案山子さんと有栖さん
翳り出す畦道を進んで入った山の中腹に建つ日本屋敷。その裏手に大きな畑があった。きゅうり、トマト、茄子、オクラ、ピーマン、枝豆の苗は順調に育ち、その茎に鮮やかな実りをもたらした。早朝にすることと言えば、水やり、葉の様子・ビニールハウスの中の確認くらいだ。それでも植えてある植物が豊富で一時間半ほどはかかる。いつもは保護者の家平と共にやるのだが、今日は早朝出勤なので有栖一人で行っている。
不要な葉っぱや雑草を、畑の隅の肥料作り用スペースに放り込む。こうすると、土の中の虫が勝手に分解して肥料にしてくれそうだ。ガソリン臭くない生ゴミのような匂いは、未だに慣れないが。
「よーし終わりー!」
ドッと地面に座り込む。水筒に入れていた水を一気に飲み干すと彼女の背後に何やら怪異が佇んだ。二メートルほどある背丈をこちらに傾け、覗き込んでくる。有栖は背後にのけぞりながら彼女を見上げた。
「案山子さん、おはようございます」
「おはよう有栖さん。今日も精が出るねぇ!」
大きなマネキンに、麦わら帽子と軍手、サラシと昔の祭りで使っていた法被を着せてできた動物を追い払うための人形。長く使っていくうちに怪異になったらしく、現在も引き続き畑の番人をお願いしているらしい。家平とは知己の仲だそうで、有栖自身、彼女には一定の信頼を置いていた。
首にかけたタオルで汗を拭き笑う有栖に、案山子は彼女の足元を指差した。そこには、今朝収穫した野菜が盛られた籠があった。
「どれ、折角だ。採れたての野菜でも食べるといい」
「行儀悪いって、昨日家平さんに注意されたばかりなんですけど」
苦笑する彼女に、案山子は顔のない顔でカラカラ笑う。
「何、ちょっとくらい平気だべ。なんてたって今の有栖さんの保護者は私だからな」
「さ、早くお食べ」と言われてしまえば、有栖は抗えない。何より採れたてのトマトは非常に美味しいのだ。今も、朝日を反射してツヤツヤと輝いている。
「…お主も悪よのぅ」
ため息を吐いた有栖は颯爽と水道まで行くとトマトを洗い、悪どい顔で齧り付く。薄い皮が裂け、中から肉厚な果肉が顔を出す。トマトの旨みがジュワッと口の中で弾けたかと思うと、酸味と甘味が同時に押し寄せ、有栖は舌鼓を打った。ぶわりと溢れた果汁が顎を伝って地面に落ちる。思わず左手で皿を作ったが、指の隙間から流れていった。
「うんま!」
畑仕事の後の体に、トマトの瑞々しさが沁み渡る。快晴の下、山からやってきた夏の微風が吹き抜け、有栖の長い白髪を持ち上げ、首筋を撫でた。涼しい。食べかけのトマトを持ち体育座りをしたまま、有栖はうんと背伸びをした。
「案山子さんは、食べられないんですか?」
隣に問いかける。案山子はカラリと回った。
「その通り。私には目も鼻も口もないから、食べる必要がないのさ」
「カッターとかでやったら作れますかね?」
「なかなか怖いこと言うなお前…」
「一人で食べるのは楽しくないんで……」
「そういうもんかぁ?」
「まあ、人によるとは思いますけど…。私は、そうなんです」
「へえ」
有栖のつむじを見下ろしながら、案山子は再び回った。彼女は目も口も鼻もなければ、上半身から下に人間らしい部位はない。元々彼女は高身長の女性向けのドレスを作るためのトルソー(胴体部分だけのマネキン)の肩に、軍手付きの枝を刺して作られた案山子だ。屈伸できないから、有栖と話す時はいつも体を前に傾けている。
(できないことばかりだ)
しゃがんで有栖と目線を合わせることも、彼女を抱きしめることも、頭を撫でることもできない。それがたまにもどかしくなる時がある。
「案山子さんがいてくれて良かったです」
しみじみと有栖はトマトを咀嚼する。案山子は体を傾けた。
「そうかぁ?」
「案山子さんがいなかったら、今頃私は一人でした」
「大袈裟だなあ。寂しがりかぁ?」
「そうですね」
有栖は眉尻を下げた。普段より子供っぽい仕草だった。
「私、多分、自分が思うより寂しがりなんですよ。他の人よりも、ずっと」
「へえ」
「でも、孤独がいいとか、皆と全部一緒がいいってわけじゃなくて……なんでしょうね。自分でもよく分かっていないんですけど。…多分、どっちも好きだから」
「おう」
「…だから、案山子さんが側にいてくれて良かったってことですよ」
黒い瞳が暖かく細まる。
それは何気ない一言だった。
「そうかい」
案山子は体を上下に揺らしてカタカタ笑い、回る。
自分がいて良かった、だなんて。
その言葉だけで、今日も一日精が出るというものだ。
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