二十五

 それは休んでいる途中の狄の軍の中を歩いて、その後方にある、物資を背に乗せた馬の前に来た時のことである。

 呂布は、その馬を見ると

──さすがに、北の馬は大きい

という風に思ったが、背に乗せた布袋の形が妙に歪だったことに気が付いた。注意深くそれを見てみると、時折、端のほうが小さく動くのがわかった。

──いのこでも載せているのだろうか

 最初はそう思ったが、豕にしては角張っている印象を受ける。

 どうにも気になった呂布は、近くに追従してきている狄の者に

「このふくろには、何が入っている」

いてみた。すると、その狄は極めて穏やかな顔で

「弱ったとりこを入れてるんだよ」

と、呂布に言った。

──そんなことをして、生かしておくことは出来ないじゃないか

 呂布はこの扱いを理不尽極まりないと考えたが、狄の方は、こんなものは当然ではないか、という素振りをして、寧ろ

「この袋の中を見てみれば良いじゃないか」

と、袋の端を解き始めた。呂布には其の行動の原理が解らなかった。

 袋の口が開くと、その中には瞼を閉じた瘦身の男が入っていた。数日、何も食べていなかったのだろう。肌が乾ききっている。唇も割れていた。

 このままでは、間違いなくこの男は死ぬであろう。嚢の口を開けた狄は、溜息をついていた。

──この男にも、惻隠の情はあるのだな

 呂布はそう思ってどこか安堵をしたが、しかし

「こんな役立たずを運んで、何になるんだろうな」

という言葉とともに、呂布のその想いというものは打ち砕かれた。先の溜息は、決して嚢中の弱者に向けられたものではなく、己を慰めるものだった。

 呂布は口に出して

──ふざけるな

と言いたくなった。だが、事を荒立てても己の得にはならない。寧ろ何も思っていないように見せかけて、逃げるときになって此の袋の中に入っている男もろとも逃げおおせてみせようと思った。

 そののち、男は

──もっと見るが良い

と自慢をしたくなったのか、軍の後ろのほうにたむろっている虜囚の中に呂布を連れて行った。手脚を縛られた何人もの痩せ細った者どもが呂布の方を、光った眼でうかがっている。その視線は羨みもあり、憎悪もある。複雑な光である。呂布自身に、その鮮烈な表情を持つ光を受けなければいけないほどの理由は無かったが、それでも心の何処かに痛みを感じるほど、強烈である。

 しかし、横にいる狄の男はどうであろう。これが当然だと言いたそうなほど、平然としているように見えた。そも、彼らが奪っていこうとするのは食物や財宝ばかりではない。人もまた、その対象なのである。そのことが、呂布には解っていなかった。

──これが、戦というものか

 呂布は己が持ち得る才に気が付いている。それはすなわち、戦の才である。人よりも人を殺し、軍を率いて軍を撃つ才に長けている。そして、人よりも大きな器を得ている者には、それを生かす責務がある。

──しかし

 これが己が生かされる場所の現実であると見せつけられた時、心が揺らいだのも確かであった。


 ときは夜である。

 呂布は共に捕らえられた者とともににわびの傍で思案に耽っていた。

 日暮れからは二更が過ぎていたが、脳裏に廻る様々な情景が眠ることを妨げていた。

 風の音が騒がしく聞こえる。

──どうせであれば、他の虜囚も含めて逃げ出せないだろうか

 そう思いはするが、己が何か小賢しい策を弄せるほどの状況では無い。余りに敵が多すぎる。敵中で矛を振るっても、先は見えている。

 敵を減らすことが出来ないならば、味方を増やすことが先決であろう。いま味方になりそうな者といえば、やはり虜囚どもに他ならない。そう思った呂布は、李粛りしゅく

「適当に言い繕って、再び虜となっている者に会いに行けないか」

と、持ち出した。

「困ったな」

 李粛はそう言いながら遠い目をしたが、ふた言目に

「俺が行くのが一番いいだろう。弟が行くよりは警戒されることは無い」

と、虜囚のもとに行くことを承諾した。

──いいのか

 とは、敢えて言わなかった。一見して気の弱そうな者が行くのなら、狄たちの気性を考えても侮られはすれ、企みを察されることは少ないはずである。呂布にとっては、なんとなくそれが分かった。

