5.佐藤明美
圭子に案内され、怜司は吉祥寺駅からバスに三十分揺られ、降りたところの住宅街を歩く。
夕焼けが空を染める。そんな時間になっているのにも関わらず、纏わりつく空気はもったりと重く、少し歩くだけで汗が噴き出してくる。
圭子はとあるマンションの前で立ち止まった。
白い外装はひびの一つもなく綺麗に塗られており、手入れされていることがうかがえる。
「ここです。101号室」
言って圭子が101号室のインターホンを押す。
「明美ちゃん? 圭子だよ。お友達も連れて来てるんだけど、いいかな?」
インターホンのスピーカーからは、がさごそと音がして、それきりなにも聞こえない。
圭子は
「ありがとう、明美ちゃん」
と言い、扉の取っ手をひねった。
中に入り、怜司は眉根を寄せた。
空っぽの1LDKだ。なにもない。
不動産と一緒に物件を下見にでも来たのかと錯覚する。
圭子は「ふふ」と笑い声をあげる。
「明美ちゃん、違うよ。彼氏じゃないよ。お友達。明美ちゃんとも、気が合うんじゃないかって思ってさ」
「看護師さんは? 昨日は来たの? 大丈夫? 困ってない?」
圭子は部屋の隅に駆け寄り、押入れの横のなにも置かれていない空間に向かって語りかける。
「あ、冷蔵庫? 見てみるね」
キッチンの方へと駆け寄り、宙で腕を引っ張る。冷蔵庫を開ける仕草のようだ。
「ゼリーが少ないんじゃない? 介護師さんに頼んでないの?」
「お粥でも作ろうか?」
圭子は、マットの一つすらない、誰も住んでいない部屋の中で一人芝居をしているように、怜司には見える。
「え? 明美ちゃん大丈夫? どこか痛いの?」
圭子は表情を歪める。
「明美ちゃん、どうしたの? ごめん、ごめんね。わたしが無神経だったよ。明美ちゃんが痛いのに、うるさくしちゃったね」
圭子は空気を撫でるようにする。
「背中、どう? こうやって擦ってれば、少しは痛いのがおさまるかな?」
途端、圭子は「え?」と驚愕したように口を半開きにする。そして口元を震わせ、瞳には涙が溜まる。
「なんで? なんでそんなこと言うの? もうすぐ死ぬからってどういうこと? なんで明美ちゃんが死んだら、わたしが幸せになるの?
痛いからだよね? 痛いからそういうこと言うんだよね?
ごめんね、わたしは明美ちゃんの痛みを代わってあげることが出来ないの。
そうしたくても、出来ないの」
怜司は静かにキッチンまで移動すると、蛇口をひねった。
水は出ない。
圭子は嗚咽を上げる。
「明美ちゃん、ごめん、ごめんね。
病気がそんなに悪くなってたなんて知らなかった。
わたしが、明美ちゃんの代わりに死んであげることは出来るけど、それで明美ちゃんはよくなるかな? よくなるんだったら――」
圭子は両手指で自身の首元を抑え――その手を、怜司は掴んだ。
「いつもこうなんですか?」
圭子は潤んだ目で怜司を見上げる。
「明美ちゃん、すごく状態が悪くなってます。これってやっぱりわたしのせいですか?
わたしが、変なボストンバッグを」
「違いますよ」
怜司は圭子を立ち上がらせる。
「今日はこのへんにしておきませんか? 看護師さんや介護士さんが定期的に来てるんだったら、あなたが心配しすぎるのも……ね?」
圭子は「でも、でも明美ちゃんが、でも、でも。お願いです! 明美ちゃんを見てあげてください! 明美ちゃんを! 明美ちゃんを!」と我を失ったように口走る。
怜司は圭子の腕を強引に引っ張った。
ここから出るのが先決だ。
圭子は激しく抵抗しながらも、怜司に引きずられてしまう。
怜司は圭子を押し出すようにして玄関から出ようとする。間際、耳元で声がした。
「邪魔をするな」
谷底から聞こえたのかのような、響きのある低い声だ。
怜司は苦笑する。
「無理だよ。放っておけなくなっただろ。自業自得だぞ」
「おまえを呪う」
「やってみな」
小声で言い放ち、怜司は扉を閉めた。
外に出ると、圭子が泣き崩れている。
怜司は手を腰にあてため息をついたあと、彼女の背中にそっと手を添え置いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます