第28章 境界と宣告

 退院して数日。

 事務所の空気は、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。

 俺がそう感じるのは、たぶん――解放した三人との“目に見える”やりとりが、日常に紛れ込んできたからだ。


 朝、ドアを開けると、最初に目が合うのは芽亜だ。

 首元までファスナーを上げたパーカー。譜面のファイルを胸に抱え、ヘッドホンを耳まで下ろしている。

 俺に気づくと、ほんの少しだけ顎を上げて挨拶。

 相変わらず言葉は短いが、その一拍の後、必ず続くようになった。


「……おはよう。昨日のリード、ブレス位置直した。ありがと」


「こっちこそ。あの“吸い直し”のタイミング、天才的だった」


「天才は言い過ぎ。でも、悪くない」


 口角が一ミリだけ上がる。

 それが芽亜なりの“嬉しい”の最大値だと、今の俺にはわかる。


 昼前になると、優子がゲーム用のコントローラをぶんぶん振り回しながら入ってくる。


「颯、今日の昼休みは“検証会”だからね!」


「もう始まってるじゃないか、そのテンション」


「この前のフリード、アサシンの起き攻めに対する“ピンキーの斜め回避”案、さらに三パターン増やした。受けてみよ!」


「仕事の合間って言葉、知ってる?」


「配信者は仕事の合間に研究するの。つまり今が一番大事!」


「詭弁がすぎるぞ」


 言いながら、俺は素直にコントローラを受け取る。

 優子は椅子をくるくる回して着席し、ちょこんと背もたれに寄りかかる。

 “推藤バニラ”の愛想笑いではなく、“白井優子”の楽しげな顔で。


 午後、台本の束を抱えて会議室から出てくると、恋が廊下で待っている。

 病室で見せた、無防備な笑顔に近い――けれど、ほんの少しだけ照れの混じった笑い方だった。


「颯、今日もありがと。……あ、ほこりは入ってないからね」


「誰も言ってないぞ」


「予防線! 先手必勝精神だよ!」


 肩を揺らして笑い合う。

 その響きは、昨日までよりも近く、柔らかい。


「昨日の“ミニMC”、収録前に練習付き合ってくれて助かった。……ありがと、颯」


「どういたしまして、恋」


 名前を呼んだ瞬間、恋はきゅっと息を呑んで、耳までほんのり赤く染めた。

 目を逸らそうとして、でも逸らしきれなくて――小さな声で、追いかけるように言葉を落とす。


「……なんか、反則。急に名前で呼ばれると……心臓に悪い」


「呼んでほしくないのか?」


「ち、違うよ! むしろ……その、もっと……」

 言いかけて口ごもる。靴先で床を小さく蹴りながら、視線は上がらない。


 俺は思わず笑ってしまい、少しだけ声を落とした。

「じゃあ、これからも呼ぶ。恋」


「……っ!」

 恋は顔を覆ってしまうほど真っ赤になり、指の隙間からこちらをちらりと覗いて――小さく「ずるい」と呟いた。


 そのとき、向こう側のデスクで作業していた結がふと顔を上げる。

 視線が交わりかけた瞬間、彼女はすぐに目を伏せた。

 気づいていないふりをしつつ、指先は早く、丁寧に。紙の角をそろえる音が、わずかに強く響いていた。


 ――まだ顔を赤くしたままの恋が、両手で頬を押さえながら小さく笑う。


「……やっぱり反則だよ。名前で呼ばれると、なんか、くすぐったくて」


「慣れれば大丈夫だ」


「慣れたくないかも。だって――毎回ドキッとするから」


 小声で言い終えると、また俯いてしまう。その仕草が、逆に正面から胸に刺さってきた。

 俺もどう返せばいいか迷って、思わず目を逸らす。


「……そういうの、ずるいって言っただろ」


「え、どっちが?」


「お前が」


 互いに照れ笑いして、距離が少しだけ近づいた瞬間――


「……なに、この空気?」


 会話を切り裂くように、扉が開いた。

 芽亜が書類を抱えて立っていた。視線は冷静に見えて、しかしわずかに細められている。


「なんか、随分と――打ち解けたのね?」


 皮肉でもない、けれどほんのり刺すような声音。

 恋はびくりと肩を揺らし、「ち、違うよ! ただ台本の――」と慌てて手を振る。


「台本の? ……ふうん」

 芽亜はわざとらしく書類を机に置き、静かに椅子に腰を下ろす。その横顔には、淡い嫉妬が隠しきれずに滲んでいた。


「別に悪いとは言わないけど……“距離感”って、案外あっという間に崩れるんだね」


 その言葉に、恋は言葉をなくして俯き、俺は返答を探して喉が詰まる。

 ほんのり甘酸っぱかった空気は、少し尖った緊張を帯びはじめていた。


 ――ふと視線を横にやると、デスクに向かっていた結の指が止まっていた。

 紙の角を揃える動作がわずかに乱れ、目だけがこちらに向く。

 すぐに視線を落としたものの、その一瞬に宿った光は、静かなざわめきとなって俺の胸に残った。


(……結)


