第十四話「未来返し、縫われた予兆」

 王都の夜は短い。砂の船が消え、朝市の見本市が終わり、そして広場に貼られた「灰の縫い手」の紙が剥がされるまで、ほんの半日しかなかったのに、人々の体感は一週間も経ったかのように重かった。

 だが時間は進む。進むことそのものが、今の王都にとって最大の守りだった。


 俺は自室に戻り、祖父の裏帳面を開いた。薄い紙の端に滲む文字。

 〈外の歌は“未来返し”を謳う。まだ来ぬ日を、強制する。〉


 その文を何度も指でなぞる。

 昨日返しですら、王都を危うくした。もし未来を「固定」されればどうなるか。

 ——未来が決まっているなら、人はもう今日を選べない。


 砂時計を返す。銀線が部屋の壁に走り、影をなぞる。未来返しの気配はまだ遠い。だが、確かに向かってきている。


          ◇


 翌朝、王都中央の会議室で「運用の机」が開かれた。

 王、セレスティア、アリア、ミラ、フロエ、工匠、封糸の女、そして執政官グラール。

 王は立ったまま、机を前にして短く言った。


 「昨日返しをほどいた。だが、外の歌は止まらぬ。次は未来返しだと、観測士が読んだ。——では、どう運用する?」


 静かな沈黙の後、アリアが口を開いた。「未来返しって、つまり“決定済み”にさせられるんでしょ? まだ起きてないのに『おまえは明日転ぶ』って言われて、その通りにしか歩けなくなるみたいな」


 「的確だ」

 フロエが頷く。「未来返しの恐ろしさは、“今の稽古”を奪う点にある。昨日返しは『繰り返し』だったから、まだ稽古で対抗できた。しかし未来返しは——稽古そのものを否定する」


 「……人は未来を恐れるからこそ、型を学ぶのに」

 ミラが札を抱きしめながら言った。「未来が決まってるなら、もう型は要らなくなる」


 セレスティアが剣を握った。「ならば、決められた未来をほどく。それしかない。観測士、方法はあるのか?」


 俺は砂時計を置き、皆を見渡した。「ある。ただし——危険だ」


 全員の視線が集まる。

 俺は深く息を吸った。


 「未来返しをほどくには、予兆そのものを観測する必要がある。だが、予兆はまだ起きていない。観測する瞬間に、自分が“未来の鎖”に巻き込まれる可能性がある」


 「……つまり、ユリウスが囚われるかもしれない」

 アリアの声が揺れる。


 「その危険を承知でやるしかない」

 俺は答える。「ただ、俺ひとりじゃ駄目だ。未来返しを“予兆”に留めるために、逃げ道を同時に結ぶ者が必要だ。青い糸を持てるのは、ミラと……封糸の女」


 沈黙が落ちた。封糸の女は木札を握りしめたまま、ゆっくりと口を開いた。

 「……受けよう。袋では未来を防げない。だが、ほどくなら、私の負い目も役に立つ」


          ◇


 午後、王都の西門に最初の“予兆”が現れた。

 門の壁に、灰色の影が浮かんでいた。人影のようでありながら、輪郭が滲み、未来の動きをなぞるかのように前後している。

 「……転ぶ」

 アリアが呟いた。影は明らかに足をもつれさせ、地に倒れ込む姿を繰り返していた。


 その通りに、門を通った旅人が足を取られ、石畳に倒れ込む。荷物が散らばり、周囲がざわめく。

 未来が——固定されていた。


 「これが……未来返し」

 俺は針を抜き、砂時計を返した。銀線が影に絡みつく。確定した未来が、今を縛っている。


 「ミラ! 逃げ道を!」

 「はい!」

 ミラが札を撒き、青い結びを石畳に仕込む。旅人の手首に、足首に、小さなほどけを結ぶ。


 倒れた旅人が再び立ち上がる。未来は繰り返し迫るが、結びがほどけさせる。倒れても、また立てる。固定が“稽古”に変わる。


 「まだ足りない!」

 俺は針を影の縫い目に突き立てた。未来の線を半足ずらす。影は倒れ込む直前で止まり、空中に揺らいだ。


 「——ずらせる!」


 その一瞬、封糸の女が木札を割り、未来返しの影に“ほどき”を仕込んだ。

 灰色の影は裂け、霧のように散って消えた。


          ◇


 西門は守られた。だが、街の至るところで灰色の影が報告され始めた。市場、工房、学舎、そして王城の回廊。

 未来返しは、昨日返しよりも広く、速く、しつこい。


 「運用を拡げろ!」

 セレスティアが騎士団を走らせる。「青い結びを各所に! 未来をほどけ!」


 俺は砂時計を返し続けた。砂の落ちる音が途切れなく響く。未来の線をずらし、逃げ道を縫い、ほどけやすく結ぶ。

 だが、どれだけほどいても影は減らない。


 その時、グラールが息を切らして駆け込んだ。

 「——観測士! “灰の縫い手”からの紙だ!」


 彼が差し出した紙には、たった一行だけ。

 > “未来は既に縫った。王は明日、倒れる。”


 会議室に重苦しい沈黙が落ちた。


 王が静かに紙を見下ろし、短く言った。

 「……では、その未来を、ほどこう」


          ◇


 夜。

 俺は机に突っ伏したまま、砂時計を抱えていた。

 未来返しの歌はまだ止まっていない。だが、ほどけやすい結びを重ねることで、完全な固定は免れている。

 問題は——王だ。


 「王が倒れる」

 未来はすでに歌われている。

 俺が観測すればするほど、その線は濃くなる。

 だが、逃げることはできない。


 祖父の裏帳面を開く。

 〈未来返しは“人の決意”でほどける〉

 かすれた文字が、そこにあった。


 人の決意。

 つまり、王自身が選ぶしかないのだ。


 砂時計の砂が落ちきった。

 俺は返し、再び落とす。


 未来をほどく戦いは、まだ始まったばかりだった。

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