間で溢れていて、その日に出航する中型の鉄船からは春高以下大勢の乗組員に手を振られて、るいの赤ん坊は府内の甚助屋敷に向かった。・・・
途中、車中でるいは皆の近況をミヨに聞いた。不思議な事に一年間一緒にいたミヨは全てを知っていた。
「タエさんの上の子が死んだんです。猪に突かれて、活発な女の子でちょっと目を離した隙に、」
「えっ!タエの娘が、・・タエに似た可愛い子だったのに、可哀そうに、・・養鶏場辺りには猪が多いの?」
「大野一帯に飢きんが起こって、餌が無くなって、山犬が鶏舎の中の鶏を襲い始めたのです。猪も餌が無くて鶏舎辺りの残飯をあさりに来て、山犬に追われている最中に家のすぐ近くで遊んでいた娘を牙で突き上げたんです。落ちた所に石があって、即死だったようです。」ミヨは目頭を押さえていた。
「それはいつの事?」
「るい様が鎮西屋に来られてから一月経った頃です。タエさんは半狂乱に成って、槍を持って一日、その猪を追いかけて行って突き殺したらしんですが、本人も太股を牙で刺されて大変だったようです。」
「タエが?・・・杵築では何も言わないで笑っていたけど?・・」
「るい様のお子の祝いに、不幸な事は言えなかったのです。・・そしてタエさんはもう、こんな所には居たく無いと言って、兄さんの農場に下の子を連れて身を寄せているようです。」
「で、佐吉は?」
鶏舎は猪に破られ、鶏は数十匹の山犬に追われて散り支離になり、雇い人も四~五人怪我をして、佐吉どんの片腕になっている吉次という若者と元忍びだった人が一生懸命回復させようとしているらしいんですが、地鶏の燻製室も猪が破って食っていたそうです。猪と山犬対策をしないと、事業は進められないと、今は全て休止しているようです。」
「飢きんはここまで生態系に影響を及ぼすのね、ところで甚助は知っているの?」
「はい!夫にも伝わっていますが、今は鎮西農場も飢きんで立ち直るのに懸命だし、海運事業もある事が発生して収益も下方修正じゃから、其々が知恵を絞って立ち直らねばいかん、」と言ってます。
「ある事って何でしょうか?」
「それについては聞いていません、」ミヨは五十才近くになって、白髪が混じった鬢を掻き揚げながら心配そうに語った。・・・後ろの席で逞しい斑犬が神妙な表情を現わしていた。
甚助はるい姫と海運会社を開いた時、るい姫の為に府内城の家老の職を務めた武士から、広い屋敷を買い取っていた。仮の県庁となっている府内城の堀のすぐ外にあって、凝った庭園があり、茶室も兼ねた離れの造りが素晴らしかった。しかしるい姫は一向に興味を示さず、鉄船の中や何処かの城跡に寝泊まりしていた。又、春高の所有する日出の別宅にも行こうとしなかった。勿論、船の中は船主が生活できるように洋風のキャビンが二~三室造られており、住まいとしては快適だったが、結婚してからもるい姫の行動は変わらず、船が二~三日停泊する時は、必ずといって、草だらけの騎牟礼城跡や竹林に囲まれた鳥屋城跡に馬を飛ばして野営して過ごすことが多かった。その時は佐吉が呼び出され、地鶏と地酒の用意をすることになった。時折、タエの姿もあったが、るい姫の本意は母さまの菩提がある鎮西屋の方角に等距離にある騎牟礼と鳥屋城からその菩提を望むことだったのではないかと、甚助は佐吉から聞いたことがあった。甚助の想定では、脈々と流れる鎮西八郎の因縁から逃れられない母さまの菩提と睡蓮の池に纏(まつ)わる物語をその目で見る事が怖い!でも、行きたい!の繰り返しだったのではないかと思った。
そしてるい姫が懐妊した時、ミヨの説得によって、やっと鎮西屋に行くことを了解したるい姫の心は幼子のように揺れていた。
「姫さま、お子が出来たら誰でも母さまの処に行って、お知らせするのが世の習いですよ、」
「分かった、ミヨも一緒について来てくれるよね?」
「勿論ですよ、それに夫が斑犬も共に連れて行けと、そこら辺の男よりもよっぽど頼りになるって、」
「春高さんより頼りになるか?・・・そう言えばあの犬にとっても故郷だ、」・・・
見上げるような麗しいるい姫の心の中に幼子が宿っているのをミヨはいつもハラハラしながら見ていたが、やっと子が出来、母さまの菩提と一年過ごし、そしてるい姫の本来の住まいに向かうのだ、ミヨは疑問だったことを聞いてみた、
「るい様は夫の甚助が貴女さまの為に買ったお家を何故に気にいられないのですか?」
「気に入らないのじゃなくて、甚助には感謝していますが、私の実家は鎮西屋だとずっと思って来たからその気にならなくて、そして小さい時は鎮西城(騎牟礼城)が私の故郷だとも思い続けて来たから、・・今でも一番住みたい所は騎牟礼城跡、あそこにいると何か大きな懐に抱かれているような気持になるの」
るいはまだ名が無い赤子を抱きながら、車の窓から北の空の流れる雲を見上げていた。
ミヨは何も言わず頬杖をついていた。・・・
甚助の屋敷は黒い灰石で四方を囲まれた一二〇〇坪位の中にあった。蒸気車から降りたるいの第一声は、
「広すぎる、」だった。車外に飛び出した斑犬は走り出し、瞬く間に屋敷の中を一周して戻って来た。るいに良い番犬だと見せ付けようと言わんばかりに息を切らしている、
るいは犬の頭を撫でた。玄関の重厚な引戸を開けると、中から中学生くらいの学生服の少年が骨ばった逞しい狂犬を訝しそうに見ながら、るいにちょこんと頭を下げた。続いて女中衆らしき三人の女が玄関に勢揃いした。車からゆっくり降りて来たミヨが、
「皆さん、この方がるい姫さまですよ。今度、お子をお産みになったんですよ。・・ほら、正男ご挨拶しなさい、」るいが笑って近づくと、少年と三人の女中衆は挨拶の言葉は発したが、るいのあまりの背の高さに唖然として見上げていた。
るいは片手で赤ん坊を抱き、もう一方の腕で少年の頭を軽く胸に抱いてハグをした。
「正男君て言うの?ナイスボーイ、」少年は半分意味が解らず赤くなっていた。
「この子の上に姉がおりますが、今日は府内の県庁に勤めに出ております。」ミヨが廊下を案内しながら長女を紹介した。
小判とオムツだけが入っている西洋の革のカバンを女中たちは不思議な物を見るように奥の離れまで運んだ。離れを見たるいはもう一度、
「広すぎる、」と言った。三家族が住めるほどの広さだ、
「るい様は体が大きいから丁度いいのですよ、」ミヨが庭園が見える障子を開けながら二人の子守番の女中を紹介した。
「布江さんとおユミちゃんです、」
「よろしくね、」元騎牟礼城の姫さまを見上げながら、二人は深々とお辞儀をした。
布江は三十過ぎの苦労人で生真面目な女で、おユミは十五で夜間の学校に行く為に女中勤めを願い出て来た少女で二人共、ミヨが厳選した女だった。
その離れはるいがこれまで渡り歩いた城の天守閣の造りにも似ていて、床の間には、騎牟礼城から鎮西農場に移した為朝公の屏風絵が掛けられ、静かな笹の葉がある庭園の軒下には強弓を引く為の手洗い瓶がぽつんと置かれていた。そこはいにしえの懐かしさと、波乱の世界を潜り抜けて来たるいの心を和ませた。初産でるいの母乳は豊富だった。るいが胸を開いて赤ん坊に乳を与えている時に、布江が聞いた、
「るい様は何故?お子に名をお付けにならないのですか?」
「迷ってるの?・・兜のお祖父さまの“為朝 ”の朝の文字をとって朝子にしようかと思ってるんだけど、夫の春高さんが自分の“春高 ”の高の文字をとって高子にしたいと言うんだけれど、私が武士の頂点である兜のお祖父さまと春高さんと比べるとどちらに軍配が上がるか判るでしょう?と言うと春高さんは黙ってしまって、今度ゆっくりした時に決めようという事になったの、布江さんはどっちがいい?」
「私には恐れ多くて、もう、わかりません、」と一歩引いた時、おユミが聞いた。
「るい様のお言葉は何か?未来の言葉のように思うんですが?学校の本に載ってるような?」
「おユミちゃんは信じないと思うけど、百数十年先の私の子孫に瑠衣というのがいて、夜夢の中で色んな事を交信するの、」ユミは呆然と聞いていたが顔を横に振りながら
「夜間学校ではそんな事、習いませんから信じません、」
「いいのよ、それで、」るいは微笑んでいた。
「でも、るい様のお肌はきれいですね、武芸がお強いとは信じられないくらい?」
