第二十三話「縫布の影、癖の盾」

 夜の白紙に書かれた宣告は、灰の紙よりもなお、不気味だった。

 > 「偽布は照り返す。迅布は急かす。刃布は痛ませる。

 >  次は——縫布(ほうふ)。

 >  おまえたちの稽古を、まねて縫う。」


 “まねて縫う”。

 こちらが積み上げた稽古を、敵が丸ごと縫製して街へ返すという宣言だ。受けも、遅鈴も、間札も、曲線踏み板も、そして青い結びまでも。

 俺は砂時計を返し、落ちる砂の等間を胸に収める。均一は美しい。だが、均一は底を隠す。

 祖父の余白が脳裏でひらめく。

 〈縫い目が見えぬ仕立ては、既製。縫い目が見える仕立ては、身の丈。〉

 均一に縫った既製服は美しいが、人の癖がない。人の癖で縫った衣は、縫い目が表に出るが、呼吸が通る。

 ——なら、縫布への対抗は癖だ。個の歪み、遅れ、厚み、笑い、ため息。最小単位の人間にしか持てない“柄”。


 窓の外がわずかに明るむ前、セレスティアがいつもの無音の足取りで部屋に入ってきた。

 「王はひざまずく支度ができている。縫盾は街に散った。だが、敵は縫盾ごと写してくる」

 「写すなら、癖で崩します」

 「癖——?」

 アリアが目をこすりながらやってきて、俺の言葉に首を傾げる。

 「癖札(くせふだ)を作る。間札と似ているが、あれが“息のための白”なら、こっちは“人の歪みの印”だ」

 ミラが糸巻きを抱きしめる。「ほどけやすく?」

 「もちろん小さく、緩く、強く。貼る場所は人ごとに変える。膝の内側か、踵の外か、指の節か。同じ配り方はしない」

 フロエが柄板を叩いた。「裏打ちにも癖打ちを混ぜよう。タ(ちょい)・ン——半端な滲みを入れる。楽譜には書けない手汗の音だ」

 工匠が首をかしげ、やがて笑う。「踏み板の溝をわざとズラすか。木目の癖を残す。型板を一枚一枚、微妙に変える」

封糸の女は木札に指を滑らせ、「沈黙札も割れ癖をつける。同じ割れは二度と出ない」

 グラールが紙束を抱え、「掲示にも注を。『人の癖を尊ぶ』と書くのは下手だ、書かずに空白で示す」と独りごちた。

 セレスティアは短く頷き、「癖の盾(へきのたて)、通称“癖盾”。稽古として街に落とす。——王は人の癖にひざまずく」とまとめる。


          ◇


 朝。

 広場の空気は、昨夜の刃の匂いをまだ記憶している。だが、人の歩幅はもう「受け」を型に落とし始めていた。パン屋が扉を開ける癖、水売りが桶を肩へあげる癖、子どもが跳ねる癖。

 王が半拍の休みを置いてから広場に現れ、いつものように先にひざまずく。遅鈴は二度打ち、間札は風に揺れ、曲線踏み板は人の足に斜を教える。

 そこへ、縫布が来た。**“本物らしさ”**の塊となって。


 最初の波は、見本市だった。

 「縫盾講座! 本日無料!」

 広場の隅に、見目の良い若者が五人、見事すぎる笑顔で踏み板の前に立つ。手が綺麗すぎる。汚れがない。台本声。

 「まずは間札で一拍吸います! 吸って、吐いて、次に遅鈴を——」

 アリアがぽそりと呟く。「うますぎるは、怪しい」

 俺は砂時計を返し、彼らの返りを観る。速い。均一。歪みがない。

 ミラがそっと彼らの足元に近づき、青い結びをひとつ、地面に置く。ほどけやすさは、人の癖を呼ぶ。

 「吸うとき、肩が上がらない」

 ミラの小声に、俺は頷いた。本物は長年の癖が身体に残る。吸気の時、右肩だけ少し上がる人、吐く時に唇の左だけが崩れる人、膝の角度が微妙に内へ入る人——均一は、それを持てない。

