第二十二話「刃布の朝、縫盾の受け」

 朝は、約束どおり冷たかった。

 パン窯の最初の火も、井戸の桶の最初の軋みも、昨夜から張りつづけていた緊張の皮膜を破れずにいた。風が角を曲がるたび、紙の端がかすかに鳴る。いつもの灰色。けれど、今朝は文字の骨が違う。

 > 「朝、刃を置く。遅れは許さない。——刃布」

 “置く”の字が、わずかに前傾している。押し筋だ。斬るではなく押す。速度ではなく圧で倒す意志。俺は紙の端に青い結びをひとつ、小さく、緩く、強く結び、ひらりと音を落としてやった。


 広場に立つ王の姿は、陣形とは無縁だ。ひざまずく前の半拍休みを体の奥に置き、視線は低く、人の息を確かめる。セレスティアは導線の確認を終え、鎧無しの軽装に剣だけ。アリアは笛を腰に差し、右手の指は無音の二拍を指先で折りたたむ癖を繰り返す。ミラは間札の束を、封糸の女は沈黙札を、フロエは柄板を、工匠は曲線踏み板をそれぞれ抱え、グラールは新しい掲示の見出しを胸に当てている。

 > 『受けは、立ち上がりの稽古』

 昨夜の字のままだ。厚い。返りは遅い。


 「ユリウス」

 王が、俺の名を呼んだ。

 「縫盾(ほうじゅん)を街に散らす。朝の一撃で壊れぬように」

「散らします」

 縫盾——盾ではない。縫う盾だ。遅鈴で場の返りを整え、間札で一拍吸い、曲線踏み板で足を斜に滑らせ、フロエの裏打ちで受けの拍を置き、青い結びで逃げを残し、沈黙札で刃の照りを鈍らせる。真正面から受けず、受けながら逸らすための手順の集積。昨夜、石室で組んだばかりの原型を、今朝は街という布地に落とす。


 セレスティアが全員を見渡し、短く指示を切る。「アリアは鐘楼と広場の境。フロエは広場中央、裏打ちを見える形で。工匠は南西の角で踏み板を二重に。ミラと封糸は掲示板と井戸の二点。グラールは見出しを高い位置に。ユリウスは——王の左後」

 左後。押しが来たとき、生理的に人が倒れやすい角度。そこへ観測士を置く判断は、彼女らしい。俺は頷き、砂時計を返して落ちる音を胸に沈める。砂は嘘をつかない。砂の速度は砂のもの。人は人の速度を選べる。


 鐘が鳴る。

 ン——カン。ン——カン。

 遅鈴だ。広場の空気が、息を受け入れる形に変わる。肩が落ち、目の焦点が奥へ移る。速さが居場所を失い、代わりに厚みが座布団のように敷かれる。

 ——その厚みを、刃は嫌う。


          ◇


 最初の刃は、紙ではなく人を媒介に来た。

 黒い襷をかけた三人の走者が、別々の角から同時に「事故だ!」と叫び込む。今すぐの合図。遅れは許さないの文言が、人の喉で鳴る。

 セレスティアは声を上げない。掌を開き、導線を分割する。走者の進行方向に曲線踏み板を滑り込ませ、足運びを斜めにする。押しは直線を好む。曲線に触れると、自分の力で自分を少しよろめかせる。

