二十四

 呂布は、他にも役目を与えられていた。十人の卒を纏める什長となったのである。

 什長も、軍の全体かられば小卒の類ではあるが、それでも誰かの上に立つということに他ならない。呂布はこの時点で、誰かに召し抱えられる者から、誰かを嚮導きょうどうするものに変貌した。

 什長はその名、その字形の通り、十人の兵卒を統禦とうぎょする役割を持っている。何も、号令に従って其の十人の目先に立つだけが役では無い。もし、十人の中で軍律に違反する者が在れば

──その首をるべし

というのも、什長がする役目である。もし什長が処断を怠るようなことが有ったならば、その隊全員に累が及ぶ。即ち、一人の不法があれば、呂布を含めた十人の首が飛ぶのである。その点に於いて、兵卒の命の重みというものは、余りに軽い。

 呂布は、そのことを承知してはいるが、いざ己が執権するとなると手が震えそうになった。

「奉先。唾を飲み込んでどうした」

 呂布の目の前で拱手をし、顔を覗き込みながら言ってきたのは沛雕はいちょうである。

 こういった時、沛雕の持つ義侠としての円熟味というものが、いまだ熟れきっていない呂布の心を支えてくれた。

巨飛きょひどの。俺は幾分、怖いんです」

「怖い。何がだ」

「俺は権を望んでいなかった。それなのに、今は生殺与奪をせよと言われている身です」

 沛雕は

──はあ。奉先はそれを気に病むたち

と思い、呂布に気を使ったつもりでこう言った。

「その歳でそれは、それは思い上がりだな」

 呂布は胸がつかえた。己の苦悩を否定されるというのは、人に依っては己の存在する意義を否定されることに他ならない。こと、呂布のような純粋な人間にとっては猶更である。

「思い上がりとは、如何なる意味ですか」

 語気の昂ぶりを抑えながら、呂布は沛雕に問い掛けた。

「そもそも、今のおまえに権など無い。生殺与奪を握っているのはおまえではなく、将帥だ。あいつらにとっては、俺たちは只の虫螻蛄むしけらに過ぎん。たとえ軍紀に反して何れかを斬り合うことがあっても、微細な虫が喰い合うだけにしか見えないだろうよ」

 沛雕がそう断じて言うと、呂布は

──そんなものなのか

と思った。己の中にあった熱いものが途端に覚めていくのが分かるほど、その言葉に込められた人の冷たさというものは呂布の心を揺るがした。そして

──だから、俺は官吏なぞとつるみたくないのだ

ということを沛雕が暗に言ってきている事も解った。

 しかし、その沛雕も呂布下九人の内の一人である。そして、その多くがもと沛雕に従っていた者だったのに対して、ひとり李粛りしゅくのみは、そういった野放図のほうずの気を示さない男である。

 呂布が李粛に兄事してからは久しいが、李粛は全く驕った処を見せなかった。

 こんど、呂布が什長となるという話になった時、呂布が

──粛兄を連れていきたいものだ

と思ってその通りになった時も、弟たる者が兄を引き連れるとは何事か、という態度なぞ見せず、寧ろ

──おお、弟布は士卒としてのぼったか

と言って無邪気に喜んでくれたような人である。

 呂布は、もしも李粛が位を為すようなことがあれば其処に仕えたいとすら思ったが、何故か立場は逆転してしまった。このことは呂布にとって誠に奇妙ではあったが、己の近くに兄が居るということ自体が心強かった。

 この年の寇掠は前年よりも弱まろう、という見立てが殆どであった。匈奴きょうど単于ぜんう薨去こうきょしたとの報せが有ったからである。

 そも、以前の伊陵尸逐就いりょうしちくしゅう単于は、匈奴らの中華への闖入ちんにゅうを許した由のひとつとしてか、ときの辺境守備の名将である張奐ちょうかん

──かれは衆を御せず。その将器いずくんぞ大なりや

と言って左谷蠡さろくり王にその座を譲らせるべきである、とった人物である。そのはかりごとは奏上の段階で却下され、結実することは無かったが、その言が本当ならば、寇掠に於ける匈奴の勢力というものは変化するはずである。

 新しい王に転換するときは必ず安堵の期間が必要であるし、今年ばかりは鮮卑の独行となろうという見立てが存在したとて良いのではないか。ならば、鮮卑は匈奴の領土を跨ぐ分、勢いも減衰する。

