第二十五話「枷布の鎖、止まる景色」

 止まれ。

 ——紙は、たった二字で街の呼吸を掴んだ。

 > 「ほどけは尽きる。癖を癖で縛る。——枷布(かふ)。」


 煤の黒は朝の薄闇に溶け、掲示板の白に滲む。俺は砂時計を返し、胸骨の裏で落ちる砂の一定を聞いた。一定は、安心であり、罠でもある。止まることの気持ちよさは、縛る者の一番の餌になる。


 祖父の余白が脳裏でめくれる。

 〈枷は人を止める。だが、止まれば見える景色がある〉

 止まることを“負け”にしない——それが、今日の稽古の核になる。


 セレスティアはすでに立っていた。鎧は外し、導線を描く指だけが静かに動く。アリアは笛を腰に差し、無音の二拍を指先に畳み、ミラは青い糸束を二重に抱えている。フロエの柄板には昨夜刻んだ二重拍(タ…ン+弱いン)、工匠は二段溝の踏み板を荷車に括り、封糸の女は重ね割りの沈黙札を数え、グラールは見出しの白紙を胸に押し当てていた。


 王は広場の石に片膝を置き、低く言う。

 「止まる稽古を街に。止まっても折れないやり方を」


「承知」

 俺は答え、砂時計を返した。止まるは、未来返しに“倒れる”と誤読されやすい。そこをほどく注釈と拍がいる。


          ◇


1 枷はどこから来るのか


 最初の枷は、市場の真ん中で起きた。

 青果を並べる老婆が、ふと手を止めた。“ふと”のはずなのに、手首が石みたいに固まる。隣の若者は釣り銭袋の口を開けたまま、固まる。もう一人、荷車を押す男は半歩を踏み出した姿勢で、固まる。

 顔は動く。声も出る。だが、癖の動きだけが止められている。あの老婆は値をつけるとき、いつも親指で木箱の角をとん、と弾く癖があった。若者は釣り銭の前に小さく舌を鳴らす。荷車の男は半歩の“踏み直し”で腰を守る——それらが、全部、封じられている。