 アリアが無音を挟む。吸・吐。

 フロエのタ・(間)・ンが地に落ち、受けの拍が広場に浮かぶ。

 ミラは走者の襷の端に青い結びをひとつ、小さく結んだ。「一拍吸ってから」

 彼らは条件反射のように吸い、そして、言えなくなった。今すぐは肺に居場所がない。

 封糸の女は沈黙札を空気にかざし、叫びの照りを鈍らせる。音は飛ぶ。だが無音は沈む。沈んだ場所に、受けの床ができる。


 ——だから、刃は方向を変えた。

 空から。

 屋根から細い黒糸が降り、押しの角度で王の左後へ滑り込む。押すは切るほど派手ではない。だが、倒しには充分だ。

 俺は砂時計を返し、銀線の一筋を空へ立てた。遅れの棒だ。

 押しは遅れを嫌う。速度も圧も、間に力を削がれる。

 アリアが短・短・長の三音を無音で置く。鳴らさず、指だけで。

 フロエの裏打ちが下から支える。

 工匠の踏み板の溝が、王の左足を半足だけ外に滑らせる。

 王は——倒れない。先に、受けた。

 肩が宇宙のほんの僅かな角度を描き、刃は逸(そ)れる。人混みへは落ちず、空でほどける。

 セレスティアは剣を抜かない。抜けば、刃は刃に吸い寄せられる。彼女は柄で空を撫でた。押しの筋を曲げるために。

 黒糸は、風と同じ軽さで途切れた。


 「受けは、立ち上がりの稽古」

 グラールの掲示が、朝日にきらりと光り、遅れて目に入る。人々の口が、遅れてその文を反芻する。速さが居場所を失うたびに、文が座を作る。

 刃布の第一撃は、広場では通らなかった。


          ◇


 だが刃は、広場だけを狙ってはいなかった。

 南の橋。工匠の踏み板が敷かれたばかりの曲線の上で、二枚刃が開いた。扇のように広がる金属の光。押しと切りの複合。曲線を倒すための角度だ。

 工匠は木槌を捨て、素手で板を押さえた。「板は人だ!」

 フロエが駆け寄り、裏打ちを低く叩く。タ…ン。

 橋の下から遅鈴が返る。

 アリアが見上げ、吸う。

 ミラは板と板の継ぎ目に青い結びを差し込み、ほどけの隙間を作った。

 封糸の女は刃の根本へ沈黙札を飛ばす。札は空中で割れ、無音の粉が刃筋を曇りガラスに変えた。

 刃は迷い、押せない。

 工匠が板を半足だけ捻る。曲線は生き物だ。受けを覚えた板は、刃を受け入れず、逸らす。

 「……やれるじゃねえか、板」

 工匠がへらりと笑い、額の汗を親指で拭う。

 橋を渡る荷車の男が、思わず手を叩く。遅れて。

 刃は拍に負ける。


          ◇


 学舎。

 「座る・ひざまずく・立つ」の稽古をしていた子らの上に、影が落ちた。刃そのものは見えない。押しの歌だ。椅子が背中を押すように、子の肩を前に傾ける。

 「——待って」

 西の女王が、教室の入口に立っていた。足は微妙に外。重い鍋を運ぶ癖。

 彼女はまず座った。そして、子に手を伸ばした。「先に座る。倒される前に、選ぶ」

 子らは真似た。座った。

 先生が間札を黒板の上に貼る。白い札。吸う一拍。

 封糸の女は窓辺で沈黙を広げ、アリアの無音が教室の梁を撫でる。

 押しの歌は、受けの和音に溶けた。

 女王は子の靴紐を結び直し、微笑んだ。

 「ほら、立つのはここからだよ」


          ◇


 午前の刃は、広場・橋・学舎で三度“受け”られた。だが、刃布はまだやめない。速さと違い、痛みは余韻を使う。遅鈍に寄り添って、後から来る。

 王は控え室に引かない。広場の石に半分座り、半分立って、半拍の間を町に見せ続ける。

 セレスティアが俺の隣に来て、小声で言った。「次は群れ受けがいる。一点で受けると、他所で折れる」

 「縫盾を連結します」

 俺は砂時計を返し、銀線を三本、広場から南・西・北へ走らせた。拍の管だ。

 フロエが柄板を置き、連結拍を刻む。タ・ン|タ・ン|タ・ン。間でつなぐ。

 工匠は踏み板を点ではなく帯で敷き直し、ミラは結びを渡し縄に組み替える。個の逃げではなく、群れの逃げ。

 封糸の女は沈黙札を薄く千切り、風に乗せて筋を作った。沈黙のライン。

 アリアが塔へ合図を送り、遅鈴を三方から二度打ちで重ねる。

 王は息を吸う。人の速度で。