「ふふっ、刀傷もあるのよ、背中とかお尻とか、特にお尻の傷は敵だと思った時痛むの、見せようか?」尻の短剣が食い込んだ傷跡を見たおユミは悲鳴を上げて逃げ出した。
母親からるい姫の噂を聞いて育った長女の美津は父親の推薦で西洋料理を学んでいて、十八才で県庁に勤める傍ら、外国船が入港した時に立ち寄る食堂があって美津は県庁とその食堂をいつも往復していて、家に居る時は憧れの来訪者の傍から離れなかった。
るいの赤ん坊は豊富な母乳ですくすくと育ち、平穏な時が過ぎて行った。・・・・
ある時、ミヨが二~三日杵築の事務所に行って不在の時、女中の一人が外から駆け込んで来た、
「大変です、美津お嬢さまが外国船に連れ込まれて、」屋敷に冷たいざわめきが起こった。赤ん坊が激しく鳴き始めた。るいの脳裏に十数年前の杵築での南蛮船の一件が蘇った、
るいは懐剣を胸に差し、駆け込んで来た女中を連れて港に走った。連れ込まれた外国船の前には食堂の親父たちが船の中を指さしながら右往左往する姿があった。るいは尻込みする女中を引きずって外国船の中に飛び込んで行った。コック室は階下だと分かっていた。白い鉄のドアを開くと三人の赤ら顔の大男の傍に美津が震えながらうずくまっていた。
「ヘ~イ、ウツクシイ、ヤマトオンナブシガアラワレタ、オイシソウナ、」たどたどしい日本語が終わらないうちに手すりを飛び越えたるいの懐剣が一人の水夫の胸のセーラ服のボタン留めを全て切り開いた、後ろから羽交い絞めした男の右腰に懐剣が突き刺さった、
調理フェンスの下で、るいにのしかかった二メートルの大男の体がゆっくり回転してるいの横に落ちた。横腹が赤く染まっている。女中はドアにつかまって一瞬の出来事を夢の中で見たように思った。懐剣を鞘に戻したるいは、
「青い目のお兄さんたち、傷は浅いよ、大丈夫、日本の女姓に不貞を働いたら駄目よ、」美津は泣きじゃくっていた。その後、食堂の親父たちに呼ばれた巡査が二人来たが、外国水夫によるハレンチな軽犯罪で自らケガをしたとして港の税関に届けられた。後に巡査が屋敷に来て、例の外国人からの損害金が届けられ、花束を持って麗しい女武士にお会いしたいとの申し出を伝えて来たが、実現はしなかった。
一か月程して春高と甚助が府内の屋敷に帰って来た。二人は疲れ切ったように春高は目が蒼く窪んでいた。甚助が鎮西海運に “ある事が発生して下方修正 ”の理由を説明した。
「春高社主の父上である木下公と犬猿の仲じゃったある城主が今、政府の運輸大臣をしてるんじゃが、鎮西海運の大口取引じゃった小麦の輸送が無うなった。鉄鉱石の輸送も他の海運会社と交代の時期じゃち言うち来た。外国から輸入しちょる小麦の神戸港から九州への輸送を匡一達の海運会社が引き受けたと聞いちょる。」
「匡一たちの木造船で間に合うの?」るいは不思議がった。
「いや、大型の鉄船を買っちょる。考えられん事じゃが、大型の鉄船はいくらかかると思う?」
「匡一たちの後ろに誰か豪商が?」とるいが言った時、ミヨが思い出したように言った。
「るい様がお産に鎮西屋に向かう時、佐吉さんが言ってましたよね?中津城の城代だった新羅長兵衛とそれに似た商人が匡一と話していたって、」
るいに再び、鎮西家と新羅家との因縁が現実のものとして、目の前に立ち塞がった。
匡一は兎も角として、新羅屋という人物は不気味な存在だとるい達は思った。
「両親を亡き者にし、更に復讐の筆を降ろさないのは何故なのか?過去よっぽど大きな傷を受けたのか?・・又は単なる偶然だったのか?日出城で一緒にポルトガル宣教師から航海術と算術を習い、キリシタンの洗礼まで受けた匡一は鎮西家には恨みは無い筈、あるとしたら春高への対抗心くらいで、深いおどろおどろしたものでは無い、対抗心はただ一つ、匡一の海運会社を発展させ、出来れば鎮西海運を超えたい、との気持ちがあって、たまたま新羅屋と会う機会があって、連係する事になったとも考えられるし?新羅屋もこれからの有望な海運事業者に投資しようとしただけなのかもしれない?」と・・
その夜、赤ん坊の名を決めることになったが、どこにも縛られない爽やかな風のようにと、 “風(ふう) ”と名付けられた。るいは数日後、旅支度を始めた。夫の春高に休養させる為、子供の世話を委ね、甚助に呼びかけた。
「姫!いきなり何方へ?」
「うん!最初、農場に行って、そして佐吉のところ、」
「その後は中津の奥平様ですか?」甚助は先回りして聞いた。
「甚助どん、どうして判るの?」
「わしは姫が赤ん坊の時からオムツを取り替えて来たんですぞ、姫の考えちゅう事はすべて判るんじゃ、じゃから、春高社主と相談して府内の県庁舎に出向いて、中津の奥平公から佐伯の毛利公、岡城の中川様、杵築の松平様と、主なお歴々のその後の就任された要職と東京のお住まいを調べ上げて参った。最終的には東京に行ってお願いせにゃ話は進まんち、」
若い事務員に蒸気車を運転させ、甚助とるいが乗り込んだ。当然のように斑犬も一声吠えて乗車した。甚助のがっしりした体はそのままで白髪の混じった髪をポマードでオールバックに撫でつけている。苦難を乗り切って来た男の自信が引き締まった口元に現れている。甚助は機嫌が良かった。そして突然!何かを思いついたように、
「確か?姫とこうして一緒の旅は、五才の姫とミヨとあの山道から・・・臼杵藩から連れ戻した時の道中と中津から引き上げる一七才の時でございましたかな?・・その後、真っ事、海運物産事業を創られて、こうして一緒に商用に出掛けるとは夢のようじゃ、」
「甚助どんがいたから此処まで来れたんですよ。いなかったら私は今でもあっちこっちで、暴れ馬だ、」
「麗しい姫が暴れ馬じゃち?・・そんなこつは有りません、幼い姫に導かれて、わしもここまで来たんじゃから、」甚助は過去を懐かしむように一点を見つめていた。・・・
鎮西農場ではタエの兄が出迎えた。久々に会ったタエは抜け殻のようになっていた。るいの出産祝いの時の杵築までの蒸気車の中での表情とは違っていた。るいは虚ろな目で見上げるタエを静かに抱いた。そして鎮西屋の母さまの菩提に捧げてあった一輪の数珠をタエに握らせた。
「私の娘 ”風 “は、あの世に行ったタエの娘の生まれ変わりですよ、」と、るいは何も無い両腕の中の赤ん坊をタエに差し出した。タエの涙が両腕の間に流れ落ちた。
国司に仕えたオヤジと独眼竜の野武士が、かなりの老人に成りながら、甚助とるいの傍に杖をつきながら歩み寄って来たのは、タエの兄が緊急に呼んだのだ。老人たちは甚助と久しぶりの再会を懐かしがっていたが、視線は成長したるいに向けられていた。黒い眼帯と細目の物静かな老人が驚きの眼で、まじまじと麗しい長身のるい姫を見上げ、
「こちらがあのるい姫さまじゃろうか?こりゃ、また?・・」
「二人には騎牟礼城の為に大そうなご指導を頂いて世話になりましたね、」
「いやいや、わし達はそんな事はありませぬ、それよりもこげな、立派に成られた姫さまにお会い出来て、くたばり掛けていたのが、また生き返ったようじゃわ、なあ、同僚!・・」
「姫をここまで育てるのに、わし達は大変な苦労をしちゅ、独りで大きく成られたんじゃ無いんじゃけに、」と甚助が横やりを入れた。
「甚助どんはいつもこの事ばっかり!」一堂に久々に笑いが起こった。
タエの兄はこの飢きんの難局を、雇われる者の思いを酌んでやることが自立心を持たせ、自分の農場として立て直す意欲を持たせる事に邁進していた。その為の報奨金を甚助は海運会社のわずかな蓄財の中から、立て直し資金としてタエの兄に渡していた。
酒造りの種史郎と農家の子倅がるいと接見した。種史郎は甚助と長い間,話していたが同じくらいの年齢で、酒豪である甚助とは面識が初めてではないように思われた。昼間は回復しつつある農場を回り、夜は種史郎と農家の子倅だった男との酒造りと試し飲みが行われた。るいは夜、農場回りを終えたタエの兄と三人で、今後のタエの処遇について話し合った結果、タエは娘が死んだこの大野を離れて、府内にある、るいの住む離れに息子と住まわせ、杵築にある鎮西海運の事務所での仕事をすることで、養鶏場の夫の佐吉には事後報告とされた。次の日、一周した農園は広かった。端から端まで半日以上かかる。
農家の子倅は、穀物の生育には精通していて甚助を唸らせた。その翌日、鳥屋城跡の養鶏場に向かう時、るいは思い出すように言った。
