3章_高尾山。心の天気予報、曇り、時々晴れ。

13話:先輩の置き土産は、カビ臭いアドバイスと高尾山。


「富士山、登ろう。……ちゃんと、今度はてっぺんまで」

 あのとき、そう口にした。


 確かに自分で言ったはずなのに――

 それからずっと、胸の奥でその言葉が静かに重たくなっていた。

 登るって、そんな簡単なことだったっけ。


 前回の裏山。

 ただの校舎裏の山なのに、雨とぬかるみと不安に飲まれて、途中で引き返した。

 それでも得られたものはあったけれど、じゃあ「今度は富士山」なんて、本当に言えるのか。

 私は、まだ――。


「――というわけで、富士山の前にまずは低山トレーニング行こう!」

 放課後の部室。

 窓の外では、雨上がりの湿った空気が残り、若葉の香りがほのかに漂っていた。

 夕焼けの光が薄く差し込む中、菜摘がいつもの調子で話を切り出した。


 その声に、現実に引き戻される。



 私は、開いていたノートパソコンの画面から顔を上げた。

 富士山の登山ルートをぼんやり眺めていたけれど、今の私たちにはまだ、遠すぎる目標だ。


「低山って……どこかあてあるの?」

 私が尋ねると、菜摘は「うーん」と首をひねりながら、本棚に目をやった。

 そこには、あの黒いファイル――山岳部の古い部誌が立てかけてある。


「ねえ、あの部誌、見てみない? きっと昔の先輩たちも、最初は近場の山から登ったんじゃないかな」


「……そうかもね」

 菜摘の提案に頷き、私は部誌を手に取った。

 埃っぽい匂いと共に、インクのかすれた文字が目に飛び込んでくる。


 パラパラとページをめくっていくと、手書きの地図や、楽しそうなモノクロ写真が挟まれていたりする。


「あ、これ見て秋穂! 『高尾山:初心者向け、茶屋あり、景色良し! まずはここから!』だって。なんか、今の私たちにぴったりじゃない?」

 菜摘が、あるページを指差して声を上げた。

 そこには、確かにそんな記述と共に、山頂らしき場所でピースサインをする当時の部員たちの写真が貼られていた。


「高尾山……聞いたことはあるけど」

「『稲荷山コースは少しキツいが、達成感あり!』とも書いてあるよ。どう? 行ってみたくない?」

 菜摘は目を輝かせている。


 その隣で、私は部誌に書かれた情報を追った。

 標高、アクセス、コースタイム。

 先輩たちの手書きのメモは、ネットの情報よりもなぜか温かみがあって、信頼できるように感じた。


「……確かに、今の私たちにはちょうどいいかも。アクセスもいいし、万一体調が悪くなっても下山しやすいって書いてある」

「でしょ? よーし、決まり! 次は高尾山だ!」

 菜摘が嬉しそうに手を叩く。


 その単純さが少し羨ましくもあったけれど、私も異論はなかった。

 部誌には、先輩たちの楽しそうな感想と共に、「下山後の団子は最高!」なんて追記までしてある。

 高尾山の稲荷山コース。

 観光登山の代表みたいなルートだけれど、こうして先輩たちの足跡を辿ると思うと、少しだけ特別な響きを持つ気がした。


 登山の練習というより、「歩くことに慣れる」一歩目。

 そして、山岳部の歴史に、ほんの少しだけ触れる体験。


 無理をせずにすむ。誰にも注目されずに、自分たちのペースで登ったって言える。


 ――今は、それくらいがいい。


 菜摘と私――

 ふたりだけの、ちいさな「最初の山」。

 そのてっぺんで、何を感じるんだろう。

 私は、まだ少しだけ不安な気持ちを押し隠しながら、スマホのカレンダーに「高尾山登山予定日」と打ち込んだ。


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