7話:泥と雨と、役立たずのポンチョ。もう、心が折れそう。


 登山口に着く頃には、全身がじっとりと湿っていた。

 もう笑えるレベルじゃない。

 雨に濡れるというより、雨に飲まれている気分だった。


 傘を差して歩けるのはここまで。

 ここから先は、舗装されていない泥の道。

 ぬかるみが靴の裏にまとわりついてくる。


「いよいよだね」

 菜摘が言った。

 無邪気に見えるその声に、ほんのわずかに息の乱れが混じっていた。



 私は、うなずくだけで何も言わなかった。


 ポンチョのフードはもう役に立ってない。

 顔にぴったり貼りついて、視界を奪ってくる。

 背中のリュックが嫌な重みを伝えてきて、太ももがじわじわと痛みを訴えてくる。

 足元なんて、最初の五分でもう終わってた。

 靴の中は水槽。靴下の感覚がない。


「……ほんとに、これって意味あるのかな?」

 喉の奥から漏れ出た声は、思っていたよりずっと冷たかった。


「あるっしょ。これで顧問GETできるんだから」

 菜摘は笑っていた。

 けど、さっきよりもその笑顔は作り物に見えた。

 それでも彼女は前を向いていた。迷いがないように見せていた。

 私は、ただその後ろ姿を見ていただけ。


 足元は泥でぐずぐずだ。踏むたびに音がして、まるで「戻れ」って言われてるみたい。

 落ち葉は滑るし、道の端っこは崩れている。道というより、罠だ。


「気をつけてねー。こっち斜めってるから滑るよー」

 菜摘が前を歩きながら、軽い声を投げてくる。

 その能天気な響きが、今はひどく耳障りだった。


「……うるさい、わかってる」

 自分でもわかるくらい、語尾に棘が混じっていた。

 ああ、ダメだ。疲れてる証拠だ。

 雨で冷えた身体の芯から、じわじわと心がささくれ立っていく。


 菜摘は振り返らなかった。

 たぶん、気を遣ってくれたのかもしれないけど……今は、それすら腹立たしかった。



 20分ほど登ったところで、木の根元に腰を下ろした。


 雨は止む気配を見せない。

 もうずっと、冷たい何かに責められているみたいだった。


 濡れた手でリュックからノートを取り出そうとして、やめた。

 こんな雨の中じゃ、とてもじゃないけど何も書けない。

 書くべき言葉も、今の私には見つからなかった。ただ、空っぽのページだけが重く感じた。



 ポンチョの中までしっかり濡れて、服が肌に張りつく。

 不快。冷たい。重い。痛い。

 誰にも言えない感情が、黙って心の奥底に沈んでいく。


 菜摘は何も言わずに、チョコを取り出して食べ始めた。

 その様子を見ていたら、なぜか無性に悲しくなった。

「普通」みたいに振る舞われると、自分だけが間違ってるみたいで、つらい。


「……おなか空いた」

 ぼそっと言った。

 自分でも、弱音を吐くのが下手すぎて嫌になる。


 菜摘は無言でチョコの袋を差し出してきた。


「ほい」

「……ありがと」


 ひとつ取って、口に放り込む。

 甘さが、舌の上でじんわりと広がる。

 けれど、それは何も癒してはくれなかった。


 沈黙。

 このまま、雨と土と一緒に、この山に沈んでしまいたいとすら思った。


「さっき、うるさいって言ったの、ごめん」

 謝っておかないと、何かが壊れそうな気がした。

 そう思って出した言葉なのに、声が震えていた。


 菜摘は驚いたように私を見て、それからふっと笑った。

「いーよ、疲れてるんでしょ。秋穂って、思ってるよりちゃんと真面目だもんね」


「……そういうの、今はいらない」

「……あ、ごめん」


 菜摘が少しだけ視線を落としたのが見えた。

 なにやってるんだろう、私。こんな風にしか会話できないなんて。


「……もうちょっとだけ登って、それで無理そうなら、戻ろ」


「そのちょっとが信じられないんだけど」

「まあまあ、信じて。ほんとに、あとちょっとだけ」


 その「ちょっと」がどれだけ遠いのか、私にはわからない。

 でも――


 こんな状況でも笑ってる菜摘の横顔が、ちょっとだけ、まぶしかった。


 私はため息をひとつついて、リュックを背負い直す。

 立ち上がった足に、じんと重みがのしかかる。


 でも、止まるわけにはいかない。

 止まったら、たぶん動けなくなる。


 頂上は、まだ見えない。

 そして、心の中のもやもやも、まだ晴れない。


 それでも、歩くしかなかった。


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