 群れ受けの支度ができた。


 その瞬間、刃は真正面から来た。

 南・西・北、三方同時。押しの杭が地面からせり出すように、見えない角度で迫る。倒すには充分。切る要素が少ないぶん、遅鈍にも効く。

 「——受け!」

 セレスティアの号令は短く、厚い。

 フロエの連結拍が地鳴りのように走る。

 人々は、座った。ひざまずいた。そして立つ準備で止まった。

 工匠の帯板が足の角度を斜に導く。

 アリアの無音二拍が心臓の前と後に置かれる。

 ミラの渡し縄が、肩と肩の間にほどけの弾力を作る。

 封糸の女の沈黙線が、刃に曇りを与える。

 王は——先に受けた。

 ひざは折れない。座で吸う。

 刃は逸れる。三方とも。


 広場に、遅い歓声が降りた。

 歓声の遅さは、強さだ。速い歓声は刃の餌になる。遅い歓声は刃を飢えさせる。

 グラールの掲示が揺れ、子どもが笑い、誰かが泣いた。遅れて。

 刃布は、朝の第二波で腹を空かせ、一旦引いた。


          ◇


 昼。

 パンの匂いが戻り、スープの鍋が湯気を上げる。速い匂いはない。ゆっくり、厚い。

 王は立ち上がり、低く布告した。

 > 「受けは、立ち上がりの稽古。

 >  刃の朝は、座から始める」

 文は短い。無音が前と後ろを抱いて、中身を守る。


 「午後は斜路(しゃろ)を作りたい」工匠が指で地面をなぞる。「踏み板じゃなくて、街路そのものに斜を入れる。受けの角度が常備されてりゃ、刃は疲れる」

 フロエが頷く。「柄板に斜路の裏打ちを刻む。タ・ンのンを、すこし斜に」

 「掲示は間札と注をセットで貼る」グラールは紙束をめくり、注の手本を示す。「『一拍吸ってから読め』。声にも貼る」

 アリアは笛を持ち直し、窓の外を見た。「遅鈴を子どもに渡そう。ちいさい鈴でいい。二度打ちの遊び」

 ミラが微笑む。「遊びなら、忘れない」

 封糸の女は沈黙札を掌で転がし、「刃が歌を持ってきたら、歌で受ける」と短く言った。

 俺は砂時計を返し、落ちる砂に耳を澄ます。稽古が街になる音がする。


          ◇


 午後一番、刃布は形を変えた。

 紙ではない。刃でもない。祝詞だ。

 「遅鈍は罪」の文言に旋律をつけ、行商の声で町を巡る。声は甘い。遅鈍に罪悪を塗る甘さ。受けの稽古を“怠け”に擬して、誇りを逆なでした。

 「——歌に来たわ」

 封糸の女の目が細くなる。沈黙が、歌に触れる。

 アリアが笛に手を伸ばす。「無音だけじゃ足りない。余白の旋律を置く」

 フロエが柄板で裏打ちを和声に変え、工匠は街角に反響板のように曲げた踏み板を立てる。

 ミラは結びで連句を作る。結び目ひとつが、ひと文字のように。人々が触れるとほどけ、次の人の指で結び直されて、文が遅れて完成する。


 歌が来る。

 「遅鈍は罪、速さは徳——」

 「ン——」

 アリアの無音が前に置かれ、笛は息だけを通す。遅い吸気が旋律の前拍を膨らませ、甘さが鈍る。

 フロエの和声が下から厚みを与え、工匠の反響板が遅い返りを増幅する。

 ミラの連句が通りに揺れ、子どもが結びを触って笑う。

 封糸の女は、歌の要に沈黙札を貼った。休符が増える。

 祝詞は祈りに変わった。

 「遅れて届くものを、守れ」

 誰の声でもない。場の声だ。

 歌い手は膝を折り、座った。怒りが恥に変わり、恥が安堵にほどける。

 刃布の歌は、受けに縫い込まれた。


          ◇


 夕刻前、最後の刃が来た。

 数でも速度でも歌でもない。かつての自分を使う刃。

 ——祖父の筆致を、なぞった紙。

 > 「やり足りないで終えろ。次の線が、次を呼ぶ。

 >  受けは遅鈍。針は斬れ」

 ……汚い仕事をする。祖父の余白を逆手にとり、受けを遅鈍に貶め、針を刃にすり替える文だ。

 指が冷たくなる。砂時計を返し、落ちる砂の一定に心を合わせる。照り返しは速い。祖父の文字の遅い返りを俺は知っている。紙の墨圧が浅い。線が呼吸していない。

 アリアが俺の横に来た。声は出さない。吸・吐だけ。

 ミラが紙の端に青い結びを作る。「祖父さんの、結びと違う」

