人面魚さんと有栖さん
夏の川は心地がいい。生い茂る葉叢の木陰も相まって、山遊びの休憩スポットと化していた。
鹿がいなくなったのと、周囲に野生動物の影がないのを確認し、有栖は斜面を滑り降りる。河原には綺麗な丸い石が転がり、陽光を柔らかく反射する。その中から一つ平べったい石を手に取って、水面に向かって飛ばす。石は弧を描くようにして水面を弾んでいった。
「よし、五回」
新記録更新。有栖は小さくガッツポーズを取り、ザブザブと川に入っていく。ここは浅瀬で流れが緩やかなのもあり、彼女が遊ぶにはピッタリだった。有栖の保護者の私有地のため、ここで遊ぶ人間は有栖以外にいないのだが、それでも山には好奇心をくすぐるものが溢れていて、休んでいる暇すら勿体ない。
透明な川は底に沈む砂やサワガニや小さな川魚がよく見えた。足を入れると、皆が避けてどこかへと泳いでいく。
その様子を眺めながら、有栖は持ってきたクーラーボックスから缶ジュースを取り出した。一本五十円。安っぽくて量の少ないオレンジジュースである。このチープさが堪らない。
「……」
見上げれば晴天。
缶ジュースを両手に抱え、身をのけぞらせて目を窄めた彼女の耳に、ピチャンと何かが翻る音が聞こえた。勢いよく立ち上がった有栖は、足元に置いておいた網を持って走り、思い切って川へ飛び込む。
ザブン! と水飛沫を起こしながら、彼女は網を振った。汗と水が混ざり、冷たい川の匂いが鼻腔を突く。有栖の白髪とは違うぬらついた長い黒髪が取手に絡みつく。
持ち上げた網の中でビチビチ跳ねる
「こんにちはー!!!」
「いきなり捕獲する奴があるかコラあ!!」
淡水魚の体を荒々しく動かしながら、人面魚は鬼の形相で怒鳴った。それに屁もくれず、有栖は彼女を川に離す。
「全く…だから最近の若者は!」と人面魚は憤慨した様子で有栖の足元を泳ぎ回った。有栖は「あっはは。ごめんごめん!」と足を動かし、腰に巻いていたパーカーをスカートのように動かす。まるでワルツのステップを踏んでいるかのようだった。楽しげなその表情に、毒付いた気分が水に溶けていくのが分かる。
ひとしきり踊り終えた有栖はしゃがみ込み、息を切らせた人面魚に無邪気に笑いかけた。
「この川に、人間に友好的な人面魚さんがいるって聞いてさ。多分あなたの事だよね?」
「そりゃまあそうだが…」
「人面魚って食べられないものある? あと好物とか」
その言葉に、人面魚は内心落胆した。
彼女は淡水の人面魚である。数多の川を冒険し、結果分かったのは「人間は珍しいものを見ると取り殺したくて堪らない」という事実だった。この数百年で、同胞の数もずいぶん減り、彼らは人里を離れ誰も近づかない山の奥深くへ消えていった。
けれど人との交流を諦められなかった彼女は、比較的こちらの事情が分かるだろう視える人間の前にだけ現れることにしたのだ。だがその視える人間も、結局はこちらを釣るための餌を知りたいだけだったらしい。
「好みによるんじゃないか」
そっけなく答え、身を翻す。早く帰りたかった。
「貴方は?」
「私か?」
「うん」
首を体ごと傾げた人面魚に有栖は頷き、肩に下げていたバッグから風呂敷包みを取り出した。結び目を解くと、ラップに包まれたサンドイッチが姿を表す。
「せっかく作ったから、一緒に食べたいなって思って」
人面魚の瞼が持ち上がる。
「…私を食べても、辛くなるだけだぞ」
「貴方のことは食べないよ。私は一緒に食べたいのは、お昼ご飯」
片手で水を拭い、有栖はケラケラ笑った。
最初こそ彼女を警戒していた人面魚だったが、あまりにも有栖が談笑を持ちかけるものだから、次第にバカらしくなってきた。サンドイッチも美味いし、こちらが肩を張るだけ無駄なのかもしれない。
「これ美味いな。モチモチしていて、だが歯ごたえがいい」
差し出されたサンドイッチを食み、彼女は尾鰭をばたつかせる。水面に黒い髪が蠢く様は不気味だったが、それ以上に楽しさが勝った。手頃な岩に腰掛けた有栖は、再びサンドイッチをちぎる。
「カニカマ。気に入ったなら、また作るよ」
言いながら、有栖は自身のサンドイッチを頬張った。何気ないその仕草に、人面魚は顔を綻ばせ、逸らす。
「……なら、次来た時は美味い魚が獲れる場所を教えてやる。それで何か作れ」
「任せて」
ニヤ、と口角を上げた有栖は、人面魚にVサインを送った。
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