第30章 始まりのカウントダウン
朝。
まだ陽が高くなる前に、俺は事務所に向かって歩いていた。
空気は冷たく澄んでいて、深呼吸をするたびに胸の奥がざらつく。
今日――解散をかけた配信の当日だ。
スタジオの扉を開けると、すでに空気が違った。
機材のチェック音、スタッフの声、資料の紙がめくられる音。
まるで戦場前の軍幕のように、張り詰めた気配が漂っていた。
「おはようございます」
声をかけると、瑞稀が短く頷いた。
彼女は腕を組んでモニターを見つめている。その横顔は氷のように冷たいが、同時に炎のように燃えていた。
「数字は取れる。後は、あなたたち次第」
淡々とした声に、言い逃れも妥協も許さない重さがあった。
社長はホワイトボードの前でスタッフに指示を飛ばしている。
普段なら冗談混じりに空気を和ませるのに、今日は一切笑わない。
その背中から伝わってくるのは、「絶対に勝たなければ」という圧だけだった。
メンバーもそれぞれに準備している。
芽亜はペットボトルを片手に軽く発声練習を繰り返し、目の奥に揺るぎない強さを宿していた。
優子はゲームパッドを持ち込み、「置きフリード」の小ネタを入念に確認している。
恋は鏡の前で笑顔の練習をしながら、台本に小さくメモを書き加えていた。
――緊張の処理の仕方が三者三様で、見ているだけで伝わってくる。
そして、結。
彼女はいつものように丁寧に姿勢を整え、振り付けを何度も繰り返していた。
その真剣さは普段と変わらない。けれど、俺にはどうしても顔をまともに見られなかった。
――昨夜、あの瞬間。
落ちた紙に記された“本名”。
唯一知らなかった結の本当の名を、俺は偶然にも知ってしまった。
何気ない風のいたずら。それだけのこと。
けれど俺にとっては、禁じられた扉を勝手に開けてしまったような感覚だった。
知ってしまった以上、知らないふりはできない。
だけど、本人に「見た」と告げることもできない。
心に黒い影が落ち、その影は結を見るたびに濃くなっていく。
⸻
リハーサルが始まる。
機材テストの声、イントロの音が響く。
四人は立ち位置に並び、それぞれの表情を切り替える。
芽亜はまっすぐ前を見据え、声の芯を確認する。
優子はゲームとの融合パートで、視線を鋭く動かす。
恋は明るさを全面に押し出し、場を笑いでつなぐ。
結は……一歩も狂わない正確さで、センターの動きを貫いた。
その姿は、まるで氷の彫像のようだった。
凛としていて、揺るぎなくて。
けれど、その強さが今の俺には痛かった。
――俺だけが、彼女の「秘密」に触れてしまっているから。
(知らなければ、もっと素直に支えられたのに)
思えば、芽亜のときも、優子のときも、恋のときも――彼女たちは自分から本名を明かしてくれた。
そこにあるのは信頼であり、絆だった。
けれど結の場合、それはまだ与えられていない。
だからこそ、俺が偶然に知ってしまった事実は、絆ではなく“背信”のように感じられてしまう。
気づけば、歌声が胸に入ってこない。
周囲の声も、音も、遠くに聞こえる。
リハーサルを終えたとき、背中は嫌な汗で濡れていた。
⸻
休憩時間。
廊下を歩いていると、後ろから声がした。
「颯さん」
振り返ると、結が立っていた。
制服のような衣装を身にまとい、肩で息を整えている。
その瞳はまっすぐで、逃げ場を与えてくれなかった。
「今日、なんだか……視線を合わせてくれませんよね」
心臓が跳ねた。
――気づかれているのか?