 封糸の女が札を軽く触れ、「これは袋ではない。貼り絵だ」と短く言う。

 フロエは柄板を胸に当て、祖父の書に合わせるように裏打ちを低く鳴らす。タ……ン。

 工匠は反響板を倒し、木の匂いを広げた。祖父が工房に残した匂いに似ている。

 王が一歩前に出る。

 「私はひざまずく」

 その一言が、紙の中の偽の祖父を押し出した。

 照りは速い。遅い返りに居場所がない。

 紙は、ただの紙に戻った。


 俺は指先で、本当の余白に触れた。

 やり足りないで終えろ。次の線が、次を呼ぶ。

 祖父の声は、遅れて胸に落ちる。厚い。

 俺は針を懐に戻し、青い糸を手首に小さく、緩く、強く結び直した。


          ◇


 日が沈む頃、街は疲れて、しかし倒れてはいなかった。

 縫盾は壊れず、受けは逃げではないと、体で知れた一日。

 王は最後に広場の石へ片膝を置き、短く布告した。

 > 「刃の朝は過ぎた。

 >  明日は、稽古の朝だ」

 人々が遅れて拍手する。遅い拍手は、長い。今日の晩餐の香りが、通りの空を低く漂い始める。


 セレスティアが肩で息をし、俺の横でぽつりと言った。

「受けを恐れていたのは、私も同じだった。だが、受けは選択だな」

 「選択です。倒される前に、先に受ける」

 「先に受ける者が多い街は、倒れにくい」

 「だから稽古が必要です」

 ふたりで同時に笑い、小さく首を振った。遅れて、笑いが周りに伝播する。


 グラールが掲示を張り替え、隣に注をもう一枚添えた。

 > 『一拍吸ってから読め。

 >  受けてから、言え。』

 字は今日も厚かった。


 アリアは塔を見上げ、「遅鈴が好きになってきた」と言い、笛の穴を一つずつ指で塞いで、無音の旋律を数えた。

 ミラは子どもに結びを教え、渡し縄の端を小さな手に渡す。「ほどけやすくだよ」

 工匠は踏み板に腰を下ろし、足の裏で斜を確かめながら、「街路を斜路にする図面」を頭の中で起こしている。

 封糸の女は割り損ねた沈黙札の欠片を掌で擦り、その粉を指先から風に預けた。無音が夕暮れに溶けていく。


 王はひとり、広場の端で座り、立ち、ひざまずき、半拍休み、また立ち——それを繰り返した。受けを自分の型に落とすために。

 西の女王が通りすがりに頭を下げ、「明朝、子らを縫盾に混ぜるよ」と言い残していく。

 王は頷いた。「人であるために」


          ◇


 夜。

 風はまた紙を運んだ。だが今夜の紙は灰色ではなく、白。墨は薄い。

 > 「偽布は照り返す。迅布は急かす。刃布は痛ませる。

 >  次は——縫布(ほうふ)。

 >  おまえたちの稽古を、まねて縫う。」

 ……来る。

 敵が、こちらの“良い型”を模倣する段階。稽古を稽古で打ち消しに来る。

 セレスティアが紙を掴み、端に青い結びを作って俺に渡した。「底を見る番だ」

 「底は遅れに出ます」

 俺は砂時計を返し、遅い返りを胸に入れた。

 フロエが柄板を抱き直し、「本物の裏打ちを盗めないように、わざと歪みを入れる」と言う。

 工匠は頬を掻き、「木にも癖を混ぜる。型板を一枚ずつ変える」

 アリアは微笑んだ。「無音は盗めない」

 ミラが小さく拳を握る。「ほどけやすさは、きっと偽れない」

 封糸の女は目を閉じ、「沈黙は贋作がいちばん苦手」とだけ言った。

 グラールは紙束の上に、新しい見出しを置く。

 > 『遅れて届くものだけが、街に残る』


 王が、最後に言った。

 「散る」

 それはいつもの合図で、いつもの宣言で、いつもの祈りだ。

 俺は針を懐に落とし、青い糸を手首に小さく、緩く、強く結び直す。

 砂時計の砂は、一定に落ちる。

 街の拍は、選んで落とす。

 やり足りないで終える。次の線が、次を呼ぶ。

 針は両刃。

 だからこそ、切れて、縫える。

 切り結ぶのではなく、受け合わせ、縫い合わせ、生き延びるために。


 ——第二十三話「縫布の影、癖の盾」へつづく。

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