さっきまでうさぎしかばねであったそれは、いつの間にかよくみがかれた肉の塊となっていた。

 臓物は抜かれ、皮はがされ、そして少年にとって一番の生々しさ(それは死んでいるものにも関わらず、濁らせた目をはっきりと開いていたからである)を感じさせた生首は、いつの間にか落とされて、草の陰に放り込まれていた。

 前後の足の先に未だ毛の付いた皮を残してはいたが、それでも此れは歴とした新鮮な肉の塊にしか見えない。

 剥いだ毛皮と使った刃物を脇に置いて、両手を空にした父は、兎の肋骨ろっこつを裏返すように力を加えると、枝を手折たおった時のような音と共に、胴の肉が縦に真っ二つに割れた。

 そうしてふたつに割れた兎の肉を、再び刃物を使って、分けていく。

 前肢ぜんしの肉を肩の辺りから。

 そして、後肢こうしの肉をももの付け根から。

 骨の合間に刃を挿し込むようにして、手早く分解されていった兎のからだは、既に嫌悪されるような生々しさを無くしていた。

 こうなると、もう普段見る鳥や豕の肉と何ら変わりはなく、少年のはらも正直に大きな音を鳴らした。

 足の肉が四本、胴回りの肋肉あばらにくが二枚。

 父が母の髪を毎日のようにいているのを、知っていた。その行為を後ろから見ていて、

──ぱぱってなんだな

ということを、少年は常々思っていた。

 だが、こういった器用さというものは初めて知ったものだから、肉をくの中に一定の冷徹れいてつさを感じると共に、真似をすることに憧れたのである。

 気が付けば少年は父のすぐそばに行って、父の動きを手でなぞらえながら、自分の躰に覚えさせようとしていた。

 父の動きは熟練していて、肉の切れ目に何度も刃を入れているのに、切り口にある肉が幾重いくえものひだを作らず、毛羽立けばだつことも無く、ただ一刀の下に切ったのだと錯覚さっかくする程、平滑へいかつな断面をしている。

 大抵の場合、道具が良いのだと錯覚するだろう。だが少年の眼は、物も腕も良いということを見抜いていた。

 腕が良くても道具の手入れをおこたれば、技を最大限生かすことはあたわぬし、逆に道具が良くても腕が良くなければ、無駄に道具を痛めつけるだけに過ぎない。

 言葉にならないながら、父の一連の所作を見る内に、技能を身に着けるというのはこういう事なのだ、という様々なコツを得た。

 言葉とするならば、一に眼が良くなければならず、二に忠実でなければならず、三に実践できねばならず、四に忍耐強くなければならない。

 回りくどいようだが、つまり少年は、目の前の父をそういう人間であると見たのである。


 少年の元に父がやってきた。

 手には、さきに切り分けた兎の肉が掴まれている。

「布。喰うぞ」

 そう言った父は、少年に対して一番に肉付きの良い後肢の肉を渡した。

「煮なくて良いの」

 肉は煮るか焼いて食べるものだと思っていた。そうしなければいけない、と人々の行動から教えられていた少年は、当然の疑問を投げかけた。

 しかし父は、少年の言葉を意にも掛けず、手に持っていた兎のあばらの肉を、歯でこそげる様にしてかじっていた。

 少年も、父の喰う様を驚きはしたが、兎のくびから血を飲んだことを思い出すと、

──これをやらなきゃ死ぬ

という風に思い込んで、それよりましだ、と自分をだましつつではあったが、腿に当たる肉に齧り付いた。

 焼いていない肉は、幼児おさなごの歯と顎には厳しい。余りに強い弾力と、所々にある筋とに歯の貫入かんにゅうはばまれて、最初のひと噛みは歯茎をかゆくしただけに終わった。

 さっきの血の味と臭いにちかい風味があって、何となくあごの力を弱めていたが、それでも喰わねばならぬ、と、また決心をしてもう一度、今度は肉の薄い所を目掛けて、思い切って嚙んだ。

