五
さっきまで
臓物は抜かれ、皮は
前後の足の先に未だ毛の付いた皮を残してはいたが、それでも此れは歴とした新鮮な肉の塊にしか見えない。
剥いだ毛皮と使った刃物を脇に置いて、両手を空にした父は、兎の
そうしてふたつに割れた兎の肉を、再び刃物を使って、分けていく。
そして、
骨の合間に刃を挿し込むようにして、手早く分解されていった兎の
こうなると、もう普段見る鳥や豕の肉と何ら変わりはなく、少年の
足の肉が四本、胴回りの
父が母の髪を毎日のように
──
ということを、少年は常々思っていた。
だが、こういった器用さというものは初めて知ったものだから、肉を
気が付けば少年は父のすぐ
父の動きは熟練していて、肉の切れ目に何度も刃を入れているのに、切り口にある肉が
大抵の場合、道具が良いのだと錯覚するだろう。だが少年の眼は、物も腕も良いということを見抜いていた。
腕が良くても道具の手入れを
言葉にならないながら、父の一連の所作を見る内に、技能を身に着けるというのはこういう事なのだ、という様々な
言葉とするならば、一に眼が良くなければならず、二に忠実でなければならず、三に実践できねばならず、四に忍耐強くなければならない。
回り
少年の元に父がやってきた。
手には、さきに切り分けた兎の肉が掴まれている。
「布。喰うぞ」
そう言った父は、少年に対して一番に肉付きの良い後肢の肉を渡した。
「煮なくて良いの」
肉は煮るか焼いて食べるものだと思っていた。そうしなければいけない、と人々の行動から教えられていた少年は、当然の疑問を投げかけた。
しかし父は、少年の言葉を意にも掛けず、手に持っていた兎の
少年も、父の喰う様を驚きはしたが、兎の
──これをやらなきゃ死ぬ
という風に思い込んで、それよりましだ、と自分を
焼いていない肉は、
さっきの血の味と臭いに
己で嚙み切れそうな所を選んだつもりだったが、それでも跳ね返されるような感覚があって、歯が入っていかない。少しだけ顔を斜めにして、もう一度同じ所に歯を入れた。
それを二度、三度と繰り返すうちに段々と肉が薄くなって、八回噛んだ時、ようやっと肉が千切れた。
口の中で
一日中これを続けていても、とうてい呑み込めない気がしたが、それでも腹に入れるまでが喰うことだからと、思い切って、無理矢理に肉の小片を飲み込んだ。
久しぶりに物を喰った。それがこの少年にとっては何よりの事であった。しかし、ここまで硬いものを喰うとなると、肚が満たされる前に、気力が付きそうな気がする。
それでも、喰ったことには変わりがない。
少年の
腿の肉が半分ほど肚に入ると、少年は食べるのを止めた。
あるていど肚が満たされたのもあるが、食べるという行為に疲れてしまったのが一番である。
正直に言って、喰うということがここまで疲れるものなのか、と実感していた。
もともと草を刈るなどして躰を酷使していたし、父の仕草を真似して技を体得してみようともした。
そのあとに
まことに、食べるという行為は疲労を
肉を喰っている内に日が暮れた。
齧ることに懸命であったし、更には初めて喰った生肉の味というものが鮮烈であったから、周りの景色というものが段々と暗がりの中に
さきの朱い光に照らされていた父の姿は、いまは
座り込んだ少年の尻の横には、父の食った兎の脚の骨が落ちていた。
半分で既に食べ疲れた少年とは違って、父はその肉を余すことなく綺麗に食べきり、骨だけになったそれを
骨の味すら飽きた父が、骨を置いて行ったのである。
家に居ると採れた
奪い合っていてはいずれ破綻をしてしまうから、己が空腹すらも我慢して腹六分までに留めておくことが美徳である、というのがこの少年が今まで経験してきた食事という行為の作法である。
ただ、隣に座った父親が何時もとは違ったように貪欲に
