第2章 紅結との出会い
事務所の机に積まれた書類の山と格闘した初日を終え、俺は半ばぐったりした体を引きずって翌日も足を運んだ。
姉に言われた通り、今日は「所属タレントの顔合わせ」があるらしい。
芸能事務所に勤めるといっても、俺はバイトでしかない。本業は学生のはずだ。
配信だのイベントだの、正直よくわからない世界だ。
それでも給料が発生する以上は、それなりに顔を出さなければならない。
ドアを開けると、廊下に人の気配があった。
控えめに、しかしはっきりとした声が俺を呼び止める。
「あなたが新しいお手伝いの方ですか?」
振り返ると、一人の少女が立っていた。
ショートカットの髪は淡いオレンジ色。差し込む光を受け、紅の色味を帯びてきらめいている。
整った制服姿。けれどその立ち姿には、どこか素直さと硬さが同居していた。
「そうだけど、君は?」
「
一瞬、耳を疑った。
脳裏をかすめる。――あの公園の、夕焼けに似た色。
けれどすぐに意識を振り払った。偶然の記憶を結びつけるほど、俺は夢見がちな人間じゃない。
「え?」
「あ、芸名です」
恥ずかしそうに笑いながら訂正する。
その瞬間、俺は社長――姉の言葉を思い出した。
『ここで彼女たちの本名は口にするな。芸名こそが“商品”で、あの子たちが生き残るための仮面だ。スタッフであるお前も徹底しろ。呼ぶのは芸名だけ。いいな?』
本名と芸名。その境界を、俺は強く意識させられていた。
表で見せる顔と、裏で抱えるもの。あの少女――紅結もまた、仮面を被って立っているのだろう。
「ああ、そういうことか。
「よろしくお願いします。颯さん」
その笑顔は、一瞬だけ素に見えた。けれど次には、しっかりと“紅結”としての顔に戻っていた。
笑顔の奥に、舞台用の仮面のようなきらびやかさと、どこか影のような揺らぎが見えた。
だが、それを深く追求するには、まだ早すぎる。
⸻
「社長にここのこと案内してって言われてるので、早速ですが行きましょうか。」
紅結はまっすぐ俺を見て、そう切り出した。
几帳面な口調。先輩らしく案内役を務めようとする姿が板についている。
「ありがとう。よろしく頼む。」
俺は軽く頭を下げた。
「ここが事務室、ここが共有の給湯室、ここが共有の会議室。ここが共有の収録室。」
指さしながら案内する紅結。
歩調は静かで、言葉に無駄がない。
ただ「共有」という単語がやけに耳に残る。
「共有ばっかじゃないか。」
思わず口にすると、彼女は小さく肩をすくめて答えた。
「仕方ないですよ。まだそんな大きな事務所じゃないんですから。ちゃんと場所があるだけありがたいです。」
「それもそうなのか。」
零細事務所の現実を、妙に真っ直ぐに受け入れている。
その姿は、センターである彼女の責任感の片鱗を示していた。
⸻
戻る途中、階段を降りてくる人影があった。
青髪のロングヘア。大きなヘッドホンを首にかけ、視線を落としたまま。
俺たちに気づいたのかどうかも分からない。軽く会釈するだけで、そのまますれ違っていった。
紅結が小さく笑う。
「彼女が東村雨ちゃん。多分自分の世界に入ってるから気が付かなかっただけだから気にしないで。」
「それにしたって見えてなさすぎじゃない?」
「彼女はずっとあんな感じだよ。」
「さも当然のように言われても……」
俺の戸惑いをよそに、紅結はさも自然なことのように答えた。
その態度には、仲間を理解している安定感と、どこか諦めの気配が同居していた。
⸻
案内が一段落すると、紅結は小さく視線を泳がせた。
迷うような、決めかねるような仕草。
「せっかくだから何か食べて帰るか。」
俺が提案すると、彼女はわずかに間を置き、控えめに答える。
「……はい。」
その一言には、センターらしい強さとは違う、等身大の少女の響きがあった。
⸻
歩き出した廊下は静かだった。
事務所の外へと続く出口のドアの向こうに、夕暮れの光が淡くにじんでいる。
まだ互いをよく知らない二人。
けれど、その小さな了承の言葉が、これから始まる日々を確かに形づくっていた。
駅から歩いて数分、事務所の近くにあるファミレスに入った。
夜には少し早い時間帯。店内は静かで、窓際の席は柔らかい夕陽に照らされている。
俺たちは並んで入っていき、店員に案内されるまま、二人用のテーブルに腰を下ろした。