 己で嚙み切れそうな所を選んだつもりだったが、それでも跳ね返されるような感覚があって、歯が入っていかない。少しだけ顔を斜めにして、もう一度同じ所に歯を入れた。

 それを二度、三度と繰り返すうちに段々と肉が薄くなって、八回噛んだ時、ようやっと肉が千切れた。

 口の中で咀嚼そしゃくを繰り返すが、なかなか形が崩れていかない。

 一日中これを続けていても、とうてい呑み込めない気がしたが、それでも腹に入れるまでが喰うことだからと、思い切って、無理矢理に肉の小片を飲み込んだ。

 久しぶりに物を喰った。それがこの少年にとっては何よりの事であった。しかし、ここまで硬いものを喰うとなると、肚が満たされる前に、気力が付きそうな気がする。

 それでも、喰ったことには変わりがない。

 少年のうちから食欲が湧きあがり、焦るような気持ちで繰り返した。

 腿の肉が半分ほど肚に入ると、少年は食べるのを止めた。

 あるていど肚が満たされたのもあるが、食べるという行為に疲れてしまったのが一番である。

 正直に言って、喰うということがここまで疲れるものなのか、と実感していた。

 もともと草を刈るなどして躰を酷使していたし、父の仕草を真似して技を体得してみようともした。

 そのあとに矢鱈やたらと硬い肉を何百も嚙んで、やっと肚がふくれる。

 まことに、食べるという行為は疲労をもたらすものなのだと、少年は己の身をって知った。


 肉を喰っている内に日が暮れた。

 齧ることに懸命であったし、更には初めて喰った生肉の味というものが鮮烈であったから、周りの景色というものが段々と暗がりの中にしずんでいくことに気が付いていなかった。

 さきの朱い光に照らされていた父の姿は、いまはあおぐろい影になってたたずんでいる。

 座り込んだ少年の尻の横には、父の食った兎の脚の骨が落ちていた。

 半分で既に食べ疲れた少年とは違って、父はその肉を余すことなく綺麗に食べきり、骨だけになったそれをなおも吸うようにして食べていた。

 骨の味すら飽きた父が、骨を置いて行ったのである。

 家に居ると採れためておいた穀物の類を分け合って喰うのがほとんどである。

 奪い合っていてはいずれ破綻をしてしまうから、己が空腹すらも我慢して腹六分までに留めておくことが美徳である、というのがこの少年が今まで経験してきた食事という行為の作法である。

 ただ、隣に座った父親が何時もとは違ったように貪欲にむさぼるさまを見て、ある場にいては我慢することだけが人間のするべき行為ではない、と知った。

 ただ一度の食事で人間の生きるという行為が、ときに人倫じんりんのりえたところに発現していくのだということを学び、いまはその倫理りんりに従ってみようと考えた少年は、肉を喰ってからすぐに躰を横臥おうがさせた父の背を尻目にして、残った腿の肉を思い切り噛んだ。




「おかえり。安心したよ」

 母の声を聴いたのは五日ぶりである。そして

「おう、心配しただろ」

父のほがらかさを持った声を聴くのも、五日ぶりである。

 少年は初めて、野生の風に吹かれながら「生きる」という行為をした。

 それは今までの父母に守られながら送る、貧しくても安穏あんのんとした時間ではない。

 生きるために食べるのだ。

 そう人は言うが、少年は旅の間、少なくとも彼の意識の中では、食べるために生きていた。

──生きていなければ、ものを食えないじゃないか

 という感覚が、彼の中に芽生めばえたのである。

 兎角とかく、彼は腹を減らしていた。

 兎の肉を喰った日があったとはいえ、時間の殆どはえをしのぐ為に、刈った草の類を嚙んでいた。

 時に酸っぱく、時に苦く、そしておおよそが特徴のある匂いを持っている。

 好き嫌いがあることはあったが、それでも食わないことが何よりもあやうく思えたから、嫌いなにおいの草があれば、鼻をつまんででも喰った。

 それでも、草ばかりでは肚が減る。

 生まれた家に死なずに帰ってこれたという安堵あんどから、少年はいつも座るむしろの上に、乱暴に座り込んだ。

 今はめっぽう不機嫌だが、感情を発露するほどの気力も躰力たいりょくも残っていない。

「布。疲れたね。これを食べなさい」

 母がわんの中に、まめを煮たかゆを入れて持ってきた。

 久々に眼前にきょうされた、湯気の立ち上る食べ物。

 生温い肉と青い草という、獣が喰うようなものばかりを何日も食べてきた少年にとっては、たといたかつきに盛られた三枚肉の蒸し焼きであろうとも敵わない、仙人の食べ物のように映った。