──まだ、良いほうか

 呂布はそう思った。まだ、というのは、やはり積年の寇掠による疲弊というものは確かに積み重なっているし、軍も其れに向けて精強になってはいるが、それは逆を返せば無役の民の負担が多くなっているということでもあり、そういうところから長く耐えるまでは出来ないという推量を呂布は行ったうえで、酷い時よりはましだ、という程度であると感じ取っていたことの表れである。

 その胸騒ぎは不穏ではあったが、これが杞憂であれば寧ろ楽勝しようという見方も出来ていた。

 呂布を含めて幾らかの隊は

──城を出て五十里離れたところで邀撃ようげきするように

と命じられた。この命を下した者の意図としては、えびすの突撃を城の壁を以って防ぐ前に、前もってその勢いを漸減ぜんげんさせようという目論見である。

 よく言えば独断して戦果を挙げることを許す、ということであるが、悪く言えば殲滅されようとも構わないという捨て駒の扱いを受けたことになる。

 それを命じられた者たちは、口々に

「生きて還ることは出来ない」

と悲嘆にくれる言葉を吐き出したが、呂布は耳を塞ぎ

──還ることこそが、使命だ

と思念した。それは新たに什長と為ったことに依って生じた将としての矜持ではなく、極めて個人的な、凡夫の発想である。しかし、いまの己の立場では其れさえ成せればよいと思った。

 生命力とはる一定の程度に至るまでは固執する心の強度の差である。呂布には固執せねばならないものがある。即ち、新たなる家族である。生き延びることが叶わず、再びそのおもてを突き合せることが出来ないとなれば、己が居た意味そのものが消失するようなものである。呂布は、それが許せない。

 己の存在が家族を好い方向に導くのだと呂布は信じたいが故に、生き延びることを決意したようなものである。その思考の是非は兎も角、呂布は血縁の為に生き延びることを決意していた。

 城の外に出ると、少しばかり北には丘のような山がある。恐らく、邀撃せよという命には

──あの山を越えられると不味い

という意図があるに違いない、と呂布は感じていた。山は、一旦登り切ってしまえば下るのみである。それは軍行という面に於いてえば、即ち

「突」

の一字に表されるような衝突の強さを生み出すということであり、こちらから撃つのであれば兎も角、ふせぐ側となれば、その奔濤ほんとうの如き勢いというものはおそれなければいけないものである。逆に言えば、水が斜面を駆け上がることはないように、こちらが山から下りながら撃てば、幾ら突騎といえども其れに吞まれるのである。

 ここから五十里といえば、凡そ連なる山の上であるから、そこから突撃を掛ければ良い、ということになる。

 呂布は馬に跨った。什長というと普通は歩卒のことを管轄し、己もまたかちでいることが普通であったが、この時は邀撃に赴く部隊のものにすべからく馬を与えられた。

 狄を討つ、ということになると、自然騎射の部隊に対することになる。騎は歩に比べると、その軍事的力量は優れているものである。ならばこちらも騎として、相手に掛からせる他無い。

 幾ら命を捨てて来いと言おうとも、言葉とは裏腹に負けて貰う訳にはいかないもので、戦術として妥当でなければいけないのである。それは、戦の中における命題ともいえよう。

 騎は数百を数えた。丁男ていだんが揃い、その活気は場を揺らすようである。壮気に満ち溢れたこの軍旅は、その日の内に山の手前に着き、陣を敷いて一夜を過ごした。夜が明けると炊爨すいさんをして朝餉あさげを食べ、山を登り始めて、ひるの内には稜線を描く峰の手前に辿り着いた。

 遠くから見る分には丘のように見えたこの山々も、いざ登ってみるとかなり険しい。馬から降りて手ずからき、そのたづなを持ったままで腰を下ろした。呂布の周りには什の隊の仲間が集っている。そのうちの一人である、沛雕の配下が言った。

よろいの中が蒸れて痒くなってきたぜ」

 確かに、普段甲冑を着ける事に慣れていないと、汗と擦れで痒みが出てくる。しかし、この一言はこの者の心の緩みも表しているようである。

「これから山の頂を越えれば胡地こちといえる。からだに現れた些細な痒みを気にしていたら、あっという間に死ぬぞ」

 と言ったのは什長たる呂布である。呂布はりょに加わることの多さから、その心の緩みというものにはさとくなっている。普段から厳しい訳ではないが、戦の時には、こと鋭い眼を向ける癖がついている。