「山や谷は死んだ人の思い出が木霊して返って来るけど、海原は波の彼方に消えてしまうのよね!私の母さまもそう、」
「姫は本当にもう、泣かせるんじゃから?・・」甚助は二晩、飲み過ぎた額を抱えていた。
養鶏場に到着すると数十人の若い男たちが、杭を打ち、檻を造り直そうとしていた。大型の蒸気車には幾つかの頑丈な檻が積んであり、土佐犬やら秋田犬の番犬が到着していた。
地鶏の燻製だけは製造が始まっていて、付き合いの問屋からの注文がうるさくて、佐吉が断り切れなかった事から、以前、るい姫が迎え入れた薩南戦争の落ち武者で片腕を無くしていた吉次がそれに対応し、新たに簡易の燻製室が造られ、以前と変わらない品質を保っていた。吉次は燻製術にかけては先人で、燻製室が簡易で密封性が無い代わりに燻すための薪を固い燃焼性が長い材質を選んだことで乗り切ろうとしていた。佐吉は五つ年上で戦争で傷付いた吉次を弟のように可愛がっていた。巨大な養鶏場の鶏舎の前に腹ごしらえの為の焼き鳥が焼かれているのを、甚助は腕をまくり上げ、串を口から引き抜きながら佐吉と何やら話している。兄弟分で長く苦労して来た男同士の因縁から離れられないのだろう?降り立った斑犬と檻の中の土佐犬が互いに恫喝しあっている、秋田犬の吠える回数には殆んどの犬は太刀打ちできない、
「うるせえ~!このバカ犬ども、・・こんちきしょう、」汗だくだくに成った佐吉は突然!バネが弾けたように、錯乱状態になって、持っていた棒切れを犬の檻に向けて投げた。飛んだ棒切れは鉄の檻の側面に当たり金属音をたてて跳ね返った。そして、
「ちきしょう! 々 」と叫びながら鶏舎の向こうの草原に走って行った。鶏の卵を集める若い女衆や吉次が心配そうに佐吉の後姿を見つめている。三日に一度はこの状態が起こるようだと甚助は聞いていた。タエは憎しみの猪を追いかけて行って刺し殺した事で幾分かの憎悪が紛れたかもしれないが、佐吉はそれを数時間後に知った。そして猪の脅威から守ってやるべきは、己本来の仕事だったのだと佐吉は自分を責めた。責めて 々 涙が枯れるまで責めて酒を飲んで泥酔する。・・タエの兄が一度、この養鶏場に来て野犬と猪による鶏舎の被害が重なって佐吉は管理能力を無くしていることを感じた。養鶏事業は佐吉個人ではなく、鎮西海運物産から資金が出ている事、その辺もタエとの言い争いとなった事をるいは甚助から聞いた。るい姫に顔立ちが似てると言っていた長女を自分の落ち度で亡くした事を悔やんでも悔やみ切れない己の業と佐吉はずっと、戦っていた。吉次の寂しそうな燻製室の方に歩く後姿があった。若い男たちが作業を終え、引き上げる頃、るいは草原の先に向かって歩き出した。後方から甚助の声がした。
「姫!そっとしといた方がいいっちゃ、」風が甚助の声を何処かに運んで行く。斑犬が疾風の如く駈けて、行き過ぎてまた戻って来る。犬は遊びのつもりだが、るいは其れどころではない、しかし人間の苦しみを解らないであろう犬の野性が、何故か?るいの心に勇気をくれる、佐吉は草原が切れる崖の上の岩石に腰を下ろして草の穂を口に咥えていた。
一〇才年上で、るいより少し背が低い佐吉に、
「佐吉どんは相変わらず山猿じゃ、草の穂を食ってる、」佐吉は笑って振り向くしかなかった。顔は泣き腫らしてくしゃくしゃで、
「佐吉どんの顔はお猿の尻そっくりじゃ、」
「姫~!もう、こんな時に、」佐吉は肩を落とした。その時、斑犬が、狼に似た長い赤い舌を出しながら、佐吉の両肩に後ろから前足を掛けた。太い前足の重さが佐吉をよろけさせた。
「おっとっとっ、こら!ワン公、危にゃ~、前は崖じゃぞ、」佐吉は本当にぎくりとした。顔の横には赤い舌と鋭い犬歯が並び、魔獣が耳元で囁いた。
佐吉は思わず振り返り、斑犬のごつごつとした太い身体に手を置いた瞬間、犬の脳幹が解った気がした。・・・
「この狂犬に似た斑犬(まだらいぬ)は人間の苦しみと悲しみとを知っちょる、」と、・・
るいと甚助は鶏を盗む野犬を追い払い、猪を寄せ付けない番犬として野性の強靭な斑犬をこの養鶏場の番犬として連れて来たのだが、娘の死に、想いを馳せ心が崩れそうに成りながら土佐犬と秋田犬を仕入れて、養鶏場の立て直しを図ろうとした佐吉の努力を無駄にしたくなかった。甚助は後に一歩も引かない土佐犬と大野の森一番の主と自負する斑犬が同じ場所にいたら、ボスの座を巡って争いが絶えない事を想定した。
養鶏場の西側の岩場に温泉が出て、宿舎兼保養地となっていたが、そこの岩風呂で甚助は佐吉と数人の雇い人と今後の養鶏の対策と進め方を話し合ったが、二人の元忍び崩れの男の考えた合理的なやり方が解決策として取り上げられた。
るいは久々に長身の身体を湯の花に沈めたが、山間部の娘たちが多いこの養鶏場で、山猿の佐吉の人気が高いのを不思議に思った。岩風呂の中で、はち切れんばかりの体を震わせて、夢を語る娘が、
「私、きれいな服を着て、焼き鳥とお酒を売る洋風の店で仕事して見たい、」・・
「うちの養鶏場も府内とか中津に、そんな店を出したらいいとにね、」の話声を、るいは湯の中で聞いた。若い娘たちも其々の新しい夢と考えを持っていたのだ。(後年、佐吉によって府内と中津の繁華街に洋風焼き鳥店が出店され、そこには吉次の地鶏とそば焼酎、種史郎の清酒が並んだ。
翌日、斑犬はいち早く、蒸気車に乗り込んでいた。この養鶏場の番犬として連れて来られたのが土佐犬の存在で不要となり、うるさい鶏たちと離れて再び麗しいるい姫の傍にいられることが嬉しいのか?盛んに尻尾をふっていた。るいたちの乗る蒸気車は豊後街道から由布院を越え、別府から西の日田方面へと街道を進んだ。甚助は連日酒を飲み、若い従業員は長時間の運転でお互い疲労の色が見える。るいの横に居座っている斑犬はるいとの旅があっ、と驚く刺激的なものになることを望んでいるかのように絶えず外の景色とるいの顔を見比べるいじらしさがあって、るいは犬の首を撫でた。
博多の千歳川停車場に到着したのはかなりの時間が経っていて、乗り心地が悪い蒸気車は人間が乗車する腰の限界が近づいていた。甚助はここから鉄道を利用し、大阪や東京まで商用で何度も行った事があって、今回も近くの旅館が予約されていて、若い運転手の部屋も準備されていたが、若者は田舎に留まりたくないのか?、蒸気車は来た道を戻って行った。野性の狂犬は、るいと甚助を見上げながら甘えたいのか?か細い声を出した。
旅館で甚助は鎮西海運の業績が悪化している原因を詳しく、るいに説明した。政府関連が一つ減った事と競合の海運会社による船便の値下げで利益が減って赤字に転落しつつある事、そこに甚助の個人資金をかなり投入している苦しい胸の内が明かされた。
そこを打開して行くには更に大きなタンカーを調達して、外国との貿易便に乗り出す。それには政府要員の強力なコネクションが必要となる。との見通しと判断について社主である春高の器が限界に来ていることを、るいは聞いた。
夫の春高は聡明で学者風な能力が優れていたが、暗中模索で突き進む野生の強さはなかったし、裏付けがある程度確定しない巨額の投資には賛成しなかった。るいは春高の純粋な爽やかさが好きだったが、娘の”風 ”もやはり優しい聡明な人間に育って欲しいと思っていた。しかし、騎牟礼城で育った娘は野性の真っただ中で生きて来て、又野生児の甚助に育てられた故に生き残れたのかもしれない?と思い、更にるいの内在する野性は甚助を越え、斑犬を手なずけ、爛々と光る鋭い眼差しは、否応がなしに兜のお祖父さまに近づこうとしている。それが次第にるいには言い知れぬ怖さが生まれていた。そんな時、母さまが眠る睡蓮の池が全てを愛撫する懐かしさに変えてくれる。兜のお祖父さまも、るいには優しく愛してくれるのは間違いないのだが、るいはその愛に報いるために己を支えてくれた者、守ってくれた者を助け、幸せにしてやるには、己の強い意志と生命力が不可欠だと考えた。その中で一つだけ引っかかっているものが鎮西海運を去る前の匡一が呟く声をるいは覚えていて含み笑いをした。
(愛する人が現れたならば、その人に認められるように努力して立派な人間に成ることはイエス様のお導きなのです。そうすればイエス様は愛する人を貴方に与えるでしょう?)
