第3章 恋乃天の「推し」宣言

 翌日も俺は、事務所の机に向かっていた。

 積み上がった書類は片付けたはずなのに、今日もまた新しい山ができている。

 紙というのは不思議だ。重さも厚みも大したことはないのに、こうして何百枚も積み重なれば、部屋の空気そのものを圧迫する。


 プリンターのインクの匂いが微かに鼻を刺す。窓の外は昼下がりの光で白く、埃が舞うのが見える。

 姉からの指示は相変わらず軽かった。

「簡単な書類整理を頼むよ」

 ――その“簡単”という言葉ほど信用ならないものはない。


 クリアファイルを手に取り、中を確認する。イベントアンケートの束だ。

 だが数えると、一枚足りない。

(あれ? 提出期限は先週じゃなかったか?)

 小さな欠落に、妙な苛立ちが募る。


 引き出しを開け閉めし、棚を漁り、机の下に手を突っ込む。埃が掌に付く。飴の包み紙とインク切れのボールペンしか出てこない。

 どうしても見つからない紙一枚。その穴が、逆に大きく感じられた。



 その時だった。

 ノックもなく扉が開き、足音が軽く響く。


「君が新しく入るって言ってたお手伝いの人?」


 顔を上げると、見知らぬ女の子が立っていた。


 黄色に桃色を混ぜた髪色。光を受けてふわりと揺れる。肩で束ねたサイドテールがリズムを刻むように揺れて、視線を奪った。

 白いブラウスに短めのスカート。笑っているように見える目元。最初からこちらを楽しむように見ている。


「お手伝い? まあ、遠からずそうかもな」


 机を指で軽く叩きながら答える。散らかった山を見せつけるように。

 彼女はその様子を一瞥しただけで、すぐに俺へ視線を戻した。


「そうなんだ。みんなにもう会ったの? どの子か決めた?」


(……決めた?)


 意味を測りかねる俺をよそに、彼女は机の角に腰を下ろし、ぶらりと脚を揺らす。

 この距離感。舞台や配信で観客との間を測り慣れている人間の仕草だ。


「まだ結にしか会ってないよ。……ってか“決めた”ってなんだ?」


「もう下の名前で呼んでるんだ! 仲良いんだね」


 彼女は大袈裟に目を見開き、芝居がかった反応を返す。だが不思議と嫌味はなかった。


「俺の質問に答えてくれないか?」


「え? ああ、だってアイドルだもん。誰が推しとかあるでしょ?」


 “推し”。

 最近は誰もが口にする言葉。だが俺の生活圏にはまだ馴染んでいなかった。

 ただ好きと言うよりももっと細かく、もっと特別に、誰かを見つめる行為。

 俺にとっては遠い文化だった。


「そんなの別にないよ。忙しくてそれどころじゃない」


「なんだ、そっか。まだ全員会ってないみたいだし仕方ないか。最近イベント少なかったし、集まる機会もなかったからね」


 彼女は机の上のクリップを指で回しながら、勝手知ったるように話す。

 仕草のひとつひとつが舞台の延長線上にある。


「そこまで詳しくは知らん。そもそも一週間も経ってないんだ」


「それもそっか。気が早かったね」


 肩を竦め、軽く笑う。

 その笑顔は“作られた可愛さ”のはずなのに、近距離で見ると逆に素直に映った。



「そういうこと。だからまだ書類整理ぐらいしかできないんだよ」


「なるほどなるほど、納得なのです」


 語尾を少し跳ねさせ、あざとさを混ぜて返してくる。自然に、楽しそうに。


 次の瞬間、彼女はぱん、と机に両手を置き、前に身を乗り出した。

 サイドテールがふわりと揺れ、香りがかすかに鼻をかすめる。


「そしたらユー、私の推しになっちゃいなよ!」


「は? 何言ってんだ?」


「ファンサービス増したげるからさ!」


 ウィンクして指で小さなハートを作る。その即興性は訓練の賜物。

 けれど、この距離でやられると反則に近い。


「おいおい、ちょっと待てって」


 俺が制止のジェスチャーをすると、背後の紙山がわずかに崩れ、一枚が机から滑り落ちる。

 彼女はそれを目で追い、さっと拾い上げた。


 白い指先で紙をつまみ、俺の方に差し出しながら言う。


「“推し”ってね、味方と審査員の間くらいにいる存在だと思うの。応援してくれるけど、見てもくれる。信じてくれるけど、期待もする。だから君が私の推しになったら、私、もっと強くなれるんだよ」


 一瞬だけ真面目な響き。

 冗談に乗せて投げられた言葉の中に、ほんの少しの本音が滲んでいた。



「――で、名前は?」


「名前?」


「うん。推すにも、呼ばれないと始まらないから」


 彼女は胸に手を置き、ほんのわずか姿勢を正す。

 ここはただの事務所の一角だというのに、その立ち姿はスポットライトを浴びているみたいに見えた。


恋乃天 こいのそら。名前、ちゃんと覚えてね」


 宣言のような名乗り。

 軽い会話の中で放たれたそれは、不意に場の空気を塗り替える。

 呼ばせるための名前。覚えられることを前提にした名前。

 その響きが胸の奥に小さく残る。


 言い終えると、彼女は踵を返し、出口へ向かう。

 だが扉を出る前に、机の上へ一枚の紙を置いていった。


 確認すると――探していたアンケート名簿。

 抜けていた“No.100”が、そこにあった。


「……って、書類置きに来ただけだったのかよ」


 思わず呟き、深く息を吐いた。

 紙一枚。だが、場の空気を確かに変えていった。



 扉が閉まった後も、事務所にはしばらく彼女の気配が残っていた。

 机の上に置かれた紙の端からは、指で押さえられた小さな跡が残っている。

 さっきまでそこにいた存在を、わざとらしくない程度に刻んでいた。


 俺はため息をつき、紙を束の最後に差し込む。

 アンケート名簿はようやく一冊の形を取り戻した。

 それだけのことなのに、妙に肩の力が抜ける。


(……結に続いて、二人目か)


 昨日出会った紅結と違い、恋乃天は掴みどころがない。

 軽口に見えて、本気を混ぜてくる。

 ふざけているようで、最後に名乗った声だけは妙に耳に残っている。


「推し、ねぇ……」


 独り言のように呟きながら、背もたれに体を預ける。

 窓の外は夕方の光が濃くなり、廊下を歩く誰かの靴音が遠くで反響していた。

 静かな事務所に、自分の言葉だけが薄く漂う。


 結に案内された時、階段ですれ違った青髪の子のことを思い出す。

 紅結、恋乃天、推藤バニラ、そして……東村雨。

 まだまともに話していない顔が残っている。


(全員に会ったら、どうなるんだろうな)


 少しだけそんなことを考え、またすぐに首を振る。

 考えたところで答えが出るわけでもない。

 今はまだ、散らかった書類の整理と、慣れない仕事に追われる日々が続くだけだ。


 机の上を片付け、名簿を棚に戻す。

 蛍光灯の光が紙の端で跳ね、何事もなかったかのように沈黙へ戻った。


 だが、耳の奥ではまだ――

 「恋乃天。名前、覚えてね」

 あの一言だけが、繰り返し響いていた。

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