昼の内に寝てしまったからなのか、少年は夕方になって目をました。

 横には母が座っている。

「ようやっと起きたかい。昼に寝ちゃったら狼になるよ」

 母の言っていることが理解できるようで、理解できない。しかし、もともと北地に住んでいたという母からは、狼という生物が人の暮らしをおびやかす群盗のようなものだと教えられていたから

──ああ、ぼくは人でなしになるかもしれない

という虚脱きょだつかんに襲われた。

「ねえ。明日はぱぱのことを放っといてさ、ままと外に出てみないかい」

 母がそんなことを言った。

 少年から見て、母は基本的には遠くから見守るような人で、近くに身を置いて手取り足取りを指図さしずしたがるような人ではない。

 だから、この誘いを母の口から聞くことになるとは思ってもみなかった。

 最近の、気が触れ始めた父の姿を見て、母への追慕ついぼをより強めていた少年にとっては、父から距離を置き、母に身を寄せるという意味で願ってもみなかったことでもある。

 考えることすらなく、二つ返事に

「うん、行く」

と答えた。


 もちろん、この母の誘いというものは父と結託けったくした上での行為であった。

 父は少年と手を合わせる内に、己の経験と躰に染みついた技巧とをって、少年の持つ特異性というものを感じ取っており、そのことを母にもまた伝えていたのである。

 こういった面に於いて、父は最近の奇行を感じさせない程に、冷静な目を持っていた。

 我が子のみに評価の基準を置くことなく、他人の子が同い歳の辺りではどうなのか、という辺りにも気を配って、少年の身のこなしやくせを見ていたのである。

 父の目から見て、最初に驚いたのは脚の速さであった。

 草原にて最初に対した時に、まず走る時の型が違ったことに意表を突かれた。

 普通、幼子というものは、走る時の腕を振るという行為に難儀するものではないのか。足の振る方、腕の振る方、そして躰のじれを一致させるのに苦労して、てんでな動きをするが故に、うまく前へと推進せしめることが出来ない、というのが常ではないのか。

 だが、少年の動きというものは、まるで訓練を重ねた兵卒のように均整きんせいの整った動きをしていた。

 それでいて飛ぶように速く、父は目測を誤りかけたのである。

 次いで言えば、動きの俊敏しゅんびんさというものが、他とは全く違う。

 初めて初撃を避けられた時が顕著けんちょだった。

 人が何かをかわそうとした時は、総身をまとめて動かそうとするものである。己の躰というものは案外あんがい重たいものだから、意外と動きが鈍くなるし、躱せたとしても勢いに負けて片足に重みが乗りすぎる。

 戎器じゅうきを振るう事がうまい奴というのは、絶対に、そのすきを狙ってくる。

 ならば躱し身が巧い者はどうするかといえば、躰の軸を大きく動かさずに、躰の左右を前後に入れ替えるようにして、当て所をずらすことで避けるのである。

 この動作は北狄ほくてきうまのりたちが巧いのだが、まさか我が子に出来るとは、思ってもみなかった。

 これ以外にもふたつ、父が驚いた点があった。

 それは二度目の対峙たいじで、縦に振るった棒を掴まれた時の話である。

 正直言って、父は避けるという行為から一歩進むまでは、相当の時間が掛かると思っていた。

 それどころか、避けるに至るまでも、数日は掛かるのではないかと考えていた。

 それがどうであろうか。たった三度だけで要領をとらまえて、すんなりとすべを見出したばかりか、次の日には避ける以外の術を見出してしまった。

 そして棒を掴まれた後である。

 父は我が子の事でもあるから、打つ際もしっかりと力加減をした上で、場所を選んで打ち込んでいたし、顳顬こめかみえてしまったことに罪の意識があった。もっと言うと

──はこのような技など知る由もないから

と、少しだけ油断していたのもある。

 しかし少年の方が棒を手繰たぐせんとして、力を込めてく動きをしたときに、思いもらぬ力で引っ張られたものだから、吃驚びっくりした。

 無論、父のほうも躰躯たいくに優れているし、己の力量というものを誇るに十分の大力たいりきを持っていたから、腕が持っていかれることこそ無かったが、しかし少年の持ち得る腕力というものは、おおよそ五歳の持ち得るものを逸脱していた。