 李粛のその後の行動は巧みであった。翌朝のことである。李粛は次の日の行軍に向けて慌ただしくなっている内に虜囚を見張っている狄兵のもとに行って

「あなたたちの戦果を今一度、見てみたい」

と言った。狄兵は新しく入ってきた者たちが己らの戦利品に興味を持ち得ていることを知って、これを誇る気分と、虜囚を見張る緊張を解したい気分が大きくなり

「よかろう、よかろう。存分にていくが良い」

と李粛に告げると、李粛の方からは目を背けた。

──これはしめた

 と思った李粛は、即座に一人の虜囚の傍によって腰を落とすと

「必ずや、俺たちは助けに来る。それまでの辛抱だ」

と伝えた。伝えられた虜囚は

「助けに来るといっても、いつ来るんだ」

と聞き返してきたので、李粛は

「明日だ。明日に来る」

とだけ伝えて、その場を後にした。

 さて、呂布は李粛から事の次第を聞いて

──これで、明日に刻限が定まってしまったわけだ

と、なおさら頭を抱えた。今の自分たちには武具がない。そもそも、李粛の建てた刻限の所以が解らない。呂布は李粛に聞いた。

「粛兄は、なにゆえ明日が良いと思われたんですか」

 すると李粛は頭を掻きながら、小声でこう答えた。

「きっと、軍が動き出したその瞬間こそが最も隙が生まれるだろうと思ったからだ。地に留まっているときはさながとりでのようだし、動いて勢いに乗れば水が如く勢いづく。勢いのついた水の中で動くのは得策ではないから、寨から水に代わるその一瞬の、どちらにもつかない状態を攻めれば、敵が瓦解するのに望みがある」

