車掌の怪異と有栖さん

 学校の最寄駅から乗り継いでおよそ一時間。乗り換えるたびに小さくなっていく駅のプラットフォームは、ついに駅員を失った。待合用のベンチ一つと無人の改札があるだけの萎びた駅。そこから更に乗り継いで、有栖は家路を辿って行く(他の同級生は全員徒歩か自転車で登下校するのだが、有栖の場合は家が特殊な場所にあるのでこうなった)。


『次は〜〇〇駅〜〇〇駅〜』


 横に倒れていく景色たちにそっと息を吐く。背中を擡げて腕を伸ばすと、体育の授業で疲れた肉が皮膚の下でズキズキ痛んだ。彼女の膝には手作りのおかきが入ったジップロックがある。乗客は有栖以外にいないけれど、万が一電車を汚したら大目玉だと、グッと我慢する。彼女のお腹は既に空っぽで、いつ音が出てもおかしくはなかった。


(次の駅で一回降りて、おかき食べよ)


 遠くで祭囃子が聞こえる。お腹が空いているはずなのに、意識は微睡み、有栖は静かにまつげを伏せた。夢うつつのまま揺られていると、不意に列車が止まる。体感では最寄り駅までまだ掛かるはずだが、どうにもおかしい。気になって少し瞼を持ち上げると、視界に誰かの足が入った。かしこまった形のズボンの裾と古い革靴、それから金木犀のような匂い。体格からして男性だと分かった。どうやら、誰か男の人が有栖の前に立っているらしい。


「お客さん」


 車掌のようだ。声はしわがれている。手袋をした手で肩を揺すられるも、異様なほどの睡魔に襲われて身動きが取れない。


「お客さん、降りる時間ですよ」


 揺すられる。ぐらぐら、ぐらぐら、視界が回る。有栖の白髪が薄暗い車内でさらりと流れた。


「お客さん、降りないんですか」


 ぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐら…。


「降りないんですね」


 床に落ちる車掌の影が膨らむ。少女の何倍もあるそれはぐわりと口を広げ、見えた牙の間から涎を滴らせた。


「……ねえ」


 どうにか顔を持ち上げた有栖は、車掌だった怪を見る。目、鼻、口、耳、あらゆる物がぐちゃぐちゃに配置されたその形相に彼女は、ゆるりと口角を持ち上げた。彼女が持ち上げたのはおかき入りのジップロックだ。


「一緒に食べない? 私の体よりも、きっと美味しいよ」

「……」


 口を開けたまま、怪異はポカンと彼女を見つめる。眠気が薄くなってきた。額を押さえて冷や汗を拭った有栖は、ジップロックを開いて掴んだおかきを大きな口に投げ込む。咀嚼されるおかき。がりごりと音を立てて飲み込んだそれに、怪異は瞬きを落とした。


「もっといる?」

「……」


 怪異は頷く。有栖はおかきを数粒手に取り、残りは怪異にやった。無表情で貪る怪異を眺め、彼女は笑う。


「私を無事に返してくれたら、もっと持ってくるよ。君が満足するかは約束できないけど」

「……お客さん、降りるんですか」

「うん。でも、また来ると思う。…多分」


 苦笑した彼女に、怪異は再び瞬きを落とした。

 今まで、人を攫っては食ってを繰り返していた。

 人を食べていたのは、何故だったか。きっかけは、五十年前に約束を破られたことだ。「またね」と人間の少女は言った。だがその「またね」は二度と訪れなかった。


(……そうか)


 怪異は有栖を見下ろす。触れれば折れてしまいそうなほど華奢な体躯で、健康的な色をした眼差しで、怪異を見ている。

 口の中に残ったおかきの破片が、唾液に溶けて甘くなる。怪異は有栖の頭にそっと手を乗せ、左右に動かした。サラサラ流れる白髪が心地いい。

 怪異の背後、窓の外を流れていた景色がゆっくりと止まる。扉が開き、夏の鬱蒼とした暑さが冷気をかき消していく。


「……お客さん、降りないんですか」


 有栖の手を握り立ち上がらせた怪異は、被っていた自分には小さすぎる帽子を取る。一歩。少女の足が列車から出る。


『ドアが〜閉まります』


 扉が閉まる。有栖はふと振り返った。


『またのご利用を、お待ちしております』


 怪異は消えていた。

 祭囃子はもう聞こえなかった。

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