二十六
子が生まれた。
──頑丈な子に育つだろう
そう思ったが、この子は生まれてからというもの、北辺の地の寒風に
子は特に冬になると
親たる呂布としては、いつかこの子が死んでしまうのではないかと、
「
と、胸に抱えた己の
──よく
と感心する半面、己が家から追い出されているような感じがして寂しさを覚えたのを、呂布は記憶している。
ここに、
先年、
この人は、
──この夷狄どもを
そういったものが
そして、その自信が確信と変わったのが北地郡での一件だったのである。
段熲という人は、前にも名を出したことがある。
つまり、この人は徳ではなく武威によって名を馳せた人である。
そういった人の下で育てられた、或いはその光景を目にしていた夏育などの武人は、その
この夏育という人は、
「鮮卑は辺境の地を寇掠すること、春から三十数回を数えております。
しかしながら、この言葉には策略というものが存在しない。ただ、来たものを
その中でも、名の在る学者である
「征討というのは通常の倫理が通らぬことです。所以というものがはっきりとしていて、然るに時に同異が無く、可否を
──この時代においては前漢の武帝を指す──
の神武、将帥の
この発言は前漢の武帝が国力の疲弊を己が導いたとして詔した
というものの記述を下地にしている。この詔によって武帝は国の内情を鑑みずに出征し、しかも大敗を喫した己を罰した。
つまり今の国の状況はそれと同様なのである、と
「今の人は財を並べるに乏しく、
ここまでが、今の
蔡邕の言葉は、この後人物の評論と、それに依る夏育の献策の批判に移っていく。
「昔、段熲は良将で、兵を習わし、善戦しました。西の羌にて有事は猶も十餘年、今、育(夏育)と晏(田晏)の策は未だ必ず熲(段熲)のものに過ぎざるものです。鮮卑の種衆は
そして蔡邕は念を押すように、国の現状について話し始める。
「今、
──高祖とは劉邦のことである──
は平城の
平城の耻、慢書の詬
というのは、高祖劉邦と
「
ここに出る無蹙の国とは広がるばかりで慎みのない国。蟲螘とは小さな
「昔、
少々長くなったが、これが蔡邕の出した論の全文である。
しかしながら帝は従うことをせず、八月になると、夏育を
ちなみに、ここでいう雁門というのは雁門郡全体のことを指すのではなく、
各武将は、それぞれが一万ほどの騎兵を率いていた。
そして、その中に若き呂布の姿も在ったのである。
呂布は軍中の異様な雰囲気というものを感じ取っていた。
それは戦の前の
辺境の人間は蔡邕の諫言にあるような数十年間も続く天候の不順と、一年に何十遍とも繰り返されるような寇掠と出兵に疲弊しきっている。それにも
──無理がある
ということは呂布も、この話を官吏からの下知として聞いた途端に思った。現に、軍中を見回すと、戦う前から疲れ切っている者が大勢居る。これでは、どう頑張ろうとも敵に勝つことは出来まい。
ましてや、相手は勁強な北の狄どもである。
「
「俺には締まりがないというよりも、そもそも戦が起こることを知らないようにすら感じる」
呂布は辺りを見回し、沛雕の呟きに答えた。沛雕も、それに
呂布たちは今、雲中郡の軍勢の中に
この軍を統括している田晏という人は先には段熲の下で羌族と戦っていたようで、今は
噂程度ではあるが、
それが杞憂であったとしても、この軍の指揮を
この空気に
しかしながら、いちど
呂布は片手に鉞を担ぎ、背中には弓を提げている。
──物が贅沢だと心が緩む
と考えていたからである。限りというものを設けていたほうが、逆に戦略というものは立てやすい。沛雕は刀と弓を持っている。最初の内は馬上にて
「奉先。此度はどれだけの首を持って帰れるだろうな」
と出立の前に沛雕は
呂布は馬上から再び兵らの様子を見たが、やはり士気というものが
──どうやら、勝敗よりも生死の問題になりそうだ
ということを呂布は思い、向後の様子を妄想して、一人
軍は一日に五十里進んだ。
普通は一日に三十里進むのが常であるから、これはさすが騎兵で揃えたと謂うべきか、およそ速い行軍である。
しかしながら
──喉が渇いた
と思う兵士が多かった。