 呂布は李粛の読みは正しいだろうと心の中で断ずると、今度は己の番だという格好を見せて

「なら、戎器じゅうきが要るな」

と言いつつ、この狄軍の長の許へと走った。

 その長は傀奇かいきな武人が己の許に訪なったことを喜んで、屈託の無き笑貌を呂布の方に向けると、用件を聞く前にちちざけを差し出した。

「お前のような見た目からして勇ましい人物は初めて見る。我らには必ずや、お前のような人物は必要だ」

 とへつらう様に云って呂布の機嫌を取り、その肩を抱いて己の座るけむしろに呂布を座らせた。呂布は悪心を持ちながらも長のするままに任せ、そして礼容を整えて長に話した。

「俺たちはこの軍の様子に圧倒されました。誰もが強きを誇り、勇敢にして英邁であります。この地で得たものもさぞ大きいでしょう」

 その言葉に長は眉の形を崩して

「いや、そうでもない。我らは食うに困ることが殆どだ。この程度を得たとしても、何の足しになるかな」

 うれえるような恰好を見せた長に、呂布は

「そうでもないでしょう。きっと、中原に至るまで、この精強さを以って進出することも出来るのでは」

と更におもねたのち

「ついては、俺たちもこの軍に加わって弓射をくしたいと思うのです。どうですか」

と、問いかけた。長は少しばかり考えて

「ならば問おう。お前は我らと同じようにこなすことが出来るのか」

と、呂布に訊いた。その言葉を聞いた呂布は、当然だという顔をして

「ならば、今ここで」

と返した。長は馬を一頭と、胡弓胡箭を一対持ってきて呂布に手渡した。

「しからば」

 呂布は馬に乗り、腹を蹴って馬を駆けさせると、箭をつがえてにわびの残骸に向けて放った。箭は、見事にその央芯に突き刺さった。

 長はそのとき糸のような眼を見開いたが、帰ってきた呂布に対してすぐに

「まぐれでは無いだろうな」

と訊いた。呂布は

──これは試されているに他ならない

と察して、ならば、と突き立った箭を引き抜いてから今いちど馬を奔らせて、もういちど燎のなかばを射抜いて見せた。

 長も、これは一廉ひとかどなりと思ったのだろう。馬首を返してきた呂布を大手を振って迎え

「お前のような奴なら、任せても問題無いな。矛や大斧は返す。弓矢も遣ろう。存分に振るえ」

と、上機嫌に告げて呂布を仲間のもとに還らせた。呂布のいつはりは見事に成ったのである。

 少しばかり眠り、空が明けくなった頃合いにその身を起こした呂布らは、長より返された戎器を手にして虜囚の許に奔った。

 丁度、夜とあさの間の時間である。見廻りを行っていた狄兵たちも、この時間ばかりは気が緩み、皆が寝静まっている様子であった。

 虜囚は眠っている者もいれば、躰を横たわらせたままで目を見開いている者もいる。

 その目を見開いている者のうちの一人が、呂布のほうを見た。

──俺たちを殺しに来たのか

 呂布らが仰々しい戎器を手にして駆け寄ってきたのを見て、そのように思ったのかもしれない。その目は敵意に満ちている。

 呂布はその者の近くに腰を下ろすと、小さな声で語りかけた。

「安心しろ。これから、お前たちを助けてやる」

 呂布自身も、この言葉によって自信を奮い立たせた。しかし、己ばかりを奮い立たせても勝ち目は無い。

「だが、助かるために、お前たちにも戮力りくりょくしてもらいたいのだ」

 呂布と話し合っている声が聞こえたせいか、周りがざわめき始めた。声を起こしているのは、虜囚たちである。呂布はこの声で狄兵たちが起き上がることを危惧し、さっそく己のうちに生じた計画を話した。

「これから、俺たちはこの軍の長を襲う。お前たちにも、その手助けをしてほしい」

「手助けというなら、俺たちも暴れりゃいいのか」

「無論だ。混乱の中で長も死ぬようなことがあれば、この狄は退くか降るかしかないだろう」

 虜囚は明らかに動揺している。そのことを感じ取った呂布は

──肚を決めさせるためだ

と思い

「狄に従ったとしても、どうせ扱き使われた上で死ぬのだ。化外の地で死ぬか、故郷に帰るか。どっちが良い」

と、脅すような声で言った。こういったとき、人の望郷の念というものは強い。

「それはもちろん、故郷に帰りたい」

「ならば、どうせ死ぬのなら、故郷のために戦ったほうが良いだろう」

 この当時に於ける故地という物の価値は高い。先祖の奉られる土地であり、種々の要因で故地を離れざるを得ない人々が多く、そして容易に帰ることが適わなかったからこそ、そのぶん望郷の念は強いものである。そういった人々にとって

──帰れないと思っていた故郷を、また望めるのではないか

と思えるということは、それだけでも詳報であった。

 其の為であろうか、首肯する者が多かった。

「なら、行こう」

 呂布はそう言うとともに沛雕はいちょうに虜囚どもを率いさせ、己は昨晩に長の居た処に向けて歩を進め始めた。

 寸刻の後である。沛雕が率いた団が騒ぎを起こした。刀を持った沛雕を先頭にして、狄兵の眠るところを襲いこんだのである。その声はさほど離れていない呂布の耳にもよく聞こえた。空は仄暗さをひらかせて、陣の全容を見せ始めている。その一角が煩雑に蠢いていることは、空から俯瞰すればすぐに判りそうである。

 そういった混乱が起こり始めた中で、鉞と弓矢を携えた呂布が狄兵の長の許に辿り着いた。

 長は驚愕していた。昨晩親しく話していたはずの相手が、あさになって急に矛戟ぼうげきを突き付けてきたのであるから、当然である。

「何をする気だ」

 と叫んだのも束の間、その長の首が飛んだ。呂布は表情を変えずにその首を掴むと、沛雕らが混乱を引き起こしているほうに向かって奔った。この首を見せ付けた時、狄どもは相当に動揺し、あるいは逃散するだろうという見込みがある。

 前方に見える大集団は、明らかに争っていた。あの中には沛雕や、とらわれていた虜囚たちが懸命に戦っているはずである。そう思った呂布は歩を速め、ついにその集団の中に辿り着くと

ろ、ここに在るのはお前らの主ではないのか」

喊呼かんこして、右手に持った其の首を敵前に掲げた。最初は何を持ち挙げているのか解らなかった狄たちも、次第にその物体が己らの軍を率いてきた主であるということを解して、にわかに動顚どうてんを始めた。

──思った通りだ

 そう思った呂布は、さらに相手を劣勢に追い込もうとして手に持った弓に矢をつがえ、一人の顳顬こめかみを射抜き、その矢を追いかけるようにして敵の集団に飛び込んだ。混乱する敵中に呂布のような猛者が飛び込むことは、そのまま戦陣を乱すような破壊力を生むことになる。射ち終えた弓を胴に嵌めると鉞を左右に振って、僅かながらに居た勇を振るった者たちを斬り付けた。その一撃を受け止めようとした者も、呂布の膂力を前にしては両断されるのみであった。