匡一の憧れは私だったかもしれないが、愛するものは私では無く、鎮西海運を越えた匡一海運ではなかったのか?匡一は今、何処にいて何をしているのか?あれだけ付き従って守ろうとしてくれた下僕が捻(ひね)くれた動機で去り、競合の海運事業者になった事にるいの心は何処かで傷ついていた。匡一ともう一度会って見たい、そして新羅屋のことも、新羅長兵衛も今更、嘘や言い逃れはしないはずだ、るいの胸には隠しようがない何が何でも真っすぐに立ち向かおうとする心が台頭していた。
鉄と鉄の輪が擦り合う車両のイギリスから輸入された蒸気機関車の中で、仕切られた座席に座り、るいの脳裏にはこれまでの長い間の己の物語が綴られた。るいは生まれて初めての退屈で閉じ込められた箱の中で数日間を過ごしたが、機関車は鉄の塊の筈が内装をすべて木造としてあるのが救いだった。甚助は駅弁当を買いに行って日本酒と一緒に食い、るいが質問する時以外はすべて眠っていた。
「甚助、このゴットン、ゴットン、という振動はあまり気持ちいいもんじゃないね?」
「二日ちょっとで東京に着くんじゃから楽なもんですよ。」
「馬で各駅を駈ける方が気持ちいいよ、」
「二日間も乗ると股ずれが起こりますよ!」
「二日間もこうして同じ格好で、甚助どんはきつくないの?」
「楽~、楽~、眠っちょるだけで着くんじゃから、」
「よく、そんなに眠れるね?」
「酒飲んで、揺られると気持ち良くて眠ってしまうんじゃ、」
「甚助も、もう歳だ、」
「そうですよ、もう、爺ですから、頭も白くなって、姫の面倒をずっと見てますからね、」
「私はそんなに面倒はかけていないと思うけど?婿さんも自分で見つけたし、」
「社主は・・立派な方を見つけられたと思いますよ。でもそれまでどれだけ姫の事を心配しちょったと思いますか?何度も 々 、・・独りで大きくなったと思っちょるんですか?勿論私の不手際もありましたが?腹を斬ろうと思った事が何度もありましたし、しかし、姫の事は今からも本当に心配じゃ、そのたぐいまれな性分故に、ミヨもいつもわしに言っちょる、姫がちゃんとした方向に進まれているか?それを見届けることがわしたちの天命じゃち、兜のお祖父さまから見張られているんじゃ、わしは、恐ろしいくらいに?・・」甚助は酔って眠りかけた。この話になると走馬灯のように蘇って来るものがあるのだ。闘争心の塊で激情型の男が涙もろくなって、怒りっぽくもなっている。鎮西海運の業績が不振で、この後、東京での殿さま方との交渉がうまく行くか心配が募っているのが感じられた。それを酒で紛らわしているのだ。
「甚助、私ね、最近思うんだけど、私のやることはもう終わったと思ってるの?お城も沢山周って、お殿さまとも出会えたし、色んな事も教えられた。これからはみんなの為に生きようと思ってるの?私の為に尽くしてくれた人たちの為に、出来る限りの事をしたいと。・・」
甚助はうつむいて眠っているように見えた。姫の尽くしてくれた者に恩返しをすることを目標とする優しい心根に心で拝み、長女の美津を外国船の中から敢然と救い出してくれた事をおくびにも出さないるい姫の寡黙さに遂に胸を突き上げるものがあり、見えないように目じりから一本の涙の筋があった。・・・
城落ちした元城主の殆んどは東京に集まっていた。江戸城が皇居に変わり、新政府が東京に置かれたので、変わりゆく日本を眺めるには東京に住居を構えるのが一番なのだ、そして新政府の要人となった殿方も多かった。るいは渡り歩いた豊後の七つの城の内、五つの元城主を訪ねて見た。そして歓迎を受け、海運事業を広げる事に激励の言葉も貰った。匡一に取られていた西洋の輸入小麦の海上輸送は背任と収賄の不祥事があった事で担当大臣も含め、主だった者が左遷され、小麦輸送が鎮西海運に戻って来る約束を取り付けた。そして九州の輸送に留まらず四国輸送の取引も新たに見えて来た。更に消えつつあった鉄鉱石の輸送は事情が変わり、逆に増えることになった。それは大陸に向かう各国の覇権争いが激しくなり、殖産興業を背景に、より迅速に!より増産に拍車がかかっていたのが要因だったが、覇権争いの末に外国との紛争が起こりつつあり、海外輸送は危険が伴い、保険担保が充実していない状況下では、留めることが鎮西海運存続の為でもあり、殿方による、るい姫への愛情があった。
「やはり、殿さま方は姫を大事に思って頂いておるんじゃな、これも姫の人徳の賜物じゃ、」甚助は神妙に頷いていた。
二人は初めて人力車に乗って東京を一回りして見たが、人通りの激しい、ごった返す中を進むのは便利だと、これを九州に大量に持ち込むことを甚助が言い出した。しかし、これは後年、博多の一部に利用されただけで、大きな取引とは成らなかった。
帰りの汽車の中、来る時とは逆で甚助は楽しそうにはしゃいでいた。東京での交渉事が好転したことで安心感が生まれて、各駅でのカップ酒も飲まずにお茶だけで済ませ、事業の次の一手を目論んでいた。そして各駅弁当が気に入っているらしく、様々な弁当を二つずつ買って、るいにも差し出した。るいは差し出された弁当を食う時以外は、おぼろげに目を閉じるか眠っていた。るいは甚助と違って、新たに事業拡大に目標を置く気にはならなかった。鉄道の振動と蒸気を吐き出す音が不思議と心地よく眠気を誘う、熟睡しない代わりに汽車の中での二日間は殆んど、うとうととした眠りの中にいた。・・・
第3章・幕末のるい姫と現代の瑠衣の相性
(娘の事・お肌・新羅の怨念)
二年間の神経病院を退院して一年が経ち、企業バレーチームにアタッカーとして復帰した瑠衣との交信が始まった。
「久しぶり、瑠衣、この間、鎮西屋にお産の為に帰った時にお話した時以来よね?」
「ほんと、久しぶり、どうしてたの?夢の中に全然出て来なくて、話したい事いっぱいあったのに?ところで子供は生まれたの?男?女?」
「ごめん、あれからもう、バタバタしてて、お産の準備で休養してるのに、海運事業や農場・養鶏場の問題について色々言って来るし、おまけに陣痛も起こるし、夢を見る暇も無かったのよ!・・でも、お陰でね、女の子だった。 “風 ”って名よ」
「風ちゃんか、貴女に似てるんでしょうね?おめでとう」
「春高さん似かな?良くわかんないけど、春高さんに似て欲しいと思う、優しくて女らしい方が、私みたいに野生の暴れ馬じゃない方がいい、」
「貴女に似ててもいいと思うよ、肩で風切って颯爽と幕末の戦乱を生き抜く麗しい姫さまの様に、憧れる~」
「そういうのは妄想、私のような苦労は娘にはさせたくは無いの、優しくて静かな人生を送って欲しいの、春高さん似ならきっとそうなる。瑠衣には戦乱の厳しさがどういうものか?全然、解ってない、生きるか死ぬかの世界なのよ!」
「そういう言い方って・・・解らないわ?戦乱の時代に生まれていないんだから、仕方が無いんじゃない?ただ貴女と話していると武芸も凄いし、麗しい姫さまだし、私から見るとかっこ良くて憧れるのよ、そう思うのが何故いけないの?」
「まあ、いいか、時代感覚の違いを忘れてた。久しぶりに交信したのに、つい感情的になっちゃった。わるい!・・・私もあれから色んな辛いことがあってね、・・」
「あれっ、辛い事って? “風ちゃん ”が生まれて幸せじゃなかったの?」
「そうじゃなくて、鎮西物産の中の人達に不幸があってね、私のお姉さん代わりで尽くしてくれたタエの娘が猪に突かれて亡くなって、タエ夫婦も半狂乱になって不憫だし、事業も止まっちゃって、私も心が抉られるように辛い!・・それとずっと私に付き従ってくれた匡一が鎮西物産を辞めて競合として立ち向かって来るし、これも心が痛いんだ!」
「貴女は若いけど大きな事業をやってるから、沢山の部下もいて大変よね、皆家族みたいな人ばかりなんでしょう?娘を事故で亡くしたタエさんの気持ちは解るような気がするし、同じ家族のような人の娘だから辛いと思うのね、子を亡くした親の気持ちは経験ないけど、私にも解る。・・」
「私は甚助にも言ってるんだけど、事業の一線から外れたいの、そして今まで私の為に尽くしてくれた者に全力でお返しをしたいの! “風 ”を育てながらそれをして行く事を目標にするわ。タエにもお守りだといって母さまの数珠を掛けてやって、下の子供の祈願をするようにと、・・」
「タエさんも落ち着けるといいね、・・それと親子の関係で貴女には多分理解出来ないと思うけど、現代はね、親が子供をなぶり者にしたり、逆に子が親を殺したりする事件が頻繁に起こっているのね、これは私にも殆んど理解出来ないんだけど?」
