3.怒りの沸点
ミリンはポパイの腹にいる狐の顔をじっと見つめる。
さっきまでは腰が後退していたが、しばらく狐を眺めるうちになんとなく可愛く思えてきた。
ミリンの目には狐が息を吐くたびに黒い臭気が立ちのぼるのが見えており、明らかに悪霊なのは間違いないが、この憑き方といい、表情といい、なんだか愛嬌がある。
「あのさ、狐ちゃんはさ、どうしてよりによってこういう憑き方をしちゃったわけ?
もっと慎みにある憑き方ってゆうの、出来なかったかな?
だって、これだと、ポパイさんの腹はぽっこり膨らんで、メタボっぽくなっちゃうでしょ。もちろん、ポパイさんはもうそういう、外見は気にしないですもう別にっていう
ポパイさんが人目を気遣って、防寒着で隠したくなる気持ち、あたしはすっごくわかるなぁ」
狐はしゅるると舌を巻く。
そのときポパイが「あのう」と遠慮がちに口を開く。
「ボクに向かって悪霊退散の術みたいなのをやってくれません?
そしたらこの狐、いなくなるんじゃないの?」
颯真は「それはちょっと……」と顔を曇らせる。
「基本的に、人に行う術ではないのでどうなるかが未知数で……。もしかしたらポパイさん、成仏してしまうかもしれません」
ポパイは「え」と衝撃を受けた顔をする。
「嫌だよ、ボク死にたくないよ。まだやりたいこと、あるかもしれないし。
人生八十年のこのご時世に、こんな狐のせいで……嫌だよ嫌だ」
「ですよね」
ミリンがポンと手を叩く。
「まずは憑き物落としだけをやればいいじゃない?
それでポパイさんと狐ちゃんを切り離して、狐ちゃんだけ、祓う」
颯真はホッと胸を撫でおろす。
ミリンが正常な思考回路を使ってくれて安心したのだ。
「おい貴様ら」
ミリンたちの会話を聞いていた狐が、堪忍袋の緒が切れましたとばかりに低くてドスの効いた声で言った。
「我をなんだと思っておる? 狐の中の狐、かの安倍晴明も恐れた、狐の大怨霊ぞ。
小癪な貴様らなんぞ、どうにでもなるのだ」
「……安倍晴明、なんで祓ってくれなかったんだろ」
ぼそっと呟いたミリンの声を、狐は聞き逃さなかった。
耳をつんざぐような獣の遠吠えを上げる。
その時、オフィスの扉が開いて大股の足音がし――怜司が姿を見せる。
用事から戻って来たのだ。
狐は怜司を一瞥し、眉を顰める。
「おい貴様」
怜司に向かって呼びかける。
「貴様、さきほどまでなにをしておった?」
怜司は、人間の腹にくっついた狐の頭部が喋っている、というビジュアルに面食らいつつも、「あぁ」と狐の言葉に応える。
「仕事の付き合いも兼ねてジビエを食って来たんだ。新鮮な鹿肉。腕のいい猟師さんがいるらしくて……まぁ、ただの付き合いだよ。それよりおまえはなに?」
「……貴様、鹿を喰ったのか?」
「あぁ」
「なぜ喰った?」
「いや、だから付き合いで。腹も減ってたし」
「そうか、腹が減っておったのか。感謝はしたか?」
「もちろん、奢ってもらったからな、ごっつぁんです、って礼は言った」
「おのれ貴様!」
狐はひげを逆立てる。
「神に等しきお鹿さまの肉を喰らい、ごっつぁんですで済むと思っておるのか!?
なぜ感謝の儀をしない!?
我が眷属が聞いたら、怒りのあまり大地の全てを荒野にしてくれるわ!
この身の程知らずめ! 決めたぞ、貴様に憑いて呪い殺してやる!」
悪霊を煽り怒らせたと、
怜司が自分のやらかしに気が付いたその瞬間、狐の顔はどろどろに溶けた。
ポパイが「おぇ」と口から黒い塊を吐き出し、すると黒い塊は素早いスピードで怜司の足元から這い上がり彼の口の中へと侵入した。
怜司は苦悶の表情を浮かべ、倒れた。
「怜司さん!」
颯真は顔面蒼白になり怜司の肩を揺する。
「なにやってるんですか! 起きてくださいよ! よりによってあんたが憑かれるなんて!」
一方のポパイは、自身の腹部をぽかんと見つめ、狐の頭部が消えているのを見るや、歓喜の表情を浮かべた。
「やった! いなくなった! 体が軽い! どゆこと? これどゆこと!?」
小躍りするポパイを振り返り、颯真はやや疲れた表情で微笑む。
「ポパイさん、あなたはもう大丈夫です」
ポパイは「そなの?」と顔を輝かせる。
ミリンも頷いた。
「ポパイさん、帰っていいよ」
ポパイは「いまの、動画撮っておけばよかったな~」などと言いながら防寒着を着直し、手を振り振りしながら去って行った。
ミリンは「あれ?」と思った。あの防寒着は狐が憑いたせいで腹がメタボっぽくなったのを隠すためではなかったのか?
ミリンがポパイの動画を見て、彼が重度の紫外線アレルギーだというのを知るのは、また後日のことである。
颯真から「ミリンさんはもう少し、デリカシーという言葉を知った方がいいと思います」と言われるのも、だいぶ後日のことである。
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