 セレスティアが一歩だけ前へ出る。「おまえたちの師は誰だ」

 若者は笑顔のまま、均一に礼をした。

 「街の皆さまです」

 返答も整いすぎだ。

 アリアが笛に指を置き、無音で二音を置く。短・長。

 若者の呼吸は、音の“正しさ”に過剰に従った。短の吸気で肩が全員同じ高さで上がる。長の吐気で顎の線が全員同じ角度で緩む。

 ——同じは、嘘だ。

 工匠が踏み板の上に癖溝を滑り込ませる。木目の節を活かした、ほんの僅かなズレ。

 フロエが柄板で癖打ちを刻む。タ(指先汗)・ン(靴底の鳴り)。

 若者の膝が、わずかに迷う。均一は、癖に弱い。場の“個”に対応できない。

 封糸の女は木札の端を不揃いに割り、沈黙の欠けを空気に混ぜた。完全沈黙ではなく、人見知りの沈黙。

 若者の笑顔が、半拍遅れてぎこちなくなる。

 セレスティアはそこで初めて名乗る。

 「王都運用、導線の責——セレスティア。人の癖に礼を」

 若者は礼を保てず、視線が泳ぎ、笑顔が照り返すのをやめられなかった。

 広場の空気が、「これは見世物」と理解するのに、遅鈍な時間はかからなかった。遅さは悟りを呼ぶ。

 「帰っていい」

 セレスティアの言葉は短く、厚かった。

 五人は、均一の動きで踵を返し、風のように散った。人の癖を一枚も持たずに。


          ◇


 第二の波は、掲示だった。

 グラールが朝一で貼った「受けは、立ち上がりの稽古」の見出しの横に、そっくりな書式の紙が二枚、並んで現れる。

 > 『受けは遅鈍。立て、すぐに。』

 > 『ひざまずく者に罰金。』

 見出しの布目、縁の切り口、角の丸み——完璧に似せてある。

 グラールの眉間に、さすがに細い皺が寄った。「これは巧い」

 俺は紙に指を置き、返りを待つ。

 速い。

 「厚みがない。息で読んでない」

 アリアが間札を二枚、その下に貼る。白い札。一拍吸ってから読めの合図。

 ミラが青い結びを掲示板の裏に結ぶ。外から見えない癖。

 フロエが柄板で掲示板の背面を軽く打つ。タ・(間)・ン。

 人々は掲示の前で足を止め、遅れて息を吸った。

 読む。

 偽の見出しは、読まれない。照りは鑑賞だが、読書は呼吸だ。

 「罰金?」誰かが笑い、指で弾いた。紙は軽く跳ね、薄い音を立てる。

 グラールが黙って注を添える。

 > 『掲示は遅れて届く。

 >  急ぎの紙は、私でない。』

 字は今日も厚かった。人の癖が乗る字だ。お手本にはなりにくいが、読みたい字になる。


          ◇


 第三の波は、西の女王に向かった。

 孤児院の庭で、子どもたちが「縫盾ごっこ」をしている。座る→ひざまずく→半拍休む→立つ。笑い、転ぶ、立ち上がる。

 そこへ、女王の写しが現れた。昨日の偽布のときより、巧い。白い前掛け、低い声、よく通る喋り。足は揃えすぎていない。工夫したな。

 「ごらん、あたしは忙しいからね。罰金なんて馬鹿げてる。まず座りな」

 本物の言葉を混ぜるのが、いちばんタチが悪い。

 俺は砂時計を返し、女王の癖を観る。“本物”は、鍋の柄を持つとき、無意識に左の親指だけが少し白くなる。力の入れ方の癖だ。

 偽の女王は、柄を正しく握った。だが、親指は白くならない。正解に頼っていて、生の癖がない。

 「上、偽」

 俺が囁き、ミラが青い結びを鍋の柄に絡める。ほんの小さな結び。ほどけやすい結び。

 アリアが無音の二音。短・長。

 封糸の女は、偽の女王の喉の前に沈黙を置いた。

 偽の声が、半拍ほど高くなる。自分の喉に置いた沈黙の重さに慣れてない。

 本物の女王は、手を止めず、子の靴紐を結びながら低く言った。

 「あんた、忙しい“ふり”が巧いね」

 その声は厚かった。返りは遅い。

 偽の女王は笑いを作るが、遅い笑いに乗れない。

 「帰っといで。座ってから、おいで」

 本物の声に、子どもたちの笑いが遅れて重なる。縫布の写しは、子の癖の前でほどけた。本物の子どもは、均一に笑わない。各自が変なタイミングで笑う。その変が、盾になる。


          ◇


 午下がり。

 広場の一角に、「癖市(くせいち)」の札が上がった。工匠が即席で作った屋台に、職人が自分の道具の癖を見せる。ノミの刃のかけ、針の曲がり、踏み板の節。

 「欠点じゃない。持ち手の柄だ」

 工匠が言う。

 フロエは柄板を逆さに持ち、裏の汚れと削れを見せた。「この汗じみが、裏打ちを甘くする日がある。だから甘い日は遅鈴を強める」

 アリアは笛の穴の縁を指でなぞり、「この穴だけ、ちょっと欠けてる。だから無音を置くとき、ここを触る」

 ミラは青い糸束を見せ、「青にも濃い日と薄い日があるの。そういう日は結びを二重にする」