「なに!それ?この前、瑠衣が地球の環境が変に成ってると言ったけど、人間の頭の環境も変に成ってるのかな?貴女の時代は、・・本当におかしい、地獄に陥ってるよ、それ!」
「現代は社会が複雑で世の中に憂鬱な事が多くて、弱い人間の正常な頭の働きが狂って来るのね、それにしても可愛い我が子をいじめ殺すなんて悪魔に憑りつかれているとしか考えられないのよね、他人事でも凄く傷つく!私、怒りがこみ上げて来るわ、」
「そりゃ!怒りたいよ、未来は怪しい事ばっかりだね、そういう輩は精神的に問題があるとの理由で重罪を見逃したら駄目だね、悪魔はそれに因って逃れるのね、故に如何なる理由でも城中引き回しの末、獄門さらし首ね、そうしないと悪魔は死なない!」
「・・・・そう云うのって、ちょっと!・・・悪魔の存在?・・・昔は凄かったのね!・・城中引き回しとか、獄門さらし首?考え方が怖すぎて私にはもう無理、」
「怖いって言ったって、そう云うのは魔物が現れてるんだから、消滅させないと駄目なんだよ!私だって母親が我が児を殺すなんて承服出来ないよ、悍ましくぞ~っとするよ!悪魔が宿ってるのね、そんな時、弱い心に入り込むのね、・・武家の家で兄弟で争わない様に弟を殺そうとする事はあった様だけど、これはお家の為で通常の親子関係では無いんだけどね、・・兜のお祖父さま(源為朝公)の甥にあたる頼朝公は弟の義経公をお家の為に滅ぼそうとしたんだけどね、」
「お家の為?・・義経が頼朝に追われたことは私も知ってるよ、歴史の本に載ってるから、
・・・で、でも、るいはやっぱり凄い世界に住んでるね、兜のお祖父さまにも抱かれてて、」
「瑠衣は未来のねんねだからそれでいいの、いざという時はこの世とあの世から私と兜のお祖父さまが守ってあげるから、」・・・瑠衣が過去の現実を理解出来そうに無いと思われたので話題が変えられた。
「でもお産て大変だ!腹は急くし、お腹は蹴られるし、難産でね、私は凄く暴れたらしくてね、刀工の叔父が押さえつけて、ミヨも大変だったらしい、お福どんはソワソワのしどうし、重そうな体であっちに行ったりこっちに行ったり、」
「あははっ!貴女を押さえつけるのは凄腕の大男じゃないと駄目だろうね?ところでお乳は出るの?」
「うん!出るよ、ミヨが食べ物には気を使ってくれてね、山羊の乳とか、山菜とかね、でも、産後は肌が荒れるね、カサカサ、吹き出物も出るし、そしてお腹辺か緩んでくる」
「緩むのは仕方が無いと思うけど?うちのお母さんが言ってたけど、最初はそうだけど?お乳が出るようになると段々、滑らかな肌になって来るらしいわよ?母親の肌に?」
「瑠衣の時代は肌の手入れなんかはどうしてるの?化粧液などが色々あるんでしょう?肌荒れの為の?」
「そうね、色々あるね、私はバレーやってるから、汗かくし、営業部にいる時はちゃんとしないといけないし、お肌の手入れはするね、寝てる時に皮膚から油と皮脂が出るのね、だから朝起きた時、クレンジングでマッサージするとそれが浮き上がって来る、それを酵素洗顔で洗い落とす」
「クレンジングと云うのは何だ?・酵素洗顔と云うのはどうするんだ?」
「あっ!そうか、貴女の時代はまだ無いのね、クレンジングと云うのは顔の油とか皮脂を浮き上がらせる化粧水みたいなもの、酵素洗顔と云うのは酸素が入ってる石鹸みたいなもので、良く落ちるの、・・で、素肌になって最初、さらっとした化粧水を塗って、乳液と日焼け止めの下地を作って、肌色のファンデーションを塗って出来上がり日焼け止めにもいい、」
「ふ~ん、何か難しそうだけど、楽しそうね、私もやって見たい、けど面倒くさい気もする、この時代は白粉と紅しか無いから、返って楽かも?・・お城にいた時は殿さまがね、紅でも塗りなさい、って言うの、・・一応塗ったけどね、普段は何もしない、でもお肌は綺麗にしたいね、私も女だから、・・でも、お産した後は身体全体が緩んで、ふやけたみたいでスッキリしないね、」
「母さんが言ってたけど、お産すると体の体質が変わる場合があるって?だから脂症の人とカサカサ肌の人と其々、適応した方法で何か対策をする、女の肌は何もしないと返って荒れるらしい?」
「ふ~ん?何もしないよりも何かした方がいいとは思ってるんだけど?・・その日焼け止めって云うのはいいね、あっ!そういえばカサカサ肌にはヌルヌルした温泉水が良いってミヨに汲んで来て貰った。あれはいい感じだね、」
「貴女、それはいいよ、色々塗りたくるよりも、なるだけ素肌をみずみずしく保って、生き生きとした肌にするのが現代の化粧法、温泉水いい!」
「うんうん!ところでその現代人は髪はどうしてるのかな?」
「はい!るい姫さま、髪はトリートメントで水分を補い、栄養を保ちます」
「又解からないこと言う、トリートメント?」
「はい、髪専用の油みたいなものです。」
「なら、椿油でいいんでしょう?」
「あっ!それお母さんが昔使ってた、髪に良いからって私に塗ってくれたのね、そのまま学校に行ったの、そしたら髪がべたっ、となって、濡れてるみたいって言われて恥かいちゃった!」
「ふわっと成らない訳だ、そうか?やはり瑠衣たち現代人は中身より外観ばかりを考えるんだ?」
「だって?髪がべたっ!と成ったらいやだもん、」
「う~ん、椿は?・・艶は出るけど確かに埃がくっ付きやすいな、あれは?」
「でしょう?時代の違いで、色々聞かれても、もう、説明できないよ」・・・
「もう、化粧の事はいい!元が良いんだったらいいじゃない、面倒くさいね、ところで、瑠衣もバレーチームに復帰して又、活躍してるの?」
「うん、左アタッカーでビシビシ快調!今、九州大会で、ぐ〜んと勝ち残ってる、」
「へえ~、頑張ってるね、新羅コーチとはうまくやってるの?」
「うん!その事だけどね?実は、私がチームに復帰して見ると、きれいな子だけが消えてるのね、一人がモデル、二人が芸能界のタレント養成所に行ってるのね、あの三人がいなくなってチームの戦力が落ちて、もう、大変!」
「モデルは人前で綺麗な服を着て見せるんだっけ?・・そりゃ!背が高くてきれいだったら女優の斡旋もあるでしょう?お金も入るし、チームには痛手でしょうけど、でも、本人達にとってみれば素敵な人生に挑戦よね?」
「ところが、本人達はそうじゃ無いのね?借金背負わされて、必死になって、」
「役者や女優になるには金が必要って訳か?」
「そうじゃなくて売られたのよ、業界に、」
「誰に売られたの?」
「新羅コーチに、」
「えっ!それって人身売買?」
「合法的なね?被害届けも出て無いみたいだし、」
「悪だ!新羅コーチと云うのは?」
「そう!半グレだったのよ、新羅長次は、」
「確か?半グレと云うのは暴力団の組織には入らず、悪どい事をして稼ぐ素人集団か?」
「だから、おかしいと思ったのよ、神経病院云々の前に新羅長次から誘われたの、 瑠衣さんは西洋の女性にも引けを取らないエキゾチックさがあるのである大使館の接待係として高額で迎え入れたいとの話を?・・で、私は断ったの、お金に不自由はしてないと、それにバレーが好きだから、ずっと、続けたいからと、・・その後、私は神経病院直行ね、」
「大使館のそれってどういう?」
「外国の要人相手の高級コールガール候補だったんじゃないか?と私の友達が言うの、断ったから見透かされたと思って、君が煙たかったんだ、そのコーチは、とも言うの、」
「コールガールとは売春婦って意味か?で、どちらの彼が言ったの?」
「そう!・・え~と、父さんの会社の理工学だったか?刀剣工のお髭の君だったか?」
「紛らわしい!で、売られた三人はどうなった?」
「二人は借金を返す為に水商売に、それも新羅に紹介を受けて、・・モデルの子は体を悪くして、父親が強引に田舎に引き戻したらしい?」
「バレーに復帰は?」
「一年前だから、身体を鍛えてないと復帰は無理、」
「おかしな話ね?チームのコーチと云うのはチームを強くする為には、力のある子は逃がさないのにね、企業チームでしょう、上層部に分かったらクビじゃないの?そのコーチ、」
「それがそうは行かないのよ、モデルの子の父親が警察問題にして、コーチが釈明したらしいけど、本人が希望したからだって、憧れがあって、もっと稼ぎたいと、本人にも聞き取りをしたようだけど何となくその気に成ってしまったと、うやむやになって、コーチによる謀略説は証明出来なかったのね。それにあの男、無名の選手を育てるのが上手いのよね、私とあの三人が抜けたチームがここまで勝ち残って来たのは、あのコーチの采配だから、上層部も簡単に手が出せないのよね?」