 しかし、この目を向けられた側としては

──なに、軽いおどけじゃないか

と、面白くない感情がある。呂布はこの辺りの感情を読むのには疎かった。什長という役職にせられたのかもしれないが、この若干の敵意のある目に反応して

「なら、甲を脱げば良い。いつ敵が来ても知らないぞ」

と言った。さきに痒みを訴えた兵はむっとしたが、呂布の偉丰いふうが周りをかまびすしくすることを抑えていた。

 一団は山を越えた。城を出ても、山向こうをることは出来ない。斜面が下るばかりになって、広々とした遠望を瞰たとき、景色だけではなく、空気までもが一変したように感じた。

 夷狄いてきの姿はまだ無いが、これからここで血が流れるのだろうと思うと身が震慄しんりつするような感覚を覚える。目下に見える原野が兵燹へいせんに照らされる様は、日に照らされている今のときでさえ克明にみえる。

 野生の勘か、経験の発露か。何れにせよ、ここで戦うべしということを天から告げられているような気がした。

 群がっている兵たちは山の中腹にまで来ると、そこに横這いになるような陣を張った。えびすの軍勢が目下に迫ったら、丸太を転げ落とすようにして其れを圧し潰そうという魂胆であった。軍を停滞させるということは、其の集団の血流を留めるということである。冬籠もりの虫のように固まれば、初動がにぶくなる危険がある。それに対処せんと、呂布の上に立つ旅の長は斥候を常に放って、その斜面を往復させた。こうすれば鬱血することは無く、集団の体温は保たれる。

 前以った布陣は数日続いた。騎の姿はなかなか見え無かったが、六日目にとうとう

「北から軍衆があります」

という報告が上がり、旅に属している兵士は各々が馬に乗り上がった。横延べに連なっている旅団の先頭には、この集団の将帥というべき男が矛を携えて馬に跨っている。数百騎を数える此の隊の中にあっては、呂布は数十人いる隊長の一である。前の方に出て、その一人として遠くを見渡した。確かに、芥子けしの実よりも微小な黒点として狄の騎兵の姿がえる。

 心血が沸騰しそうな感覚を感じながら、呂布はなお冷静でいなければなるまいと、ひとつ息を吐いた。

 愈々いよいよ戦闘となると、兵たちは私語を一切言わなくなる。上役の一挙手一投足に己の命運が掛かっていることを知っているからであり、己の中に生じた昂揚と恐懼の感情を必死に押さえつけようと努めるからでもある。

「呂布よ」

 この隊の一番の長が呂布に語り掛けてきた。呂布はまだ二十にも行かない身ながら、潜ってきた危難の多さと類稀な身体能力を以って信頼されている。

「何でしょうか」

「おまえは、かの狄どもが如何なる進路をとると思うか」

 呂布は一瞬考えたのち

「騎ばかりですから、この山を避けたいと思うでしょう」

と答えた。

「ならば、西と東、どちらにその首を向けるだろうか」

 長がまた疑問を投げかけると、呂布は

「西でしょう」

と、西の方に向かって指を差した。その指を差した方向に向かって進むと、山が突然割れたかのように谿たにが走っている。呂布は、恐らく其処を通ろうとするであろうと読んだ。

 西に行くのであれば横腹を見せながらここを通るであろう。そうなれば、そこを側撃して一気の混乱に陥としめる事が出来るはずである。そうなれば我々はつ、と信じていた。

 が、芥子のような影が次第に人と馬の姿を取り戻すにつれて、その観測は余りに楽観的であるということを思い知った。

──数が多すぎる

 そこに居た者はすべからく、そう思ったであろう。多くて数千であろうと思っていた寇掠の軍は、近づいてみると数万と居そうな大群を為していたのである。

 ここに数百騎で乗り込むなど、とてもではないが無理がある。

 次第に、呂布の周囲がざわめき始めた。

──動揺し始めたな、まず

 旅長はそう考え始めただろう。この動揺を持ったままでは、己らが奮戦をするどころか、そもそも邀撃を実行出来るかすらも怪しくなる。しかし其れができなければ、今度はこの大軍がそのまま城に攻め寄せることになる。数百の兵をここに拠出している状況でそうなっては、城が無事でいられるとは限らない。

