叢の中に突っ伏した少年は唖然とした。

 確かに自分は父の動きを見切っていたはずだ。そして父の動きに合わせて自らも動き、一撃を躱して父の懐に入り込んで、遂に一撃を食らわせることに成功したと思っていた。

 だが結局は、拳の先に父の脇腹を捉えた感触もなく、反対に自分が腹に一撃を加えられてしまった。

 意味も感じない、ただの父の享楽に突き合わされた挙句、何度も打ち据えられたという事実が、彼をこの数日間の、歳の割に成熟しきって忍耐に忍耐を重ねてきた心を、歳相応の幼い心に戻すことになった。

「よし、帰るぞ」

 父がそう言って、さっさと帰路に就き始める。

 少年は叢に突っ伏したまま身動きを取れず、目からは滂沱の涙が流れ始めた。人目も憚らずに声を上げてみたものの、父の方は意に留める様子は無い。それどころか、

「明日もあるからな」

と無情な宣告だけをして、つくばいになっている少年の脇を通り過ぎて行った。


「そんなに目を腫らして、どうしたんだい」

 母は帰ってきた少年を戸口の前で迎えると、その顔を見て心配そうに声を掛けた。

 少年は未だ喉に泣声が詰まって、声を出すことができない。

 一人で戸口をくぐってきた父の姿と、それから距離を置くようにして孤影を揺らして帰ってきた我が子の姿を見て、母は凡その判断を付けた。

「そうか、大丈夫だよ。今、湯でも沸かして飲ませてあげるから」

 そう少年に言って、帰ってきてから黙りこくっている父の方を僅かに睨んだ後に、戸外にある熾火おきびの跡に柴を置き、火を焚く準備を始めた。


 母は井戸から組まれた水を陶物すえものの器に注いで沸かし、それを小さな盃に淹れて少年に手渡した。

 少年はその温い杯を両手で受け取って、縁に口付けて湯を飲む。

 父の冷酷な行動に冷めきった心が少しずつ、温かく解けていく。

 この間、父の姿を見ることはできなかった。今日の経験が、少年の心に

──ぱぱが怖い

という恐怖心を植え付けたからである。

 確かに、これまでは父の背を追いかけるのが好きな幼子でしかなかったし、親に甘えることが好きな少年であった。

 だが五日間、草原の中を飢えをしのぎながら父と過ごし、そして今朝になって得物の棒で払い除けられるという経験をしたのである。

 少年にとって、五日間に亘って飢えたことは受け入れられた。常に父が傍にいて、そして自分の為に兎を獲ってきてくれたからだ。このことは特別なことであったし、やはり親というものは命を使って、己に何かを教えてくれるものなのだと感激した。だから腹が減っても

──爸についていけば大丈夫

と思って、信頼の情を強くした。

 父は勁強なのだと嬉しくなって家に帰ってきて、次の日には其の父から何度も打たれた。

 最初の三度、肩を叩かれるまでは少年もまだ

──爸は、ぼくになにかをくれる

そう思って痛みに耐えなければならないと踏ん張っていた。

 だが四度目に、腹を打たれて吹き飛ばされた時、頭の中から血の気が引いて、寸毫の間、冷えた感覚が少年の理性を訴えると

──あれ

と、ここまでの父の姿を思い出したのである。

 そして、ここまで熱狂的に父を崇めていた幼児としての感覚から、一歩引いた、他人の感覚として其れを見つめたときに、父の行動には異常性があると気が付いた。そして、この少年個人の感覚から言っても、象徴性のある絵図として父のここまでの姿が映し出されてしたのだ。

 それは、ただ棒で打ち据えられたという暴力のみを以って少年の心情が打ち砕かれた、というだけではない。むしろそれだけであれば、少年はここまで鬱屈とした表情はしていなかった。


 少年は父の得物である一丈の棒を、この時、象徴的な存在として捉えていた節がある。

 この少年にとって、父のいつも携えている棒は外敵を討ち払うための必需品と見えていた。邑に寇掠の馬賊があれば、戸口に掛けられた棒をとって外に飛び出し、そして邑中の若人と共に其れを撃つ。

 この光景をいとけない記憶の中で幾度も目にしていた少年にとって潜在的に、此の棒を持った時の父親というものは外敵と戦う武人なのである、という認識を持つようになっていた。

