第十六話「布告と布地、日々の縫い」
朝は、驚くほど静かだった。
王都の広場に集まった群衆の前で、王がひざまずいた瞬間を人々はまだ反芻している。昨夜から掲示された紙には、太い字でこうあった。
> 「王はひざまずいた」
「倒れなかった」でもなく、「立ち続けた」でもない。あえてその言葉を選んだ執政官グラールの判断は的確だった。
人々は紙の前に立ち止まり、口の中でつぶやき、次に自分も小さくひざまずいた。子どもが真似をし、老婆が腰を折り、商人が笑って礼をした。ひざまずくことは弱さではなく、拍になった。
俺は砂時計を返しながら、その光景を観測していた。
銀線は温かい。昨日返しや未来返しで感じたあの冷たい固定の気配は、いまの街からは消えている。
だが、それは永遠ではない。灰の縫い手はまた来る。必ず来る。だからこそ——。
◇
午前、王城の「運用の机」で布告が討議された。
王は立ったまま、短く言った。
「机を街に散らせ。——今日から、王都すべてを運用の場とする。」
重い言葉が響いた。
セレスティアが剣を軽く鳴らし、賛同を示す。フロエは柄板を机に打ち付け、同意の拍を置いた。アリアは笛を吹かずに頷き、ミラは青い糸を結びながら視線を王へ向けた。封糸の女は黙していたが、その沈黙は拒絶ではなく、受容の沈黙だった。
グラールが咳払いをひとつ。「布告として形にせねばなりません。紙はすぐに掲示に回しますが、言葉は——」
「簡潔に」王が言った。「人の耳に残り、人の拍に置ける文を」
その場で案が出された。工匠が最初に言った。「『倒れるな、ひざまずけ』」
セレスティアは眉をひそめる。「命令形は、稽古を強制に変える」
アリアが笛を指で叩いた。「『ひざまずきは、立ち上がりの稽古』。これなら軽い」
ミラが小さな声で提案する。「『ひとりひざまずけば、街が立つ』」
静かに聞いていた王が頷いた。「それを布告としよう」
◇
正午。
広場で布告が読み上げられた。王が直接声を張るのではなく、グラールが代読する。
> 『ひとりひざまずけば、街が立つ』
群衆がどよめき、やがて誰からともなく膝を折った。
倒れるのではない。自ら選んで、ひざまずく。
やがて立ち上がり、隣の者を支える。
未来返しが入り込む隙は、そこにはなかった。
俺は砂時計を返し、銀線の流れを見た。
布告は布地になりつつある。机の上の運用ではなく、街そのものが縫われている。
◇
その日の夕刻。
「西の女王」と呼ばれる女性が広場に来た。孤児を連れて。彼女は王の布告を聞き、ひざまずき、そして笑った。
「立ち上がる稽古、悪くないね」
子どもたちが一斉に膝を折り、立ち上がる。
噴水の音が、その拍を祝福するかのように響いた。
◇
だが夜。
また灰色の紙が運ばれてきた。
風に乗り、王城の窓辺に舞い込む。
俺は針で端を留め、皆と共に読んだ。
> 「ひとりひざまずけば、街が立つ。だが——
> ひとり膝が折れれば、街も折れる。」
> ——灰の縫い手
紙の余白には、細い文字でこうあった。
〈次は「群れ倒し」。一人ではなく、集団ごとに倒れる〉
会議室の空気が凍る。
未来返しが、より大きな範囲で縫われようとしている。
セレスティアが剣を握った。「次は群れ全体を対象にする気だ」
アリアが震える声で言う。「街がひざまずく前に、一斉に倒される……?」
フロエが柄板を叩きつける。「なら、稽古を拡張する。群れごとにひざまずき、群れごとに立つ」
封糸の女が低く呟いた。「ほどけを群れ結びにしなければならない」
ミラが小さく頷く。「……できます。みんなで結べば」
王は静かに言った。「次は、街そのものが試される。——ユリウス、観測せよ」
俺は砂時計を返した。銀線が街を走り、明日の拍を探す。
その線の先に、確かに灰色の群れが見えた。人影が折れ、群れごとに倒れる未来。
だがまだ、それは予兆にすぎない。
俺たちの稽古で、ほどける余地はある。
祖父。針はまだ折れていない。砂もまだ落ちる。
なら、俺は観測を続ける。
群れを守るために。
◇
——第十七話「群れ倒しの影、結びの稽古」へ続く。
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