ただ一度の食事で人間の生きるという行為が、ときに
「おかえり。安心したよ」
母の声を聴いたのは五日ぶりである。そして
「おう、心配しただろ」
父の
少年は初めて、野生の風に吹かれながら「生きる」という行為をした。
それは今までの父母に守られながら送る、貧しくても
生きるために食べるのだ。
そう人は言うが、少年は旅の間、少なくとも彼の意識の中では、食べるために生きていた。
──生きていなければ、ものを食えないじゃないか
という感覚が、彼の中に
兎の肉を喰った日があったとはいえ、時間の殆どは
時に酸っぱく、時に苦く、そして
好き嫌いがあることはあったが、それでも食わないことが何よりも
それでも、草ばかりでは肚が減る。
生まれた家に死なずに帰ってこれたという
今はめっぽう不機嫌だが、感情を発露するほどの気力も
「布。疲れたね。これを食べなさい」
母が
久々に眼前に
生温い肉と青い草という、獣が喰うようなものばかりを何日も食べてきた少年にとっては、たとい
外から見れば、まるで野良犬が残飯を
何日もの間に
──食べなければ死ぬんだ
という意識が躰に染みついていたようで、この行動も理性の内には無い、人の姿として現れたものだった。
そうしていると、途中で父が、乱暴に少年の躰を起こした。
「はなせ、はなせ」
少年は
「そのまま喰ったら、肚を
父は
まだ少年は肚が沢山だという感覚を持っていない。だから飢えたままの状態で、
そのまま食べ続けるようなことがあれば、最悪は躰が耐え切れずに病を得てしまう。
少年は
「はあ。あんた、ここまでして
母が父に向って、親であるならば当然の如く肚にうねるだろう疑問を言った。
父の方は少し目を
「俺はこいつに生きて貰わなきゃならないんだよ。ここで生きるなら、
と、眼を閉じた我が子に向けるように、
「もっと真っ当なやり方ってもんがあるでしょ。子を殺すんなら他でやりな」
母の方が声を荒らげて詰め寄ったが、しかし父の眼の光は変わらない。
「お前も
なんの
彼女の部落に住んでいた人間は、寒くなり、草が絶え、
弓が得意だった彼女は、集団の後ろの方に
行く先では己の部族の皆の為を想って、
雄々しく戦って人や牛馬を
ただ一度、皆の駆る馬群に少しだけ遅れたときに、殺気立った男に追われたことがある。
男は弓を構えて、彼女に一本の矢を放った。
矢は外れた。肩の
──下手糞め
と思った彼女は、
矢は男の頭を貫いた。
躰から一気に力が抜けて仰向けに
──どうだ、南の
というのが、そのときの本心である。
記憶が鮮明だっただけに、彼女ははっとした。
もし、あの男が成長したわが兒だったならば。
もし、あの時に略奪した
それを己の夫から突き付けられた気がして、
口が
「そういえば、五日も家を空けてただろ。ご
夫はそのまま、妻の躰に口を這わせた。
少年が起きたのは、まだ
眠る前に己が暴れていたことを記憶に留めてはいたが、果たして何がそんなに己を突き動かしていたのかは判断がつかない。
いまあるのは、親に迷惑をかけてしまったという
しばらくぼうっとしていると、
だいぶん深く眠ったせいだろうか。どうにも眼が乾いて仕方がない。
強く目を
上には父のいつも着ている
少年は、後年のように
──なかが良いんだな
という程度に捉えて、少し
春とはいえ夜の、特に日の上がる直前の風は肌寒い。
だが、今の少年にとってすれば、この寒さを感じる程度の気温こそが、一番に己を洗い清めてくれるような感じがして心地良かった。
肌を
そして、その開放感が、考えることすら許されなかった五日間の意義というものを、改めて振り返るだけの余裕を生み出していた。
父は、何を教えたかったのか。
世の中の持つ厳しさだったのか、それとも父自身が持つ強さなのか。
