第5話『女のたたかい』
「惺流塞さまぁ~。ようやくお会い出来ますわぁ」
トタトタトタと廊下を小走りに走って来る音と、抑え切れない喜びを滲ませた声が近付いて来る。
この宮乃。言い寄っては来るが約束は守る女だった。絵の取引と画材の受け渡しの月二回以外は、創作に打ち込むために来ないで欲しいと言う約束を律儀に守り続けているのだ。
他の人間は欲に目が眩んだものか、約束を守らなかった。その点でも取引をするつもりがないと言って切って行った結果、結局宮乃だけが取引相手として残ったのだ。
一度でも約束を違えたら……と思っていた惺流塞にしてみれば意外なことであったが、ある意味好感は持てた。
だとしても、そんな素振りを一つでも見せたなら、宮乃がどう出て来るか想像に難くない。故に惺流塞は甘い顔を見せることはなかった。
「惺流塞さま! ようやくお会い出来ますわ!」
淑女の礼儀もどこへやら。豪快極まりなく襖を開けて飛び込んで来る宮乃。
それに対して惺流塞も矢を放つように鋭く言い放つ。
「踏むなよ」
刹那。ぴたりと宮乃は動きを止めた。もしも止まれずに踏んでいたなら最後、怒鳴りつけて追い返してやろうと思っていたが、感心するほど反射神経がよく、残念ながら追い返しそびれる。
「おほほほほ。ご機嫌いかがですか惺流塞さま? 筆の方は進みました?」
無言で見られていることに耐え切れなくなったものか、今更のように口元に手を当て、淑やかぶりつつ近付いて来る宮乃。だが、それすら長くは続かなかった。
「………って、まぁた居たわね、小ダヌキ」
惺流塞の横にいる小珠を睨みつけるようにして見下し、忌々しげに吐き捨てる。
逆に、小珠は小珠で「また来たのか!」と言わんばかりの表情で睨み返す。
片や十代半ばの娘。片や三歳ほどの
上下から繰り出される見えない火花が空中で弾け飛んでいた。
大人気ないと言えば大人気ない態度だ。だが、宮乃にしてみれば自分の代わりに四六時中惺流塞の傍にいることが気に入らなかった。
しかも、頭を撫でてもらったり抱きかかえられていたりしているのかと想像するだけで腹立たしいものがあった。
たかが小ダヌキの分際で、私の惺流塞さまの傍にいるなんて!
出来ることなら自分が常に惺流塞の傍にいたいと思い願っている宮乃にしてみれば切実なことだった。
きっとこの小ダヌキはメスよ。きっとそうに違いないわ!
そこに年の差などと言うものは存在しなかった。これは小珠と宮乃。二人の女による惺流塞を巡る戦いだったのだ。
出来ることならさっさと屋敷から追い出したいと思ってはいるが、残念ながら宮乃はただの部外者だ。それに対し、小珠は仮にもこの屋敷に住んでいる。立場的には断然小珠の方が強い。
それに、一体小珠の何が気に入っているものか惺流塞が唯一追い出さない存在だ。勝手にそんなことをしようものなら、自分の立場が益々悪くなるだけ。
それが分かっているからこそ、宮乃は小珠と睨み合うことしか出来ないのだ。
だが、それすらも惺流塞の溜め息一つで終わりを告げられる。
「毎度毎度、よくも飽きずに睨み合いが出来るものだな」
完全に呆れ返った声音だった。
宮乃を見る惺流塞の眼はどこまでも冷ややかだった。
だが、その冷ややかな眼差しすらも宮乃にしてみれば心を奪われる要因でしかない。
あまりに陶然となって見ていると、惺流塞の眼に訝しげな感情が過ぎるのが見て取れた。
このまま見ていては視線すら合わせてもらえない! という危機感ぐらいはまだ残っている宮乃は、ハッと我に返って場を取り繕うことにする。
「そ、それが今回納めていただける絵ですか?