 そしてそれは、この棒を向けられた相手というのは、父にとって敵愾心を向けるべき人間なのである、ということを考えるに至る、必要十分な景色であった。

 即ち、この場に於いて、その棒をもって幾度も打ち据えられたということは

──爸は、ぼくのことがきらいになった

という愛情剥離の証として、この少年の心情風景に映し出されることになったのである。

 父の側も、少年が懐に入って正に一撃を加えようとした所を素直に受ければよかったのだが、人を相手取って戦うということは厳しいものなのだと教えんが為に、

──少なくともこの父親にとっては──

敢えて棒を切り返して少年を打ち飛ばしたことが、さらに少年の、いまだ仮説の域を出ない推察の根拠として、少年の脳裏に植え付けられた。

 勿論、このことだけが少年の頬に涙を伝わせた訳では無い。

 こういった煩雑な推察を経なかったとしても、少年は純粋に自らの成功を相手

──即ちこの少年の父親──

に上回られる形で突き崩されたのである。当然、挑んだものとしてはこれ程までになく悔しい。

 今までは失敗を親に庇われることも多かったのだが、その失敗というものは原因と結果が悉く外在していたものだったのに対して、今回の失敗は悉くが己の内に内在しているという点に於いて、全く異なっていた。

 己の内に蟠踞ばんきょする悔恨というものは、その理由が己にある限りは己の内で寛解させなければならない。

 そのことに直面した少年は経験も知識も無いが故に、ただ己の不甲斐なさの中にうずくまるしかなく、ひいては父との対決が、己にとって、そして父にとって全く遊戯の類で無いことをも表していた。

 こののちのことを考えると、この時に抱いた父への恨みや悲しみ、そしてむざむざと負けたという敗北者の烙印が少年を強くしたともいえるが、而して、少年の心の傷が癒されることは生涯無かったということもできる。


 心の傷を負った少年にとっては、何か心の支えが欲しかった。それを自らの口で言うことは決してなかったが、母は彼の顔から映し出される鬱屈の色に鋭敏に反応した。

 もともと鮮卑の

──勇ましからざるは、即ち人に非ず

という価値観に浸かってきた母の目から見れば、たとい幼かろうと父に打ち据えられただけで瞼を泣き腫らし、慄いた表情を隠さず、口も利けなくなった少年の姿というものは容認すべからざるものにも見えた。

 だが漢人の生活に身を置くようになって、己の夫から鮮卑のしてきた行為を質され、己の行動を思い出し、そして自らの子供に其れを重ねたときに身が震えを覚えて、驚くほどに己が臆病であることを知った。

 そも、草原に馬を駆って生きるのと、家を定めて畑を耕して生きることの違いを身を以って知って、ただ勇ましさを誇るような性格から心を変化させていたから

──ただ勇ましいだけじゃ、だめ

と思うようになっていたし、鮮卑の持つ荒々しい勇ましさが、この土地で生きる上では適していないことも理解の内にあったから

──何かを守るような勇ましさを持ってほしい

と考えるようになっていた。

 こういった辺りの、こと勇敢さというものへの感覚は、ふたつの文化圏を経験した彼女の方がさかしかった。

 昨日に覚えた恐怖がまだ鮮明なこと、そして愛情を持った人間になって欲しいと思ったこと、さらにはわが兒を強くしたいという夫の思いに逆らわないまでも、打ち据えて帰ってくるという行為に少なからず反感を持ったこと。

 やらねばならないと思ったのか、それとも自然と躰が動いたのか、少年を抱き寄せて

「大丈夫、大丈夫」

そう何遍も言って、頭を撫で続けた。

 父は何も言わず、外へといつもの見回りへ出かけている。故に家の中にはこの母と、この兒しかいない。

 大丈夫。という言葉の相手は少年だったのか、それとも己だったのか。

 そのことは、本人ですら分かってはいない。


 父が帰ってきたのは日がほぼ暮れてからだった。

「おう、今帰ったぞ」

 そう言う父の口調は、朗らかというよりも矢鱈と砕けたものだった。少なくとも、肚の底からはっきりと出た、芯の通っている声ではない。

「やっと帰ってきたの。あたし達はもう食べちゃったから、あんたもさっさと食べな」

 母が少年を横に座らせて、帰ってきた父に向かって素っ気なく言った。

「なんだ、だいぶん味気ないじゃねえか」

 突っ掛かるような口調、そして父の息から匂ってくる甘っぽい臭い。

「なにこの匂い。酒でも飲んできたの」

「まあな。今まで呑んだことはなかったが、旨いもんだな、ありゃ」

 粘り気のある笑顔を二人に向けて、敷いてあるむしろの上に大きな音を立てながら座った。

 父と母のやり取りを隣で見ていた少年には、母が父に向ける目が何故ここまで動揺したような表情をしているのか分からなかったし、父がこの何日かの間に余りに多くの顔を見せるようになっていたことに困惑していた。