「実力はあるけど正規の道を歩けない、根が悪だから、夢を持つ女子を騙して食い物にして上前を撥ねる、残酷な事も平気でする族ね、」
「そう!暴対法の枠外で悪さをするファッションブランド志向で注目を浴びようとする娘を狙う。悪さが露見しそうに成ったら逃げる、隠れる、なんだよね、半グレは、あの男は正にそう、三十過ぎのイケメン半グレ新羅長次」
「ファッションブランドとは、有名ないい格好の服を作る処と云う事かな?イケメンは美男子か?・・まあ、瑠衣もそのチームから離れるか?逆に留まってその男を撃退するか?」
「ブランドとイケメンの意味はそんなとこね、ところがね?最近、新羅長次が私に言ったの、君は俺が嫌いで半グレだと見抜いてもいる。確かに俺は金欲しさに少し悪いことをしてるが、誤解されてるところもあるんだ。君は俺が誘った大使館の接客係を断ったので、腹いせに君を神経病院に放り込んだんだと思っているようだが、それは違うぞ。遠征先の宿舎で俺は君の寝言を実際聞いたことがあって、俺は恐怖に駆られたんだ、寝言の中に“兜のお祖父さま、騎牟礼城、強弓 ”は鎮西八郎為朝公と云う伝説上の実在の武者の事だった。・・俺の家系は更に歴史を遡る朝鮮半島のある王族の末裔で倭国に人質として海を渡って来たんだ。そして豊後の国(大分県)で細々と代々の血族を引き継いで来た。脈々と流れる歴史の河での最初の大きな受難が為朝公が豊後を征圧した時、王族の血筋の証である殆んどの物品を略奪された。付き従う者も大多数が命を落とした。戦乱の時代の栄枯盛衰は仕方が無いのだが二度目の受難が幕末の戦乱で起こった。・・ 王族の呪文が彫られている十六個の金の数珠と、世に数株しか無いと言われる紫の花弁の睡蓮の花が、何処の城下の藩か判らないまま奪われて鎮西屋の刀工に持ち込まれて、数珠は刀の柄の装飾に姿を替えたらしい。その事を聞きつけた俺の先祖が睡蓮の一株を持ち帰り、家老職だった新羅長兵衛が城内の池に浮かべたらしい。恨むは金細工をした鎮西屋だと柳生和紙に巻かれた過去帳に書かれてあるんだ。と神妙な言葉で言うの!そこで私は言ったのよ!何処かわからない藩の侍が貴方の先祖の金の数珠と睡蓮の花を奪ったんでしょう?鎮西屋にはそれを持ち込まれただけでしょう?どうして鎮西屋が恨まれなければならないの?奪った藩の侍を探し出して恨みを果たせばいいんじゃないの?と言い返したら、俺もそこを考えたんじゃけど、多分!鎮西屋とその辺の話の聞き取りをしている最中に、どちらかが癇癪を起して、斬り合いになったらしい?新羅屋は武道が出来ないので、背中に深手を負ったと記してある。しかし新羅屋の取巻きがいて多勢に無勢で結局、鎮西屋さんが命を落としたと見られるんだ、と」
瑠衣は新羅長次との長い話のいきさつを語った。
「それでつじつまが合って来た。新羅万兵衛、長兵衛兄弟と新羅屋商人ね、父さまとの四者会談で父さまが怒って斬り合いになったのね、そして母さまもショックで、・・」
「幕末にそんな凄い争いがあって、鎮西の血と新羅一族の血との争い、・・怖くて悲しいね!るいのお父さまとお母さまは金細工をしただけなのに可哀そう!素敵なお母さまだったんでしょう?」・・・
(過去へ)
突然、るい姫は肩を揺すられて目を覚ました。汽車が真っ白い蒸気を吐き出して何処かの駅に停車している。蒸気が動力から外されてプラットホームに濃い霧のように蔓延している。
「姫!駅弁を買ってきました。お疲れの様ですから梅酒もどうぞ、」
るいは充血した目で甚助を見上げながら、
「ああっ,・・梅酒よりお茶がいいんだけど」と言いながらも、眠気覚ましに差し出された梅酒の蓋を取って一息に飲んだ。両親の死に際の心の痛みが一瞬、解けて行くような甘酸っぱい焼酎が脳幹にしみ渡った。
「梅酒ってこんなに甘くて美味しいの?」自然と言葉が出て、そして幕の内弁当のような献立に箸が動いた。
「寝ぼけ覚ましには梅酒が一番いいんじゃ!それにしても姫はよく寝れますな?朝からずっと、寝っぱなしじゃ、」
「寝ぼけてなんかいませんよ、甚助どんなんて、来る時は酔っぱらって、ぐうすか、いびきばかりかいてたくせに、」
「姫はずっと、ぶつぶつ寝言ばかりを言ってましたぞ、」
「甚助も知ってるでしょう?私が未来の瑠衣と交信しているのを、急に起こすから折角、話の肝心なところで途切れてしまった、」るいは子供のように膨れっ面で言った。
「やれやれ、姫はもう!我がまま娘じゃったな?それでは又お眠りください、」
「甚助が急に起こしたから、もう!眠くなくなった。」
夜になって、るいは帰りの汽車の中での最初の一夜を、我がままを言い続けて来た娘(るい)をずっと支えて来た初老の逞しい引き締まった男の寝顔を眺めながら過ごした。遠くから警笛が聞こえ、汽車は闇の中をゆっくりと進んだ。
翌日、日が昇ると東海道に添って、本州の形が目の前に繋がっている。るいは昼頃になって眠気を催した。・ ・・
(交信)
「で、半グレの新羅長次はどうするって?・・今からあくまでも恨みを晴らすつもりなら、受けて立てば?私が人知れず、首の後ろの刺し方を教えるから、」
「ひゃー!怖い!暗殺者、私にはそんな事は出来ないよ、・・・それが新羅長次はね、自分の先祖の事話した後妙に神妙なの?俺って王族の血筋だから、半グレなんてやってるのおかしいよね?とか、君を大使館に誘った時に言った事、西洋人にも負けないエキゾチックな魅力を持ってると云うのは俺の本音だった、とかね、」
「瑠衣のバーカ!お人好し、女を言葉巧みに騙すのが半グレの手口なのよ、貴女も獲物の一人ね、情に乗せられたらダメ、」
「そうかな?・・・新羅コーチも悩んでるように思えるんだけど?昨晩ね、練習の後にね、しんみりとした様子でね、俺も少年の頃は夢を持っていた。高校の電気科を出た後に、この企業の電気機械の組立部門に入社して三年経った時、電気回路の基盤の構成の発案をして所属長に褒められて、報奨金を貰ったんだ。後でわかったんじゃけど、その所属長は回路の発案を自分の手柄にして工場長に昇格して、何故か俺はスポーツ術が優秀と云う事になって、バレーチームの副コーチに抜擢されて、昼も夜もコーチ業に専念させられたんだ。俺はバレー選手並みの身長は無いし、何かおかしいと思ってたんじゃけど?給料は上がる、チームは勝ち続ける、そして今度は女子バレーのコーチに抜擢され、そして例の三人の優秀な女子が入って来るし、高身長の君が入ったことで、うちの女子バレーのレベルが本格的に上がって来たんだ。その頃、俺は高校の同窓生が経営しているバーに出入りしていて驚いた。そいつは三十歳でバーとかホストクラブを幾つも持っていて、(あっ!ホストクラブはイケメンの男たちが女の客をもてなすお店ね、)で、数千万のマンションにも住んでいたし、更に驚いたことに、その店に会社の工場長が出入りしていて、ホストクラブは儲かるんだってな?・うちの工場に俺の金づるがいる、そいつを今、バレーチームのコーチに出向させている、三人の優秀な女子選手を俺がスカウトしてやった事で試合は勝ち続け、・・スカウトの意味解る?」
「勧誘する事でしょう?それで新羅はどうしたの?」
「それで企業イメージが上がって、本社の幹部は俺の手柄だと社内昇格の意図を伝えて来た。金づるのコーチはそれを知らない。俺が給料を上げてやってる事も知らない。だから本人が自覚しない永遠の金づるなんだ、と・・俺がその事を知った時は工場長は本州にある本社の企画部に栄転していて、手が出せない状況になっていたんだ。俺は自分の人生を利用され、操作されていた事の反動で同窓生がつるんでいる半グレの仲間に入って、利用する立場、操作する立場になろうと思った。半グレは陰で悪どい、人非人が多いが、俺はその上を行こうと思ったんだ。最初の標的が、俺をはめた片棒を担いだ三人の女子選手を闇の業界に斡旋する事で数百万の手数料が入ったのを契機に、俺は人に言えない事を幾つもやって、マンションにも住むようになった。しかし、その内に君(瑠衣)を神経病院に追いやったことで、新羅家の先祖の歴史の河の流れのようなものが頭から離れなくなったんだ、夜、侍の先祖が出て来て、俺を恫喝するんだ、何だ!その生き方は?新羅の子孫がなんて様だ!恐怖心も生まれて来た。おまけに新羅の王家の人間が出て来て俺を罵るんだ!俺の中の姑息な半グレの精神が木っ端微塵に砕かれる、俺は叫び声をあげて目を覚ますんだ、夜が怖い!眠るのが怖いんだ!君の代わりに今度は俺が神経病院に入りたいよ、と苦しそうに言うの!でも練習のコーチをするときは、適格で厳しい指導をするのよ。自分の中の魔物と戦って打ち負かそうとしているかのように?・・