って、凄い。何て存在感のある鷹………。まるで本物を紙に閉じ込めたようだわ」
後半は殆ど素に近い感情だった。それこそ惚れ惚れと、しみじみと眺めて紡ぎ出される言葉だった。
「これだったらどれだけの値がつくかしら……。あの人なら……いえ、あの商人に仲介させればもっと」
口の中でぶつぶつと算段している宮乃。こんなとき、宮乃は先程までのはねっかえり娘ではなく、商人の顔つきになる。
頭の中で凄まじい計算が巡っているのだろうと、何気なく自分の傍で絵を覗き込んでいる宮乃を見て惺流塞は思う。だが、
「残念ながらこれは原画だ。複製はまだ描いていない。よってこれは今回持って行くことは出来ない」
「ええー」
こんなとき、宮乃は素直に不満の表情を一瞬覗かせる。
「だったらどの絵を提供して下さるのですか?」
欲しい玩具を取り上げられた子供が代償を求めるように口を尖らせて問い掛ければ、
「いつもどおりその辺の物を好きなだけ持って行けばいい」
惺流塞は畳の上に散らかした絵を顎で指して素っ気無く答えた。
あまりに素っ気無い言葉に一瞬何かを言い掛けて、口を何度か開閉させた後盛大に溜め息を吐く宮乃。
「そうですよね。ええ。そうですとも。いつものことですもんね。分かってはいるんですよ、私だって。だって、いつものことですもん」
ぶつぶつと自分に言い聞かせながら、畳の上の無数の絵の中から、売れそうなものとそうでないものを分けて行く。
惺流塞はきちんと描いた絵もそうでない絵も一緒くたにしてしまっている。その中から売れそうなものを選んで売りさばくのが宮乃の仕事だった。
面倒だと言えば面倒ではあるが、自分だけが惺流塞が描いた全ての絵を見ることが出来るのだと思えば、これほどまでに恵まれた環境や状況はないだろう。
惺流塞は不思議な絵の売り方をする絵師だった。原画と呼ばれる一枚を完成させると、それを元に原画とは違う色使いや塗り方で何枚もの複製を描く。お陰で同じ構図にも拘らず何通りもの違う雰囲気の作品が出来ていく。
それぞれが一点物。同じ物は二枚としてない。故に、蒐集家の間では何種類の絵を集められるかが競われ、値段が天井知らずに登ることもある。それ故に宮乃は同じ構図の絵は全て持ち帰ることにしていた。
その他には単色で描かれた動植物などはお手ごろ価格で販売出来るため、庶民の間でも買い手がつく。金持ちから庶民まで。誰にでも幅広く商品提供したいと思っている宮乃にしてみれば――惺流塞本人にしてみれば、些細な筆慣らし程度の落書きだとしても立派な商品価値がある。
それ故に、片付けながら集めて行くと、結局殆どを持ち帰ることになる。
集めるだけ集めて、懐から淡い萌黄色の風呂敷を取り出し、丁寧に包む。お陰で座敷がとても片付いた。
私は別に掃除屋じゃないんだけどな……とも思うが、亭主の部屋を片付ける妻の役だとでも思えば自然と口元が緩んだ。
自分は何て幸せなのだろうと思う。自分以外の誰一人としてこの特権を行使できる人間がいないのだから、その優越感と来たら身震いするほどだった。
だが、そんな高待遇にも関わらず、宮乃はどうしても気になることがあった。
どれだけ素晴らしい絵だとしても、自分が手にするものは全て複製だ。惺流塞はけして原画を売りに出したことがない。出したことがないということは手元にあるということだとは思うが、保管している場面を見たことがない以上、本当に自分以外の誰にも惺流塞は絵を渡さずにいてくれるのかどうかが気になって仕方がなかった。
別に自分以外の人間に商品を流していたとしても、それは自分の魅力や力のなさの所為だと判断できるため惺流塞を責めるつもりはない。ただ、自分が手に入れたことのない原画を持って行っている人間がいるかもしれないということが悔しくてたまらなかった。
一応市場には原画と思しき物は出回っていないことと、惺流塞のような変人に付き合える人間が自分以外にはいないと思っている自負から、おそらくそんなことはないとは思うが、完全にその疑念を晴らすことは出来ない。
思い切って聞いてみようかどうか迷う。
だがもし、聞くことによって惺流塞との信頼関係が崩れてしまったら……という危惧がある。危惧はあるが、そう思ってからふと気が付いた。
良く考えたら、信頼関係云々は私が思っているだけで惺流塞さまはあまり気にして
いないかもしれないわ――と。
ある意味悲しい結論に、我知らず悲しくもなったりするが、逆に怖いものがなくなる。
よし。聞いてみよう!
宮乃は意を決して訊ねてみることにした。
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