紅結はメニューを広げ、じっと眺めている。
ページをめくる指先が、何度も同じ場所で止まっては戻る。
(……迷ってるな。)
ただの優柔不断かと思ったが、視線の端に見えたのは、小さな財布。
彼女は値段と睨めっこしているようだった。
その仕草で、俺はようやく気づいた。
男としても、人間としても、ここで言うべきだと直感した。
「気にしないで。俺が誘ったんだから、奢るよ。」
顔を上げた彼女は、驚いたように目を瞬かせた。
「そんな……いいんですか?」
「もちろん。」
即答すると、ようやく表情が和らぐ。
「ありがとうございます。」
その瞬間、目がぱっと輝きを増した。
今まで遠慮で縛られていた視線が、自由を得たかのようにメニューを巡り始める。
⸻
料理が運ばれてくると、紅結はすぐに手を合わせ、楽しそうに口へ運んだ。
頼んだのはポキ丼。鮮やかな具材が盛られ、テーブルの上に彩りを添えている。
「……美味しいです。」
嬉しそうに言いながら、彼女は一口ごとに目を細める。
その様子を眺めていると、まあこれぐらい奢ってもいいかと思えてくる。
「久しぶりに外食しました。」
笑みを浮かべながら呟く声は、ほんの少し照れくさそうだった。
「近いんだから、いつでも来れるだろ。」
「外食は……太りますので。」
そう言いながら、ちらりと俺の皿に視線を落とす。
ジュウジュウと鉄板の余熱を残すハンバーグ定食。
俺のフォークが肉を切るたび、その視線が無意識に揺れる。
(そんなに気にするなら頼めばいいのに……)
「そんな気にするような体型じゃないだろ。」
思ったままを口にすると、紅結は顔を赤くして手を振った。
「そ、そんなことないですよ!」
言葉を否定に傾けながらも、その照れ隠しの仕草は、ただの年相応の少女のものだった。
⸻
少し落ち着いたところで、俺は水を一口飲み、話題を切り替えた。
「それで、グループは他に何人いるんだ?」
問いかけると、紅結は呆れたようにため息をついた。
「……そんなことも社長は話してないんですね。ほんと、適当なんだから。」
「まあ、そういう人だからな。」
苦笑を返すと、彼女は仕方なさそうに頷いた。
「今のメンバーは、雨、天、バニラ。それに私を入れて四人で活動してます。」
耳慣れない名前が並ぶ。
だが「アイドル」という枠に置けば、むしろ珍しい方が記憶に残るのだろう。
「えーと、もう一度フルネームで教えてくれる?」
「
その列挙に、俺は思わず苦笑した。
「……お前が一番まともに見えるのが不思議だな。」
本人はきょとんとした顔で首を傾げる。
意図せず口にした本音が、場を少し和ませた気がした。
⸻
「活動は、それぞれ個人配信とグループ配信。あとは簡単な外活動や舞台。基本は歌とダンスのレッスンですね。」
答える口調は真面目そのもので、センターらしい責任感がにじんでいた。
教科書を読み上げるかのように整理された言葉。
その安定感の裏に、彼女が自分を律している姿が透けて見える。
「なんかアイドルっぽいこと言ってるな。」
軽口を叩くと、紅結はむっとした顔で睨んできた。
「“ぽい”じゃなくて、ちゃんとアイドルです。」
「ああ、ごめんごめん。」
慌てて手を振って笑う。
彼女の中で「アイドルであること」は、自分を支える芯そのものなのだろう。
⸻
しばらくして、食事も終盤に差し掛かる。
皿の上には半分ほど残ったポキ丼。
紅結は箸を止め、少し真剣な顔をしてこちらを見た。
「そういえば、グループ名をまだ教えてませんでしたね。」
「そういやそうだな。何て言うんだ?」
俺の問いに、彼女は静かに、けれど誇らしげに口を開いた。
「――Open Haloです。」
その名を告げる声は、普段の控えめさとは違い、どこか確信めいて響いた。
“栄光を開け”という意味を持つその名前が、彼女たちにとってどれほど大きな旗印であるのか、わずかながら伝わってくる。
窓の外、暮れかけた空に街灯が点り始めていた。
その光がテーブルに落ち、彼女の髪を淡い紅色に照らし出す。
まだ始まったばかりの関係。
だが、この瞬間、確かに「物語が動き出した」と感じられた。
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