 確かに、子供の躰躯や力量というものは天賦てんぷに依るものが大きいといえる。

 躰躯の大きいこと、そしてよく躰を動かしていることは、それに大きな関りを持っている。

 だが、少年には微弱な習慣性による変化というものが通用しないのではないか、というのが、父の感じたことだった。

 結局、少年の持つ予想外の成長の仕方に驚嘆きょうたんしつつ、されど次に向けた動きの変化を付けねばなるまいと思って、両手で棒を掴んだ後に少年ごと振り上げて、放り投げたのである。


 母は話を聞いている内に、そういえば父と畑の作業をするのに、近くで居ることは少なかったということを思い出した。

 大抵は母と少年とで共に草を刈るなどして、父は離れた処で鍬鋤くわすきを振るっている。

 だから母の目線からすれば、この少年が道具を把持はじしているときは、周りの成人した者と同じような動きができることを知っていたし、もっこかつげば五人力ともえる労力を発揮している姿を見ていたという部分で、父よりも少年に対する知見は深かった。

 とはいえ、母は母で、父のように他人の子と比較するということはせずに、我が子にしか目が行っていなかったから、父が言うような逸脱した感というものは特に持ってはいなかった。

 ただ、どこかで感じていたとするならば、まだ父と少年が五日間の放浪におもむく前、少年の躰をぬぐっていた時のことである。

 川の近くで上に来たはだぎを脱がし、川の水を使って躰を流していた時に、少年の裸体を見て、その躰が幼子のものというより一端の青年のような風躰ふうていに見えた。

 はらが割れ、胸が張り、肩は丸みを帯びていて、股は筋張っている。

 父の躰をそのまま小さくしたかのようで、思わず少年の躰に欲情した母は、背の中心に耳を当てたが、すぐに気の迷いを頭から振り払って、躰を拭い始めた。

 だが、躰を間違いなく一品であると認めた以上、見る目は鋭くならざるを得ず、背中を拭いている内に

──この子は間違いなく、良い弓引きになる

という風に思い始めた。

 己も弓の腕には自信があったからこそ、見え方には屈託くったくがなく、母というよりは、いち弓士として、少年を評価し始めていたのである。

 つまり、少年に対しては父母ともに、実際の面からして畸人きじんであると認めていて、それを育て上げてみせようということに関しても、分野は違えど、もともとは一致した見方であった。

 ただ、実際やるに至って、父のやり方でばかりやっては少年が屈折くっせつしてしまうと危惧きぐをした。

 だから

「あたしが馬と弓を教える。棒だけじゃ、何かと窮屈きゅうくつだよ」

と、母の側から持ち掛け、少年を連れ出したのである。


 夜が明けた。

 雲こそ多けれど、蒼穹そうきゅうが合間から見えるような天気になった。

 少年は起きるなり、外に出て空気を肺の目一杯めいっぱい吸い込むと、自然と顔がほころんだ。

 理由をいえば明確で、今日は酷虐こくぎゃくな父と顔を合わせなくてよい、という解放感からである。

 ただ同時に、母の側も何かたくらんでいるではないか、という猜疑さいぎしんがあった。

 一概いちがいに楽しみであるとは言えない、いわば鉄の球を無理にきん鍍金めっきしたかのような、鈍重どんじゅうな不快感が在ったのも確かである。

「起きたね。じゃあ早くいこうか」

 あとから起きてきた母親が微笑しながら、少年をいざなった。

 母の後ろにいていった少年は、やがてむら駅逓えきていの辺りに着いた処で

「ちょっと待ってな。話を付けてくる」

とだけ言われて、しばし待ちぼうけを食らった。

 しばらくのち、日の光が熱感をって肌に当たるようになった頃合いに、駅逓にあったうまやから、あおげうまの背に乗って向かって来る母の姿を見た。

 馬は少しばかりの素軽い歩調で、蹄音ていおんを鳴らしながら少年の目前にまで近寄ってくる。

「ほら。手え出しな」

 母は馬上から手を伸ばしてきた。

 馬の背にはくらはあるが、あぶみがない。

 背に乗ったら滑り落ちそうな気がして、乗るのに躊躇ちゅうちょしていたが、母はなおも手を少年の顔の前に出して

「何を尻込みしてるんだ。良いから、ほら」

とうながしてきたので、これに押されて、少年の側からも手を伸ばした。

 馬の背の上に引き上げられて、母の胸の前に乗せられた少年の視界からは、耳を立てた馬の首と、普通であれば見ることの無い、背の高い処からの風景とが見えた。

 そして心なしか、何時いつもよりも風を強く感じる。

 少年の肩を抱くようにしてたづなを持った母は

「絶対に落とさないから、安心しな。お前もよく掴まっとくんだよ」

と言うと、馬腹を軽く蹴った。

 馬が緩やかに足を運び始めた。

 初めて馬の背に乗る少年からすると、揺れは思ったよりも大きく、股の内を滑らせそうになったが、母が確りと脇を締めていたのと、己が馬の肩の辺りに支えていた腕とで、何とか耐えていた。

