第19話『八方美人』
「大丈夫ですか?」と言う問いに、「怪我はありません」と誤魔化したものの、やはり草花は誤魔化されなかった。
むしろ、あんな言い回しで誤魔化される方がどうかしているのかもしれないと、今更ながらに早瀬は思い、子供騙しの返答に反省する。
かつての主と別れ、草花と二人で帰って来た庵。見えなくても分かっていた。夕餉の支度をしながら草花が何かを言いたがっていることは。
見えない分、敏感に感じていた。だが、あえて早瀬は気付かない振りをして促すことはしなかった。
草花が自分の正体を隠していたことを惺流塞に暴かれてしまい、そのことを気にしているのだと、何となく察する。こればかりはいくら早瀬が「気にしていない」と言ったところで、安心出来るものではないのだろう。
早瀬は庵の入り口の前で刀を正眼に構え、素振りを繰り返しながら考えていた。
先ほどは自分自身の命を掛けて、惺流塞に草花を狙うのを止めてもらった。
だが、一旦は聞き入れてもらえたものの、きっと惺流塞は草花の元へやって来ると早瀬は確信していた。
若は頑固なときがあるからな……。
素振りをしながら昔のことを思い出して苦笑する。
惺流塞は基本的にあまり物事に動じたり、物にこだわりを持ったりしない。ただ、時折反動で手に入れることが困難なものや、どうにもならないことを貫こうとすることがある。
いくら言い聞かせても聞き入れてもらえず、結果、危険なことをして怪我をして見たり、死に掛けたりする。当然のことながら、それを未然に防ぐのが早瀬の――李朴としての仕事だった。
かつて惺流塞は絵師になることを父親や兄達に猛反対され、絵師の元へ行くことを禁止されたことがあった。当時の惺流塞は意地になって屋敷を脱出し、絵師の元へ行こうとした。だが、それが未然に発覚してしまい、蔵に閉じ込められた。初めこそ扉を叩いて出して欲しいと訴えていたが、やがてそれが途切れた。
少しは反省したのかと、蔵の外で様子を窺っていた面々が思っていると、中から盛大に何かが崩れ落ちる音がして来た。慌てて鍵を開けて中へ入ってみれば、そこには棚によじ登り、結果、そこにあったものを落としてしまって固まっている惺流塞の姿があった。
気まずげな惺流塞の眼と、唖然としている父親の目が合った。
何をしているのかと訊ねれば、「棚をよじ登った先にある明かり窓から出ようと思っていた」と当時十一歳の惺流塞は拗ねたように言った。
落ちたらただではすまない位置にある明かり窓。そこまで辿り着いたら布を伝って降りようとしていたのか、手には蔵に収められている品々の埃避けに掛けられていた布が握り締められていた。当然のことながら雷が落ちた。後ろ手に縛られて、足まで縛られた。
何もそこまでしなくてもと思ったが、そこまでしなければ惺流塞は自分の身の安全など考えずに行動するのだ。それは父親として惺流塞の安全と反省を促すためのギリギリの処置だった。
さすがにさすがに手足が縛られ、身動きも取れなくなってしまった惺流塞は大人しくなった。これで大丈夫だろうと誰もが思い、蔵の前に早瀬を置いて誰もがその場を後にした。しかしそれは早計だった。
暖かな気候を提供してくれていた太陽が沈み、夜の帳が下りきったとき、見張りを言いつけられた早瀬が、蔵の前の樹に背を預けて見守っていると、するすると明かり窓から一本の荒縄が降りて来た。
一瞬早瀬は目を疑った。近付いてよく見れば、大体同じような間隔で荒縄には結び目が付いていた。まさかと思った。そのまさかだった。
一体どうやって縄の戒めから逃れたものか、自由になった手で明かり窓の格子に手を掛けて、外を窺い見る惺流塞の顔が覗いた。
思わず「若」と声を掛けてしまった。
一瞬、惺流塞がビクリとするが、直ぐに早瀬だけがそこにいるのか確認し、そうだと答えると「皆には黙っていてくれ」と前置きして、何処から取り出したものかゴリゴリと
出来ることなら蔵の中に入って止めさせたいところだが、屋敷の大旦那である惺流塞の父親は、早瀬に見張りは頼んだが蔵の鍵までは預けていかなかった。
まさか惺流塞が戒めを解いて脱出しようとするとは思っても見なかったのか、単純に早瀬に大切な蔵の鍵を預けたくなかったのかは分からない。後者だけの理由かもしれないし、両方かもしれない。単に渡し忘れただけかもしれない。今となってはどうでもいいことではあるが、その瞬間はもどかしかったことを、今でも早瀬は覚えている。