──これでは堪らない

 と感じた狄兵たちは、即座に逃走を始めた。長が居たはずであったのに急にそれを失った集団は、秩序を保つことはできなかった。四方に逃げ失せた集団を呂布たちは追うことはせず、そのまま虜囚たちを引き連れて南進を始めた。九原の県城に戻るためである。


 南進して幾何いくばく、呂布の率いる集団は九原の城を視界に入れて色めき立った。特に虜囚たちは、還ってこれないであろう漢の地に再び戻れたのだという喜びから涙した。

──まだ泣くのは早い

 と、呂布は言いたかったが、この感情を否定することはできなかった。何しろ、己も出来始めの家族と永久に生き別れることになるだろうと思ったからである。家族との離別がどれだけの辛苦であるかは、呂布自身、いたくわかる。

「よく還ってこれたな」

 と、言を励ましたのは李粛である。こういった心遣いの上手さも義兄には及ばないと呂布は思った。呂布はその感動のままに、ふと浮かんだ疑問を一言、呟いた。

「俺たちはなんで、還れたんだろうな」

 李粛は即答した。

「天がたすけてくれたのさ」

 呂布は天意が己をているのだ、とすることが出来る自尊心を持っていなかった。むしろ、これまでの経験で己は見放されているのだと思うことも多い。実際的な答えを求めていた呂布は、この答えを心の片隅で

──倒錯だ

と思って、李粛に己の考えを述べた。

「俺はこう思う。狄どもは勇を誇りすぎた。自らを信じ、人を信じない。集団として弱かったから、穴を衝くことも容易だったんだろう」

 李粛は否定せず、首肯した。そのことを知っていながら、なぜ李粛は天のおかげだといったのか。呂布は疑問に思った。

「粛兄は、どうして天の祐けだと思ったんだ」

「そうだな、俺は」

 と言って少し考えこむと

「人の才を見抜くのは、到底無理だと思っているからだろうな。才を見抜くには疑う必要がある。それを避け続けてきた俺が、人一人を見抜こうとすらしなかった俺が、すぐ様あの混乱の中で集団の動きを見抜くことなんて出来ないと思っていたんだよ。ましてや、俺一人で軍容を動かすことなんて出来ない。そのせいだろうな」

と言った。呂布はこの言葉に怯懦きょうだを見たが、その一方で己が戦塵に塗れすぎているのかもしれないとも思った。戦に慣れすぎて、常識が其処に置かれてしまっているのだと感じた。

「粛兄は、俺が長を殺せないと思っていたか」

 と問いかけたのは、李粛自身が呂布の事をどう見ているのかを確かめたかったからである。呂布は、己の常識が李粛の常識と、かけ離れていることを恐れたといっても良い。

 そして、この問いかけに李粛は

「いや、そんなたまでは無いだろう」

と言いつつ、そこに

「ただ、一人を殺したところで、あそこまで動くとは思わなかったよ」

と付け加えたのを聞いて、呂布は

──粛兄は本当は恐ろしい人なのかもしれない

とも思った。


 夕暮れの頃、九原の城門の下に着いた。

「おい、開けてくれ」

 と叫んだのは呂布である。この声に気が付いた守兵は、すぐに門前の呂布に向かって

「ならん。敵がすぐそこに迫ってきている」

と返した。呂布はむっとしたが、李粛が前に出かかった呂布の胸を押さえた。

──なぜだ

 と鋭い目を李粛に向かって放ったが、李粛は少し口の端を挙げて

「当然じゃないか」

と、諭すように呂布に言った。李粛は呂布の顔の色が収まってきたのを見ると、呂布に言うように、そして門の守兵にも伝わるように大きな声で話し始めた。

「狄が来寇する時期だ、そう簡単に門を開けられまい。それに、俺たちがその手下に就く者だったならば、むざむざと敵を場内に入れたということになってしまうのだから、その罪は重いはずだ。しかし、まずは我らの身元を改めてほしい。私は姓は李、名は粛、字は順毅じゅんき。また、隣にいるのは姓を呂、名を布、字を奉先と言う。このことを衙府がふに伝えてはくれないか」

 この言葉を聞いた守兵は声を和らげて

「良かろう。兵を奔らせる故、そこで待っていろ」

と言った。門の上からその姿が消え、少し経って、李粛は小さく

「これは、明日まで待つことになるかもしれないな」

と呂布に告げた。呂布もその予感はしている。官衙の仕事というものは、危急でない限りは即断を成し得ないのが普通であるからだ。呂布らの集団が得体の知れないものであるならば其れも猶更で、呂布は数日野に曝されることも覚悟はしていた。呂布には知り合いの官吏がいるが、その官吏も、いち県長の判断を変化させるほどに発言力を持っている訳では無い。