 やがて邑の外へと出ると、青い草原が目の前に広がった。

 少年もこの動きに慣れてきて、躰を安定させるのに苦労しなくなってくると、母も慣れを感じ取ったらしく

「速くするよ」

と一言だけ言って、再び腹を蹴った。

 すると、馬は一歩一歩を地を掴むようにして歩いていたのが、少しばかり跳ねるような歩様に変化して、躰も合わせて上下に跳び始める。

 何度となく尻をたれるような感覚があって、そこに関しては余り気の良い感じはしなかったが、それでも向かう方向から吹かれ始めた風が己の頬に当たる心地良さというものは、少年にとっては新鮮で、なおかつさわやかに感じた。

 耳朶じだが風を切る音が聞こえて、それと共に服がなびいていく。

 春の風というのはここまで心地の良いものだったのだと、少年は思い出してきた。

 今年の春に入って感じてきた風は、少年の主観から見れば砂っぽく、厳しく吹くものばかりであったから、巷衢こうくの人々のおおくが感じるような、花の香りを楽しむ気持ちを湧かせる、穏やかなものという意識が何処どこかへ飛んでいた。

 その気分を再び湧かせてくれた馬上の景色は、少年にとってはかけがえなく感じた。

 いま、草原の中には、馬の背に乗った母と少年のみがいる。

 過ごしている時間は、まさしく自由なものであったし、生きる意義を見出だせすらするようなものでもあった。

 出来うるならば家に帰らずに、このままずっと草原を駆ける感覚を味わいたかったし、そういった意味では、生きねばならぬと必死になってきた父との経験とはまた違った、己の本義を問いかける経験であったことは間違いない。

 馬の背に居ると、あんがい汗を搔く。

「ちょっと川のほうに行ってみるかい」

 母の一言を聞いて、少年は少し涼みたくなった気持ちも在ったから

「いこう、いこう」

と、後ろにいる母の顔を見て言った。

 母もまた、我が子と共に馬を駆ける、という初めての行為が余程よほど楽しかったのか、それともかつての、毎日のように馬にまたがっていた日々を思い出したのか、晴れるような笑顔をしていた。

 轡を引いて馬の首を切り返すと、水のある方に向けて馬を走らせ始めた。

 さきよりも、少しばかり足を速めた馬の背には、より強い風が吹く。

 線を描くように吹き流される母子の髪の毛は、今の心の奔放ほんぽうさというものをも示すかのようであった。

 眼の横を通り過ぎていく数々の草花と、白く浮かぶ雲の群れとが、北の地には似合わぬほど、鮮やかに見える。

 目の前に水面が光っている。この水もまた、今の二人にとっては生きるための水では無い。

 馬を停めて背から降り、手で水をすくって顔をすすいだ。

 春の陽気で額からわずかににじんだ汗をあらって落としてみると、心にあるわだかまりも、また解けていくような気がする。

「どう。なかなか良いもんだろ」

 母が馬の轡を持ったまま、少年に問いかけた。

「うん」

 少年の口から出た言葉は少なかったが、その端には間違いなく、万感ばんかんの想いが込められている。

 母からしても、馬に乗るといえば人馬の息を合わせることが肝要かんようであり、己の持つ記憶から謂えば、人にとって欠かせない、一種の孤独を持った作業であった。

 だが、我が子と同じ背に乗って草原の中を走り抜けたことは、もとの鮮卑のうまのりとしての矜持きょうじから一歩外れた、親としての充足感をともなう行為である。

 ここまでほがらかな面持ちで馬を駆ることが出来るのだ、という新たな発見があった。

 風が穏やかに吹き抜けると、時を感じる。しかし時を感じると、いつかは終わってしまうと思う。

 たのしみやよろこびを得ると同時に芽生える寂しさにあらがえないことが、どこか母には口惜くちおしく感じた。




「ほら、布もこの子を可愛がってやんな」

 母が少年に、今まで乗っていた馬の首筋をでるよう、促した。

 少年は大きな動物に触れること自体が初めてで、手を出せば指を食い千切られないかという不安を表したが

「馬はみんな優しいんだ。怖がってたら向こうもおびえるよ」

と母が言って背中を押し、そのまま少年は、手を馬の首筋に触れさせた。

 人の肌とは比べられないほどに温かく、首が少し動くごとに、筋が動くのが判る。

 馬にとっても、こうして人の手に触れることでいたわれていることが分かるのか、ひとつ大きな鼻息を吹いた。

 馬の首筋を何度かでていく度に、少年の内からは恐怖心が無くなっていく。

 むしろ、目の前の大きな生物が、己にとって曩時どうじよりの友人であるかのような感覚に襲われて、昵懇じっこんの情にひたっている内に、もうすぐ別れなければならないことに、尋常ならざる寂しさを覚え始めた。