「どうだ、お前も吞んできたらいいじゃねえか」

 父の声が母に向けられる。少年が今までに聞いたことのないような、とろけた声だった。

 そしてそのまま、母の隣に腰を寄せていく。

「な、なに。どうしたの」

 戸惑う母を、少年は凝視した。なんとなく感じる、ただならぬ雰囲気。その雰囲気が、眼を釘付けにした。

 突然、父が母の胸を鷲掴みにした。母はそれに驚いて、父の顔を平手で殴りつける。

「なにするの。やっぱりあんた、今日は正気じゃないよ」

「良いじゃねえかよ、俺たちの仲なんだしさあ」

「良い訳ないじゃないか。子供の前で、何てこと」

 眼の前で繰り広げられた此の言い合いは、少年にとって余りにも醜く映った。理性を失った父と、激昂する母の声や言葉が、延々と頭の中を跳ね回って、少年の感情を揺さぶった。

 堪えきれずに泣く少年に、父は興が醒めたとばかりに舌を打って、そのまま床に突っ伏して寝始めた。

「ごめん、辛かっただろ。今日はもう、寝ましょう」

 母もまた、この父の行動に混乱し、何をどう捉えれば良いのか分からなくなっていたのかもしれない。腑抜けてしまった表情で少年に語り掛けながら、その躰を抱いて横になった。


 少年はこの耐えきれない、混沌とした感情の整理を付けることなく眠るということはできなかった。幾度となく擦った目の周りになみだが付いて、其れが沁みる。

 痛みに耐えながら、体に力が入らないまでも眼だけは開いたままで、ひたすら考えていた。

 父の気の触れたような行動と、何処か上の空になってしまって身の入ってない母の姿。そして、それに飲み込まれてしまっている己の姿。

 たった一日の内に起こった事だったのに、このままでは化外の地に連れていかれそうな恐ろしさがある。

 すっかり日も落ちて、屋の中は暗くなっている。

 眼が見えない代わりに他の感覚が澄まされていく中で、身が張り裂けそうな苦悶を感じながら、焦点の合わないままに遠くを見ていた。

 母を悲しませ、己を痛めつけた父が許せない。どうしよう、どうしようとしか思えない己に対しても肚が立つ。

 自分たち三人で生きている以上、この縁を切ってしまうことはできないし、かといってこの苦しさがずっと付きまとってしまうのも耐え切れない。

 どうにかして、どこかで抜け出したい。

 そう思った少年は、寧ろ良い機会ではないかとも思った。

 そうだ、父が此方を打ち据えるような行動に出てまで挑むように促しているのだから、この際、父を打ち据えるようになるまで強くなれば良い。そうすれば母の気持ちも、己の気持ちも晴れる。

 ならば、そうしてみよう。強くなれば、それでよかろう。

 このことを胸に銘じてみると、不思議と心が穏やかになった。余りに多くのことが重なって、身も心も疲弊した少年は、この安堵と共に眠りに落ちた。


 外から鳥の声が聞こえる。昨晩は微睡むということもなく、すぐに深い眠りへと落ちていた少年は、鳴き声の主が何処かへと飛び立つ音に釣られて躰を起こした。

 後世、孟浩然もうこうねんが詩歌で

──春眠しゅんみん不覚暁あかつきをおぼえず 処処しょしょ聞啼鳥にていちょうをきく

と詠ったが、この少年にとっては必ずしもそのようにはならなかったらしい。

 寝る前に立てた誓いというものは、眠る内に心の奥底に固着して馴染んでしまい

──爸をぶってやる

と、昂揚を半ば、忿怨を半ばとして思うと外に出て、昨日に立ち合わせた場所に自ずと足を運んだ。

 この時期の草の靡く光景というのは静けさを伴うものだが、しかしこの少年から見た其れはどうだろう。きっと足元に点いた火が、己の感情に呼応するかのようにして燃え広がっているように見えたかもしれない。

