第29章 光輪の前夜

 「なんで解散なんてかけるんですか。私たち、まだやれます」


 会議室に声が響いた。

 結の訴えは、いつになく切実だった。


 社長は椅子に腰掛けたまま、指先でペンを転がしながら目を閉じる。


「……それが、そうも言ってられないのよ。経済的にもいろいろ厳しいところもあってね。このままずるずるやってても、あなたたちのためにならないと思って」


「そんなこと、いきなり言われても……」


 恋が呆然と呟き、優子が拳を握りしめる。

 芽亜は唇を結んで俯いたまま。


 社長はそこで視線を上げ、ゆっくりと彼女たちを見渡した。


「大丈夫。あなたたちには、きっかけが必要なだけ。それは私がよく知ってる。必ず見つけてもらえるから。それが、例えどんな形でも」


 その言葉は優しさに聞こえるのに、どこか突き放すようでもあった。

 まるで、終わりを告げる鐘の音のように。


「……そんな、もう終わりみたいな言い方」


 小さく、結が零す。


「だからこそ勝つのよ。最初からそんな弱気でどうするの」


 社長の声が鋭くなり、空気が張り詰めた。


 数秒の沈黙の後――。


「……わかりました。精一杯やり遂げてみせます」


 結がそう言った。

 その背筋は伸びていて、震えているようで、けれど確かな決意が宿っていた。


 誰も反論はしなかった。

 全員が、その答えに飲み込まれるように、ただ頷くしかなかった。



 その夜から、地獄のように濃密な一週間が始まった。


 タイムラインを秒単位で切る編成会議。

 オープナーは歌だけでは弱い、と恋が主張し、雑談とのハイブリッドに。

 優子は自分の得意分野であるゲーム配信を歌と掛け合わせ、同接を稼ぐ役目を引き受ける。

 芽亜は「座らない歌唱」を徹底し、ライブ感のあるピークを作る。

 結はセンターで、Open Haloの“今”を象徴する振り付けを磨いた。

 最後は四人合唱で締め、アーカイブでの再生数を狙う構成。


 クリエイティブも止まらない。

 新サムネは“海”ではなく“光輪”。

 告知画像は三段階に更新され、グラデーションで「光が近づいてくる」感覚を演出する。

 タグは三本。“#OpenHalo生配信”“#解散なんてしない”“#雨はここにいる”。


 瑞稀のチームは、回線の冗長化と遅延の最適化を進めた。

 コメントのピン留め、スパチャ読みの安全ライン、NGワードフィルターの微調整。

 事故を潰すために、ありとあらゆる手が入った。


 現場も同じだ。

 マイクテスト、インイヤーのノイズ。

 恋はMCのつっかえを笑いに変え、優子は小ネタでコメント欄を温める。

 芽亜は歌い、喉を温め、また歌う。

 結は鏡の前で何度も振りを繰り返し、一歩のずれも許さなかった。


 俺はといえば、照明リストを握りしめ、ケーブルの数を確認し、書類を処理する。

 指先は赤く、目の奥は熱を帯びて、頭が霞んでいた。


 机に突っ伏すと、紙コップの水が音もなく置かれる。


「……ありがとう」


 顔を上げると、結が立っていた。

 彼女は一拍置き、言葉を選ぶようにしてから口を開いた。


「颯さん、最近――みんなと、いい顔しますね」


「……そう見えるか」


「はい。“いい顔”です」


 そう言って小さく笑い、それから握った拳をほどき、何かを言いかけて飲み込んだ。


「配信、勝ちましょう」


「ああ」


「負けません。……Open Haloは、解散しません」


 よく通る声が、胸の奥に火を灯す。



 その帰り際。

 結がファイルを抱えて階段を駆け降りていった。


「お疲れ様でした」

「おう。お疲れ。この後も配信頑張れよ」

「もちろんですよ!」


 明るい笑顔。

 けれど、それは“いつものアイドルの顔”に見えて仕方なかった。


  机の上に残っていた書類を拾い上げる。

 健康診断の提出期限は、明日まで。


 こういう個人情報は、本来アイドル本人ではなく事務所が管理する。

 俺が直接触れることは、原則として許されていなかった。


 だから、そのまま社長の机に置こうとした――その瞬間。


 一枚の紙が、ふわりと床へ舞い落ちた。

 静かな部屋の中で、その音だけがやけに大きく響いた気がした。


 反射的に拾い上げた俺の目に、記載された文字が飛び込んでくる。


 紅結ではない。

 俺がまだ一度も聞いたことのない――彼女の、本当の名前。


 


 瞬間、心臓が跳ねた。

 呼吸が途切れ、視界がかすかに揺れる。

 頭の奥が真っ白になり、時間の流れがわずかに歪んだように思えた。


(……俺は、知ってしまった)


 


 本来なら、触れてはいけない領域。

 彼女が、自分の口で語ってくれるその時まで。

 本当なら、ずっと待つべきだったのに。


 


 そのとき、不意に脳裏に浮かんだのは――。

 ステージの光を浴びて笑っていた、あの無邪気な笑顔。

 リハーサルで「大丈夫ですよ、颯さん」と言ってくれた時の、柔らかな声。


 それらが一瞬にして鮮やかに甦り、胸を鋭く抉った。

 今まさに、その信頼を自分の手で裏切ってしまったのだと気づかされる。


 


 書類を握る手が、じっとりと汗で湿る。

 指先がかすかに震え、紙の端が擦れて音を立てた。


 胸の奥に、後悔が渦を巻く。

 まるで鋭い棘が内側から突き上げるみたいに、落ち着きがどこにも見つからない。


(結……俺はどうすればいい)


 


 答えは出ない。

 視線を逸らすことしかできなかった。


 俺は紙をゆっくりとファイルに戻した。

 それはまるで、心の奥にできてしまった裂け目を、無理やり閉じるみたいな動作だった。




 前日。

 機材チェックが終わった頃、全員が会議室に集められた。


 ホワイトボードには、大きな“輪”が描かれている。


「明日、解散がかかった配信をやる。でも、言葉の表面に飲まれないこと。これは“証明の場”。みんなが“今”を証明する」


 社長の声は静かで、それでいて熱を帯びていた。


 瑞稀が続ける。

「宣伝は私のラインで打つ。……でも最終的に人を留めるのはあなたたちよ。数字は結果。心はその瞬間にしか動かない」


 平山は腕を組んだまま、口の端を吊り上げる。

「楽しみにしてる。勝ってみせな」


 会議が終わっても、誰も立ち上がらなかった。

 各自が静かに準備に散っていく。

 それぞれが最後の一筆を入れるように。


 俺は照明リストを見直し、机に四人のボトルを並べ直した。

 紅結。東村雨。恋乃天。推藤バニラ。


 そのラベルの下に、本当の名前がある。

 俺はもう、全部を知ってしまっている。


(結。最後の鍵は、必ず……)


 窓の外の夜の街に、ネオンの光輪が浮かんでいた。

 パラダイスオーシャンの海面に映る未来の光輪を想像する。


 解散か、栄光か。

 単純な二択に見えて、本当は違う。

 これは四人と俺が、同じ輪に立てるかどうかを確かめる儀式。


 時計の針が日付を跨ぐ。

 キーボードを閉じ、スマホの通知を切り、胸ポケットに指示書をしまう。


 消灯のスイッチを押すと、ホワイトボードに描かれた“輪”だけが残光を放ち、やがて消えた。


 ――開け、栄光。

 Open Halo。

 俺たちは、開きにいく。

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