「大丈夫だよ。この子とはまた会えるだろうから」

 母もまた、もともと馬との距離の近い処にいたから、馬をいとおしむ心も、少年の抱いている寂乎せきことした情念を理解しないはずも無い。

 今日のあおげうまとは、草原の只中ただなかで行く処すら分からないままに、どこかへ放たれ、はぐれてしまう訳ではない。

 ただ駅逓のうまやに還して、そののち己らも家に帰るだけなのである。

 だから、また会おうと思えば会える。そこまで寂しがる必要はないと、母は言った。

「じゃあ、次も乗りたいな」

 少年は無垢むくな笑顔を浮かべた。

 母の側はそう上手くいく訳も無い、というのを理解していたが、それでも少年の笑顔を崩すようなことはしたくなくて

「そうだね。この子の機嫌が良かったら、また一緒に乗ろうね」

と少しだけ噓を付いて、少年を笑わせた。


 馬を駅逓に還して、帰路に就いた母子は、家に着く前に、己らの耕している畑に足を延ばした。

 まだまだ丈のごく短い青草が生えているに過ぎないが、それでも苗たちが瑞々みずみずしい光をたくわえていることがわかる。

 まだ土があらわな植え込みの中に、大きな背を屈めて雑草を抜く父の姿が見えた。

「あんた、帰ったよ」

 母がその背中に向かって声をかけた。

 声に反応して、父は地に向けていた眼を母子に向けた。

「ああ、帰ってきたのか。どうだ、楽しかったか」

 父の声は存外に明るい。その明るさが、父の姿を他者のように眺めていた少年には、少し恐ろしい。

 何かをと言って父は立ち上がり、土に黒く汚れた手指を、己の衣で拭きながら、母子に歩み寄ってきた。

 少年は父の影がこちらに寄って来るにしたがって、父の発する瘴気しょうきに触れたくない、と思い、母の後ろに躰をひそめて、目線を父の顔に向けないように、下へと向けた。

 母の方も、少年が父に怨恨えんこんと恐怖心を抱いていることは知っていたので、少年の起こした行動のままに任せはしたが、一方で父の側も相応に苦心しているのを知っているから、少年をかばう様に、背の後ろへと押し込めるようなことはしなかった。

「久しぶりに馬を駆ったんじゃないか。気持ちが良かっただろう」

 父は母の顔を見て、彼女が持ち得る、故郷の暮らしを懐かしむ心を確かめるように、問いかけた。

「うん。やっぱり馬はいいよ。特に春は」

 母は何時いつもよりも、目をませてそう言った。

「そうか。春、春なあ」

 父は誰かに話しかけるというより、己にただすかのような口調で言う。

「あんたも馬に乗ってみれば良いじゃないか。きっと気が晴れるよ」

「いや、俺は馬に乗る筋ってもんが無いんだ。お前みたいに子供の頃から馬に乗れていれば、また違ったんだろうがな」

「なに言ってるんだ。コツさえ掴めれば誰でも乗れるよ」

「はは。俺は生まれてこの方、扱えるのは棒だけなんだ。まあ考えておく」

 母からの誘いをはぐらかした父の姿を見て、少年からすれば

──よかった

と思ったかもしれない。

 今後も父から棒を振るわれるだろうし、その末に心身ともに衰微すいびしていくだろうことは、目に見えている。

 そういった時に母と馬を駆るというのは、己にとってひとつの逃げ道であると同時に、ちかしい人との繋がりを確かめる時間である。

 さわやかな空間の内に、己が心に針を突き刺した父の姿が見えるようになれば、それは少年にとっては、ただ辛苦しんくの念を長引かせるだけに過ぎないのである。

 そのことを父が意識していたのか、それとも無意識の内にそういう選択をしていたのかは判らないが、いまの二人の関係をかんがみれば、少年に張り付くように己の影を見せるよりも、心を育むという意味で良かったのかもしれない。