厳しさを教えるのであれば、何故いきなり、あんな草原の中にほっぽり出されるような経験をしなければならないのだろうか。
毎日、畑の手入れ手伝っているだけでも、少年には辛い。
父が己の力を誇示したいというのであれば、邑の中ですれば良い。
わざわざ我が子を連れてまで、己を厳しい環境に置いて、飢えたり獣の血を
だが少年は、何か意味をこじつけるような思考を
己の中にある父への
──つよくなってやる
などと一端の目標を立ててみて、果たして徐々に夜が明けてきたのを
そして、この経験が少年の心に
──お前は男だ
と告げて、陰にも陽にも就かなかった彼の
夜が明けてきたとはいえ、まだ薄暗がりの
戸口の中に入ると、まだ父と母が横になっている。
寝息を立てている己の両親を、片目の端で見ながら、少年は戸口の横に立て掛けてあった父の得物(即ち
少年は、己がどれほど強いのかということを確かめたかったのである。
そのためには、ふだん己が知りえる人間が、どれほど強いのだろうか、と知る必要があった。
己が強さを知りえる人間は、幸か不幸か邑の中にも
少なくとも、近所の男どもの中では、いちばん強い。
そのことを知っていたから、まずは父がどんな物を使っているのかを知る必要があった。
手に取ってみると、ずっしりとした感触がある。鐏は
少年も、時たま
多くの木というものは、水を含んでいる内はある程度の
そして、ある程度の
だが木材として
少年が
さらに言えば、棒の肌は素晴らしく
これは木の質が
そうやって作られた肌というのは、何とも言えない吸い付くような感触を持ち、
少年は錯覚した。この棒こそが極めて優れた獲物であったが為に、自らの実力を、過信して受け取ってしまったのである。
己の慢心と好奇心に負けて壁から外し、果たして外で振ってみたらどんなものであるのだろう、と外へ持ち出そうとしたときに、目測を誤って戸口の
「おい、なにやってんだ」
音に気付いて即座に起き上った父が、少年を
「いや、その」
少年は自らのやった
邑にも盗人の類は来るし、そういった
そして、なんといっても盗人を捕らえるときに、真っ先に飛び出す邑の番人こそ、少年の父なのである。
時代の気風として、子の悪行を許すことは
今更、許してくれ、などとも言えぬだろうと
「そうか、興味を持ったか」
と、昨日までの
この声に母も起き上がった。
「あんた、どうしたの」
起き抜けにそう言った母に対して、父は
「すまん、ちょっと外に出る」
などと言って少年を右の脇に抱え、棒を左手に持って、
「ようし、ここいらで良いだろう」
笑みを浮かべながら、父は邑の外れにある
少年は未だに理解が追い付いていない。
父が何故ここまで嬉しそうにしているのかも、これから何をしようとしているのかも。
「よしよし。おい布、俺の正面に立て」
わからないが、父が楽しそうなのだから従うしかあるまい。
そんな風に少年は、父に遠慮して、言葉の通りに父が
「よし、それで良い。それじゃあ、今から言う三つのことを守れ」
父の見せる顔は、ここ数日のそれとは真逆だった。
今までの父に戻ったと思った
少年は幼いし、そもそもこの時代に、そんな
──この父は
という疑いすらも持たせるような行動に思えた。
「ひとつ、俺を殺す気で来い。ふたつ、素手で来い。みっつ、打たれても音を上げるな」
五つの我が子に言うには、なんとも過激な言葉であった。
だが父の眼を見ると、この言葉がただの
「よし来い」
ひと声あげた父は、左手に持った棒の一端を地につき、
少年は父の格好を見て、これは本気なのか、それとも
父の姿をじっくりと
果たして良いのだろうか。
ここで殴りに行って、もしも肚に思い切った拳が入ったら、
思い悩んでいる間も、父は微動だにしない。
家から起き抜けに、
──これは、行かないとずっとこのままだ