 躊躇ためらわずに顔を突っ込んだ。

 外から見れば、まるで野良犬が残飯をあさっているかのように見えただろうが、そんなことを気にするだけの余裕というものが、この少年には失われている。

 何日もの間に

──食べなければ死ぬんだ

という意識が躰に染みついていたようで、この行動も理性の内には無い、人の姿として現れたものだった。

 そうしていると、途中で父が、乱暴に少年の躰を起こした。

「はなせ、はなせ」

 少年はわめいたが、父は羽交はがめにした腕を解こうとはしない。

「そのまま喰ったら、肚をいためるぞ」

 父は駄々だだねる少年に向かって、叱り飛ばすように言った。

 まだ少年は肚が沢山だという感覚を持っていない。だから飢えたままの状態で、菽粥まめがゆを食べている。幼い子には肚の分別ふんべつがつかないから、もし臓腑が既に満たされていても、割合わりあいどこまで至っているのかすらも解らない。

 そのまま食べ続けるようなことがあれば、最悪は躰が耐え切れずに病を得てしまう。

 少年はなおも躰を暴れさせ、抜け出そうとしたが、父の腕力が相当に強く、抜け出すことが敵わないまま、遂に疲れ切って眠りこけてしまった。

「はあ。あんた、ここまでしてをどうしたいの」

 母が父に向って、親であるならば当然の如く肚にうねるだろう疑問を言った。

 父の方は少し目をうつむけながら

「俺はこいつに生きて貰わなきゃならないんだよ。ここで生きるなら、えびすにも負けない男にしなけりゃならない」

と、眼を閉じた我が子に向けるように、のたまった。

「もっと真っ当なやり方ってもんがあるでしょ。子を殺すんなら他でやりな」

 母の方が声を荒らげて詰め寄ったが、しかし父の眼の光は変わらない。

「お前も鮮卑せんぴだったんだから知ってるだろ。今の世はそんなに生易なまやさしくねえんだよ」

 なんの臆面おくめんもなく毅然きぜんと言い放たれた言葉を聞いて、母は馬をよく駆っていた頃の己を思い出した。


 彼女の部落に住んでいた人間は、寒くなり、草が絶え、畜獣ちくじゅうが死んでいくと、決まって南へ進む。

 弓が得意だった彼女は、集団の後ろの方にいて行く位ではあったが、よく連れていかれた。

 行く先では己の部族の皆の為を想って、くらにある菽やきびを奪い、袋に詰めた。

 雄々しく戦って人や牛馬をさらったり、抵抗する漢人を殺すのは男の役目である。自分がするのは、事の済んだ時に、物をぬすむことだけであった。

 ただ一度、皆の駆る馬群に少しだけ遅れたときに、殺気立った男に追われたことがある。

 男は弓を構えて、彼女に一本の矢を放った。

 矢は外れた。肩のはるか向こうを通り過ぎて行った矢を見て

──下手糞め

と思った彼女は、えびらに入れた胡弓こきゅうを手にして矢をつがえ、後ろを向けるようにまたがりなおすと、狙いを定めてった。

 矢は男の頭を貫いた。

 躰から一気に力が抜けて仰向けにたおれる男をたとき、彼女は自らの腕を誇った。

──どうだ、南の惰弱だじゃくかんども

 というのが、そのときの本心である。

 わらいたくなる気持ちを顔に出さないように、ひたすら耐えていたあの時が脳裏のうりに蘇った。

 記憶が鮮明だっただけに、彼女ははっとした。

 もし、あの男が成長したわが兒だったならば。

 もし、あの時に略奪したむらが、自分たちの住む邑だったら。

 それを己の夫から突き付けられた気がして、ひとみを揺らして黙るしかなかった。

 口がけなくなった妻の姿を見た夫は、少年をそっと床に寝かせると、にじり寄って胸に抱いた。

「そういえば、五日も家を空けてただろ。ご無沙汰ぶさたしたな」

 夫はそのまま、妻の躰に口を這わせた。


 少年が起きたのは、まだ黎明れいめいを迎える前のくらい時間だった。

 眠る前に己が暴れていたことを記憶に留めてはいたが、果たして何がそんなに己を突き動かしていたのかは判断がつかない。

 いまあるのは、親に迷惑をかけてしまったという溜息ためいきくような罪悪感だけである。

 しばらくぼうっとしていると、夜目やめになって、周りがなんとなくわかってきた。

 だいぶん深く眠ったせいだろうか。どうにも眼が乾いて仕方がない。

 強く目をこすってから横を見ると、父と母が寄り添って寝ている。

 上には父のいつも着ているあさごろもが、二人を包み込むように掛かっていた。

 少年は、後年のように夜伽よとぎをしていることなど知るよしもなく、父母もまた男女であることを解らなかったから

