12話:埃とカビの匂い。ここが、私たちの秘密基地。


「じゃあ次は――部室、掃除しとけよ」

 西田先生は、すっかり事務モードの声でそう言った。


「部室……って、あの、校舎裏の?」

 菜摘が少し目を丸くする。


「そう。しばらく使われてなかったから、たぶんひどいことになってる。掃除用具は貸すから、自分たちでどうにかしろ」

 先生はそう言ってメモを取り出しながら、ぽつりと付け加える。


「そういや、部長って決めたか?」

「……あ」

 菜摘が、気まずそうに私を見て笑った。


「私、最初にやろうって言っただけで、ほんとは部長とか向いてないし」

「準備とか、真面目にやれそうなのは水上だろ。俺もそう思うぞ」

 先生の軽い言葉に、私はとっさに否定しようとして――

 でも、やめた。


 私なんかにできるのか。

 そんな気持ちは確かにあったけど、でも、「じゃあやりたい子がやってください」と言われたら、私はきっと、手を挙げたかった。


「……じゃあ、私がやります」

 自分でも驚くくらい、自然にその言葉が出ていた。


「よっ、部長〜!」

 菜摘がふざけた敬礼をしてくる。

 私は目をそらして、小さくため息をついた。


「……からかわないで」

「へへ、ごめんごめん。でも、なんかうれしい。秋穂がやるって言ってくれるの」

 そう言って笑う菜摘の顔は、いつもの底抜けな明るさとは、ほんの少しだけ違う種類のものに見えた。



 ***



 夕方の第一校舎三階。

 例の、廊下の一番奥。

 誰も来ない、誰にも見られない場所。


 そこに、ひっそりと存在する「山岳部」の部室。


 ドアを開けると、――もわっ、と埃のにおいが立ち上がった。


「うわ、やば……」

 菜摘が思わず顔をしかめる。


 私は咳き込みながら、ゆっくりと中へ足を踏み入れる。

 窓は汚れてほとんど光が入らず、空気は重たく、何年も時が止まっていたようだった。


「こっち、棚あるよ……って、うわ、なにこれ、ザック? でか!」

「寝袋もある。しかも、たぶん現役で使える……干せば、だけど」


 ざらついたライトグレーのザック。

 無骨なアルミのフレームがむき出しのものもある。

 くるくると巻かれた銀マット、潰れかけのプラ容器に詰まった固形燃料。


「え、テントもあるよ! これ何人用? 重ッ!」

「ポールが錆びてなかったら奇跡だね」


 懐中電灯、ヘッドランプ、缶詰、コンパス、地図帳、ストーブ……

 まるで秘密基地のようなガラクタの山が、そこにあった。


 でも、どれも「ちゃんと登っていた誰か」が使っていた形跡がある。

 山で過ごした痕跡が、雑然とした物の間に息づいていた。


「ねえ秋穂……これさ」

 菜摘が、埃を払いながら振り返る。


「ちょっとだけ、わくわくしない?」


 私は、古びたヘッドランプを手に取り、ふ、と笑ってしまった。


「……少しだけね」

 本当に少しだけ。

 でもその少しが、今の私にはちゃんと意味がある気がした。

 部室の空気はまだ埃っぽくて、床はざらざらしていて、正直言って居心地は最悪。

 でも、それでも――ここが私たちの場所になるかもしれないと思った。


「……あ、こっちの棚、奥にまだ何かある」

 菜摘の声に振り返ると、彼女が棚の下段に手を突っ込んで何かを引っ張り出していた。


 ゴン、と鈍い音を立てて出てきたのは、一冊の黒いファイル。

 カバーの端が擦れて角が丸くなり、背表紙には手書きで文字が書かれていた。



「山岳部部誌 1989〜」



「……これ、昔の部員がつけてたやつ?」

 菜摘が目を輝かせて表紙を開いた。

 中には、手書きの登山記録、地図にメモされたルート、山頂で撮ったポラロイド写真……。


「うわ、ここ槍ヶ岳? え、すご……全部ちゃんと登ってるんだ」

「……この人たち、すごいね。記録とか、すごく丁寧」

 私たちは夢中になってページをめくっていた。


 やがて、ひときわ厚みのあるページで菜摘の手が止まった。

 そこには、海外遠征の記録が綴られていた。


「ネパール……? ヒマラヤ……?」

「うそ、エベレストって書いてある」

 息をのんだ。


 当時の部員が、OBとして登山隊に加わり、エベレスト・ベースキャンプまで行ったという記録。

 高度順応、氷河の描写、仲間との写真。


「……すごい、こんなの。夢あるじゃん!」

 菜摘が目をキラキラさせたまま振り返る。


「ねぇ、秋穂。うちらもさ――いつか、エベレスト行ってみない?」

「……」


「いや、今すぐは無理でもさ。大学とか、将来でもいいから。ここに書いてある人たちみたいに、『あの頃の山岳部の子たち、今エベレスト行ったらしいよ』って噂される感じ、よくない?」

 その目は、本気で言っている目だった。

 いつものノリじゃない、でも熱くなりすぎてもいない、ちょうどいい温度の、夢の話。


 私は返事をせずに、少しだけ視線を落とした。

 菜摘はそれを咎めることなく、ぽんと部誌を閉じた。


「……ま、とりあえずは――富士山くらいからだよね!」

 いきなり現実に引き戻された。


「なんでそこで富士山になるの」

「だって日本のてっぺんだよ? 山岳部の最終目標にはぴったりじゃん。夜明け見たい、山頂で!」

「夜明け……寒そう」

「それ! それそれ秋穂、そういうとこがいいんだって!」

 菜摘は笑っていた。

 でも、その言葉の奥にあった、最初の一歩の確かな重みを、私は見逃さなかった。


 エベレスト――その言葉はまだ遠い。

 でも、富士山なら。

 いつかじゃなく、ここから登れる山なら。


「……なら、まずはちゃんと計画立てないとね」

「え、それやってくれるの秋穂? 天才じゃん!」

「うるさい。装備リストとルートくらいは私が作る」

「うわ、マジでありがた~い! それ見て私がテンション上げる係やる!」

 笑いながら、また部誌を開いた菜摘。

 その隣で、私はそっとページを一枚めくった。


 夢と現実。

 無茶と計画。

 ふたりだから、バランスが取れる。


「富士山、登ろう。……ちゃんと、今度はてっぺんまで」

 小さく呟いたその言葉は、これまでで一番、自分の意志に近いものだった。


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