第三十三話「写本砂漠の押し跡」

1 砂に刻まれる文字


 塩鈴の盟を結んだ翌日、俺たちは東へ向かった。

 峡谷を抜けると、大地は乾いて割れ、風が砂の粒を絶え間なく運んでいる。

 その砂には、細い線が刻まれていた。まるで無数の筆が同時に走ったように、文様が走り去っていく。

 近づいて読むと、一瞬は文字に見える。だが、次の風がそれを剥ぎ取ってしまう。


 「これが……写本砂漠」

 グラールが目を凝らし、蒼ざめた。

 「書いても、残らない。記せば消える地だ」


 彼にとって、それは悪夢だった。

 掲示官としての存在理由——書き記して残すこと——が、この砂では通用しない。


2 紙屋の女


 砂丘の影に小屋があった。油紙を重ねて補強された、風除けの仮住まいだ。

 そこに女がひとり、紙を直していた。指先を油で濡らし、破れを撫でている。

 「字は残らない。けど、押した跡は残る」

 女は俺たちを見て、封糸の女に視線を移した。

 「その沈黙札を、砂に貼ってごらん」


 封糸の女が静かに砂へ札を落とす。

 すると風が止まり、砂の波が一瞬だけ平らになった。

 「……字は読めない。でも、跡は確かに残ってる」


 紙屋の女は頷いた。

 「ここで必要なのは“読む”力じゃない。触れて感じる跡を受け取る力だ」


3 押し跡の稽古


 アリアが笛を吹こうとした。だが、音は砂に吸われる。

 そこで彼女は笛を握りしめ、管の表面に強く指を押しつけた。

 ——笛に小さな窪みが残る。

 「これが“押し跡”」アリアが囁く。「音じゃなく、震えの跡を残す」


 フロエは柄板を砂に叩きつけた。音は消えたが、砂に円形の凹みが残る。

 工匠は境杭を打ち込み、砂をえぐった。杭を抜いても、斜の跡が残る。

 ミラは青い結びを砂に押しつけ、糸の形を転写させた。

 封糸の女は沈黙札を裂き、砂に重ねて置いた。札は風に散っても、沈黙の層が砂に薄く残った。


 「書けなくても、残せる」

 グラールの目が潤んだ。「ならば、掲示も……押して伝えることができる」


4 押し跡の掲示


 俺たちは試みに、広場の砂に「押し跡掲示」を作った。

 グラールが筆の穂を強く握り、墨ではなく圧で紙に線を刻む。

 墨は風に剥がされるが、筆圧の跡は残る。

 そこに文字油を塗ると、触れた指にわずかな熱が伝わった。


 子どもが恐る恐る指でなぞる。

 「……読める。目じゃなく、手で」


 「これが……掲示の第三形態」

 グラールは嗚咽混じりに言った。

 「字、白、そして跡」


5 灰の縫い手の影


 そのとき、砂丘の上に人影が立った。

 顔を布で覆い、灰色の外套をまとっている。

 「外の歌を砂に刻むとは、愚かなことだ」

 声は乾いていた。


 セレスティアが導線を構えた。

 「またおまえたちか……灰の縫い手」


 男は砂を掬い、風に放った。線は瞬時に散った。

 「散ったものは戻らない。押し跡も、風が削れば消える」


 俺は砂時計を返した。

 砂の落ちる粒は消えるように見える。だが、器の底に溜まり続けている。

 「散っても残るものがある。返りだ」


 工匠が境杭を打ち、フロエが柄板を踏み、アリアが笛を握りしめ、ミラが結びを残し、封糸の女が沈黙を置き、グラールが押し跡を掲げた。

 砂の表面に——消えない凹みが現れた。


 灰の縫い手はしばらく沈黙し、やがて背を向けた。

 「境を縫うというなら、せいぜい織ってみろ。……境界は凍るのが秩序だ」

 影は砂に溶けて消えた。


6 押し跡の未来


 夜、焚火を囲んでグラールが言った。

 「今日から俺の掲示は、字だけじゃない。白だけでもない。押し跡を加える」


 王都に持ち帰れば、人は目で読む掲示と手で読む掲示を同時に持てる。

 光を失っても、風に削られても、跡は残る。


 俺は砂時計を返し、粒の落ちた器の底を見た。

 確かに、そこには跡が残っていた。


次回、第三十四話「灰の縫い手との盟約」。

写本砂漠で見えた「押し跡」の技を巡り、灰の縫い手と正面から議論し、境界の思想が衝突することになる。

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