──なかが良いんだな

という程度に捉えて、少し鬱屈うっくつしていた気分を晴らそうと、夜明け前の風に当たりに行った。

 春とはいえ夜の、特に日の上がる直前の風は肌寒い。

 だが、今の少年にとってすれば、この寒さを感じる程度の気温こそが、一番に己を洗い清めてくれるような感じがして心地良かった。

 肌をでるように当たる微風びふうは、少しばかりの間、家族のうちに潜在的にある束縛そくばくかんから彼を開放した。

 そして、その開放感が、考えることすら許されなかった五日間の意義というものを、改めて振り返るだけの余裕を生み出していた。

 父は、何を教えたかったのか。

 世の中の持つ厳しさだったのか、それとも父自身が持つ強さなのか。

 厳しさを教えるのであれば、何故いきなり、あんな草原の中にほっぽり出されるような経験をしなければならないのだろうか。

 毎日、畑の手入れ手伝っているだけでも、少年には辛い。我儘わがままを言えない状況に置かれるという面だけで見るならば、どちらも変わらない。

 父が己の力を誇示したいというのであれば、邑の中ですれば良い。

 わざわざ我が子を連れてまで、己を厳しい環境に置いて、飢えたり獣の血をすすったり、本当に目的を持ってそんな奇行を繰り返す父だったならば、この少年は幼いなりに、父を人として軽蔑けいべつをするだろう。

 だが少年は、何か意味をこじつけるような思考をって考えなかった。

 己の中にある父への憧憬しょうけいと、原野の内に経験した耐え忍ぶ感性とを、ただ堂々と受け止めて

──つよくなってやる

などと一端の目標を立ててみて、果たして徐々に夜が明けてきたのをると、それこそ自分が目指すべきものであると天も示したのだと、確信を持って断言することができたのである。

 そして、この経験が少年の心に

──お前は男だ

と告げて、陰にも陽にも就かなかった彼のさがの帰着すべき先を提示した。


 夜が明けてきたとはいえ、まだ薄暗がりの邑中ゆうちゅうを歩いて家に帰った。

 戸口の中に入ると、まだ父と母が横になっている。

 寝息を立てている己の両親を、片目の端で見ながら、少年は戸口の横に立て掛けてあった父の得物(即ちいしづきを付けた一丈ばかりの棒)を手に取った。

 少年は、己がどれほど強いのかということを確かめたかったのである。

 そのためには、ふだん己が知りえる人間が、どれほど強いのだろうか、と知る必要があった。

 己が強さを知りえる人間は、幸か不幸か邑の中にもいくらかいるが、中でも父は別格の扱いを受けていた。

 少なくとも、近所の男どもの中では、いちばん強い。

 そのことを知っていたから、まずは父がどんな物を使っているのかを知る必要があった。

 手に取ってみると、ずっしりとした感触がある。鐏は銑鉄ずくてつで出来ているとはいえ、それを差し引いたとしても、この木自体が普通の木材より重い。

 少年も、時たましばを持つことが有るから判る。

 多くの木というものは、水を含んでいる内はある程度のしなやかさを持っているが、乾燥してしまうともろくなる。そういった質の木というものは、大概たいがいが軽い。

 そして、ある程度のつよさを持たせようとすると、どうしても太くならざる負えない。

 だが木材としてみがこうとするのならば、表面から一寸は削るだろうから、こういう武具に使うような木は、高級な物である場合が多い。

 少年がたところ、棒の太さはそれ程まででは無いのに極めてかたいし、これほど重いというのはしっかりと身が詰まっていて、非常に品質の良い木を使っていることの証でもある。

 さらに言えば、棒の肌は素晴らしくなめらかだった。

 これは木の質が云々うんぬんというよりも、長らく父がこの棒と時を共にしていて使い込んでいるが為に、父のてのひらの脂と、使う際の摩擦まさつとで何度もみがかれた末のものなのだろう。

 そうやって作られた肌というのは、何とも言えない吸い付くような感触を持ち、つ使っていた人の躰温たいおんすらも感じることが出来るなめりがある。

 少年は錯覚した。この棒こそが極めて優れた獲物であったが為に、自らの実力を、過信して受け取ってしまったのである。

 己の慢心と好奇心に負けて壁から外し、果たして外で振ってみたらどんなものであるのだろう、と外へ持ち出そうとしたときに、目測を誤って戸口のふちに棒の片端をぶつけてしまった。

