第十話「朝の市、運用の机」
朝の市は、夜よりも静かだ。声はあるのに、まだ背伸びをしていない。屋台の天幕が上がるたび、布の折り目から寝癖みたいな影がこぼれ、石畳の冷たさをやわらげていく。
——その真ん中で、良い歌が走っていた。
アリアが笛を腰に差したまま、口笛で低い基音をなぞる。「合ってる。これは“起こす歌”。誰か、うまい」
ミラが頷く。「“小路の歌”を、ちゃんと人に返した人の手です。袋の匂いがしない」
屋台の影から現れたのは、昨夜広場で袖に青い結びを付けてやったあの子と、その母親だった。子どもは胸を張り、母親は困ったように笑いながら、その拍に皿を並べる手を合わせている。
俺は砂時計を返し、《観測》を浅くひらく。銀線が「起こす歌」の骨を描く。前へ押さない、後ろへ引かない。半拍、呼吸を置いて、自分で立つための拍だけを渡す——見事だ。
アリアが肩で小突く。「褒めてあげなさいよ、先生」
「……いい歌だ」
しゃがんで目線を合わせると、子どもは照れてつま先で石をこすった。「おにいちゃんが言ったもん、『ひとりで歌わない』って」
そう言って、子は母の裾を引く。母親が続いた。「夜の騒ぎ、見てたよ。こっちは怖かったけど、朝はね、歌って起きるのが昔からだったのを思い出したのさ」
“昔から”。祖父の裏帳面にびっしり書かれた市井の癖が、指先の体温でめくれる気がした。人に縫うとは、つまりこれだ。返せば勝手に歩き出す。
そこへ、紺の外套が二つ。セレスティアと、少し目の下に影を作ったグラール執政官が現れた。夜明け前から開かれていた「運用の机」は一旦散会。実地の確認に来たのだ。
セレスティアが子どもに膝を折り、短く礼をする。「あなたの拍、助かった」
グラールは黙って歌を聞き、やや遅れて小さく息を吐いた。彼の視線は金糸や紋ではなく、人の肩と肩の間に落ちている。
俺は立ち上がり、運用の机で決まった最初の要点をそのまま口にした。
「所有しない、運用する」
「稽古に落とす」
「青い逃げ道を必ず結ぶ」
「やり足りないで終える」
セレスティアが続ける。「それから——公の失敗だ。王城もギルドも、失敗の記録を袋ではなく掲示で出す。真似るために。今日は市場の掲示板をひとつ借りた」
グラールは短く咳払いした。「……私からも、ひとつ」
彼は懐から薄い紙片を取り出し、俺へ差し出す。王城の書式だが、端が破れている。
「十七年前、王の歩幅が貸与された夜、私は一つの文を削除した。『王は人の中に散れ』だ。混乱を恐れた。正しさを守ったつもりだった。だが、昨夜それが縫い代を失わせていたと知った。——負い目として、ここに残す。運用してくれ」
紙片には、祖父の筆致に似た補記が、ごく薄く残っている。削除の跡を《観測》でなぞると、銀線が一瞬だけ咳をするように震えた。
俺は青い糸を取り出し、紙片の端に小さな結びを作る。「受け取る。鎖ではなく柄として」
うしろから、フロエと白頭布の“間の者”が柄板の包みを抱えて追いつき、工匠は大工とともに簡易の踏み板を六枚運んできた。ミラがそれぞれに札を配る。
市場の真ん中に、二十歩四方の“稽古場”が生まれた。
「『運用の机』を、外へ持ち出す」
セレスティアが広場に向けて声を張る。騎士の声ではない、人への声だ。「王城でも議論は続ける。だが、決める前に動きを見たい。——歩幅見本市を始める」
ざわめきが笑いに変わる。「見本市ね」「買えるのかい、その歩幅」「あんたにゃ少し長いよ」
アリアが笛を持ち上げ、最初の見本を鳴らす。「行列のための半拍」。並ぶのが苦にならない、公共の拍。
ミラは「手代の値踏み」を薄く。押し売りにならない、誇りを傷つけない断り方の癖。
フロエは柄板で「雨支度」の型を見せる。濡れないために、街全体で片寄せする足の稽古。
工匠は戻した芯の切れ端から、「稽古の王歩」を半拍だけ披露した。王の歩幅の稽古版……つまり、誰でも一瞬だけ“王であろう者”の責任を思い出せる拍だ。
俺の番が来る。胸の砂時計は静かに重い。やり足りないで終える——覚悟を噛み直す。
「『ほどけやすい約束』」
俺は青い糸を掲げ、結び方を見せる。堅牢でも、解散でもない結び。市場の端と端、王城と工房、封糸とギルド、王と執政官。それぞれの立場を縫い、逃げ道を必ず残す結び。
結び目は小さく、緩く、強い。
老舗の主が笑い、若い荷担ぎが真似る。朝の空気が、拍の中でひとつ深くなる。
そこで、灰色の外套がひらりと端に立った。昨夜の合唱の縫い手——ではない。沈黙で来ると言って、運用の机に座った別の封糸の女だ。彼女は針を持たず、小さな木札だけを掲げた。
「封糸の“ほどけ”」
女は言う。「袋の口の縫い方ではなく、ほどき方を教える。私たちの負い目だ」
市場が静かになり、次の瞬間、あちこちで乾いた小さな拍手が起きた。袋しか知らないはずの連中が、ほどくを学びに来ている。
セレスティアがその輪を見守り、グラールは黙って紙片を掲示板に打ち付けた。削除の告白と、今朝の運用決定の要旨が並ぶ。
……運用の机は、もう机ではない。場になった。
俺は祖父の針を軽く鳴らし、砂時計を返す。銀線は、王城の記章の間にも伸びて、王が半拍休む姿を薄く映す。
散れ。集まるな。
余白の一文が、市場のざわめきと重なる。
* * *
午前の稽古が一段落した頃、港の方角から低い鳴りが届いた。潮ではない。合唱でもない。地面を撫でる、長い長いうなり。
フロエが耳を傾け、白頭布の男が視線だけで北西を示す。「海鳴りの歌。封糸ではない。外だ」
ミラの指が小さく震える。「記録喰いの風……砂嵐の“歌”かもしれません。おじいさま、辺境の頁に注意書きを」
セレスティアが短く号令を飛ばす。「運用の机、第二段。市は私と騎士団で守る。《線引き》は港へ。封糸——沈黙の縫い手は同行を。『ほどけ』の技は外に強い」
グラールが躊躇い、一拍遅れて頷く。「王へ報せは私が。『王は人の中に散れ』——港へも散る」
市場の子どもがまた袖を引く。「おにいちゃん、港で歌えるよ」
「ひとりで歌わない」
言いながら、俺はその手に青い結びをもうひとつ作った。「ほどけやすく。合図を聴いてから」
アリアが笛を肩に担ぎ、ミラが袋を三つ選び、封糸の女は木札を懐にしまい、フロエは柄板を軽い方へ入れ替える。白頭布の男は何も言わず、通りの風を見た。
砂時計は今日いちばん重い音を立て、しかし井戸はまたひとつ深くなる。
「行こう」
俺は祖父の針を懐に落とし、青い糸を手首に結び直す。小さく、緩く、強く。
《線引き》は市場から港へ向けて歩幅を置く。
王都は布。記録は癖。人は柄。
針は両刃。だからこそ、外にも届く。
——次章「海鳴りの歌、砂の記録」へつづく。
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