 それほどに激しく揺らいでいた少年の心情を全く斟酌しないままに、その後を追いかけるようにして父が棒を携え、草を踏みつけながら少年の前に現れた。

 その姿を見据えた少年は、この魁偉の風貌を湛えた一人の男として父を見て

──今日こそは

と、決心を固めたのである。

 打たれても泣きはすまい、敗けても怯みはすまい。

 到底、五つの兒にはその想像すらも為しえないような感覚ではあろうが、昨晩の母の苦悶した表情と、自らの鬱屈した感情を元手にして、父を恨むべき相手として選ぶことで形成しえたのである。

 足元に盤石たる巌の如く重量のある力の根が張り始めていることを感じて、己の決意の間違いがここには無いことを知り、少年自身、今までの安穏とした生活にはない充足感を得ていた。もしも、ここで父に打ち勝つようなことがあれば、それは紛れもなく爽快であろうし、憤懣やる方なく曇依どんよりとした己の心を一気に晴れ渡らせるような、そういった事象となることに違いはあるまい。

「どうだ。躰は癒えたか」

 父が何気ない様子でそう言った。

 どの口が言うのか。昨日さんざ打ち据えた人間が、その打ち据えた相手に対して慈しんでいるつもりなのか。

 得てして、何か遺恨がある相手に対してに同情するような素振りを見せると、却って感情を逆撫ですることになる。これはたとい父子の間であろうとも

──寧ろ一番身近にいる同性の者として猶更、意識する場合もあろうが──

成り立つことで、この時の少年は己の父親に向かって唾を幾ら吐き掛けようとも晴らせぬ、そういった憎悪の塊を肚の底に生じさせた。

 この一言に感情を隠すことができず、血相を真っ赤に変えた少年は、何も言葉を返さないまま父の顔を目掛けて拳を振り上げて躰を跳ばした。

 何も迷いのない少年の目から見える景色は、激情に支配されて白み掛かっていたが、それでも昨日の経験がまだ鮮明にあったものだから、父の動きをよく見るという点に於いてはまだ冷静さを持っていた。

 父は同じように一跬いっき程の間隔を持って足を地に突き刺し、棒を地から垂直に立てている。

 きっと、最初は上から振り下ろしてくるだろうと少年は二歩ほどの位置に近付いた処で躰をよじった。

 ただここから、腹を打たれて弾き飛ばされたのが事の顛末であったことは覚えている。同じような手を食らうまいと、少年は身を低くした。

 これで躱せただろうと思ったが、どうやら身の屈め方が甘かったらしい。父の持つ棒の幹が、少年の顳顬こめかみの辺りを直撃した。


 打たれた瞬間、少年の視界に閃光が走ると同時に意識が飛んだ。気が付いた時には、躰の片側に柔らかい春草の感触を得ると同時に、父が横でしゃがみ込んで此方の顔を覗き込んでいるのが見えた。

 父は、少年が目を覚ますのを見届けると

「続けるぞ。ほら、立つんだ」

と、少年の腋を抱えて無理やり引き起こす。

 意識を取り戻したとはいえ、見える風景の其処彼処に光が明滅して、上下左右に搔き乱されるような感覚を頭に残している。躰を持ち上げられて足を地に着けようとも、それを支えるのに精一杯で、とても四肢を動かすことはできない。もし動かそうものならば、すぐにはらわたから食ったものが吐き出されてしまいそうだった。

 それにも構わず、父は向こう側に立ってまた同じ姿勢をとる。

 憎たらしい。少年は自らのうちから発される眩暈めまいと吐き気とに抗いながら、ぼやけた眼を以って父の姿を見ていた。父は己の兒の頭を、その動きの兼ね合いもあったとはいえ殴ったというのに、平然とした態度で居る。

 この事態が起こって尚、こうしていられるのは精神に罪悪を感じているのと同時に感情的な斥力が働いているのか、それとも罪悪感というものがそもそも無いのか。少なくとも少年の目には、この時の父の顔が北叟笑ほくそえんでいるように見えた。

 少年は父の顔をじっと見つめて、肚の底から来る不快の情が頭に上り

──人非人め

と念じてかぶりを振り、己の心を奮いたたせ、まだ眼のぼやけの消え失せないままに力の入らない脚を動かした。

 少年は父の動きを頭に入れていた。まずは縦に一撃が来る。そしてそれを横に避ければ、払うような一撃が来る。その打ち払いが来れば跳ぶか屈むかであり、その動きも拍子を間違えれば、さきのように頭を打たれるか、それとも脛を打たれるかなのは解っている。