(結局若は脱出してしまって、屋敷を抜け出して私を連れて絵師の元へ飛んで行ったんですよね。
その後帰って来るなり大旦那に二人で怒られて、二人でまた閉じ込められましたね)
とても懐かしい思い出だった。
釈放されて再び顔を合わせれば、惺流塞は泣きながら謝ってくれたが、その後も絵に関してだけは意地を貫き通して父親と何度も衝突を繰り返していた。
それ以外で惺流塞が父親と衝突している場面を、早瀬は見たことがなかった。
一番酷かったのは、父親が惺流塞の絵の道具を燃やしてしまった後に、惺流塞が道場にある木刀全てを燃やし尽くすと言う報復に出たときが一番酷かっただろう。だが、それ以降、再び絵の道具を買い与えると反抗が和らいだ。
それだけ惺流塞は目的のためなら形振り構わず危険も承知で行動する。
お陰で今、惺流塞は本物の絵師になれたと言っていた。夢を自分の手で叶えたのだ。
早瀬は自分のことのように嬉しかった。その思いに嘘はない。心の底から祝福はするし、是非とも見てみたいと思ってもいる。だが、早瀬が惺流塞の絵を見ることはできない。
だからこそ、惺流塞は色鬼を狩っているのだろう。一つでも多くの色を取り戻して、早瀬に自分の描いた絵を見せたいのだ。
その心意気がとても嬉しかった。いつも自分のことを気に掛けてくれることが嬉しかった。いっそのこと、あのまま惺流塞と供に帰っていれば、もしかしたら惺流塞は草花を諦めてくれていたかもしれない。
今もあの瞬間も、その考えが拭えない。どうしても、このまま付いて行くことが出来なかった。故に、自問自答する。どうして付いて行ってやれなかったのか………。
それこそ、付いて行ってしまえば、惺流塞が草花を諦めてくれるように頼めたかもしれない。何故、行けなかったのか分からない。
きっと惺流塞はここまでやって来るだろう。早瀬だって薄々は分かっていた。自分のいる場所が普通の場所とは違うところにいるということは。
時々歩いている途中に、何かを通り抜けるような感覚を覚えることがある。肌から感じる空気がひんやりとして、まるで違う空間に踏み入ったような気がするのだ。本能的に違う空間に入っていると分かった。
一人で出歩いているときはそんな感覚を味わったことはない。一人で歩いているが故にその場所まで辿り着いていないだけかもしれないが、常に草花と一緒のとき感じるものだ。
草花がいなければ辿り着けない場所なのかもしれないし、草花が招かなければ辿り着けない場所なのかもしれない。だとしても、惺流塞ならやって来ると、どこか漠然としながらも確信めいたものが早瀬にはあった。
一旦は不承不承に見逃してくれた惺流塞。だが、今頃は反動で怒り狂っているだろう。
早瀬は色鬼たちのことも、結果的には切っ掛けを作ってしまった惺流塞のことも怨んではいない。たまたまそういう境遇に陥っただけで、誰の所為ということもない。
確かに、『虹玉』を触ろうとしたのは惺流塞だった。早瀬が庇わなければ、色を奪われていたのは惺流塞だっただろう。そうなっていれば、絵師としての夢を絶たれた惺流塞の落胆や絶望は想像に絶する。それを防げただけで早瀬は満足だった。
そう。早瀬は自分の意思で惺流塞を庇ったのだ。これは自分で勝手に招いたものなのだ。誰の所為でもない。惺流塞が自分を責めることもないし、草花も責任を感じる必要もない。自分がやりたいようにやった、ただの結果に過ぎないのだ。
そこまで考えて、そうかと納得する。自分が何故草花の元へ残ったのか。
草花は独りなのだ。早瀬と惺流塞は離れていても互いのことを考えていた。離れていても常に傍にいるような状態だった。
だが、草花は独りだ。早瀬が助けてもらったときから草花は独りだった。
声から察して妙齢の女性だと言うことは分かっていた。いくら眼が見えないからと言って、そこに男が一人入り込んでいるのは、世間的にも問題があると言う程度には常識を弁えている早瀬にしてみれば、一刻も早く出て行くに限ると思っていた。
だが、あまりにも草花は孤独だった。完治していないから暫く休んでいて欲しいと言われて養生させてもらっていたが、草花の元を訪れる親しい人間はいなかった。
