第十一話「海鳴りの歌、砂の記録」

 港はまだ朝霧に包まれていた。夜を抜けたばかりの市場のざわめきとは違い、ここは低い唸りがすべてを支配していた。波ではない。風でもない。大地そのものが声帯になったような、うねりの声。


 「——やっぱり、“海鳴りの歌”だ」

 アリアが笛を胸に押さえ、顔をしかめる。「調子が……均一すぎる。自然の鳴りじゃない」


 俺は砂時計を返し、《観測》を沈めた。銀線が港の木桟橋を舐め、積まれた網、濡れた桶、船体の板目を一つずつ撫でる。そこに張りついているのは——記録の砂。

 吹き溜まりのように堆積した砂が、風を媒介にして歌を奏でている。

 「……“記録喰いの風”だ」

 俺は呟く。「祖父が裏帳面で警告していた。砂に人の声が吸われて、あとから一斉に歌い出す」


 ミラの指が震える。「都市の歌に重ねられると……」

 「街の拍そのものが巻き戻しられる」

 フロエが短く言った。「日常が“砂の記録”に上書きされる。最悪の場合、昨日と同じ朝が、明日も来る」


 セレスティアが鋭く振り向く。「それを阻む方法は?」

 「“砂”をただ払うんじゃない」俺は砂時計を強く握った。「別の記録を重ねる。——人の“癖”を」


 封糸の女が静かに前に出る。沈黙を纏った彼女は、今は小さな木札だけを握っている。「袋ではなく、“ほどけ”の技を。砂に結びを作り、崩れやすくする。歌の連続を止められる」


 アリアが笛を取り上げ、港の霧に音を差し込む。ミラは袋を開き、「小路の歌」を薄く散らした。フロエは柄板を桟橋に立て、響きを裏から受け止める。

 俺は祖父の針を取り出し、砂のうねりの**“縫い目”**を探す。そこに小さな青い結びを仕込み、歌が一斉に繋がる前に、ほどける道を刻む。


 すると——砂の声が途切れた。

 いや、完全には止まっていない。ばらけたのだ。波の音に紛れ、漁師の掛け声にほどけ、子どもの笑い声に薄まる。


 「……効いてる」

 ミラの頬に汗が光る。

 セレスティアは剣に手をかけたまま、空を仰ぐ。「だが、これは序章だ。風の向こうに“歌い手”がいる」


 その時、白頭布の男が低く呟いた。

 「砂の記録は、辺境から来た」

 彼の声は確信を帯びていた。「祖父の裏帳面の最後の頁に——“外から来る歌は、王都を試す”とあった」


 俺は砂時計を返す。銀線が霧を裂き、港の沖へ伸びる。そこに——黒い影。砂嵐を纏った船影が、音もなく近づいていた。


 「……来る」

 アリアが笛を強く握る。

 セレスティアが剣を抜く。

 フロエが柄板を構え、ミラが札を選び、封糸の女が木札を掲げる。


 俺は針を見下ろし、胸の奥で祖父の声を聴いた。

 やり足りないで終えろ。次の線が、次を呼ぶ。


 砂の船影は、確かに“歌”を運んでいた。

 王都の布は、次の縫い目を待っている。


 ——第十二話「砂の船、外からの歌」へつづく。

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