第三十四話「灰の縫い手との盟約」
1 風下の宿で
砂の夜は、焚き火の輪郭まで削っていく。
火は確かに温かいのに、炎の縁は細っていて、ふっと息を吹けば消えてしまいそうだった。
「……押し跡の掲示、明日には半分は消えるね」
グラールが紙屋の女からもらった文字油の瓶を両手で包みながら言う。彼の指先は紙を触ってきた者のそれで、節が低く、感触に敏い。
「消えるのは悪いことじゃない」
封糸の女が静かに続ける。「消えても、触れた手の中に残るものがある。返りは、人の内部へ移る」
俺は砂時計を返し、落ちる粒の音を胸の裏で拾った。
返りはここにある。音そのものは砂に飲まれても、聴く側の身体で厚みになる。
セレスティアは焚き火越しに地平線を見た。
「明日、会おう。灰の縫い手に。逃げ続ける影ではない。境界を凍らせるという思想そのものに、言葉で向き合う」
その声は、刃を抜かない戦いの合図だった。
2 砂上の会談
朝、風の筋が弱まる刻を狙って、俺たちは砂丘の鞍部に「場」を敷いた。
工匠が境杭を八本。フロエが柄板で二重拍を足下に。アリアは塩鈴を舌の奥で二度鳴らし、ミラは青糸でほどけやすい輪を一つ置いた。封糸の女は薄く裂いた沈黙を風上と風下に流し、グラールは白紙に押し跡だけを刻む。
「呼ぶよ」
セレスティアが言い、そして呼ばなかった。代わりに座った。王都で学んだ稽古そのままに、先に受ける座を選ぶ。
砂丘の稜線に影が差す。
布を巻いた灰の旅装。顔の下半分は覆面で隠され、立ち方は風に沿う。前回と同じ男かどうかは、足の開きでわかる。重心の置き場が、少しだけ右に寄っている。癖だ。
「来たね」
セレスティアは立たない。影を見上げるのではなく、座した視線で迎える。
男は砂を一握り、指の間から落とした。
「境を縫う、と言った。見せに来たか」
俺は頷き、砂時計を返した。
「見える縫い目を。隠す縫い目は裂ける」
男の目が少しだけ細くなった。
「秩序は均一から生まれる。境を凍らせれば、争いは減る。——おまえたちの歌は、布の内側に留めておけ」
「均一は速い照り返しだ」
アリアが口を開く。「照りは眩しくて、励ましてくれる。でも、遅い返りがない照りは、すぐに人を焼く」
「遅さは怠惰だ」
「違う」
フロエが短く遮った。「怠惰は倒れ。遅さは受けだ」
灰の男は答えず、視線を俺に移した。
「観測士。おまえの針は何を縫う」
「人のやり損ねを、次の線につなげる」
祖父の余白が背中を押す。やり足りないで終えろ。次の線が、次を呼ぶ。
3 裂き目の実験
言葉の応酬だけでは、砂は納得しない。
工匠がひとつ提案した。
「裂き目を作ろう。境の真ん中に。で、どちらがどう縫うと持つか、砂に聞く」
砂丘を横切るように、浅い溝を刻む。
右側に塩の都の白砂、左側に舟街から持ち帰った黒い砂。混ぜれば早いが、あえて混ぜない。
「ここが、境」
ミラが青糸を二重に結び、ほどけやすい輪を溝に跨らせる。
「どう縫う?」と灰の男。
「まず、隠す縫い目」
灰の男は身を屈め、砂表面を掌で撫でて平らにした。境は見えなくなり、均一な砂原だけが残る。
風が来る。
最初の一陣は美しい表面を滑る。だが二陣、三陣と重なるうち、隠された溝の境で微細な渦が起こり、砂が線でえぐられていく。
「裂ける」
フロエが言い、柄板で弱いンを置くが、応答は薄い。隠した縫い目は受けを取れない。
「次は、見せる縫い目」
俺は青糸の輪を溝に沿わせ、あえて段差を作る。境杭を等間隔で打ち、押し跡で「ここが境」と触れてわかるようにする。
風が来る。
段差は風の力を散らし、杭は返りの芯になり、押し跡の溝は渦を受けて遅く返す。砂は線ではなく、帯で削れる。
帯は削れても、広く、ゆっくり。倒れにくい。
「隠すと裂け、見せると鈍る」
セレスティアが総括した。「鈍りは街にとって稽古の時間だ」
灰の男は指先についた砂を見つめた。
「……鈍らせることを、よしとするのか」
「鈍りを熟れに変える」
俺は笑ってみせた。「第一部で学んだだろう?」
4 盟約の条件
灰の男は、ようやく座った。砂に尻を落とす、その動作は慎重で、でもにわか仕込みではない。受けの型を、知っている。
「おまえたちの『外の歌』を、全面的には認めない」
「予想通り」
セレスティアが薄く笑う。受けの型は、交渉でも同じだ。
「条件を出す」
灰の男は指を一本立てた。
「ひとつ。境での掲示は押し跡か白に限る。字を使うなら、二拍吸ってから読ませろ。風は字を奪う。奪われた字は憎しみを生む」
