第二十四話「縛布の手、二重のほどけ」

1 夜の宣告


 黒い紙は、灰でも白でもなかった。墨ではなく煤で書かれているのか、指で触れるとざらつきが残った。

 > 「縫布を破る癖を、縫い込んで返す。

 > ——縛布(ばくふ)」


 縫うのではない。縛る。

 俺たちが人の癖を盾に変えた、その柔らかさを今度は固定して封じるつもりらしい。


 砂時計を返す。砂は落ちる。だが縛布は、落ちる砂を固めて一粒にするような仕組みを仕掛けてくるだろう。

 祖父の余白が脳裏でめくれる。

 〈癖は一人。逃げ道は二つ。〉


2 二重のほどけ


 「二重結びを稽古にしよう」

 ミラが青い糸束を掲げた。

 「一度ほどけても、もう一度ほどける。二重のほどけ」


 フロエは柄板に二重拍を刻む。

 「タ…ン。その裏に、弱い“ン”。聞こえにくいが、確かにある。二段の返りだ」


 工匠は踏み板の溝を二段に刻む。

 「表が塞がれても、裏が滑る。二重の逃げ道」


 アリアは笛を吹き、無音を二重にした。

 「吸って、さらに吸う。吐いて、さらに吐く。二重の無音」


 封糸の女は木札を二枚重ね、沈黙を二段に割った。

 「片方が破れても、もう片方が残る」


 グラールは掲示に空白を二段重ねた。

 「書かない余白を、さらに書かない余白で挟む」


 王は膝を折り、立ち、再び膝を折った。

 「受けを二度選ぶ。一度で倒れても、二度目で立つ」


3 縛布の第一波


 朝、広場の角で異様な光景が広がった。

 人々が同じ癖を強制されていたのだ。

 全員が同じ角度で頷き、同じ拍で咳払いし、同じ調子で歩く。癖が均一に縛られている。


 「これが……縛布」

 セレスティアが剣を握る。


 俺は砂時計を返し、銀線を観測に走らせる。

 均一な癖は、遅れない。

 遅れがなければ、人ではない。


 アリアが無音の二重音を置いた。

 人々の胸に、ずれが生じる。

 ひとりが一拍遅れ、もうひとりが半拍先に走った。


 ミラが青い結びを二重に結び直す。

 「ほどけて、さらにほどけて」

 縛られた癖が、二重の逃げ道を見つけて揺らいだ。


 フロエの柄板が二段の拍を打つ。

 工匠の踏み板が二重の滑りを作る。

 封糸の女が二枚重ねの沈黙を放つ。


 ——縛布の縛りは、完全ではなかった。

 人は均一を強制されると、必ず苦しむ。

 その苦しみが「二重のほどけ」に触れたとき、縛布の鎖は自壊を始めた。


4 縛布の反撃


 昼過ぎ、縛布は狡猾さを増した。

 街の人の本物の癖を盗み、固定し始めたのだ。


 市場では、パン屋の老婆が「笑い皺」を無理やり固定され、笑えなくなった。

 工房では、大工の若者が「節を撫でる手癖」を拘束され、木に触れられなくなった。

 学舎では、子どもが「かかとを鳴らす癖」を縛られ、立つことを怖がり始めた。


 「……これが本当の狙いか」

 俺は唇を噛む。

 癖そのものを殺す。人の柄を、均一な型に落とす。


 だが、王が立ち上がり言った。

 「ならば、癖を二重に持てばよい」


5 二重の稽古


 王は人々の前に座った。

 「膝を折る癖が縛られたなら、足首を揺らせ」

 「声を奪われたなら、指で拍を打て」

 「笑い皺を固められたなら、眉を上下に動かせ」


 ひとつの癖が縛られても、もうひとつの癖で生きる。

 街の人々が、ぎこちなく、しかし確かに「二重の癖」を始めた。

 子どもたちは手を叩き、足を揺らし、目を瞬かせて笑う。

 老婆は唇を結んだまま、肩を震わせて笑い皺をほどいた。

 若者は木に触れず、木の影に触れて節を感じた。


 セレスティアが導線を引き直し、フロエが裏打ちを二重に、工匠が板を二重に、アリアが笛を二重に、ミラが結びを二重に、封糸の女が沈黙を二重に、グラールが余白を二重に。

 王はひざまずき、立ち、座り、立ち、再びひざまずいた。


 縛布の影は、二重のほどけに耐えきれず、裂けた。


6 次の宣告


 夜。風が新たな紙を運んだ。

 > 「ほどけを重ねても、いずれ尽きる。

 > 癖を癖で縛る。

 > ——枷布(かふ)」


 縛布を超え、さらに進化した。

 「……癖そのものを枷に変える気だ」

 俺は砂時計を返し、落ちる音を胸に刻む。


 祖父の余白がまたひとつ、めくれた。

 〈枷は人を止める。だが、止まれば見える景色がある〉


 次の稽古は、止まることそのものだ。

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