 ならば、と少年は最初の一撃を躱すと振り下ろされた棒の一端を両手で掴んだ。

 父の方もこの動きに驚いたのか、一瞬だけ棒を把握する力が緩まった。

 これはしてやった。父の意表を突いたことに喜びの情を隠せず、少年の方もその躰から力が抜ける。

 これがまずかった。少年の躰が浮いたと思うと、父は両手で棒を手繰って宙に弧を描いた。

 今まで上に見ていた父の顔が下に見えるようになったと思うと、そのまま天地が返って、背中から地面に打ち付けられた。

 その衝撃のせいで、肺の腑が縮んで息が出来ない。少年が咳をしながら翻筋斗もんどり打っていると

「よし、今日はここまでだ」

そう言って、父は右手を差し伸べたが、少年にとって見れば、このような父に取られる掌など無いと自らの腕で躰を押し上げ、その顔を一瞥もせずに帰途に就いた。




 痛めつけられた躰を休めようとして、少年は家に着くなりすぐに横臥した。

 妻もまた、二人が草原に出ている間に畑で草を抜き、手足を土で汚して帰ってきていた。

「この兒、体が持たないんじゃないか」

 彼女はわが兒の顔を見つめながら、身の行く先を案じるように、後を附いて酒をあおりながら帰ってきていた夫に語り掛ける。

 夫はその言葉を聞くなり、大きく溜息を吐いて項垂れるように腰を下ろした。彼の側も何か思うことがあるのか、口の端が微かに動いて止まることを知らない。

 そのことに、この妻の側が気付かぬ筈も無く

「あんたさ、昨日から大分おかしいよ。言えるなら、今の内に言いな」

と其の心の内を吐露するように促した。

 それでも夫の側から何かを言えるようなものではないのか、黙りこくってしまっている。

 彼女は痺れを切らし、自分の夫の傍に寄るとその鼻に向かって拳をぶつけた。

「鮮卑の女がどういう男に惚れるのか、知ってるだろ。うじうじしてんのは嫌いだよ」

 妻の側も夫のことを見切った訳では無い。本心がどうであるのかを聞きたくて、必死になったが為に手が出てしまった。啖呵を切って、手を出して、感情的にさせることができれば、きっと言ってくれるのだと信じたが故の行動だった。

 それに、自分に対して啖呵を切ってきた割には、その煮え切らない態度が気に入らないという怒りもあった。そのせいか、思ったよりも強く腕が振られて、殴り飛ばした夫の顔を見ると、鼻から一筋ばかりの血が流れ出している。

 妻はこの時、血の気が引いた。ここまで強く打ってしまえば、その報復が来ても可笑しくない。こと、ここ何日かに亘って己の兒を引き摺り回し、酒を喰らって酔い潰れるまでになって、その感情の起伏が定まらなくなってしまった此の男ならば猶更ではないか。

 元はといえば、己をかどわかしてこの地に連れてきたような男なのだ。これまでの、難事に当たって揺らぐことのない堂々とした姿と、それでいて髪を梳かせたら一級品の繊細さも持ち合わせているような姿というものが仮初で、本来は気の触れた暴虐漢だったのではないかと思った。

 邑の人間も、自分が来てから

──あの呂という男も、人が変わったようだ

と言っていたではないか。

 もしかしたら死んでしまうのかもしれない、という恐怖が身を襲っていた。

 しかし、この男の反応は違っていた。

 笑い始めたのだ。

 何が可笑しいのか、それとも楽しいのか、女たる己には何も分からない。

 そしてその分からぬという気持ちが収まらない内に、夫は体を揺らしたまま

「やっぱり、お前は良い女だ」

と顔を上げずに言ってきたのである。こうなってしまうと、いよいよこの男の本性がわからない。

 わが兒を打ち据えた後で平然と酒を呑んで帰ってくるような男が、自分の妻に殴られて血を流しても激高するどころか誉めてくる。これでは掴み処も何も無いではないか。

 妻は立ってこそいたが、その実は腰が抜けたようになってしまって、動くことが出来なくなっていた。

 そしてその後に夫は呟くように

「今日は、頭を打った」

と言った。妻にとっては、この頭を打ったという言葉に

──夫はどこかで転んだのか

などと思っていたが、それにしては項垂れ方が強く、語気には覇気が伴っていない。明らかに落胆と慙悔の籠っている、息の抜けるような声を聞いて、この言葉の真意が己の想像していた所に無いらしい。