今にしてみれば、親しくなって正体が知られてしまうことを危惧して意識的に親しくならないようにしていたのかもしれないが、やって来るのは薬を求める患者だけ。
元気になってしまえばやって来ることは無かった。
それですら毎日誰かがやって来るわけではない。来ないときは何日も何日も誰も来なかった。流行風邪か何かが流行ったときはひっきりなしにやって来てはいたが、そこに孤独を埋める者はなかった。
一度だけ、草花は「早瀬さんが来てくれてよかった」と言ってくれたことがあった。
誰かと普通に時を過ごせるとは思っても見なかったと笑っていた。
孤独は人を寂しい人間にしてしまう。謝った方向へ導いてしまうこともある。
自分がいる間でも、寂しさが紛れるのなら、助けた恩返しに傍にいてあげようと思った。
別にそこに恋愛感情があったわけではない。正直早瀬には男女の間に起こる恋愛感情が今一よく理解出来ていない節がある。早瀬にしてみれば惺流塞にしろ草花にしろ、大切だから守ってあげたいし、出来ることなら傍にいてやりたいのだ。
かつて誰かに言われたことがある。それは優しさではない。時にはとても残酷な仕打ちになると。嫌でも誤解を招いてとんでもないことになると。
今になって、こういうことかと納得する。
八方美人。
これは自分のためにある言葉なんだと早瀬はしみじみと思った。
人はよく早瀬のことを「優しい人間」と称するが、早瀬自身はそんなこと思ったこともなかった。それこそ真逆の人間だと思っていた。
優しい人間がこんな状況を生むはずがない。
恩義のある二人を守る振りをして、結局は両方を傷つけているに過ぎないと言う自覚はある。だが、他にどうしようもなかった。
だからこそ思う。惺流塞がやって来たとき、自分は惺流塞に刀を向けることが出来るのかと。
以前は―― 一緒にいた頃は、断然早瀬の方が力も上背も技術もあったために稽古したとしても早瀬が勝っていた。
だが今は、早瀬の目は相手の太刀筋など見ることが出来ない。ごろつき相手ならそれなりに空気の流れや気配で何となく相手をすることも出来たが、惺流塞は子供の頃しっかりと稽古を受けている。
今でこそ絵師として活躍できているようだが、今もしっかりと稽古をしていたなら、その実力差がどれだけ縮まっているか想像できない。
早瀬は惺流塞を傷つけたくないのだ。同時に、惺流塞に傷つけられたくもない。
もしも惺流塞によって自分が負傷するようなことがあれば、それはそのまま惺流塞自身をも傷つけることになる。
傷つけた瞬間はいい。「だから言わんことじゃない」と激情に流されたり浸っている間はいい。ただ、それらが静まり冷静になったとき、自分の行動を省みたとき、おそらく惺流塞は自己嫌悪に陥るだろう。後悔し打ちのめされるだろう。
そうならないのであればそれこそ構わない。早瀬自身の考えがどうあれ、惺流塞にしてみれば立派な裏切り行為を行ったのだ。それなりの罰は受けなければならない。
だが、もしもそうなるのであれば、そうなる可能性があるのならば、早瀬は傷つけることなく勝たなければならない。
勘や本能で相手を
それを考えると、知らず知らず眉間に皺が寄っていた。
だとしても、やらなければならないことだった。必要なことだった。大切だと思う者のために自分が出来ることをしなければならない。
自分がもっと器用な人間だったなら、もっといい解決方法があったんだろうな。
と、自身の不器用さを今更ながらに改めて実感する。
それでも、早瀬は欲張りな自分の望みを叶えるために出来る限りにことをするつもりでいた。惺流塞が本気で来るのなら真っ向から受けて立つ。その上で傷つけないようにするだけだ。
気持ちを引き締め、刀を振り下ろす。
刹那、早瀬は草花に名前を呼ばれた。
どうかしたのかと顔を向けると、震える声で草花は告げた。
「あの人がこちらにやって来ます。結界を無理矢理開いてやって来ます」
やはり来たか。
苦いものを飲み込むように一度静かに眼を閉じる。気持ちを落ち着ける。
もう少しで、早瀬は再び惺流塞と邂逅し、対峙するのだ。
一度刀を振り払い腰の鞘に戻すと、早瀬は目を開いて草花に微笑を返した。
ちゃんと安心させられる笑みを浮かべられているかと思いながら告げる。
「大丈夫です。ちゃんとあなたを守りますから」
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