グラールが頷く。「押し跡と白なら、受けの床になる。字は間がないと刃にもなる」
「ふたつ。橋は上に架けろ。地表に急ぎを置くな」
アリアが塩鈴を鳴らさず振り、胸に辛みを落とした。「了解。急ぎは目線の上へ。足元は遅さで守る」
「みっつ。境での裁きは止まるから始めろ。倒れた者に罰金を貼るな。踏止の場を先に置け」
セレスティアは短く答える。「同意。止まってから判断する」
「よっつ」
男は少し躊躇してから、言葉を置いた。
「灰の縫い手を、敵の名前として掲示するな。名が均一を呼ぶ。人は名で縫えるが、名で裂けもする」
俺は砂時計を返し、落ちる粒の音を聞いた。
名は便利だ。けれど、名を立てると照りが生まれ、照りは短気を呼ぶ。
「——わかった。思想として扱う。人を名で括らない」
男は最後に、こちらへ条件を求めた。
「逆に、おまえたちの条件は」
セレスティアは目を伏せ、数拍の沈黙を置いた。
「ひとつ。見える縫い目を壊さないこと。境の段差や杭や押し跡を、均一の名のもとに平らにしない。
ふたつ。『外歌禁制』の掲示に注を足すこと。『一拍吸ってから読め』の注でいい。
みっつ。『均一』の布告に止まる場を併記すること。人が倒れずに守れる場所を最初に示せ。
よっつ。内の歌が外へ流れること、外の歌が内へ届くこと、それぞれの迂回路を潰さないこと」
男は長い沈黙を返した。風が砂粒を運び、沈黙の輪郭だけが場に残る。
やがて、彼は頷いた。
「……盟としよう」
覆面の下で、微かに息がほどける気配があった。
5 盟の儀
儀式は簡素でいい、と彼は言った。
「境での約束は、境でほどけやすいほどいい。固く結べば、折れる」
ミラが青糸を差し出し、二重のほどけで輪を作る。
アリアが塩鈴を輪に通し、舌の奥で一度だけ辛みを受ける。
フロエが柄板で弱いンを足下に散らし、工匠が境杭を一本だけ中央に打つ。
封糸の女は沈黙を人の頭上に一枚、薄く置いた。
グラールは白紙に押し跡で、ただ一行。
> 『止まってから、読む』
セレスティアと灰の男は、それぞれ輪の端を指でつまみ、わざと少し緩めた。
「ほどけたときは、また結ぶ」
男が言い、セレスティアが答える。
「結べなくなったときは、座る」
盟の儀は、それで充分だった。砂は儀式を嫌う。だが、返りは覚える。
6 影の素顔
解散——になる前に、俺は呼び止めた。
「一つだけ、聞かせてくれ。おまえの癖を」
灰の男は微かに肩を揺らした。笑ったのかもしれない。
「歩くとき、三歩目だけ、少し深く踏む。風の向きを測る癖だ」
「ありがとう」
癖を知れば、たぶん次に会うとき、互いの座り方が早くなる。
男は稜線を越え、風の向こうに消えた。
セレスティアが息を吐く。
「名を交わさず、癖を交わす。外のやり方だな」
「内でも、そうであっていい」
俺は砂時計を握り直した。王都の織図に、今の盟をどう織り込むか。それが次の仕事だ。
7 押し跡の書簡
日暮れまでに、押し跡の掲示を三枚、残した。
ひとつは、塩鈴の盟を知らせる触れる書簡。
ひとつは、舟街の子らに向けた上を見上げる合図。
ひとつは、王都の掲示官への第三形態の試作図。
グラールが最後の押し跡に文字油を薄く刷く。
「読むためでなく、思い出すために置く」
彼の声は震えていなかった。砂漠でも、掲示官でいられる方法を見つけたからだ。
アリアが笛を拭き、ミラが糸を巻き、工匠が杭を数え、フロエが柄板の角を紙やすりで整え、封糸の女は割れを数え、セレスティアは刃を鞘に戻す。
俺は砂時計を返した。落ちる粒は、もう恐ろしくはない。ここに場がある。
8 次の境
夜風が、別の匂いを運んだ。鉄と潮の混じった、冷えた匂い。
「……線路だ」
工匠が顔を上げる。「北の塩の都からさらに北、鉄の町が伸ばしてるって噂を聞いた」
鉄の拍は、速さを呼ぶ。俺たちの遅鈍は、どう受けるべきだろう。
セレスティアが立ち上がる。
「次は鉄路の境。走る拍の受け方を、王都に持ち帰る」
彼女の声は静かで、しかし確かだった。
焚き火の火は、もう細くなかった。
炎の縁はぶ厚く、砂に舐められても、ゆっくりと戻ってきた。
やり足りないで終える。次の線が、次を呼ぶ。
針は両刃。
だからこそ、切れて、縫える。
境を裂かずに、見える縫い目として残すために。
――第三十五話「鉄路の拍、走るものの受け方」へ続く。
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