──俺たちはまだ良いが

 呂布は近くにいるもとの虜囚たちに目を配せながら、その身上を哀れんだ。

 この者どもは呂布らが捕らえられる前から、かの狄の軍に従っていたのである。彼らの故郷はもっと北か、それとも東か西か。少なくとも南ということはあるまいが、そういったところから狄の強行軍に粗衣とはだしで耐えてきたのである。そういう苦しみを味わいながら、ついに呂布らと出会い、しかしまた拒まれるかもしれない。その恐怖は呂布に解らないでも無かった。初め九原の城内に入った時、そして張栄ちょうえいの屋敷で働き始めた時、呂布は同様に畏れていたが、もしかしたら、そんなものとは比べられないのかもしれない。

 呂布らの集団は深夜になるまで城外で放置された。もう、この時辰になると翌朝になるまでは門の中には入れない。呂布は周りが肘を掻いて枕とし、或いは腰を下ろす中で、ずっと立っていた。

 呂布自身、何かを待ち侘びてそうしていた訳では無いが

──俺だけは屹然きつぜんとしていなければならない

と本能的に感じていた。自分が項垂れると、この集団が一挙にその士気を屈してしまうだろうという気配を敏感に感じ取ったのが、この行動を呼び起こしているのだろうと、呂布自身は解釈している。

 思えば一昨日から躰を動かし通しだった。それに加えてよく眠れていなかったこともあり、頭が蒙昧とし始めている。瞼が重くなり、意識が飛びかけた時、くぐりどが少しばかり開く音がした。

 その音が呂布の意識を呼び戻した。音の方を見ると、ひとりの冠を被った吏人がこちらにはしってくるのが見えた。

「奉先、奉先」

 と、その影は言っている。それを聞いて、呂布はこの影の主が己と親しい者であるということを理解した。宵の闇と目がかすみとでで良く見えないが、その目を細めて睹ると、そこにはよく言葉を交わす管理の姿がある。

「ああ、どうなさいましたか」

 呂布はくぐもった声で問いかけると、吏人は息を上げながら細かく頷いて

「逃げてきた兵から聞いたのだ。陣は壊滅したのだと」

と、じる様に言った。確かに隊伍は壊滅した。その中で取り残されたのが呂布らである。恐らくは、その波に飲み込まれたと睹られていた者どもが、兵士でないものを連れて帰ってきたということが信じられないのだろう、と察することは出来た。

 そも、この襤褸ぼろを纏った者どもは何者なのか。

「我々は確かに狄に遭って壊滅し、多くが遁散とんさんしました。俺を含めた十人は敵中にて戦いましたが、奮闘空しく捕えられ、一時ではありますが捕虜となったのです。そののち、同様に囚われていた虜囚を扇動し、狄どもが混乱している最中に長を斬り、抜け出してじながらも還ってきたというのが顛末です。周りにいる粗衣たちは皆、狄の捕虜だったのです」

 と吏人に対して端的に話すと、吏人もまた、その言葉を聞き容れたが

「しかし、その者どもが怪訝を生んでいるのだ。呂奉先や李順毅という名前は確かめられても、名を知らぬ者共の素性までは確かめられまい」

と言って、官衙の中にある躊躇の本を示した。呂布は、そのことを聞き分けなく反駁するつもりは無かった。故に吏人の言葉に同意をした上で

「彼らは俺たちの帰還のために拳を振るった者たちです。どうか寛恕を頂きたい」

と、その仁心を頼った。

「兎も角、まずはおまえたちの素性を明確にさせることが先決だろう。おまえが信用に足る者だということを示せれば、その言にも自然と信用が生まれるものだ。何か手立てはあるか」

 吏人の問いかけに、呂布は応えた。

「ならば妻のせんと、元の主の張伯皮ちょうはくひどのを呼んでください。彼らのような身内が、しかも複数の証人が俺の素性を明らかとすれば、其れは信頼されるに足るでしょう」

 吏人は納得し、すぐさま閤から場内に戻っていった。


 翌午よくごの折、城門の上に吏人に伴われた嬋と張栄の姿が現れた。

 呂布は門上からの声で目を覚ました。どうやら、いつの間にか眠り耽っていたらしい。声に気付けをされると、その方にすぐさま顔を向けた。見慣れた顔である。呂布は安堵した。