兵士たちは進む度に井戸を掘り、水を皮袋に一杯に詰め込みながら進んでいたが、飲める水に限りがある上に、軍を早く進めようとしたのか、思うように集まらなかったのか、兵糧の量も少なかった。進む道が道だけに水は足りず、夏の日差しに依る疲労が故に
浅い眠りは人に常に夢を見させる。呂布もまたその限りの中にいて、眠る度に瞼の裏には
この時だけは、己が幼児に戻ったような気がした。何処に居るとも分からず、そして浮遊している感じが、幼いころの記憶と感覚に合致しているのである。
呂布はふと、考えた。
己の母があの後に生きていたのだとしたら、己らの歩いているこの道と同じ処を通って行ったのだろうか。
──母さん
呂布はこの時、軍旅中の他の兵と同じく飢餓を感じていたから、
そういったことが何日も続いた。
呂布らの加わっている軍旅は、
しかしながら、戦というものはこれから始まる。既にこの地に先遣されていた部隊から、臧旻や夏育といった将軍は程なく近い処へと布陣しているという
数万の騎兵が、この周辺に集っているということである。
──備えに憂い無し
と考えたのか、田晏は兵卒に下知して
「暫く、休息することを許す。決戦に向けて英気を養え」
と命令した。
兵たちはこの命令によって、初めて意気が揚がった。逆に言えば、田晏らの軍は
田晏が今回、将帥に任命されるまでの経緯を考えると、彼は相当に焦っていたのだろう。何としても、己が功を立てて、将軍に任命して兵を与えた王甫や、今回の上言をした夏育、そして作戦に参加している中でも名高い臧旻といった面々の面目を立てなければならぬと考えていたのだろう。
しかしながら、それは匹夫のものに近かったのかもしれない。此処までの道中で、配下の兵士を疲弊させることになってしまったのである。
兎も角
──やっと休める
という兵士たちの安堵は、
しかし呂布や沛雕は念の為にと、
呂布には苦しい記憶がある。十年も前になってしまった、己の
あの時も、皆が眠っているときに襲い掛かってきたのである。狄というのは、確かに野蛮である。だが、野蛮な者たちは人の本来持ち得ている獣としての感覚を、中華の者どもよりも鋭敏に持っている。故に、その隙を突くことも巧い。そういった能力を発揮されれば一網打尽にされるということは、血と涙を以って思い知ったことである。
沛雕も、そういった呂布の姿を見て、何かを感じ取ったのかもしれない。
しかしそういった意識は、ここにいる兵士の
──まずい
呂布は感じている不安をさらに大きくした。今この場に狄の軍が入り込んでくれば、大きな混乱が陣中に渦巻くことになる。そういった状況に陥ってしまえば、多くの兵が死ぬことになるだろう。
陣が敷かれているのは丘の
呂布も其れに負けそうになったが、眠りに落ちかける度に己の
其れは確かに音として聞こえてきたものでは無い。しかしながら、この地が、或いは風が呂布に音として聞かせたのである。
呂布は悟った。
──丘の向こうに、狄が来ている
この軍を勝たせなければならぬ。そう思った呂布は途端に目を
しかし、ここまでの疲れが
「奉先、いきなり騒がしくなったな。どうしたんだ」
眠気で冴えない頭を必死に起こして、沛雕は呂布に問いかけた。
「あいつ等が来ている」
「あいつって云うのはどいつだ」
「分からないんですか。
「なんだと」
沛雕は未だ目が醒めていない。だが、
「俺も起こすのを手伝おう」
と言って、呂布と同じように周りの兵の躰を揺すり起こさんとし始めた。
「なんだ騒ぎやがって。うるせえな」
と悪態を
己の予感が正しければ、鮮卑どもはもう間もなく
もう何人目かは判らない。目の前に居る、横臥した兵卒を起こさんとしたとき、
──これは、虚か実か
呂布は迷った。正気を保たせて味方を起こして回っているが、己も此の兵達と同じく長い道中を
──焦るな
と己に言い聞かせた呂布は、丘の頂上のほうへと顔を向けた。
「狄だ。狄が来たぞ」
その声に飛び起きる者は大勢居た。無理に起こされて
「奉先、良いのか」
沛雕は呂布に向かって、そう言った。良いのか、というのはつまり
──軍紀に触れるぞ
と言ったのである。そのことを承知した呂布は、小さく首を
「騒がしいぞ、貴様」
呂布の
「俺が言ったことに間違いは無い。絶対にあいつ等は来ます」
「そんなものは影も形も無い。観念しろ」
駆け寄ってきた兵が剣を振り
「来たぞ、奉先」