 「枷布だ」

 セレスティアが小声で告げる。

 俺は砂時計を返し、銀線で三人の癖の場所に印を付けた。止められた癖を“見える”ようにする——可視の稽古。

 アリアが無音の短・長を置く。

 ミラが老婆の箱の角に青い結びを二重に作り、若者の舌の動きに合わせて間札を口元の高さに掲げ、男の足元に二段溝の踏み板を差し込む。

 フロエの柄板が二重拍を低く打ち、封糸の女の重ね沈黙が上から蓋をする。

 老婆の親指が、遅れて箱を弾いた。

 若者の舌が、遅れて軽く鳴った。

 男の半歩が、遅れて腰を守った。

 止まった癖が、遅れて戻る。

 枷は、即時の優位しか持たない。遅い返りに弱い。


 工匠が頷く。「止めるなら、止まる。折らずに止まる型がいる」

 「名をつけよう」フロエが柄板に刻む。「踏止(とど)まり」

 倒れず、進まず、その場で受けを厚くする型。止まる景色を、みんなで見るための姿勢。


          ◇


2 踏止の布告と第一の誤読


 正午、グラールの見出しが掲げられた。

 > 『踏止——止まるのは負けではない』

 紙は厚く、白は深く、余白は広い。

 ——だが、偽の見出しもすぐ横に貼られる。

 > 『止まるな。動け。立て。走れ。』

 四行。短い命令。照り返す字。


 「誤読を先に縫い込んで来たか」

 俺は紙の端に青い結びを作り、注を添えた。

 > 『止まる=倒れる、ではない。

 >  止まる=受けを厚くする。

 >  一拍吸ってから読め。』

 アリアが遅鈴の二度打ちを塔に合図する。ン——カン。ン——カン。

 人々が遅れて息を吸う。

 命令の四行は、読む前に薄くなった。読むとは、呼吸だからだ。


 そのとき、広場の端で誰かが倒れた。

 ——最悪の誤読。倒れると止まるの違いがまだ身体に落ちていない。

 セレスティアが導線を開き、ミラがほどけの縄を敷き、工匠が斜の板で転落の角を逸らす。

 俺は倒れた男の癖の場所を見る。膝が内。踏み出す時に内に寄る癖。

 「踏止の置き場を膝の外に」

 フロエが二重拍を膝の外で打ち、アリアが無音の吐きを膝の横に置く。

 男は止まった。倒れずに。

 「……止まってて、いいのか」

 その独り言は、遅れて広場に広がった。


          ◇


3 癖帳の流出


 午後、グラールが血の気の引いた顔で駆けてきた。

 「癖帳の一部が、外へ——」

 机の上で話した“守秘の帳”。王や仲間、そして街の人たちの癖の覚え。書かない工夫も重ねたが、現場でメモした仮の控えが盗まれた。

 内通者か。

 セレスティアの視線が冷たく鋭くなり、工匠は舌打ちを噛み殺し、アリアは笛を握る手に力を込め、ミラが顔色を失い、封糸の女は目を閉じて沈黙を落とした。

 俺は砂時計を返し、息を整える。焦りは速い。受けは遅い。

 「どの控えが出た?」

 「西の女王と、若い大工と、掲示官補。……そして」

 グラールが視線を逸らした。

 「私の筆癖のページだ」

 彼自身の癖。厚い字を生む穂先の開き、遅れる返りを生む押しの角度——それらが、敵の手に。


 「最初に止まろう」

 セレスティアが言った。「追いは刃を呼ぶ。先に踏止」

 広場の隅、石の影で俺たちは止まった。

 止まると、見える。

 走っていると見えない筋が、遅い返りの厚みの上に浮かび上がる。


 封糸の女が目を開けた。

 「内の沈黙に、外の糸が繋がっている。補佐の誰か。掲示の運びに触れる者」

 グラールが苦い顔をする。「……補佐官ズィークだ。早打ちが得意で、筆を洗う水をいつも先に用意してくれる」

 “善意の速さ”。最も掴みにくい糸。

 セレスティアが頷いた。「捕らえない。止める」

 捕縛ではなく踏止で迎える。縛布に“縛り返す”のは、相手の土俵だ。


          ◇


4 内通者の鎖


 ズィークは、夕刻の掲示替えに現れた。いつもどおり、先回りして釘と槌を握っている。

 「グラール様、見出しの交換は——」

 「一拍吸ってから」

 グラールの声は低く、厚い。

 ズィークの肩がわずかに揺れた。速い仕事に遅鈍の楔を打たれる怖さが、目に滲む。

 俺は砂時計を返し、ズィークの癖を見る。釘を持つ親指の腹を、人目があるときだけ正面に向ける癖。人の評価を気にするときに出る“正しさ”だ。

 アリアが無音を置く。ミラが青い結びを槌の柄に小さく二重。工匠が足元の斜を半足だけ変え、フロエが弱いンを背中に当てる。

 ズィークは止まった。

 倒れず、走らず。止まるしかない位置に、俺たちは導いた。

 「仕事が早いことは罪じゃない」セレスティアが静かに言う。「だが速さが忠誠を隠すための布になるとき、あなたは誰のために速い?」

 ズィークの喉が上下し、釘がわずかに鳴った。

 「……街のために」

 「なら止まれ」

 セレスティアの一言は短く、厚かった。

 封糸の女の沈黙が、彼の周囲の照りを吸う。

 ズィークの目が、遅れて潤んだ。

 「脅されていました。灰(はい)に。『遅い掲示は偽だ』と……。速さでしか自分の価値を示せないと思って……」

 「示しただろう」グラールが言葉を置く。「止まれたじゃないか」

 ズィークが泣き笑いになった。遅れて、泣きが笑いに混じる。

 「控えはどこに」

「北の物置。紙束の間に黒い紐」

 セレスティアが頷き、導線を引く。「奪い返すのではない。止めて取りに行く。急がない」


          ◇


5 止まる景色


 北の物置は、斜陽の埃が綿毛みたいに漂っていた。

 黒い紐で綴じられた紙束。そこに癖帳の控え。俺は触れず、先に砂時計を返す。止まる。