「おい、なにやってんだ」

 音に気付いて即座に起き上った父が、少年をにらんでいる。

「いや、その」

 少年は自らのやった窃盗せっとう行為がばれたことに、ただならぬ恐怖を感じた。

 邑にも盗人の類は来るし、そういったやからが、いかめしい官吏かんりやら、私人によって報復を受ける場面を目にしたことがある。

 そして、なんといっても盗人を捕らえるときに、真っ先に飛び出す邑の番人こそ、少年の父なのである。

 時代の気風として、子の悪行を許すことは不孝ふこうを助長させるとして厳しく追及し、はたまた己が子を容赦ようしゃなく官衙かんがに突き出す親も多くいたであろうに、少年の行為というものはいささか軽率であった。

 今更、許してくれ、などとも言えぬだろうと只管ひたすらに身を震えさせていた少年に、父は

「そうか、興味を持ったか」

と、昨日までの精悍せいかん野人やじんと化していた父の面影を見せることなく、いままでの豪放で明朗めいろうなままの姿で、しかも嬉しがった明るい表情で、言い放ったのである。

 この声に母も起き上がった。

「あんた、どうしたの」

 起き抜けにそう言った母に対して、父は

「すまん、ちょっと外に出る」

などと言って少年を右の脇に抱え、棒を左手に持って、ぶように何処どこかへ向かってしまった。


「ようし、ここいらで良いだろう」

 笑みを浮かべながら、父は邑の外れにあるくさむらで、少年を降ろした。

 少年は未だに理解が追い付いていない。

 父が何故ここまで嬉しそうにしているのかも、これから何をしようとしているのかも。

 可笑おかしな言い方ではあるが、はっきりとわからない。

「よしよし。おい布、俺の正面に立て」

 わからないが、父が楽しそうなのだから従うしかあるまい。

 そんな風に少年は、父に遠慮して、言葉の通りに父が真向まむかいに来るようにして立った。

「よし、それで良い。それじゃあ、今から言う三つのことを守れ」

 父の見せる顔は、ここ数日のそれとは真逆だった。

 今までの父に戻ったと思った矢先やさきの、今までよりも高揚した父の姿。

 少年は幼いし、そもそもこの時代に、そんな語彙ごいこそ無かっただろうが、しかし本心を言葉として表すのならば

──この父は躁鬱そううつびょう瘋癲ふうてんの類ではなかろうか

という疑いすらも持たせるような行動に思えた。

「ひとつ、俺を殺す気で来い。ふたつ、素手で来い。みっつ、打たれても音を上げるな」

 五つの我が子に言うには、なんとも過激な言葉であった。

 だが父の眼を見ると、この言葉がただの酔狂すいきょうで発されたものとも思えなかった。

「よし来い」

 ひと声あげた父は、左手に持った棒の一端を地につき、余裕よゆう綽々しゃくしゃくとした表情で腰に右手を当て、どっしりと根を張るような格好でその場に直立した。

 少年は父の格好を見て、これは本気なのか、それともじゃれるつもりで言っているのか、全く判断を付けることが出来なかった。

 父の姿をじっくりとれば察るほど、ただ風に吹かれに来ただけにしか見えない。

 果たして良いのだろうか。

 ここで殴りに行って、もしも肚に思い切った拳が入ったら、いくら非力な己の一撃だろうと、痛くはないだろうか。

 思い悩んでいる間も、父は微動だにしない。

 家から起き抜けに、さくを付けず来たせいで、長いびんが風に吹かれて大きく広がった。

──これは、行かないとずっとこのままだ

 父の様子を見て、さっさと終わらせたかった少年は、決心を固めたのである。

 人に眠りをうながすような風が吹いている。

 暇を持て余した父が、首を大きく回した瞬間を見て、少年は駆け出した。

 その心の内にある思いというのは、

──とりあえず、一回なぐれば終わる

というだけのもので、それほど真剣に考えはしなかった。

 突っ込んで行った。

 父の方もそれほど真剣に構えているように見えなかったから、きっと遊びの範疇はんちゅうでの対峙たいじなのだろうと、少年はこれまでの困惑を振り払って、殴るというより抱き着く位の気持ちで飛び込んでいったのである。