 この人が打たれたわけではない。それならば、まさか

「まさか、布の頭を打ったのかい」

声を震わせながらそうただすと、その頭が一回、縦に揺れた。

 彼女の頭は一瞬だけ真っ白になった。気が付いた時には夫を突き飛ばしていた。倒れこんだ夫に馬乗りになって何度か張り手を食らわせたが、なかなか気が収まらない。

「ああ、もっとぶて。もっとぶて」

 酔いが回った夫は、うなされる様な口調でそう繰り返している。妻のほうも昂奮を抑えきれずに息が上がっていたが、箍の外れたように何度も打擲を求める夫の姿に、手を挙げる気すらも萎えてくる。

 こうなると、妻の方も目が覚めてくる。なんで勁強さを売っていたこの人が、この図体に見合わぬ臆病さを見せるようになてしまったのか。情けないと思うのはこの人に向けてだけではない、己が其れを引き出すに足りない人だということも、極めて情けない。

「言ってくれなきゃ分からないよ。言ってよ」

 喉を絞るような感覚を伴って、そう言った。

「なんで俺はこんなことをしなきゃならねえんだろうな。布を生かすには強くしなきゃならねえ。でも強くするには死にそうな目に合わせなきゃならねえ」

 夫が不意に目から涕を一粒だけ零した。

「覚悟したんでしょ。覚悟したならやるのが私たちの役目でしょ」

 妻が夫の尻に火を点けんとそう言ったが、同時にさっきの言葉が頭をよぎる。

「覚悟はしてるさ。だが、昨日もそうだ。布の体を打ち据えるのは相当勇気が要ったよ。それに」

「頭を打ったんでしょ」

「よく、わかるな。俺が不注意だったんだよ。切り返したときは腹に当てに行ったんだ。だけどあいつ、昨日の一回だけで俺のやることを見切ってやがった」

 わが兒には存外、武術の才能があることがこの一言だけで解る。だが、それは後で聞いた者だから解ったことで、実際に対峙していた夫にとっては初めて目にすることだった筈だ。

「あなた、どう思った」

 こう聞いたのは、夫の気持ちを宥める為であり、そして同時に己が彼の体験した実際を知りたいが為だった。

「俺は子殺しになったんだと思ったよ。この手を見ろ。これで俺とお前の兒を殺しかけたんだ」

 そう言いながら、夫は己の左手を見せてきた。その掌を覆うようにある胼胝たこが、言葉のせいかは判らないが、何時もよりも生々しく見える。

「殺さなくて良かったじゃないか。きっと運があるんだ。あの兒は強くなれるよ」

 頭を撫でながら言った此の言葉は気休めでしかないし、正当な理がある訳でも無かったが、それでも言わなければならないと思うほど、己の股の下にいる夫の姿が弱弱しい。

「そうかもしれないな。あいつが目を覚ました時は、俺は兒を殺さずに済んだんだと思って、ほっとしたんだ。まだ、まだ大丈夫だ、まだ俺は人の父親でいられるんだって」

 心無しか、妻から聞こえる夫の言葉が、今までの独り立ちした男らしい豪気な口調から、一人の人の子の口調に変わったような気がする。

 彼の本音は何なのだろう。今だったら聞けるのではないか。

「ねえ。なんでそんなに怖がってるの」

 彼は人に見えないように肚に何かを抱えている。隠し事だけは嫌だと思ったが故に、真正面から、眼を見て、そう問いかけた。

「俺の家はな、みんな死んでくんだよ。俺だけ残して」

 話した瞬間に流れる涕の量が一気に増えた。

──そうか、夫が自分の話をしないのはそのせいなんだ

 今までの会話の中で、彼が自身の話をしたがらないということを不思議に思っていたが、そういうことなのかと得心をした。

 そして今まで弱みを見せて来なかった己の夫の初めて見せる姿が、妻の心胆から胸を突き刺す程の憐れみを呼び出した。同時に全てを知れたという優越感も生じて、その頭をゆっくりと抱き上げると

「いつまでも独りぼっちじゃ駄目だよ。私にも、手を貸させてくれ」

と、耳元で囁いた。

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