第五十話「無境の裂け目、終わりなき座」
1 白の尽きるところ
無音の道は、ある朝いきなり終わった。
前方の地表が薄皮のように透け、空と地の境が判然としない。
近づけば、足下の色がさらに抜け、踏みしめる度に世界の厚みが一枚ずつ減っていく。
「……ここが無境(むきょう)の裂け目」
フロエが柄板を胸に抱えたまま言った。板は震えもせず、ただ重かった。
工匠は杭を握りしめたが、打つべき地がない。杭先は、触れる先から意味を失っていく。
ミラの結びは結んだ端から形を忘れ、封糸の女の札は裂いた途端に「裂くという行為そのもの」を空へ返した。
アリアは吸った息を胸に留められない。溜めようとした拍は、すぐ隣の無へ移って消える。
セレスティアは剣を抜かなかった。
「ここでは刃がただの線になる。線は縫い目にもなれるが、裂け目にもなる。——座ろう」
俺は砂時計を返した。
最後の一粒が落ちると同時に、砂時計は透明になった。
音も、重みも、手触りも持たない。だが、形は残っていた。
2 誘う無
裂け目の向こうから「何か」が手招きをした。
顔も衣もない。ただ、こちら側にあるものの意味を一枚ずつ剥いでいく呼び。
返りがなくて楽だよ。
座らなくていい。
名も、線も、重みも要らない。
アリアの喉がひゅっと鳴った。返りがないのに、恐怖だけは音もなく胸を掻いた。
「……座れるだろうか、ここで」
セレスティアは膝を折り、両の掌を地へ。地はない。だが、膝は確かに自分の重みを受けた。
「座は、地がなくても身があるかぎり成立する」
俺たちも膝を折る。
座るという行為の輪郭だけが、無へ向けてうっすらと際立った。
返りはない。けれど、離席しなかった。
3 忘却の潮
裂け目は忘れる波を寄せた。
最初に狙われたのは、ミラの指の癖だった。ほどけやすい二重の手順が白くほどけ、ただの「結び」の記憶に溶けていく。
フロエは板の角度を思い出せない。工匠は斜の角を言語化できず、封糸の女は「黙らせたい音」の選別基準を落とした。
——名を奪いに来ている。
「名は刃にもなるが、座に置けば床だ」
俺は掌に押し跡を刻むよう、空をなぞった。
縦(浮き受け)/三角(三点)/波(泡返り)/矢印(沈み抜き)/点(半拍)。
指先の動きに返りはない。それでも、俺だけは思い出せる。
アリアが震える声で続けた。
「縦……三角……波……矢印……点……」
声は届かない。だが、口の形がみんなの口を同じ形にした。
4 座の芯
座は「落ち着く姿勢」ではなかった。
ここでは、落ち続けないための仕事だった。
俺は胸骨の裏に形だけの拍を置く—返りを求めない、ただの位置合わせとして。
フロエは柄板をひざの下に差し込み、板の重さだけで支点を作る。
工匠は杭を握ったまま、握力の微かな震えを自分の針に見立てる。
ミラは指先を一つの輪にし続け、いつでもほどける構えだけを保つ。
封糸の女は視界の端へ薄い縁取りを置く。黙らせるのでなく、輪郭を与える沈黙。
アリアは吐きを、音のない合図に変えた。吸わない。吐く。次も吐く。——拍がつながる。
セレスティアの座は低かった。
彼女は剣を鞘ごと胸に当て、刀身ではなく鞘の面で座を支えた。
刃でなく、面。線でなく、床。
王都で学び、外で稽古し、灰の宮殿で証明したことの極が、そこで形になった。
5 裂け目の叫び
突然、裂け目の向こうが声を持った。
それは音ではない。だが「意味の圧」で押し寄せる。
名を捨てろ。
縫い目を捨てろ。
座を捨てろ。
身体に返りがないから、恐怖は直撃する。
膝から力が抜け、視界の縁取りがほどけ、口の形が崩れる。
「半拍!」
セレスティアの口が点を描いた。
俺たちは一斉に待った。
ただ一つ、待つという行為だけは、無でもできる。
待てば、次を選べる。
「次」
アリアが吐いた。
「浮き受け」
工匠の握力がわずかに軽くなる。重みを宙に預ける。
「三点」
フロエの板、ミラの輪、封糸の縁取りが同時に位置を持つ。
「泡返り」
意味の圧の軽い層を薄く受け、重い層へ渡す。
「沈み抜き」
