第十五話「王の決意、未来のほどき」

 宣告は一行だった。「王は明日、倒れる」。

 文は短いほど、線が太い。人は短さに意味を詰め込むからだ。だからこそ、未来返しとして最悪の文型だとわかっていた。


 夜半の「運用の机」で、俺たちはその一行を囲んだ。王は座らず、立っていた。セレスティアは剣の柄に手を置き、アリアは笛を膝に置いている。ミラの指は青い糸に触れたまま、微かに震えていた。封糸の女は黙したまま木札を袖に挟み、フロエは柄板の縁を指で叩き、執政官グラールは紙の余白に視線を落としていた。


 「——倒れる、の定義を揺らす」

 最初に口を開いたのは工匠だった。やせ細った肩の奥に、頑固な火。

 「階段で足を滑らせることも、政治的に失脚することも、どちらも『倒れる』だ。語の柄をほどけば、未来の縫い目はゆるむ」


 「語の柄……いいわね」

 アリアが膝の笛を転がす。「音で『倒れる』のアクセントをずらせば、意味がすべる。『手を倒す』『駒が倒れる』『誰かに頭を垂れる』」


 セレスティアがうなずいた。「だが王が絡む以上、遊びにはできない。敬意の線を切れば、場が壊れる」


 王は静かに言った。「私は倒れてもよい。それでこの街が生きるなら」


 その一言で、空気が冷えた。ミラの指が青い糸を強く握り、封糸の女は眉を寄せた。グラールが堪えきれず前に出る。


 「陛下、それは受容です。未来返しに同意なさるのと同じ。線が固定されます」


 王は首を振った。「同意ではない。選択だ。だが、観測士——ユリウス。どうほどけばよい?」


 みんなの視線が俺に集まる。砂時計を返す。落ちる音が、いつもより重い。許容量は深まっているが、未来を観測すればするほど、俺の指にも固定の寒さが移ってくる。


 「……二段でいく」

 喉が乾いていた。だが言葉は迷わない。

 「第一段は場所だ。未来返しは『どこで倒れるか』の置き場を先に縫う。王城内の記章の間、玉座前階段、城門——“王であろう者”の歩幅が強く出る場所に影が出る。全部に青い逃げ道を先置きして、「倒れる」の意味を**『頭を垂れる=拝礼』へ横ずらしする。

 第二段は人だ。『王は倒れる』を『王は先にひざまずく』へ転じる。能動に変われば、未来返しは予兆**に落ちる」


 「陛下が先にひざまずく?」

 セレスティアの目がすっと細くなる。

 王は迷わず頷いた。「私は人に散る。王は人だ。ひざまずくことは、倒れることではない」


 グラールが口を固く結んだ。「儀礼規定には——」


 封糸の女が静かに遮る。「規定は袋。今はほどきの番だ」


 工匠が踏み板を机の横に並べた。「稽古だ。『王の稽古歩』を拝礼の拍に落とす。倒れる前にひざまずく。予兆を既成にする」


 フロエが柄板をめくり、角の焼印街柄に触れる。「街も混ぜる。人が先にひざまずいて王へ拍を渡す。王はそれを返す」


 アリアが笛を持ち上げた。「じゃ、音は私が。『倒れる』のアクセントを『ひざまずく』に滑らせる二音を用意する」


 ミラが青い糸を掲げる。「逃げ道は私と——」

 「私」封糸の女が続けた。「袋のかわりに、ほどけの結びを」


 セレスティアが最後に言う。「騎士団は導線。誰も躓かせない。倒れた場合でも人が下敷きにならない筋を確保する」


 王は小さく笑った。

 「運用だな」


          ◇


 夜明け前から、城の要所に青い結びが忍ばせられた。

 玉座前階段の手すりの裏、記章の間の敷居、城門の閂の影、王の控え室の敷布の端。どれも小さく、緩く、強い。

 ミラの結びは呼吸に寄り、封糸の女の結びはほどけに寄る。二つの流儀が喧嘩しないように、俺は砂時計で間(ま)を調整した。銀線は通路のように伸び、未来返しの影が入ってきたときの逃げ道を示す。


