第十二話「砂の船、外からの歌」
港の沖に浮かんだ黒い影は、最初ただの残像に見えた。朝霧の切れ目にひっかかった蜃気楼のように。けれど霧が風で払われると、その輪郭は濃く、硬く、確かになった。
船。だが、ただの船ではない。帆は裂け、木肌は灰に覆われ、甲板には人影もない。代わりに、砂が積み重なっている。波が打つたび、甲板の砂は少しずつ滑り落ち、ざらざらと音を立てながら海へこぼれる。だが海はそれを拒まない。砂を受け、砂を返し、音だけを増幅して港へ押し寄せる。
「……音が“歌”になる」
俺は砂時計を返し、《観測》を深く沈めた。銀線が港を越え、沖の影へ伸びる。見えたのは、砂の粒子ひとつひとつが持つ記録の痕跡だった。
人の声。祈り。命乞い。怒号。子守唄。すべてが砂に飲まれ、擦れ合う摩擦音に変わり、うねりの歌として放出されている。
「まるで“死者の合唱”だな」
フロエが柄板を抱え直し、声を低めた。
「死者じゃない」ミラが震える声で言う。「昨日までの人たちだ。昨日までの言葉が、砂になって、今日を食べてる」
セレスティアが一歩前に出た。剣に朝日が反射して、港の霧を切り裂く。
「相手は“外”の歌だ。王都の柄で裁けない。——だが、運用はできる。ここで食い止めねば、市そのものが砂に上書きされる」
アリアが口笛を短く鳴らす。「やっぱり“外”か。封糸も関わってる?」
沈黙の封糸の女が、木札を握りしめたまま言った。「……違う。あれは封糸の技じゃない。袋に入れられた記録じゃなく、流砂に飲まれただけの声。けれど、その声を“利用する者”がいる」
その時、船の甲板にひとつの影が立ち上がった。砂の中から掘り出されたように、黒衣の人影がゆっくりと形を結ぶ。顔は布で覆われ、目は灰色の光を放っている。声は出さない。だが、砂が代わりに歌った。
——「昨日を返せ。昨日を返せ」
港に立つ人々の耳に、そのフレーズが繰り返し押し込まれる。
昨日と同じ朝。昨日と同じ市。昨日と同じ王都。それは、楽でもあり、牢でもある。
「……“昨日返し”だ」
俺の喉が勝手に動いた。祖父の裏帳面の余白に、その言葉がかすかに記されていたのを思い出す。
〈昨日を返せと歌うものが来たら、逃げろ。だが、逃げられぬときは、昨日を“ほどけ”〉
「ユリウス」セレスティアが俺を振り返る。「できるか」
「……やるしかない」
俺は針を抜き、青い糸を港の杭に結んだ。結び目は小さく、緩く、強く。港の息を守るための逃げ道を仕込む。
◇
船影はゆっくりと港へ近づいてくる。波は逆らわず、砂を引き入れる。歌は強まり、昨日が膨らむ。
アリアが笛を吹く。「足拍を前へ——」
だが、前へ出た瞬間、拍は砂に呑まれる。昨日の歩幅が上書きされるのだ。
「前は駄目だ!」
俺は叫んだ。「——後ろへ半拍!」
アリアは即座に吹き直す。音は後退を促すが、ただの後退ではない。昨日へ戻る後退ではなく、今を守るための後退だ。その違いを、青い糸が逃げ道として保証する。
フロエが柄板を港の地面に立てた。板は震え、砂の歌を受け止める。「……昨日の声ばかりだ。今日の声を重ねなければ!」
ミラが袋を探り、札を取り出す。「『朝市の呼び声』! 『値切りの笑い』!」
札が風に乗って散り、人々の声が引き出される。港にいる漁師や商人が自然に声を合わせ、昨日とは違う「今日の呼び声」を作った。
砂の歌が一瞬、ためらう。昨日と今日がせめぎ合う。
その隙に、沈黙の封糸の女が木札を高く掲げた。「ほどけの技を——砂に!」
木札が割れ、光が砂へ流れ込む。砂の粒子がわずかに緩み、結び目が解けるように歌の連鎖が切れた。
「今だ!」
俺は針で砂の縫い目を浅く刺し、逃げ道を拡げた。
「昨日を返せ」のフレーズが——「昨日を……」で途切れる。
人影が甲板で動いた。灰色の目がぎらりと光り、今度は新たな歌を放った。
——「王を返せ。王を返せ」
セレスティアが剣を強く握った。
「……狙いは“王”か」
◇
砂の船が港の前に止まる。甲板の砂がざらざらと崩れ、灰の人影が二、三体と立ち上がる。すべてが布で顔を覆い、灰色の目を持つ。
「外の歌い手……?」
ミラの声が震える。
「いや」俺は即答した。「——写しだ。昨日の人々の“写し”」
《観測》で見ると、彼らの動きは微妙に遅延していた。まるで昨日の動作を繰り返しているかのように。剣を振る仕草も、荷を担ぐ肩の形も、今日の時間とずれている。
「つまり——やり足りないで終わってる」
俺は祖父の言葉を思い出す。昨日は完全じゃない。だからこそ今日がある。昨日の“写し”は、不完全のまま繰り返される。そこに勝機がある。
「アリア! 半音外せ!」
「了解!」
アリアの笛が不安定に揺れる。写しの兵は一瞬立ち止まり、動作がずれる。
「ミラ! 『踊る阿呆』を!」
「はい!」
ミラの札から飛び出した諺が、人々の笑いを引き出す。笑いは昨日に戻せない。一回性だからだ。
フロエが柄板を振り下ろし、桟橋に今日の足音を刻む。漁師たちがそれに合わせ、今ここでしか生まれない拍を鳴らす。
灰の人影は立ち尽くした。昨日を繰り返すだけでは、今日に追いつけない。
その瞬間、砂の船全体が大きく揺れた。甲板の砂が崩れ、うねりの歌が悲鳴のように響く。
「……ほどけていく!」
封糸の女が叫ぶ。
俺は針を引き、青い糸で最後の結びを作った。港と船をつなぐ結び。小さく、緩く、強く。
「昨日を“返す”んじゃない。——昨日を“ほどく”!」
砂の歌は一度、轟音を立てて吹き荒れ、次の瞬間、霧と共に消えた。
船影も灰の人影も、もうなかった。沖にはただ、静かな波と朝日が残されていた。
◇
人々がざわめき、笑い、互いに肩を叩き合う。市場から駆けつけた者たちも混じり、港は騒がしいのに、どこか穏やかだった。
「……守れたな」
セレスティアが剣を収め、深く息を吐いた。
アリアが笛を腰に差し、「喉が乾いた」と笑う。
ミラは札を一枚撫でて、「青い結びがなければ無理でした」と呟く。
フロエは柄板を軽く叩き、「今日の拍は、ちゃんと残る」と言った。
封糸の女は、木札の残骸を握りしめたまま俺を見た。「……外の歌はまだある。だが、あなたたちとなら“ほどけ”を共有できる」
俺は砂時計を返した。銀線は静かに落ち、重さは増していない。むしろ軽い。逃げ道が確かに繋がったからだ。
沖の水平線に、再び霧がかかり始めていた。だがそれはもう、昨日を返す歌ではなかった。ただの、海の息。
祖父の声が脳裏で響いた。
やり足りないで終えろ。次の線が、次を呼ぶ。
俺は針を懐にしまい、青い結びを解かずに握った。
次はどんな歌が来ても、ほどけるように。
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