喉の奥が乾き、言葉が出ない。
一瞬、口を開きかけた。
けれど、「本名を見てしまった」と言えば、裏切りになる気がして、飲み込んだ。
「……気のせいだ」
それだけを絞り出す。
結はじっと俺を見つめた後、小さく笑った。
「そうですか。ならいいんです」
その笑顔が、余計に胸を締めつけた。
本当に“気のせい”で済むならどれほど楽だろう。
「配信、勝ちましょうね」
「ああ」
「負けません。……Open Haloは、解散しません」
言い切る声は強く、真っ直ぐだった。
その言葉に、俺は何も返せなかった。
⸻
午後。リハーサルを終えた後、全員が会議室に集められた。
ホワイトボードには、大きな円が描かれている。
「明日じゃない。今日だ。今日が勝負だ」
社長の声は静かで、けれど熱を帯びていた。
「解散か継続か。……でもこれは“終わり”じゃない。“証明の場”だ。君たち自身が、今を証明する」
瑞稀が補足する。
「宣伝は打った。タグも回した。数字は出る。でも、留めるのはあなたたち。……数字は結果でしかない。人の心は、その瞬間にしか動かない」
平山は腕を組み、短く笑った。
「楽しみにしてる。勝ってみせな」
解散になっても構わない――そんな冷たさではなかった。
ただ、勝ち負けの先にしか見えない景色を知っている人間の笑みだった。
会議が終わっても、誰もすぐに立ち上がらない。
それぞれが自分の準備に散りながら、静かに火を燃やしていた。
俺は机の上に並んだ四人のボトルを見直す。
ラベルに書かれているのは芸名――紅結、東村雨、恋乃天、推藤バニラ。
その下にある“本当の名前”を、俺は三人から聞いた。
……ただ一人、結だけを除いて。
偶然知ってしまったことを、どう扱うべきか。
胸の奥に重く沈む疑問は、まだ答えを持たなかった。
⸻
夜。
スタジオのライトが落ち、静寂が訪れる。
窓の外には街のネオンが光輪のように輝いていた。
まるで「Open Halo」という名前そのものを映すように。
(結……最後の鍵は、必ず)
深呼吸を一度。
指先に残る資料の感触を確かめながら、消灯スイッチを押す。
暗闇の中、ホワイトボードに描かれた円が、しばらく残光を放っていた。
やがて、それも静かに消えた。
⸻
――同じ頃、メンバーたちもそれぞれの夜を迎えていた。
紅結は机に譜面を広げ、鉛筆を握りしめていた。
何度も同じフレーズをなぞりながら、かすかに唇が震える。
自分に言い聞かせるように、小さな声で呟いた。
「……明日は、絶対に揺れない」
瞳の奥に宿るのは、迷いと、それを超えようとする覚悟。
天はベッドに寝転がり、天井をじっと見つめていた。
スマホを握る手は落ち着きなく動き、すぐに画面を伏せる。
派手な言葉で緊張を隠してきた彼女も、この夜ばかりは静かだった。
「私だって……負けたくないんだから」
声に出した瞬間、ようやく呼吸が整う。自分を奮い立たせるための独り言。
バニラは鏡の前に立ち、笑顔を作っては崩していた。
口角を上げる角度、目の輝き。どんな照明でも映える完璧な「推藤バニラ」を繰り返し練習する。
しかし鏡に映る本当の自分に、ふと目を逸らす。
「……明日は、嘘じゃない笑顔で」
呟きとともに深く息を吸い込み、また笑顔を形づくる。
雨は窓辺に立ち、夜景を見下ろしていた。
街の灯が揺らめくたびに、静かにまぶたを閉じる。
誰よりも言葉は少ないが、その沈黙の奥に強い願いを抱いている。
「……守りたい。みんなを」
呟きは夜に溶け、決意だけが胸に残る。
⸻
そして――颯の夜。
机の上に散らばった資料を片付けきれず、椅子に身を預けたまま天井を仰ぐ。
目を閉じれば、今日までの彼女たちの声と表情が、鮮やかに蘇る。
笑って、泣いて、迷って、それでも前を向いた4人の姿。
「……俺にできるのは、支えることだけだ」
小さく呟き、拳を握る。
自分が歌うわけじゃない。踊るわけでもない。
けれど、彼女たちが舞台に立つその瞬間まで、背中を支える役割は俺しかいない。
静まり返った夜の中、胸の鼓動だけがやけに大きく響いていた。
⸻
――カウントダウンは始まっている。
解散か、栄光か。
その答えは、明日のステージで。
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