沛雕が叫んだ。呂布は己が殺されかけているというのに、丘の方に眼を移した。
そこには大勢の、騎馬した者どもが姿を現している。
剣を振り降ろしかけた兵も、沛雕の声に驚いたのか躰を硬直させたらしい。其の兵もまた、丘の上を見た。そして己が見たものが信じられないかの様にして、
「狄だ。狄が来た」
皆の目線の先には、確かに鮮卑どもが大挙して丘の上を陣取っていたのである。
時に、
随分前になるが、この檀石槐という人を紹介したときに鮮卑を三部に分けたのだ、という話をした。もしも、この三部と其の単位を同じくするのだとすれば、それは相当な大軍であったはずである。
それほどまでの戦力で漢軍を打たんとした鮮卑の軍団は、丘の下に其の軍が駐屯しているのを見ると、即座に突撃を始めた。
方やこの土地を知り気勢の在る
方や降るように斜面を下ってくる騎兵。方や馬から降りて
結果というのは自ずと見えてくるものであった。そして、それは呂布の不安視していたことに、そのまま
こうなってしまえば、己の生き残りをかけて戦うしかない。呂布は己の乗ってきた馬の元になんとか
「おお、助かった」
呂布が狙ったのは、沛雕の背を狙おうとした
「奉先、
多いなる混乱の中である。もし、これで
二人は馬を走らせて、南と信じる方へと向かって駆け始めた。それでも鮮卑の騎はしつこく、何人かが固まりを為して、こちらへと駆けてきた。
「
呂布はそう言って、馬を走らせたまま、己が持っていた鉞を沛雕に投げ渡すと、躰を大きく
自らの技を示すことは出来たが、それは
北の馬は古来より
──このままでは
呂布は後ろから飛んできた矢をひとつ避け、
しかし、騎たちもただ当たるだけの的になるわけにはいかない。身を低くして馬の首を急に左右に向かせた。しかし、呂布はそのことを折り込んで狙いを定めていた。弦を
「奉先、もうそろそろ
沛雕がそう叫んだ。呂布から渡された鉞が重くて、腕が悲鳴を上げているらしい。
「駄目だ。まだ追ってくる奴らがいる」
呂布は沛雕の悲鳴を無視して、再び矢を番えた。
己の背後には、
的確に上の兵士のみを射落としているせいで、今ここには人よりも馬の方が多いくらいである。
後ろからは矢が
呂布は弓を右手に持ち替えた。そして躰を伏せたままで、後ろに向かって矢を一本飛ばした。闇雲に飛ばした矢は馬郡の間を抜けていったらしい。この時点で、呂布もまた精一杯な中での抗戦であった。
「雕兄。鉞をくれ」
呂布は弓を韜に収めると、馬の
呂布は馬首を切り返した。沛雕は驚いた。
「奉先、何をするつもりだ」
と叫ぶ沛雕に対して、呂布は
「追手を打ち倒す」
とだけ言い、敵の騎たちの間に向けて突っ込んでいった。
呂布は矢を射りながら、どうすればこの状況から切り抜けられるかを考えていた。このまま追って追われてを繰り返していれば、こちらは良い
──このまま的にされ続けるのは、いけない。
呂布はそう考えて、いっそ大いに迎え撃とうと己の態度を転換させたのである。
沛雕は自分だけ逃げるというのも
──ならば、俺も脇を固めさせてもらおう
と、沛雕もまた刀を抜いて馬の
呂布と沛雕は騎の群れに飛び込んでいった。沛雕は
瞬く間に追っ手を片付けた二人は、息の上がっている馬の背に跨ったまま、ひとところに呆然とした。敵が居なくなったせいで気が抜け、これまでに蓄えられてきた疲労というものが、重たく躰と頭脳に
「雕兄、還ろう」
呂布は途端にそんなことを言い出した。沛雕も、この言葉に
「そうだな、奉先。もう俺たちがこんな処にいる意味は無い」
これは二人とも、心の根から思っていたことであった。元々、この軍旅にさしたる意味は無いと思っていた。それが、
戦の中というものを
──こんな意味の無い戦などはしたくない
呂布は
己らが食べるため、土地や人を得るため、彼奴らは馬に跨り弓を
思えば、己の母も鮮卑だったではないか、と気が付いた呂布は、いっそ第二の故郷と思って赴いた方が良いのかもしれないとも思った。
しかし、その母を家族から引き剝がして
結局、答えを見付けきることが出来ないまま、呂布は馬の
どこか後ろ髪を引かれる様な思いがしていたのは、言うまでも無い。
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