 それにしても、今日の父は酒の匂いがしない。

 酒が入っていないからか、言葉の端々はしばし自虐じぎゃくするような音声というものが含まれてはいなかった。

 昨日や一昨日のような、何かがいたような気配をかもしていた父の姿から、以前の闊達かったつで豪放な父の姿が戻って来たように思える。

「今日は酒が入っていないんだね」

 畑から家の方へと向かい始めた頃に、母がそう言った。

 少年が思っていたことを、この母もまた思っていたようである。

「今日は吞まなくて済みそうだ」

 父は短く、そう言った。

 少年はこの言葉が不思議だった。

 父はこれまで酒を好きで吞んでいたのではいなかったのか、という疑問が脳裏をかすめた。吞まなくても済む、ということは、誰かに無理にでも吞まされたのか、それとも酒を吞まなければならない程に、何処どこかでわされている部分があるのか。

 少年にとってみれば、酒などというものは触れたことの無い物であったから、飲酒という行為自体がどのような意味合いを持つのか、あるいは与えるのかという推察はできない。

 だがこのひと言で、親にしか持ち得ない苦悩も在るのだと知った。

 家に着き、三人がそろって戸口をくぐると、屋内の雰囲気というものは明るいものになった。

 勿論もちろん、少年が父に持つ恨みというものが消え失せているということは無い。

 それでも、母が父に持っていた疑いや怒りというものが、ある程度は融解ゆうかいしていたこともある。

 父の方も、己の感じていた罪悪感と重責に加担してくれる存在が、ごく近くにいたという安心感で、表情が柔和になったという部分もある。

 今日の家中には、ここ数日間にわたって吹いていた、厳しくすさぶような冷たい風から一転して、この季節に相応ふさわしい温かな風が吹き込んでいた。


 父母にとっては、これまでの経験もあって、艱苦かんくというものが何時いつまでも続くことは無かろうと、まだ耐えるのに難儀することはなかっただろう。

 だが少年にとっては、これほどまでに家中が荒む経験というものは無かったから、盲者もうじゃが山の中をいも無く歩いているような感覚におちいっていただろう。

 今日に至って、少しばかり心を縛り付けていた荊棘けいきょくが解けた感覚を得ることができた少年は、己の意思を、父の行動を反発を以って示すだけでは無く、何故こうなってしまったのかという疑問を持ってるということも出来るのではないかと、そういった気分に転じさせることも出来ていた。

 ただ日が変われば、少年と父の関係が劇的に変わった、という訳では無かった。

 その翌日も数日ぶりの畑仕事に出かけて、畑に吹き始めた害となる草を抜くところから始めて、草刈くさかりが終わったかと思えば、家に帰って少しばかり肚を満たした後に、再び棒をたずさえた父と少年で草原へ行って、打たれることを承知で対峙たいじする。

 今度は少年も父の意表を突こうと思ったらしく、今まではふところに入るように避けていたのを背の裏へと入るようにしたが、敢え無くなされてしまった。

 これまでの如く、父からすぐに離れようとした少年の背から

「後ろには入るな」

と言う、父の声が聞こえてくる。

 少年としては、このように何かを言われるのは初めてのことだったし、言った内容というのも、言葉にきゅうして発されたというよりは、動きに対して明確に指摘をする口調だったので、少しばかり意表を突かれるような思いがした。