 同時に、街でも準備が進んだ。広場の稽古場では工匠が拝礼歩の踏み板を置き、フロエが柄板で合図を刻み、アリアが二音を試し吹きしている。

 「た・おれる」ではなく、「ひ・ざまずく」。前半拍を低く短く、後半拍で深く沈む。

 ——人の身体は正直だ。拍が置ければ、膝は勝手に折れる。倒れる前に。


 王は人払いの控え室で、一人で稽古した。セレスティアと俺だけが同席する。

 「陛下、呼吸は二吸一吐。『散る』を意識して肩を開く。——今」

 王は半拍遅れて息を吸い、片膝をついた。床の上で音は鳴らない。だが線は鳴る。未来の線と今の線が交差し、ほどけが生まれた。

 セレスティアが低く言う。「——美しい」


 俺は砂時計を返し、胸骨の裏に落ちた砂の重さで確認した。固定の寒さが薄くなっている。

 「いけます」


          ◇


 予告された日。

 王は儀礼を最小に抑え、記章の間に向かった。廊下は静かだ。騎士団は通路に沿って間を空け、侍従たちは拍に従って歩を置く。

 俺は王の三歩後ろ、セレスティアは王の右。アリアの笛は音を出さない。だが無音の吸気は合図になる。ミラと封糸の女は要所で青い結びに触れ、フロエは柄板を胸に抱え、工匠は踏み板の検分を終えて見送った。グラールは文官の列の端、紙束を抱いて歩く。


 記章の間の扉が開く。

 金糸の房が微かに鳴った。影がいる。見えないが、寒さが床板の下を流れた。

 ——来た。


 王は一歩、二歩。

 アリアが吸う。俺は撫でる。セレスティアは受ける。

 王は三歩目で止まった。

 半拍の間。影が前へ滑る。金糸が未来返しの拍に合わせようとする、その直前——


 王はひざまずいた。

 先に。

 選んで。

 広間の空気が音を失い、次の瞬間に息を得た。

 ミラの青い結びが鳴り、封糸の女の結びがほどけ、アリアの無音が音になった。フロエの柄板が裏打ちを作り、グラールの紙束が、なぜか膝を折る音をたてて床に触れた。

 金糸は記録しなかった。固定は遅れ、遅れは稽古に落ちる。


 ——王は倒れなかった。

 王は、ひざまずいた。


 宣告の一行は、意味を失った。語の柄が転じたのだ。


 その瞬間、風が走った。記章の間の小高窓から、灰色の紙がひらりと落ちる。俺は反射で手を伸ばし、指で挟む。紙は冷たい。文字は細い。


 > 「倒れ」をほどくなら、「倒さ」れる。

 > ——灰の縫い手


 次の文。未来返しは終わっていない。能動を避けたなら、受動で来る。倒される。

 セレスティアがわずかに剣を捻り、視線だけで廊下の影を射抜いた。「——来る」


 来た。

 玉座前階段の上から、一条の黒糸。ほそく、だが重い。封板の柄を逆用した、押しの型。これで背中を押せば、倒される。

 天窓の縁、梁の影——足場。ひとり。顔は布で覆われ、額に灰の印。灰の縫い手その人か、彼らの手だ。


 「アリア、二音!」

 合図と同時に、笛が短く二度鳴った。前へ促す音と、後ろへ戻す音。二音は相殺し、横へ流れる。

 俺は砂時計を返し、押しの型の置き場を半足左へ撫でた。

 セレスティアが一歩右へ出る。

 王の背は押されない。代わりに、押しは空を掴み、押し手自身の重心が前へ出た。

 梁の影がよろめく。

 そのときにはもう、ミラの青い結びが梁の根元でほどけを作っていた。足場は崩れず、たわむ。押し手は落ちず、座るしかない。倒すは、座らせるに落ちた。


 封糸の女が前に出る。彼女は針を持たない。沈黙だけを持つ。

 「——ほどけで話す」

 布の覆面の向こうで、押し手の呼吸が崩れた。歌に頼らず、生きた声も使わない者にとって、沈黙は毒だ。

 彼は立ち上がれず、代わりに紙をひとつ投げた。

 > 「王であろう者」は止まらない。

 > 次は、城下西の女王だ。**


 女王——王の配偶者ではない。「女王」は王城西庭で孤児たちを束ねる女性に対する呼び名だ。**「西の女王」と親しまれ、市民の拍に強い。

 未来返しの矛先が、王の代替象に移る。“王であろう者”**の範囲を広げるのは、灰の縫い手らしい悪手だ。


 王が立ち上がり、ほんの少しだけ肩を回した。「——散る」

 俺たちは即座に動いた。セレスティアが騎士団に指示を飛ばす。アリアはフロエと走り、ミラは封糸の女と青い結びを持って先行する。

 グラールは一瞬迷い、紙束を胸に抱き直して王と反対方向へ走った。掲示が必要だ。「王はひざまずいた」。固定ではなく運用が今日の記録だと、街に知らせるために。


          ◇


 西庭は、朝市の後片付けの気配でまだ温かかった。西の女王は、古い噴水の縁に腰掛け、子らの靴紐を器用に結んでいた。年齢は定かでない。目尻に笑い皺、背筋は強く、声は低い。拍を持つ人だ。