胸を空にし、膝の角度だけで戻る。
——名が床になった。
6 無境の住人
裂け目の縁に、色のない人影が立っていた。
彼らはすでに座っている。返りはないが、座りの形がはっきりある。
その中に、一つ見覚えのある「癖」が走った。
——三歩目だけ深く踏む。
灰の縫い手の男だ。覆面はない。顔の色はないが、癖がある。
彼は膝で一度、点を打った。
半拍の「待て」が、無境のこちら側にも形を作った。
言葉はいらなかった。
俺たちは輪を少し広げ、彼の座を迎え入れた。
7 座の合流
輪は二重になった。
内側に俺たち。外側に無境の座。
返りはない。だが、二つの座が同じ手順で並ぶと、裂け目の縁がわずかに厚みを帯びた。
「……縫える」
フロエが板の角で、見えない床に弱いンを刺す。
ミラの輪がほどけながら外の座へ渡り、工匠の握力が斜を受け替える。
封糸の女は縁取りの沈黙で、二つの座の境を可視化した。
アリアは吐きの合図を重ね、セレスティアは鞘の面で座の床を撫で続ける。
——裂け目が、縫い目に変わる。
8 名の最小単位
この場で使える名は、最小に限られた。
刃ではなく床、声ではなく口の形、音ではなく手順。
俺たちは各自「自分の最小の名」を確かめた。
俺:砂時計の形(落ちるという事実)。
アリア:吐き。
フロエ:板の角。
工匠:握力の震え。
ミラ:ほどけの予感。
封糸の女:視界の縁。
セレスティア:鞘の面。
最小の名は、刃になり得ない。
だからこそ、床になれる。
9 座の証明(無音)
裂け目は最後の抵抗を見せた。
ここには返りがない。お前たちは証明できない。
俺たちは頷いた。
——返りは要らない。
証明は、座り続けた時間そのものだ。
半拍、待つ。
縦、置く。
三角、揃える。
波、渡す。
矢印、抜く。
点、待つ。
——返りは無いのに、続いた。
続くことができた。
それ自体が、ここでも座は成立するという証だった。
10 裂け目が縫い目になる瞬間
無境の住人たちの輪が、さらに広がった。
彼らの座は色を持たない。
だが、座の順序は色に依らない。
順序が重なった場所——そこに、見えない横糸が一本通った。
工匠が息を呑む。
杭は使えない。けれど、斜は見える。
フロエの板が、空のはずの床で止まる。
ミラの輪が、解けたまま形を持つ。
封糸の女の縁取りが、輪郭をはっきりさせる。
アリアの吐きが、誰かの吐きに重なる。
セレスティアの鞘の面が、床の目を撫でる。
俺の砂時計が、再び重みを持った。
——返りが、一粒だけ戻った。
その瞬間、裂け目はたわみ、狭い縫い目へと縮んだ。
完全に塞がりはしない。だが、渡れる。
座を失わずに。
11 無音の合図
誰も歓声を上げなかった。上げられなかった。
だが、全員が口の形で笑った。
アリアが吐き、点を置く。
俺は砂時計を返す。
粒は音を取り戻しはじめていた。
セレスティアは膝を立て、立ち上がる前の一拍を場に残した。
「やり足りないで終える」
彼女の口がそう形を作った。
「次の線が、次を呼ぶ」
12 帰り路の背
無境の輪が一つ、こちら側へ残った。
灰の縫い手の男がその中にいる。
彼は覆面をせず、目は色を持たないが、癖は残っている。
——三歩目を、深く踏む。
彼は膝で点を置き、半拍待ってから立った。
俺たちも立つ。
帰るためではない。縫い続けるために。
裂け目は縫い目になったばかりだ。
見えるから、またほつれる。
ほつれれば、また座って縫えばいい。
俺は砂時計を胸に抱えた。
音が、完全ではないが戻る。
胸骨が、薄いが確かな厚みを得る。
王都へ。
氷布へ。
海へ。
灰の宮殿へ。
——そして、いつか再び無境へ。
やり足りないで終える。
だから、続けられる。
針は両刃。
切れて、縫える。
座れば、渡れる。
第一大弧 完
最弱スキルで追放されたけど、実は世界唯一の最強能力でした 妙原奇天/KITEN Myohara @okitashizuka_
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