 四人のうち、ただ一人、まだ“境界”を越えていない。

 けれど、だからこそ、彼女は誰より敏感に“変化”を感じ取っているようだった。


 その日の夕方。

 社長に呼ばれて、会議室へ。そこには既に二人の来客がいた。

 ひとりは、舞台で世界を震わせる声の持ち主――平山明日香。

 もうひとりは、穏やかな佇まいで、しかし圧倒的な存在感をまとったプロデューサーの華宮瑞稀。


「へえ。噂の弟くん」


 平山は椅子に浅く腰かけ、足を組む。

 鋭い眼差し。しかし、好奇心の熱が隠れていない。


「は、初めまして」


「硬い。――まあいいや。本題いこうか」


 社長が息を整え、短く頷いた。


「明日香ちゃんが新しいプロジェクトを立ち上げる。V×アイドルの新グループ。で――」


「スカウトしたいんだ。東村“雨”を」


 会議室の空気が、一瞬で密度を増した。

 芽亜が目を瞬く。ゆっくりとヘッドホンを外し、静かに平山を見る。


「……私を?」


「うん。鳴かず飛ばずのグループにいるの、正直に言えば“もったいない”。こっちで一からやらない?」


 挑発でも侮辱でもない。

 “戦場”の匂いがするまっすぐな誘い。

 だからこそ、刃は鋭く心に刺さる。


 社長が口を開きかけたのを、芽亜がそっと手で制した。

 自分で答えるという合図。


「……魅力的です。将来のためには、たぶんそっちのほうが道は広い。でも」


 言い切る前に、視線がこちらへ流れてくる。

 わずかに揺れて、しかし、芯は折れていない目で。


「私は仲間を――颯も、裏切れない」


 その瞬間、平山の口元にわずかな笑みが宿った。

 瑞稀も目だけで頷く。


「変わったね、雨」


 短いひと言だった。

 褒め言葉でも、試金石でもある。

 芽亜はひるまず、平山を正面から見返す。


「私、歌はひとりでも歌えるけど、ここで覚えたのは“ひとりじゃない歌い方”です。……だから」


「だから、“条件”を出す」


 平山が指を一本立て、テーブルを軽く叩いた。


「次の配信で――同接、出して。数字は私が決める。もし達成できなかったら、雨は私がもらう」


 部屋が静まる。

 俺の心拍だけが、はっきりと音を持った。


「逆に、達成したら?」


 社長が即座に問い返す。

 平山は楽しげに肩をすくめた。


「特別なステージを用意する。パラダイスオーシャン。夏のアリーナ・レイアウト、押さえてある」


「……本気?」


 俺の声が勝手に漏れる。

 平山は笑い、瑞稀がふわりと続けた。


「アンバサダーは私がやるわ。告知のラインはすぐ引ける。席は――埋まる」


 瑞稀が言うと、それは予告ではなく結果に聞こえた。

 静かな声で、現実を動かす人の声音。


「条件をもうひとつ」


 平山が指を二本に増やす。


「“解散”を賭ける」


 社長が眉をひそめ、恋が小さく息を呑む。

 優子は唇を噛んで、結はぱちりと瞬き――黙って拳を握った。


「配信の同接を出せたら、パラダイスオーシャンでの“特別ステージ”。

 出せなかったら、雨は預かる。……それと、グループは“解散”」


 沈黙。

 音のない嵐が、会議室を通り抜けた。


「どうする?」


 平山が俺を見る。

 視線の射抜く力は、試合の開始を告げるホイッスルに似ている。


「……やります」


 立っていたのは俺だった。

 つられて、三人も立つ。恋、優子、そして芽亜。

 最後に、結が立ち上がる。


 結は何も言わない。

 けれど、その瞳には、燃える色が宿っていた。

 “センター”の色だ。

 仮面の奥に、はっきりとした光が差している。


「期限は?」


「一週間。番組枠を押さえる。テックはこっちで手伝えるよ?」


 瑞稀が社長に目配せをする。

 社長は短く「助かる」と言って、俺たちに向き直った。

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