 広場に入ると同時に、灰色の影が地面に現れた。女王の膝、肩、首——倒れるための線が、丁寧に置かれていく。未来返しが準備に出た。

 アリアが笛を上げた。「二音、いくよ」

 ミラが青い糸を四隅に置く。「ほどけやすく」

 封糸の女は木札をひとつ割り、沈黙を広げる。喧噪が透明になった。


 俺は砂時計を返し、影の「置き場」を順に横ずらしした。膝の線は横座りへ、肩の線は抱き上げへ、首の線は会釈へ。倒れるが座る/抱く/会うに、語の柄としてほどけていく。


 「女王!」

 セレスティアが声をかける。「——選べ!」

 女王は笑った。「あたしはいつだって選んでるよ。立つか座るか、抱くか見送るか」


 次の瞬間、押しが来た。黒糸は細く長く、今度は横から。子どもを巻き込む角度だ。

 アリアの二音が裏へ回り、フロエの柄板が影を写し、ミラの結びが足元にたわみを作る。

 俺は針を出さない。掌で撫で、歌にも言葉にもならない癖で、押しの線を抱き上げの角度へほどく。

 女王は——倒れない。

 彼女は子を抱き上げ、座った。

 自分で。

 未来返しは、また予兆に落ちた。


 噴水の陰から、小さな拍手が起きた。いや、拍手ではない。拍だ。

 西庭の人々が、半拍休んで、一拍置いた。誰かが決めた拍ではない。人の拍。

 灰の影は薄くなっていく。


 そのとき、石畳の隙間からざらりと音がした。砂。昨日返しの残滓。予兆を呼ぶ媒介だ。

 封糸の女が木札をひとつ地面に置き、ほどけを砂に縫い付けた。「——返さない」

 砂は歌にならず、土に戻った。


          ◇


 城へ戻る導線で、バルトとジラが走ってきた。

 「ユリウス、貼ったぞ!」バルトが息を荒げる。「掲示だ。『王はひざまずいた』。『倒れなかった』じゃないのがミソだとグラールが言ってな。やるじゃねえか執政官」


 ジラが笑い、肩で息をする。「灰ども、掲示を見るたび顔をしかめてるぜ。線がズレるらしい」


 俺は頷き、砂時計を返した。固定の寒さは、さっきよりもさらに薄い。未来はほどけた。だが、終章ではない。


 王の控え室に戻ると、王は立ったまま半拍休む練習をつづけていた。セレスティアは無言で見守り、グラールは掲示の控えを机に並べた。工匠は踏み板を磨き、フロエは柄板に今日の型をメモする。ミラは青い糸の結び目を小さく、緩く、強く整え、封糸の女は木札の残りを数えた。


 俺は祖父の裏帳面を開く。余白が静かに呼吸する。

 〈未来返しは、人の決意でほどける〉

 〈決意は、孤立すると鎖になり、共有すると柄になる〉


 王がこちらを見た。「ユリウス。私は決めた。——散る」

 「はい」

 「私はこれから、毎日ひざまずく。王であろう者の前に。市場に、港に、工房に。先にひざまずく。倒されぬためにではない。人であるために」

 グラールが目を伏せ、紙束を両手で正した。「……記録します。運用として」


 俺は砂時計を返し、落ちる音を拍に重ねた。

 未来の線はどこにもある。だが、置き場を選ぶのはこちらだ。

 倒れる未来をひざまずく今日に変える。観測と結びと稽古で。


          ◇


 夜。

 城の屋根で、風が紙を運んだ。灰色。細い文字。

 > 「ひざまずき」は美しい。だが、長くは続かない。

 > 王の膝が、いつか折れる日が来る。

 > ——灰の縫い手**


 アリアが紙を拾い上げ、鼻で笑った。「負け惜しみ」

 セレスティアは紙を受け取り、青い結びを端に作った。「ほどけやすく」

 ミラが小さく頷く。「続ければ柄になる。一度じゃなく、毎日やる」

 封糸の女は月を見上げた。「袋ではない、生活にする。……それがいちばん、外に強い」


 俺は祖父の針を確かめ、青い糸を手首に結び直す。結び目は小さく、緩く、強く。

 砂時計は静かだ。だが静けさは、終わりではない。次の線のための**間(ま)**だ。


 王は明朝またひざまずくだろう。王であろう者へ、そして王ではない者へ。

 街は稽古場になった。運用の机は、もう机ではない。場だ。

 灰の縫い手はまた違う柄で来るだろう。歌で、沈黙で、紙で、影で。

 だが、俺たちには逃げ道がある。ほどけがある。人がいる。


 針は両刃。

 だからこそ、切れて、縫える。

 切り結ぶのではなく、縫い合わせるために。


 ——次章「布告と布地、日々の縫い」は、朝のひざまずきから始まる。倒されないためではなく、散るために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る