第四十話「名もなき地、奪われる拍」

1 地図にない陸


 南へ五日。潮風の匂いが薄れたとき、視界に灰色の陸が現れた。

 海と空の境目に、ぼやけた影のように広がっている。近づくにつれて、地面は割れた石板のように見え、草木の影は一切なかった。


 「……ここが名もなき地」

 フロエが低く言った。

 耳に届くはずの音が、届かない。

 波も風も、人の声さえも、この土地に踏み込むと同時に吸われる。


 俺は砂時計を返した。

 だが、粒の落ちる音が聞こえない。胸骨の裏に響かない。

 「……拍が奪われてる」


2 沈黙の荒野


 歩くと、足音が地面に沈み込んで消えた。

 杭を打っても鳴らない。柄板を叩いても響かない。

 ミラの糸も、アリアの息も、封糸の女の沈黙すら効果を持たない。

 「沈黙が……沈黙に飲まれる」

 封糸の女の顔から血の気が引いた。


 セレスティアは立ち止まり、剣に触れた。

 「受けも縫い目も、すべて奪われる土地。ここで試されるのは——中に持った拍だ」


3 仲間の揺らぎ


 奪われた土地は、人の心にも食い込んだ。

 工匠の手から杭が滑り落ちた。

 「……俺の杭も、音を持たないなら、意味がない」

 アリアが膝を抱え、囁いた。

 「呼吸をしても、胸に返らない。波に合わせられない」

 フロエは柄板を見つめ、唇を噛んだ。

 「裏打ちが返らない。俺は何を裏打つんだ」


 彼らの言葉は荒野に沈み、響かずに消えた。

 拍を奪う土地は、やがて心の支えまで奪っていく。


4 残された名


 俺は砂時計を胸に抱いた。

 落ちる粒は確かにそこにある。音は消されても、形は残っている。

 「拍は奪われても、名は奪えない」


 昨日、灯台で子どもたちに渡した言葉が蘇る。

 浮き受け。三点の受け。泡返り。沈み癖の抜き。雨の半拍。

 その名を口にすると、胸の内側にかすかな熱が残る。


 「……名を唱えろ」

 俺は仲間たちに呼びかけた。

 「外に返らなくてもいい。中に返せ。名は縫い目だ。布がなくても、心を縫える」


5 内返りの稽古


 アリアが最初に応じた。

 「——浮き受け」

 声は荒野に吸われたが、彼女の胸はふっと軽くなった。

 次にフロエが「三点の受け」と囁き、足と手と背を同時に沈める。

 工匠は杭を握り、「沈み癖の抜き」と低く言った。

 ミラは糸を結び、「泡返り」と笑みをつけた。

 封糸の女は札を両手で裂き、「雨の半拍」と吐いた。


 言葉は荒野に消えたが、俺たちの身体の内側に返った。

 拍は奪われても、返りは中に残る。


6 灰の縫い手の真意


 そのとき、荒野の中央に灰の外套が現れた。

 「ここが我らの場だ」

 布で覆われた顔が、無表情に告げる。

 「拍を奪えば、人は均一になる。争いも混乱もない。ただ静かに沈むだけ」


 セレスティアが剣を抜かずに答える。

 「沈黙は平和ではない。死だ」


 「だが、名を持つ者は裂け合う。縫い目を見せれば争う。ならば、すべて奪えばいい」


 俺は砂時計を掲げた。

 音はない。だが、粒は確かに落ちている。

 「奪われても、残るものがある。奪われたと知る感覚だ」


7 縫い目を返す


 俺たちは円を組み、それぞれに名を唱えた。

 浮き受け。三点の受け。泡返り。沈み癖の抜き。雨の半拍。

 言葉は消える。だが、姿勢が揃い、呼吸が揃った。

 奪われた土地に、初めて「見える縫い目」が浮かんだ。


 灰の男が一歩退いた。

 「……拍がなくても、縫えるのか」


 「縫える」俺は答えた。

 「外でも、内でも。見える縫い目さえあれば、人は倒れない」


8 誓いの刻印


 グラールが最後の力で押し跡を残した。

 荒野の石に、深い線が五つ刻まれる。

 字ではない。

 浮き受け、三点、泡返り、沈み抜き、雨の半拍。

 五つの跡は荒野に響かなくても、触れれば伝わる縫い目になった。


 セレスティアが剣を納め、宣言した。

 「ここに誓う。名もなき地も布の一部とする。奪われた拍を、縫い目で返す」


9 クライマックスの余韻


 灰の男は沈黙したまま荒野の奥へ消えた。

 奪われた拍は戻らない。だが、奪われた跡に縫い目が残った。

 荒野に初めて、布の端が置かれた。


 俺は砂時計を返した。

 音はない。だが、胸骨の裏に確かに返りがあった。

 ——やり足りないで終える。

 次の線が、次を呼ぶ。


——第二部完。

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