 封糸の女が沈黙札を紙の影に滑り込ませ、アリアが無音の短・長・短を置く。フロエの弱いンが床板に沈み、ミラの青い二重結びが紐に触れる。

 ——鳴った。

 紙そのものが持つ照りの癖。誰かが写した字は、速く返る。本物の遅い返りは、墨に重さがある。

 「偽の控えだな」

 工匠が鼻を鳴らす。「紙質も薄い。長持ちしねえ」

 ズィークが震える指で別の束を指した。「こっちは本物。……返してください」

 「返すんじゃない」セレスティアが言う。「置き直す。止まって」

 俺たちはそこで踏止の型を取った。立ち止まり、呼吸し、受けを厚くする。

 たったそれだけで、物置という景色が変わる。

 棚の影が“待つ”形になり、埃は急がず、紙は焦らない。

 止まる景色は、奪還の場を“聖域”に変える。

 俺は癖帳の控えをゆっくり取り、青い二重結びで封じ、グラールに渡した。

 字は厚かった。

 彼の指が、遅れて震えた。


          ◇


6 枷布の総縛と踏止の陣


 夕刻、広場の四隅から一斉に“止まれ”の声が上がった。枷布の総縛。

 人々が一斉に止まる——均一な止まり方は、倒れに変わる。

 「——踏止陣!」

 セレスティアが号令をかけ、導線を円に組む。一点集中ではなく、輪で受ける。

 アリアが遅鈴を四方へ二度打ちで回し、フロエが二重拍を環に刻む。

 工匠の二段溝帯板が円周に敷かれ、ミラの渡し縄(二重)が肩と肩をほどけやすく繋ぎ、封糸の女の重ね沈黙が上空を覆った。

 王は輪の中心で座った。立たずに、座る。

 「止まってていい」

 その布告は短く、厚い。

 人々は、まず座った。

 倒れは座に変わり、座はひざまずきに開き、ひざまずきは立ち上がりの稽古を呼ぶ。

 輪が、拍で息をする。

 止まる景色は、生きていた。

 枷布の鎖は、輪の呼吸に合わせて緩む。均一であるほど、輪に合わない。


 広場の空へ、灰の紙が最後の一枚、舞った。

 > 「止まる景色。美しい。

 >  だが、止まっている間に、奪う。」

 セレスティアが目を細める。「どこを」

 封糸の女が遠くを見た。

 「西の女王の庭。子の夜の癖を縛りに行く」

 夜泣き、寝返り、寝言——生きている癖の最小単位。そこを縛れば、街は朝に遅れを持てない。


          ◇


7 夜の庭、止まる寝息


 夜の孤児院。

 子どもたちの寝息が不揃いに重なり、板の軋みが遅い裏打ちになる。

 枷布は、ここでも均一を押し付けに来た。

 寝返りが同時になり、寝息が同じ高さになり、夜泣きが消える。

 ——それは、いちばん危ない沈黙だ。生の不揃いが奪われる。


 西の女王が、子のベッドの間を座って移動する。

「止まってていい。泣いてていい。起きてていい。寝てていい」

 アリアは笛を持たない。無音の子守を置く。

 フロエは柄板で極小の二重拍を、心臓より遅く刻む。

 工匠は床下の梁に二段の斜をあて、寝返りの逃げを作る。

 ミラは枕の四隅に青い二重結びを淡く触れ、封糸の女は天井に重ね沈黙を広げた。

 俺は砂時計を返し、落ちる砂の小さな一定を夜の拍に合わせる。

 止まる寝息が戻ってくる。

 夜泣きが遅れて起きる。

 泣きは悪じゃない。強い枷は泣きを嫌う。

 “生”が戻り、枷は緩む。


 そのとき——庭の隅で、黒い紐がひとりで動いた。

 枷布の“手”。

 セレスティアが抜かず、受けの姿勢で前に出る。

 「——止まれ」

 声は低い。厚い。

 紐は止まらない。

 アリアの無音三音。

 フロエの弱いン。

 封糸の女の重ね沈黙。

 ミラの青い二重結び。

 工匠の二段斜。

 紐は止まった。

 止まって——ほどけた。

 止まるはほどけの入口でもある。


          ◇


8 朝の前に


 孤児院から戻る道すがら、王都の屋根に薄い青が乗り始めた。

 王は広場の端で座り、半拍休み、立ち、ひざまずき、踏止を繰り返す。身体に止まる景色を縫い付けるように。

 グラールは掲示に最後の注を添えた。

 > 『止まれ。

 >  倒れる前に。

 >  奪われる前に。

>  止まって、見ろ。』

 字は、今日も厚い。

 ズィークはその横に空白を貼った。空白の注。書かないことでしか届かない意味がある。

 セレスティアが短く息を吐き、俺の肩を軽く叩いた。

 「止まったな」

 「止まれました」

 アリアが笑う。「“遅鈍の名手”って新しい称号、どう?」

 「誇りにする」

 ミラが青い糸を結ぶ。「ほどけやすく、二重で」

 封糸の女は頷くだけ。沈黙が同意の形をしていた。

 工匠は鼻を鳴らし、「明日は街路に踏止の斜を混ぜる。止まりやすい街って、いいぜ」

 フロエは柄板に今日の遅い返りの型を刻みながら、「倒れない止まり」という語を小さく彫り込んだ。


 風が、紙を運んだ。灰でも白でも黒でもない。藍。

 > 「止まる景色、見えたな。

 >  では——運ぶ景色は、どうだ?

>  運布(うんぷ)。

>  おまえたちの“遅い返り”ごと、運び去る。」

 運ぶ。

 止めたものを、丸ごと移す宣言。踏止を“その場”から外してしまえば、止まる景色は景色でなくなる。


 王は立ち上がり、ひとこと。

 「散る」

 それは、いつもの合図で、いつもの祈りで、止まるための“動き”だった。

 俺は砂時計を返し、青い糸を小さく、緩く、強く二重に結び直す。

 止まると運ぶ。

 相反するようでいて、両方が街の拍になる。

 針は両刃。

 止めて、縫い、そして、運用するために。


――第二十六話「運布の罠、拍を運ぶ者たち」へつづく。

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