父の様子を見て、さっさと終わらせたかった少年は、決心を固めたのである。
人に眠りを
暇を持て余した父が、首を大きく回した瞬間を見て、少年は駆け出した。
その心の内にある思いというのは、
──とりあえず、一回なぐれば終わる
というだけのもので、それほど真剣に考えはしなかった。
突っ込んで行った。
父の方もそれほど真剣に構えているように見えなかったから、きっと遊びの
ただ、次の瞬間にはそれが
「油断」
と呼ばれるものであることを思い知らされた。
父の
「えっ」
少年は思わず声を上げた。未だに己の身に何が起こったのかがよく理解できていない。
衝撃も大きく、自分の躰が膝から崩れて、地に四つ足を付いているのも全く不可思議でしかない。
響くような
だが、さきの
なおさら、自分がどうして
「布。どうした」
父が今までに無い表情をしている。何かを
どこか狂気がある、というのが少年から見た父の
違和感を感じながら立ち上がって、再び少し下がったところから父に向って
──こんどこそ
と思っていたが、やはり先と同じ位まで近づいた処で
「いたっ」
と、少年は肩を抑えて、地に叩き付けられることになった。
何がなんやらさっぱりと分からなかったが、それでも一度目と比べて余裕が出来ていた少年は、確かに肩口で音がしたことと、痛みが走る直前に父の棒を持つ手が、
──
まだ少年には父が何をしているのか、
このままでは駆けては潰されて、という行為を日の暮れた後でさえも続ける羽目になりそうである。
少年もまだまだ遊び盛り、甘え盛りの真っ最中にあたる年頃だから、何とか早く家に帰って母親に甘やかされたいと思っている。
そして早く帰るためには、父が使っている奇術の類を、なんとしても看破せねばならない。
少年は、思いついた。
──わからないなら、もっとみれば良い
つまりは己の肩の痛みにもう一度耐えた上で、父が何をしているのかを確りと見定めようとしたのである。
どうやら少年には、
今度は、父の姿がよく見える。
少年は肩に、また鈍痛が走るのを覚悟して、真っすぐと走っていった。
ここで自らの身の可愛さに避けようとすれば、目の位置がぶれて父が何をしているのか、判らなくなってしまう。そうして己がわからぬと言うだけ、肩が幾つ有っても足りない程に痛めつけられる。
真っ直ぐ、真っ直ぐ、真っ直ぐ。
果たして、今度もまた父から一歩半ほどの場所に至って、右の肩に痛みと、
三度、痛みと共に地面へと突っ伏したが、地に叩き付けられた少年は、こんどこそ
──みえた
そのことに
確かに父のやったことが、この痛みに直結していた。
ちょうど一歩半。
父は間合いを見て、少年の右肩に向かって己の左手に持つ棒を振り下ろしていた。
なるほど、父は本気で少年に武芸を叩き込もうとしているらしい。
普通の五歳であれば泣きじゃくっていただろうが、少年は次で勝てると思ったが為に泣かなかった。
或いは、
少年はゆっくりとした動きで、地面から躰を離すと、また少しだけ下がった。
父との距離は五歩程度。だが少年にとっては、一歩半で必ず一撃が来ると予測ができている以上、この辺りこそが一番、
右肩は、既に痛くて上がりそうにない。だから次に父へと一撃を加えるのなら、左で打つことになる。
覚悟は決まった。
真っ直ぐ走る。父は動かない。距離は二歩。
あと半歩で打たれることは知っているから、少しだけ左に躰を避ける。
父の左手が動いたが、持たれた棒の端は、少年の脇に生えた草を
──もらった
一気に父の腹に向かって飛び掛かる。左の拳が父の
と思ったが、次の瞬間に少年は肚に一撃を加えられて、己の拳の在る方に吹き飛ばされたのである。
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