それから、ある時、栄転した工場長が久々にこっちのバレーチームを見に来たことがあって、皆が帰った部室の更衣室でコーチの独り言を聞いたのよ、先祖の因縁には負けねえぞ、俺はこの九州で半グレの頭になってやる、もう一息だ、半グレは犯罪集団じゃないぞ、合法性があるんだ、大金が入って来る、俺の新たな夢、頭になったら関東関西に乗り込む、邪魔する奴も罵る先祖も蹴っ飛ばす、あの工場長野郎もいつか闇の中にハメてやる、ってね、」
「新羅コーチも根っからの悪党じゃないんだ」るいも何かが解かりかけて来た。
「私は新羅長次の、のたうち回る内面を見たのね、新羅一族も長い歴史の黒い濁流を渡っているのか?と思い直したの」
(現代へ)
新羅長次率いる企業女子バレーチームの九州大会最終戦が、シーマリン博多総合体育館で行われた。競技場の客席の企業幹部が居並ぶ横に、新羅の関係者と瑠衣を応援する鎮西家の者が隣同士で応援の旗を握っている。数あるチームの高身長のコーチや監督の中で、通常の身長でギラついたネックレスにオールバックでやけに目立つ男の存在が目を引いた。決勝戦に勝ち残った新羅コーチの姿は武士集団の棟梁の如く異彩を放っていて、それはチームが優勝して、胴上げされる新羅長次の天下を取ったような目つきが、鎮西屋刀工の表情を曇らせた。
女子は優勝、男子は準優勝に輝やき、本社へ栄転して行った企画部長と幹部連中を交えてホテルでの祝賀会が開かれた。新魏コーチはあれほど発案のお株を奪われ憎んでいた企画部長と盛んに談笑している。本社幹部の司会者が、
「さて、九州を手中にした我が女子バレーチームは今後、本社チームと合流し、総合コーチとして新魏君を迎え、本社広報企画部要員に昇格する事が取締会の決定事項となりました。」
本部が新魏コーチに降りて来たのだ、企業の面子をかけた売名は全てに優先する、新魏長次が一番嫌うことなのだが?・・続いて新魏コーチが壇上に上がった。
「九州を制圧したら次は関東関西、所謂、全国大会です。それはオリンピックに繋がっています。その為には全てを犠牲にしても私は邁進します。」と、
企業に取っては都合の良い一番のインパクトがある。新魏長次の形相はスポーツマンシップのそれでは無く、己の欲を満たす為に周りを無視し、犠牲を厭(いと)わない半グレの世界そのものだと、鎮西屋刀工の目に映った。
立食会になって本社企画部長が鎮西屋に近づきグラスにビールを注ぎながら、盛んに頭を下げている。鎮西屋が作る日本刀の刄を取り付けた撹拌タービンのドラム一式をアメリカに輸出する為の支局員として重役待遇を受ける話のようだった。新魏長次が広報企画の後釜に座るのは必至だ、宴の後、瑠衣は久し振りに自宅に帰った。鎮西屋の若い弟子が運転するランドクルーザーの後部座席で、無精髭を撫でながら、鎮西屋は呟いた、
「あの男は危険だ、お互いの家同士が引き継いで来た怨念はやはり消えないんじゃ!」
「コーチは私に告白したのよ、自分の引き継いで来た血の愚かさを、そして先祖の非情なものと戦うと、ただ、自分を利用して成りあがった者は許さないとも言ってたけど、・・」と瑠衣は曖昧に言った。
「いや?あいつは引き継いだ愚かな怨念を抑える器では無い、その力は無いな、あのギラついた目つきは正常ではない、いつかはその怨念に呑み込まれてしまう、その時は瑠衣が餌食となる時じゃ、」
「ならば?叔父さま、どうするの?」
「幕末のるいが言うた通りじゃ、鎮西家の因縁の血はわしから瑠衣に繋がっているんだが、新魏家はコーチの叔母(父親の妹)からコーチに繋がっているんじゃ、・・実はわしが若い頃、新魏の妹と偶然、恋仲に成ったことがある。わしが流浪の旅をしている頃じゃ、彼女は美しかった。お互いに引かれ合った。わしは路金がなくて彼女は裕福で、わしの刀工の腕を認めていたんじゃな?その為の準備金にも事欠かなかったが、ある時、温泉宿に湯治に行った時、寝ているわしの後ろに震える手で千枚通しを持った彼女がいたんじゃ、多分首の後ろを刺そうと思ったんじゃな?わし達はお互いの家同士の因縁の確執をおぼろげに知ってはいたんじゃが、まさか彼女が実行に移すとは思わなんだ、怨みの程度が新魏家の方が強かったのかもしれん、振り向いたわしの目には恐怖におののいた彼女の苦痛に歪む顔があった。そして畳に突っ伏した彼女の絞り出すような声が聞こえた。
" 私にはできない、先祖のおどろ 々 しい声に従うことはできない、だって私は貴方を愛しているから、怨念を引き継いだわが身が恨めしい! "
と泣きながら宿の外に飛び出して、切り立った崖に身を投げたんじゃ、わしは夜が明けるまでその場に立ち尽くした。警官が来たが、宿の主人によって、飛び出して行く彼女を目撃したことで他殺説は無くなったんじゃが、新魏家からは一層の怨みを買うことに成ったじゃろう。やはり、どちらかが途絶えるまでは、怨念は続くじゃろう」瑠衣は夜のハイウェイを走る後部座席の隣で息を凝らして聞いていたが、
「叔父さまもそんな事があったの?怖い!私達の家のそんな怨念のようなものって、・・幕末のるい姫もそんなふうに言うんだけど、でもその娘さん可哀そう、」
「崖下の湯煙の中に横たわる怨念から解放された彼女の安らかな死に顔が、今だにわしの脳裏から消えない、」目を閉じた刀工の口元から最後の呟きが漏れた。
「彼女に愛憐の情がなければ、わしの首には千枚通しが刺さっていたじゃろう?・・」と
家に帰り着くと両親と弟や妹のお祝いが待っていた。
「瑠衣姉ちゃんも当然、本部チームに選ばれるんだろう?」
「貴女の会社は大きい企業だから部員も沢山いるでしょう?瑠衣が選ばれるか?わかんないわよ?本社の方には凄い人も大勢いるだろうし、」母親はいつも手厳しい。
「一応選ばれてはいるんだけど?」
「選ばれたら関東の方に行くことになるのか?」父親はいつも冷静だ。
「うん!そうなるかも?」瑠衣は上の空で答えていた。その事よりも気に成ることがあったのだ。浴室に入って体を沈めると、筋肉を使った部分からじわじわと疲労が抜けて行くのが感じられる。心地よい、瑠衣は眠りかけた。突然!幕末のるいの声がする、
「まずい!」内なる衝動が呼びかける、ガクン!と顎を落とし、湯船の中の自分の乳房が揺れている。瑠衣は浴槽を出てバスタオルで髪を拭き、バスローブを巻いて寝室に向かった。
廊下の後ろから妹の声がした。
「お姉ちゃん、お話しもっと聞きたいんだけど?」
「明日ね、」瑠衣はベッドに飛び込み、一息吐いた後、眠りに入
った。
(交信)
「貴女、さっき、お風呂入ってたでしょう?」
「うん!今日の試合接戦だったから、もう!疲れちゃって、くたくた、お風呂で眠っちゃって、お湯飲み込むとこだった、」
「あら、瑠衣らしいわね、でも貴女打ち込み(アタッカー)やってるんよね?だから疲労、凄いんだ?」
「うん、足の踵んとこ、疲労骨折してるんだって、休むと治るんだけどね、」
「何か?あったようね?交信のエネルギーがビンビン来るから?」
「うん!新羅コーチの事、」
「半グレの新羅長次か?」
「そう、今日ね、うちのチーム優勝したのね、見に来てた刀工の叔父が言うの、あいつは危険だ、引き継いだ先祖の怨念を抑えてるように見えるが、いつかはそれに飲み込まれてしまう、そして新羅の牙は私に向かって来ると、鎮西家と新羅家の互いの怨念はどちらかが途絶えるまで続くとね、」るいは頷いた。
「私もそう思うところもあって、だから新羅長兵衛と新羅屋に会って見ようと思ってるんだけど、今のところ宛が掴めないのね?」
「でね、あまり大っぴらには言えないんだけど?刀工の叔父さまも、若い頃、新羅コーチの叔母さまに当たる人と恋愛関係になったことがあってね、それで?・・」
「ちょ、ちょっと待って、鎮西屋が新羅家の娘と恋愛関係?・・初耳?、で、どの程度?」
「どの程度って?・・温泉宿に一緒に行く位だから、相当、ねんごろになってたんじゃないの?お金も貰ってたらしいし、それに相当美人だったらしいわよ、」
「ははん、髭面の大男って、大体、柳腰の美人を好むのよね、今のお嫁さんもいるんだし?・・刀工っていうのは黙々と仕事に打ちこむ分、やっぱり女好きなんだ?