「不承不承。還ってこれた」

 呂布は声を張って、門上の二人にそう告げた。

 二人は驚いた顔をしている様に見えた。どうやら吏人が言っていたような話が、彼らの耳にも届いていたらしい。

「我らは、おまえが敵中にしずんだのだと聞いたぞ。どうして、帰ってこられたのだ」

 この言葉には疑いが込められている。恐らくは言わされているに違いないと感じた呂布は

「天の祐けだ」

と、近くの陰に隠れている者にも聞こえるように、より声を張って答えた。

 呂布は己の戦績をここで語れば、むしろ疑いを生むことになるだろうと思っていた。敢えて、己の行動を誇らないために天祐という言葉を使ったのである。

 しかし、この言葉に対してすぐに襟を開くような人間であれば、それは尋問するに向かない人間ということになるだろう。次に張栄から、このような言葉が出た。

「天の祐けとは、いったい何かな」

 呂布もまた、これに応えて

「風が吹いたのだ。そのおかげで敵は前後不覚に陥った」

 この風というのは、呂布からすれば己らの振るった矛のことであるが、門の上にはどのような意味合いで届いたのだろうか。門上から張栄と嬋を押しのけて、吏人の中でも位のあると思われる男が姿を現した。

「その突風は、どこからどのように抜けたのだ」

 謎掛けのような其の言葉は、呂布の言葉のを見抜こうとしたものである。この言葉は妙だ、と勘付いていたからこそ、その中に何か含意だ在るのだと思っていたのであろう。呂布は嘘を吐けなくなったとも謂える。

 巧く言いつくろうことの出来ない呂布は

「南のほうに向かって吹きました」

と言った。呂布が戦った場所の方角は北であるから、しぜん南とはこの城郭のことである。地理を考えてみるのならば、つまりは

──我らこそが風である

といったようなもので、問いかけた吏人は此の返答を顔をしかめながら受け取った。これまでの応答を繋ぎ合わせてみると、我らこそが天祐であると言っているようなものであり、そこには驕慢たる誇示の言であるとしか受け取れないからである。吏人は

──この呂布というものには弁才が全く無い

と断じたが、しかしながらそれは逆に

──この男が謀詐ぼうさなどしようはずもない

という逆説的な信頼を産むことになったらしい。吏人は無言のままに指示を出して、城門裏に居る兵士たちに門を開けるように指示を出した。

──やっと門が開いた

 と思った呂布は勇んでその内に入ろうとしたが、それを横にいた李粛が止めた。

「なぜ、ひきとどめるんですか」

 と呂布が李粛に問いかけると、李粛は鋭く目を細めながらも諄々じゅんじゅんとして

「疑われない為だ」

と一言い付けた。李粛は、ここで場内に雪崩れ込む姿勢を見せようものならば、その渦中で狼藉を狙うものが混乱を生み、そして大事になる可能性を向こうが捨てきっていないと、漠然とした感覚的な視点ではあったが、そう視ていた。

 呂布は、後ろにいている虜囚のことを想ったときに

──そんなことは言っていられないだろう

と思っていて、釈然とした表情をなすことはできなかったが、しかし李粛の言う言葉の重みというものが己の思念よりも強いことを受け取って、拱手きょうしゅしつつ其の場に立ちすくんだ。

 暫くすると、中から兵が出てきた。兵たちは呂布たちの前に列を為すと

「何故、入ってこなかった」

ということを呂布らに訊いた。これに口を開いたのは李粛である。

「疑いを晴らすには、己から言を発するよりも、まずは疑いの本を知った上で行動するほうが良いと思ったまで。そのためには、疑心を持った者がそれに対する者を徹底して調べたほうが良いと思った為、敢えてあなた方が来るように仕向けた。さあ、どうぞ調べられよ」

 李粛は腕を開いて、己の躰を示した。

──なるほど、これは賢明だろう

と思った兵士たちは呂布のことも、李粛のことも、沛雕はいちょうのことも、そして虜囚のこともくまなく調べ、これを好しとして城の中にいざなった。


 今回のことによって頭角を現したのは、遠方で矛を振るい城門下で訥弁とつべんした呂布ではなく、混乱を生き抜いたうえで辯舌を振るった李粛のほうである。

 これによって李粛は九原の城に名を知られる存在となり、数月後に

董仲穎とうちゅうえい

という胡賊討伐にて名を挙げた将軍のもとに参じることになる。

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