──いっそ通り過ぎるのを待って、背後から襲うのが良いか

 そうも思ったが、狄の騎兵は騎射が巧みである。駆け脚を緩めずに逃げ、弓を持って牽制しながら取り囲むこともしてくるのではないか。

 そう悩んでいるうちにも、狄兵てきへいは迫ってくる。

 長は

──考える暇は無い

と肚を決めた。当初考えていた通り、山を避けようと動き前後に伸びた隊列の横腹を猛然と襲い、その形を断裂して、混乱に乗じて一気に叩く。それしかあるまい。

 数は目算で百倍である。きっと最後の一兵になるまで死力を尽くして戦い、戦い抜いた後には全滅するであろうと予感している。横にいる呂布らを下げさせて、自身はその突貫を何時おこなうのか、その時を見極めるために、猛然と駈ける狄の軍団をじっと見つめ始めた。

 呂布は己の指麾する隊の前に行き、片手に持った鉞の頭を地に付けて

「もうそろそろだぞ」

と言伝をした。その隊に入っている沛雕は、いよいよか、と唾を飲み込んだが、李粛はそういった素振りは見せなかった。

──さすがに粛兄は肝が据わっている

 と呂布は感嘆したが、その姿様には表さずに、あくまでいち什長としての振る舞いを続けた。

──しかし

 と、呂布は考えた。どうも、この旅団長は敵を側撃するつもりらしいが、この旅団の長は其れに頼りすぎてはいないだろうか。そも、敵はある程度近づけば、我らの存在に気が付くはずであろう。ならば、側撃する間もなく、敵は斜面を駆け上がって攻めて来る筈である。

──長は邀撃の任を与えられてから、数を補うための奇計に頭をおおわれている

 そう思ったのは、間違いではないはずだった。

 しかし任に逆らうのは軍令の違反に当たり、任を全うしようとすれば全滅は免れない。つくづく上に立つというのは難しいものだと思いながら、呂布は鉞を握る手を強くした。

 影の大きさが手の指の先ほどになって、呂布のいる軍旅は走駆を始めた。狄は目が良い。動き始めたこちらの軍をすぐさま捉えて、軍の動きを鈍らせた。こうなってしまうと、野戦が得意な彼らのにえとなりに行くようなものである。

 呂布は馬をはしらせながら、額に冷たいものを感じた。今まで感じたことの無い、死の予感というものを感じている。

──せん、俺は帰れないかもしれない

 そう思って間も無く、呂布らのいる軍旅は狄の腹ではなく、頭ともいえる部分に激突した。

 その中にいた呂布も、その躰に矢が突き立つのも構わず、配下の卒伍をけしかけながら突進した。馬の上から弓を射掛け、長い射程で遠くの敵を狙う多くの味方とは戦い方を異にして、呂布は己の躰を狄の群れの中に衝突させた。

 兵力の差は大きい。弓を射るのに有利な鶴翼を敷くなどをしても、陣の厚みが薄くなるのみで決して有利になるとは謂えない数的不利がある中で、旅団は一所に固まって其の身を投ずるしか無かった。

「絶対に敵を逃すな」

 と叫んだ旅団長は、弓を射るのに窮屈な距離にまで敵が迫った時、腰に佩いた刀を抜いて目の前に居たうまのりの胴をち斬った。

 周りに目を遣ることを阻まれるほどに彼我ひがが密集して戦いを演じている中で、呂布は鉞を振り回した。正面に見える敵を次々に切り捨てていくが、その数は溢れんばかりで終わりが見えない。いくら死兵と雖も、波がぶつかり合った時には、より大きな波のほうが小さな波を飲み込んでいくものである。

 旅団は段々と狄の軍勢に圧され始めた。錐のように尖鋭となった先鋒が、徐々にその鋭さを失っていく。

「退くな、退くな。押せ」

 旅団の長はそう声を張り上げたが、後ろの方にいた兵は

──敵わない

と判断して、遯竄とんざんしようとするものが現れた。背後から押し、無理にでも敵と当たらざるを得ない状態にする者が居なくなれば、その軍旅には闕が出来上がったようなものである。

 形を保つだけの圧力を失った軍旅は、あとは崩れていくのに時間は掛からない。

 呂布のひきいる什の隊はその結束を以って奮戦を続けていたが、気が付けば周りの味方を見失い、孤立無援となってしまった。

 沛雕も、李粛も、そしてその他の什下じゅうかの者も呂布の元に留まっていたが、その十人は皆が傷を負い死地に入っていることも分かっている。

──敵に降ることは出来ようか

 と考えたのが多数であったが、呂布は寧ろ

「敵に当たれ、この十人で萬人を討ってやる」

と、顔の色を紅潮させた。

 通常、死兵というのは囲まれて身を動かせなくなり、そのせいで普段に倍した強さを誇るようになってしまった兵のことを言う。故に

──けつを為せ

と云われるのであるが、その特質から、普通は籠城した者が死兵と為ることが多い。

 しかし、野戦に於いても百倍の数に囲まれた軍というのは死兵に為ることがある。呂布が差配するこの隊は、正しくそういった兵の集まりとなったらしい。

──ここまでになったのなら、やってやる

 呂布が馬の腹を蹴った。みな歯を剥いて吶喊とっかんを為し、呂布の背にいて馬をはしらせた。呂布や沛雕は先を走って兵器を振るい、李粛ら数名は後ろから弓矢を射かけて其れを掩護した。