「るい姫さん!言葉を返すようですが、そういうのってあまり、関係ないんじゃないの?それに叔父さまも結婚する前だったんでしょうから?それよりも私、大変な事を相談してるんだから、ちょっと真剣に聞いてよ、」
「でも、子孫が敵の家の娘と恋愛関係になったというのは、私にとっては気になるのよね?」
「だから、それはちょっと置いといて、叔父さまがね、その女の人と温泉宿にいる時に、後ろから首を刺されそうになったけど、その女の人は震えながら貴方を愛しているから、いくら先祖からの怨念でも刺すことは出来ない、と言って外に飛び出して崖から身を投げたんですって、」
「・・・・!それって?新羅家の娘が?・・可哀想!不憫ね、怨念が続いてるから、私たちにはどうしようもないんだけど?私の父さま、母さま、そして新羅家の娘さんは犠牲者?忍び難いわね、本当に、・・・それから瑠衣の相談ていうのもわかった。新羅長次が牙を向けて来ることへの対策ね?」
「そうなんだけど?」
「それは、やられる前にやることね、殺される前に殺すこと、相手は合法的に来るだろうから、此方も同じように、手錠を掛けられないようにやるの、やり方は教えるからちゃんとメモして覚えときなさい。貴女の身体能力の範囲で出来る方法でね、 戦い方は、例えばこういうやり方はどうかな・・・・・・・・・?」
「それって、計画殺人?・・私が出来なければヒットマンを頼むって?そういう殺し屋は何処に行けば会えるの?私は貴女のように忍者みたいな能力は無いし?教えて貰っても出来そうも無いっていうか?怖いよ!・・成功したとしても、私は警察に捕まって懲役何十年、妹や弟は殺人者の家族になって、お父さんの会社も廃業に追い込まれたりして?」
「瑠衣がこの前言ってたでしょう?地球の環境が悪くなって、ターニングポイントがどうのこうの?とか、インターネットで個人が管理・支配されて最後は戦争に駆り出されるとか?幕末の戦乱の時代と同じになるかも?とか、」
「そう云うの怖いけど、現実に東ヨーロッパとか中東で、まさかの戦争が起こってるのよ、怖いよ、計画殺人はもっと怖いよ、」
「そんな弱気は禁物、だから私が言ったでしょう?合法的に警察の捜査に引っ掛らない様にやるのよ、そうしないと逆に瑠衣が消されて鎮西家の気概と栄光を引き継ぐ者が途絶えるのね?懸命に先祖が引き継いで来たものを、瑠衣の代で途絶えさせる事を貴女は出来るの?出来ないでしょう?途絶えさせる事が出来ない血を瑠衣は引き継いでいるのよ、」
「そんな事、言われても、・・私ももう少しバレーも上手く成りたいし、大きな大会に出て思いっきり力を出してみたい、女だし熱烈な恋愛をして結婚して幸せにも成りたいのよね、貴女の様に可愛い子供を産んで、そんな、人を殺すなんて?・・それに叔父さまも、そうは言わなかったと思うけど?・・」
「そうか、やはり貴女の時代の人間は個人主義っていうか?家とか先祖から引き継いだものより自分自身を大切にするのよね、」
「う~ん、家とか家庭をおろそかにする気持ちは無いんだけど?・・・私ね、前からずっと思っていたんだけど?貴女の幕末の頃、そして私が生きている今も鎮西家と新羅家とが、いがみ合っているのは、ずっと前の兜のお祖父さまがいた頃から始まったんでしょう?貴女(るい姫)のお父さまもお母さまも新羅家の人と何かあった事で亡くなっているし、と云う事は新羅家の人達もずっと前の兜のお祖父さま?か誰かに凄い恨みがあったと思うのよね?でも私たちの時代まで怨念が続くと困るのよね,怖くて、だから貴女から兜のお祖父さまに怨念が続かないように、聞いてみるか?お願いして見れば?」
「・・・・?兜のお祖父さまは私には優しかったし、随分、助けて貰ったんだよね、私もその事を聞いた事があるけど、お祖父ちゃん、何も語らないのよね?瑠衣は交信した事は無いの?」
「殆んど無い、一度だけそれらしい兜を被った巨大な人が出て来たような気がするけど?怖そうだし、とてもそんな事、るい姫さんが優しくして貰ったり助けて貰ったんだから、貴女しか聞く人いないよ?」
「だから、その事については何も語らないって言ったでしょう。瑠衣も鎮西家の血を引き継いで、貴女の時代に選ばれた立場だから、しっかりとその事を全うしなければならないのよ、」
「私の弟なんてさ、鎮西家の人間だけど、そういった立場に選ばれてないから、楽なもんよ、理解できないくせに工学の本を読んだりして、」
「それは子供が言う事、瑠衣は歳はいくつ?お肌の曲がり角をそろそろ過ぎる頃でしょう?」
「私はるい姫さまのように聡明ではありませんから?強くも無いし、」
「瑠衣が出来なければ、今、私が新羅一族を消してしまえばいい事になるけど?歴史の歯車はどうなるかな?・・それと新羅一族を消してしまう決定的な恨みが私にはあったっけな?・・向こうが攻撃して来れば別だけど?」・・・・・
その時、るい姫はふと思い出していた。数年前、匡一と幌車で竹田から佐伯に帰る途中、チャイナの大男と一騎打ちをした時、傍にいた忍び崩れの男たちの話を、
「わしたちは新羅の爺さまから五百両貰って、極悪人の娘を抹殺してくれとあの娘は普通の人間じゃない、魔物じゃ、それに逆恨みしちょって、じきにわし達を殺しに来る、じゃからその前に殺ってくれ、と頼まれたんじゃが、どうも話が違うようじゃ?」の一説を・・新羅一族は逆に凄腕に成長して行く私を怖がっていたのかも?・・・となると、
「あの~、瑠衣?私がけしかけたのに変だと思うかもしれないけど、新羅一族を攻撃するのはちょっとタイム、」
「何言ってるの?るい姫!この問題は貴女の時代に片付けてしまって!お願いよ、殺ってしまっても大した事には成らないんでしょう?現代の法治国家と違って?」
「あれっ!生命学を専攻して他人を傷つけたらいけないなんて言ったくせに?瑠衣め、調子いいんだから?・・・だけどね!新羅長次の言った事、貴女から聞いた、
「君を大使館に誘った時、西洋人にも負けないエキゾチックな魅力を持ってると云うのは俺の本音だった。」とか、「新羅の王家の人間が出て来て俺の中の姑息な半グレを罵るんだ。」とか言って、鎮西家への怨念・恨み事は全く言わなくなってるんじゃないの?・・それと貴女の叔父さまと恋仲だった新羅の叔母さまが怨念を果たすのを止めて自ら命を絶った事も事実だし?・・と云う事は鎮西家への怨念は無くなってこのまま攻撃して来なくなったら、それこそ兜のお祖父さまが怨念を消してくれた事に成るよね?新羅長兵衛も新羅屋も今のところ、何も攻撃して来ないし?ひょっとしたら?もう無いかも?怨念、」
「だったら、いいんだけど?でも刀工の叔父は、あいつ(新羅長次)は引き継いだ愚かな怨念を抑える器では無い、とか、いつかはその怨念に呑み込まれてしまう、って言うのよ?」
「刀鍛冶って云うのは疑り深いのよ、刀を打つ時、砂鉄の量が足りないとか?多すぎて脆いとか?思い込んだら真っしぐら、その通りしか考えないのよ?兜のお祖父ちゃんが答えないのは、怨念はもう既に無くなっていると云うふうにも考えられるけど?・・・」
「そう?そうだといいんだけど?・・怨念の対象が変わることもあるのかな?でも、不安!怖い!・・・」
(現代から過去へ)
「姫!姫、着きましたぞ!最終駅に着きました。」
「うう~ん、・・ここは何処?」
「福岡です、最終駅です。弁当も買ったのに姫は眠ってしもうて食わないから?姫の好きなゆで卵もほら!」
「甚助が起こすから、肝心な話の続きが途絶えて?・・でも、結論は出ないか?・・何だかお腹空いた、」るいは寝ぼけ眼で呟いた。
「はいはい、姫の荷物はわしが持つから、弁当は幌車の中で食って下さい、」
るいは弁当だけ持って駅の外に出た。後から甚助が大きな荷物を二つ担ぎ、ふらふらしながら出て来た。
終わり
(七つの城を渡り歩く女)
七つの城を渡りあるく女 シゲキ @hiraoka2026
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