 ただ、次の瞬間にはそれが

「油断」

と呼ばれるものであることを思い知らされた。

 父のふところにもう少しで飛び込めると思った寸毫すんごうの内に、右肩に強く鈍い痛みを感じた。

「えっ」

 少年は思わず声を上げた。未だに己の身に何が起こったのかがよく理解できていない。

 衝撃も大きく、自分の躰が膝から崩れて、地に四つ足を付いているのも全く不可思議でしかない。

 響くようなしびれが走っている肩を抑えながら、父の方を見た。

 だが、さきの躰勢たいせいから変わっていない。

 なおさら、自分がどうしてつくばっているのかが分らなくなった少年は、ただただ父の表情から察しようとして、見つめることしかできなかった。

「布。どうした」

 父が今までに無い表情をしている。何かをたのしんでいるようにもみえたが、母と話しているときとか、或いは美味い物を食っているような表情ではない。

 どこか狂気がある、というのが少年から見た父のかおの印象だった。

 違和感を感じながら立ち上がって、再び少し下がったところから父に向ってはしり始めた。

──こんどこそ

 と思っていたが、やはり先と同じ位まで近づいた処で

「いたっ」

と、少年は肩を抑えて、地に叩き付けられることになった。

 何がなんやらさっぱりと分からなかったが、それでも一度目と比べて余裕が出来ていた少年は、確かに肩口で音がしたことと、痛みが走る直前に父の棒を持つ手が、わずかに動いたことに気付いた。

──ぱぱが何かしてるのはわかる。でも

 まだ少年には父が何をしているのか、いては何をさせたがっているのか、という部分を察することができていない。

 しばらく、地に膝を付いたままで考え込んでいた。

 このままでは駆けては潰されて、という行為を日の暮れた後でさえも続ける羽目になりそうである。

 少年もまだまだ遊び盛り、甘え盛りの真っ最中にあたる年頃だから、何とか早く家に帰って母親に甘やかされたいと思っている。

 そして早く帰るためには、父が使っている奇術の類を、なんとしても看破せねばならない。

 少年は、思いついた。

──わからないなら、もっとみれば良い

 つまりは己の肩の痛みにもう一度耐えた上で、父が何をしているのかを確りと見定めようとしたのである。

 どうやら少年には、胆力たんりょくというものが天稟てんぴんとして備っているらしく、また父の一撃を食らいに行くために、敢えて一度目や二度目よりも遠くに位置を取って、其処そこから父のいる方向に向かって、覚悟を決めて突っ込んでいった。

 今度は、父の姿がよく見える。

 少年は肩に、また鈍痛が走るのを覚悟して、真っすぐと走っていった。

 ここで自らの身の可愛さに避けようとすれば、目の位置がぶれて父が何をしているのか、判らなくなってしまう。そうして己がわからぬと言うだけ、肩が幾つ有っても足りない程に痛めつけられる。

 真っ直ぐ、真っ直ぐ、真っ直ぐ。

 果たして、今度もまた父から一歩半ほどの場所に至って、右の肩に痛みと、ぱたく音と、そして父の腕の動きとが見えた。

 三度、痛みと共に地面へと突っ伏したが、地に叩き付けられた少年は、こんどこそとした。

──みえた

 そのことによろこびを覚えたのである。

 確かに父のやったことが、この痛みに直結していた。

 ちょうど一歩半。

 父は間合いを見て、少年の右肩に向かって己の左手に持つ棒を振り下ろしていた。

 なるほど、父は本気で少年に武芸を叩き込もうとしているらしい。

 普通の五歳であれば泣きじゃくっていただろうが、少年は次で勝てると思ったが為に泣かなかった。

 或いは、剽悍ひょうかんな父と鮮卑の母に生まれた武人としての血の濃さが、そうさせているのかもしれない。

 少年はゆっくりとした動きで、地面から躰を離すと、また少しだけ下がった。

 父との距離は五歩程度。だが少年にとっては、一歩半で必ず一撃が来ると予測ができている以上、この辺りこそが一番、拍度ひょうたくを執りやすい位置であった。

 右肩は、既に痛くて上がりそうにない。だから次に父へと一撃を加えるのなら、左で打つことになる。

 覚悟は決まった。

 真っ直ぐ走る。父は動かない。距離は二歩。

 あと半歩で打たれることは知っているから、少しだけ左に躰を避ける。

 父の左手が動いたが、持たれた棒の端は、少年の脇に生えた草をかすめただけ。

──もらった

 一気に父の腹に向かって飛び掛かる。左の拳が父の脇肚わきばらに対して入った。

 と思ったが、次の瞬間に少年は肚に一撃を加えられて、己の拳の在る方に吹き飛ばされたのである。

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