 封糸の女は木札の割れ目を指でなぞる。「割れが笑っている札は、人に働く。割れが怒っている札は、紙に働く」

 西の女王は鍋の柄の黒ずみを見せ、「ここ、握り癖。まねできない」

 グラールは筆の穂先の開きを示し、「この開きが厚い字を作る。お手本にはできないが、読まれる字だ」

 王は、膝の擦り傷を見せた。一昨日のひざまずきで作ったものだ。

 「人には、癖がある」

 王の言葉は短く、厚かった。

 「癖は、盾になる」

 その布告は、紙にならなくても街に落ちた。

 縫布は、均一で強い。だが、癖で戦う街は、均一で割れない。


          ◇


 夕刻、縫布は一段、質を上げてきた。

 広場の向こう、王の写しが現れた。ひざまずきの半拍、間札に視線を落とす角度、遅鈴の二打目にわずかに眉を寄せる癖まで、なぞってくる。

 「……巧い」

 セレスティアが呟く。

 俺は砂時計を返した。返りは——遅い。厚みもある。歪みも、わずかに混じる。

 「内側に、嘘がある」

 偽物は、観客に見せる癖を拾える。だが、自分で気づいていない癖までは拾えない。

 王は、ひざまずく前に、無意識に左手の薬指だけを微かに折る。祖父の癖を真似して覚えた、古い稽古の名残だ。

 写しの王は、それを持たない。

 アリアが無音で三音。短・短・長。

 ミラが青い結びを王の左手の下に滑り込ませる。

 封糸の女は沈黙を写しの胸の前に置く。

 セレスティアは導線を一筋だけ変え、工匠は踏み板を半足だけずらす。

 写しは——倒れない。巧いから。

 だが、座れない。

 選ぶ座を持っていない。

 王が先に座った。ひざまずく前に。

 「今日は座る」

 王の声は、厚かった。

 写しは、遅れて座ろうとしたが、それはもう模倣だ。先に選ぶことは、写しにはできない。

 広場は、遅い笑いで満たされた。

 「王は座る。先に」

 グラールの注が、白紙の横に小さく貼られる。

 > 『明日、王はまた違う。

 >  毎日違う。』

 均一が、もっとも嫌う布告だ。


          ◇


 夜。

 「運用の場」は再び開かれた。机は形式であり、場が要だ。

 俺は砂時計を返し、今日の癖を帳面に写す。王の薬指、女王の親指、アリアの無音の吸い癖、ミラの二重結びの締まり癖、フロエの汗じみの音癖、工匠の節、封糸の女の割れ笑い、グラールの開き。

 セレスティアが静かに言った。「癖帳(くせちょう)を作ろう。守秘の上で。街の人が自分の癖を自覚し、盾にできるように」

 「覗き見させない仕組みも必要です」グラールが頷く。「書かないことも技術だ」

 封糸の女が木札の角で机を軽く叩いた。「沈黙の記録もある。書かない記録」

 工匠は鼻を鳴らす。「癖帳に型紙は要らねえ。型紙を作った途端に既製だ」

 フロエが笑った。「裏打ちも日替わりにする。同じは三日続けない」

 アリアは笛を回し、「無音にアドリブを混ぜる」

 ミラが拳を握る。「ほどけやすさは、毎日違う」

 王は短く言った。「散る」

 それは合図であり、祈りであり、街の免疫の宣言だ。


 その時、風がまた紙を運んだ。今度は、黒。墨ではなく、煤(すす)が混じった黒。

 > 「縫布を破る“癖”を、

 > 縫い込んで返す。

 > ——縛布(ばくふ)」

 縫うのではない。縛る。癖そのものを紐で括って固定し、生きた歪みを“型”に落として殺すつもりだ。

 セレスティアが紙を握り、端に青い結びを作る。

 「固定に来る」

 「固定は、逃げでほどく」

 俺は砂時計を返し、胸骨の裏の重さを確かめる。

 祖父の余白が一枚、はらりと脳裏でめくれた。

 〈癖は一人、逃げ道は二つ〉

 ——固められる前に、二重のほどけを。

 ミラがうなずく。「二重結びの稽古を、街に」

 フロエは柄板を持ち上げ、「二重拍だ。タ…ンの裏に、もうひとつ弱いン」

 工匠は踏み板を撫で、「溝を二段で切る。表が塞がれても裏が滑る」

 アリアは笛に指を添え、「無音を二重に。吸って、さらに吸う」

 封糸の女は木札を二枚重ね、「沈黙の重ね」

 グラールは白紙を掲げ、「注は——空白を二段」

 王はただ言う。「散る」

 いつもより遅く、深く。


 俺は針を懐に戻し、青い糸を小さく、緩く、強く二重に結んだ。

 落ちる砂の音は、変わらない。だが、耳は鍛えれば変わる。

 癖は、誰にも盗めない。

 盗まれたと感じた癖は、別の癖へほどける。

 街は今、そういう身体になりつつある。既製ではない、身の丈の布地に。


 ——第二十四話「縛布の手、二重のほどけ」へつづく。

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