「殺せ、殺せ」

 呂布は叫んだ。呂布に蹤いてくる者は、みな手負いの獣のようなものである。

──疾風に勁草を知る

 とは光武帝の云った名句であるが、この時の呂布は、寧ろ其の颶飄ぐひょうに乗って風伯ふうはくとなろうとしていた。その姿は地を馳せているというよりも、飛んでいるようである。

 十人はげる道が無いのならと、寧ろ前に進まんと手に持った兵器を振るい続けた。敵の躰を斫断しゃくだんし、その敵軍の中央に路を作り続けた。敵を往なし続ける内に其の血が目に入り、片目がみて開けられなくなっている。こうなると距離が測りにくいが、呂布は

──ならいっそ、間合いというものが無くなるほどに近づけば良い

と、その懐にまで飛び込んだ。呂布の膂力は、その一撃をふせごうとして掲げられた其の刀剣すらも截断せつだんした。狄はそこに圧倒的な武威を見出したが

「不许退、杀、皆杀」

と周りの狄どもははやし立てている。まるで見世物とされているような状況に呂布は瞋恚しんいして

──なめるな、胡狄ども

と眼を弓を構える集団へと向けると、矢を射かけられるよりも早くそのもとに身を潜らせて、鉞を横にひとつ薙ぎ払った。一挙、三騎を殺したそのままに、呂布は将いる兵その場に寄せて、また一団となって狄をたおし続けた。

 息は絶え絶えになり、口から血を吐き出しそうである。日は中天を過ぎて、やや傾き始めている。

──が出来て早々、絶命の淵に至るのか

 呂布は上がる息の中に嘆きの色を込めた。

 呂布をを含めた十人の兵は、援けも来ないままに戦い続けた。そのうち沛雕はいちょう李粛りしゅくを含めて四人は生き残っているが、他の六人は既に斃殪へいえいしている。

 周りには呂布らが殺した狄どもの屍が重なるようにして転がっているが、狄の軍は呂布の周りを取り囲んでいた。

──これほどの者を禽捕きんほすれば、恩賞は多い

 そう思った狄の兵はどれほど居ただろうか。それ故に、たかる兵の数は寧ろ増しているように思う。しかし、その誰もが呂布の武威に躰が竦んでいると見える。また、勇敢さを誇る北方の狄には、これほどの勇ましい戦いをした者に対する敬意がある。

 そのおそれが、この場に膠着という現象を生んだ。

 ここは生き残らんとするものが集う戦場である。普通は喧騒に包まれるはずだというのに、この時は静寂であると感じ取れるほど、どこか冷えた空気が流れていた。

 呂布は声を出せない。それほどに疲弊している。それでも、鉞を握っている手は放していない。

──早く来い

 来た者から、叩き斬ろうと思っていた。鉞を失えば拳で殴殺し、拳が無くなれば歯でその喉笛を食い千切ってやろうと思っている。それでも狄の戦に於けるやけな冷静さが、その苛烈さを姿に現すことを許さない。

 呂布らの軍は昂揚している。その気性だけ見れば猛々しいものであったが、傍から見れば、蛇に睨まれた蛙のように立ち竦んでいるようにも見えた。

 打開をしようにも、次々に集り寄ってくる狄の軍勢を破るだけの隙が見えてこない。次第に呂布らを囲繞いじょうする包囲網は狭まっていき、抵抗をし得なくなった所で、その両臂りょうひに縄を掛けられた。


「離せ、きさまら」

 呂布の怒号は狄の敷いた陣営の中に響き渡った。巨躯を誇る呂布の躰は、まるで虎でも縛るかのように縄に巻かれて、その縄の端を持つものは四人いた。

 鮮卑や匈奴が使うような穹盧きゅうろは張られていない。ただにはびを取り囲んで、酪酒を啜っている。

 呂布とその下についた者どもは、五、六人が火を囲んでいる処に連れ出された。その中心にいる大男は、帽を脱いで入るが、身に着けた装飾品が煌びやかで、位が高いのだろうということが判る。