 少年がここで、父の言を無視して遠ざかっていくようなことがあれば、それで父子の関係は単純に敵する者同士として定まったかもしれない。

 だが、少年の中にある好奇心と父に対して捨てきることの出来ないあこがれとが、それを許すことは無かった。

「なんで」

 少年は父の方へと振り返り、その眼に苛立いらだちを隠すことなく言った。

 父はどっしりと構えていた足腰を緩めると、諄々じゅんじゅんとした口調で少年にさとし始めた。

「人は押すよりも引くほうが強いんだよ。手え出せ」

 そう言うと、少年の右腕を引っ張って前に出させた。

 そうすると、少年の胸の前に自らの手を置いて

「ほら、押せ」

うながす。

 少年は伸ばした腕を、胸の側に押した。

「そしたら、ほら」

 今度は逆側に手を置いて、手の甲の側でそれを押すように促す。

 少年はまた、父の手を押した。

「布。お前は押すときに、どこを使った」

 突拍子とっぴょうしも無い質問に、少年はどう応えるべきなのかを戸惑とまどった。

「もう一度だ」

 父はもう一度、先の行為を繰り返した。

「さあ、どうだ」

 今度は、少年も先に言われていたことを意識していたから

「胸の前は内側。外は背中の横」

とすぐに応えた。

「そうだろ。使い方によるとはいえ、人の躰で強い部分はここと、ここと、ここだ」

 そういいながら、父は少年の背と、尻と、股を、順番に叩いていった。

「人は大きな物を動かそうとするとき、大抵は押す。だから押す力の方が強いと思いがちだが、それは己の躰の重みと地の力を使っているからに過ぎん」

 少年にとっては納得できるような、出来ないような言い方だった。

 重いものを持とうにも、地を押すからこそ立てるのではないか。牛だって荷車をくといっても、その実はながえの先のしばりに胸を当てて押すからこそ、動かせるのではないか。

 そう考えると、父の言は詭弁きべんにしか思えない。

「良いか。俺は農耕やらの動作を言っているんじゃない。人を打ち倒す術のことを言ってるんだ」

 少年の疑う目を察知した父は、己の持ち得る感覚を言葉にして少年へと伝えた。

「何かを使って敵を打擲ちょうちゃくするという動きは、もっこを使って運ぶとか、耒耜らいしを使って耕すとか、そういった動きとは違う。そいつらは物を相手取って、それを動かすことを意識の始めとして躰を動かすが、兵器を手繰たぐるるときは、まず空を切ることを始めとする。それはいちど振った所で、相手を捉えることが出来るとは限らないからだ」

 父は整然とした口調で話している。

 豪放とも横柄おうへいとも言えないような、思いも寄らない姿が珍しい。

 そして言っていることに何らかの理があるように思えて、少年はこの言葉を懸命に理解しようとした。

「人は押す動きをしてしまうと、そこで型が決まる。だが、引くなら加減ができる。それをうまく使える奴が、まずはそこらの農奴よりは強い」

 少年はすかさず、父に問うた。

「なんで押すとだめなの」

 父も聞き返されるのを待っていたのかもしれない。少年の言葉に喜色を隠さなかった。

「お前は物を押すとき、どうする」

 少年は躰をかたむけて、前に在るものを押すような動作をとる。

「右は」

 次は右に体を傾ける。

「次は左」

 そして、左に傾ける。

「上から物が乗っかっていたら」

 上に手をやって、押し上げるような恰好を取る。

「そんなもんだ。物を押そうとすると、必ず躰の軸を物の中心に置くだろう。これがまずい」

「なんで」

「いちいち軸を動かしてしまえば、眼が振れて相手の動きが見えなくなる。型も崩れやすい。しかも躰の動きを抑えるために余計に力をめるから、疲れやすくもなる。良いことは無い」

 しかし少年には、引けばよい、という見方がわからない。父の言葉を借りるのならば、地の力を借りることの出来ないままに、どうやって力を出すのか。

「引く動きは、躰の軸を定めた上で、左右上下を切り返さなきゃならん。これに慣れるまでには時間がいるし、意識しないとできない。だが出来れば、躰を振らすこと無く大きな力を出せる」

「でも、押すより踏ん張れないでしょ」

「馬鹿を言え。結局は地に脚を付いてるんだ。脚を使えなきゃ巧くは引けない」

 馬鹿は余計だとも思ったが、父の言うことには理が在るように思えた。

 それでもなお後ろに立つことの危険性というものは、理解するまでに及ばないのが、どうにももどかしい。

「あともうひとつ。腕を横と、縦に振ってみろ」

 父に言われるまま、少年が腕を振った。

「あんがい後ろに手が回るだろ。死角に入ったとしても、結局は背中をいかれる。俺が言いたいのはそこでな。後ろに回り込むってことは、手前てめえも背中を見せるってことになりかねない。その状態で滅法めっぽうに剣を振られれば斬られる。だが懐の内に入るようにすれば、壁が出来て腕がつっかえる。相手も剣を振れない。この辺りでは騎が多いからな。あいつらの長い矛は躰の横でしか振れないから、その型に慣れてる。それなのに正面から後ろを狙って馬の横に入ってしまえば、あれで斬られてお終いだ」

 少年は、父の語り口が余りに歯切れ良いものだったので、阿呆あほづらを掻いて聞いていることしかできなかった。

 父の言ったことを全て理解することはできなかったが、しかしこの少年としては

──ぱぱもいろいろ知っているんだな

と思えただけ、良い経験をしたのかもしれない。

 現に少年の目には、ここまであった敵意というものが少し、失せていた。

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