 その大男は呂布の姿を見ると不思議に白い歯を見せて、顔を笑わせた。

「おまえか、最後まで我らと戦ったのは」

 大男はやや不慣れな漢語でそう言った。口調は柔らかく、敵対した者に向けるものでは無い。寧ろ、家族に話しかけるような口調で、異様にれついている。呂布はその話し方を不快に感じた。

──奪うだけの卑しい奴らが、偉そうに

 目の前にいる者が鮮卑の人間だろうと思うだけで反吐が出そうである。その心を、呂布は行動として露わにし、大男の顔を目掛けて唾を吐いた。大男の周りにいた者どもは其の行動に気色ばんだが、大男は血気に逸った仲間の行動を、左手を挙げることで掣した。

 大男は頬に付いた唾を手で拭い、また顔貌を明るくして

「勇ましいものだ」

呵々かかと笑いながら言った。

「ふん。狄らしいきたない発音じゃないか。大人しく乳臭い言葉で話したらどうだ」

 呂布は大男に向かってけなすように言った。羊の乳ばかり飲んでいる野蛮人ども、という言葉でもあり、北狄の母系社会を皮肉った言葉でもある。さすがにこの言葉には大男も多少は慍然うんぜんとしたが、すぐに容貌を定め直し、呂布の面前に立って鮮卑の言葉で呂布に話しかけた。

「回りくどいことを言わず、はっきりと言おう。我が軍に加わる気はないか」

 呂布は鼻でわらった。

──おまえらのような狄どもの群れになどに入るものか

 と思ったのは、呂布の中にある漢人としての自尊心があるからだった。だいいち、父と母を、そして故郷を焼き払った北狄の軍に親しむなど、絶対に有り得ないと思っている。呂布が漢の風土のうちに学んだ報仇という文化は、確かに心に根差している。

 無駄だ、と言おうとしたとき、後ろに繋がれていた李粛りしゅくが口を開いた。

「奉先。ここは許諾したほうが良い」

 とうぜん、大男にも聞こえるほどの声である。呂布は

──粛兄しゅくにいは何を言い出すんだ

と思ったし、その言葉を聞いた沛雕はいちょう

「何を馬鹿げたことを言ってやがる」

と驚声を荒らげたが、李粛の眼を見てみれば、従順な降伏者の目というよりも思念の強さのある、鋭い眼であった。

 李粛自身も頭の周りがにぶい人間では無い。呂布は

──何をしようというのか

と頭を巡らせて考えてみると、ひとつ思い当たるものがあった。

──還るには、そうするべきか

 呂布は李粛に従い

「わかった。あんたらの軍門に下ろう」

と鮮卑の言葉を使って返答した。

「そうか、それは良かった。勇ましきは何物にも勝るのだ。鄭重ていちょうに扱え」

 大男は周囲の人間にそう言って、呂布の身辺の世話をするように命じた。

 呂布は什長として戦う内に部隊ごと孤独となり、しかもその窮状の中で狄と大いに戦った。もし、あの段階で愚直に戦うことなく背を向けてげようものならば、その背を狙って矢を放たれ、そしてそれに射抜かれて絶命をしただろう。しかし、人を失いながら、最後まで獰猛さと勇気を保っていたことで、其れを好む鮮卑の将帥に気に入られて、故に活路を開くことが出来たのである。

 しかし問題は、その活路をどうやって生かすのか、ということであった。路が通ったならば、その路を使いこなさねばならない。呂布は考えた。

 先の李粛の助け船の意図は大凡わかっている。いちど降伏を申し出て相手を油断させ、緩みが出たところで抜け出そうという魂胆であろう。

 しかし、あの大男の将帥の心配りは細やかである。呂布の周りに、如何にも豪勇と謂えそうな付き人が十人ほど附いた。きっと、この付き人は表向きでは持て成しのひとつであろうが、真実は見張りである。

 縄を解かれ、武具の類も全て返されたことを思うと厚遇の念はあるのかもしれないが、それでも尚、呂布ら降兵への警戒は怠っていないという証左でもある。

 呂布は、みなが寝付こうとする前に

「ここの軍様はどんなものなのかを見ておきたい」

と言った。大男はそれを

「そこまで気に入ってくれたのかな」

と言って快諾し、付き人を同行させることを条件に陣の中を巡ることになった。

 勿論、それは抜け出しやすいけつを見極めるための方便であるが、その途上、呂布は見たくないものを見た。

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