第1章 金と自由と俺の悪夢
大学へ向かう途中。住宅街の中にひっそりと埋もれるようにある、小さな公園に立ち寄った。
滑り台と鉄棒だけ。塗装は剥がれ、砂場には草が伸び放題。近所の子どもたちは五分先の大きな公園へ行くから、ここはいつも空っぽだ。だ。
自販機のラインナップも十年前から変わらない。缶の表面は陽光に褪せていた。
――だからこそ、俺はここが好きだった。
授業前のわずかな時間を吸い込んで、世界から切り離されたみたいに静かになれる。誰にも干渉されない、自分だけの隠れ場所。
ただ、その日は違った。
いつものベンチに、先客がいた。
オレンジ色のショートヘア。制服のスカートを押さえながら、膝の上にノートを広げている少女。
足元に落ちる影を見つめ、唇が小さく震えていた。声に出しているのか、呟きに過ぎないのかは聞き取れない。だが、光を反射したノートの文字だけが、遠くからでもかすかに揺れて見えた。
俺は、思わず立ち止まっていた。
雑草の間に立ち尽くす俺に気づくこともなく、彼女は肩をすくめ、ノートを強く握りしめる。そして、不意に顔を上げた。
オレンジ色の髪が光を受けて揺れた。その瞳は、脆さを抱えながらも決意に満ちていた。
「……大丈夫。私はやる。だって、そう決めたんだから」
小さな声が、公園の空気に溶ける。
俺には意味がわからなかった。けれど、その瞬間だけは、胸の奥が強く掴まれた。
彼女は俺の存在に気づき、驚いたように目を見開いた。次の瞬間、ふっと微笑んで、ノートを抱えたまま走り去っていく。
残されたのは、揺れる雑草と、夏の匂いだけ。
――まるで、幻のようだった。
公園の妖精にでも出会ったのかと錯覚するほどに。
そして俺は気づいていなかった。
この偶然が、俺の単位を溶かすほどの厄介な日々の始まりになるなんて。
俺は金が欲しかった。
それは単純で、どうしようもなく浅ましい理由だった。
けれど、世の中は金で動いている。父親を見ていれば、そんなことは嫌でも理解できた。
夜、食卓に並ぶ酒とつまみ。その横で父は、決まって会社の愚痴をこぼした。
上司が無能だとか、残業に見合わない給与だとか、同じ愚痴ばかり。
言葉は酒に濁され、やがて怒鳴り声に変わり、最後には疲れ果てた沈黙が落ちる。
その光景を、俺は小学生の頃から見てきた。
そして思ったのだ。
(あんな風にはなりたくない。)
責任を背負い、愚痴を吐き出すだけの人生に、どんな意味があるのか。
俺はそうならないと心に誓った。
その為には、逃げない強い心が必要だと考えた俺は大学では、心理学を選考した。
弱くて力なのない大人になんてなりたくない。
強い心と金さえあればなんとかなると、そう思っていた。
若いうちは責任なんて背負わず、自由に、楽に稼ぐ。それが俺の人生設計のはずだった。
――彼女たちと出会うまでは。
⸻
もちろん、楽して稼ぐなんて簡単じゃない。
コンビニの深夜シフト。ファミレスの厨房。工場の流れ作業。
どれをやっても、必ず責任が発生する。
レジの金が合わなければ疑われ、皿を割れば弁償、作業を止めればライン全体に迷惑。
(こんなの、大学生がやる仕事じゃない。)
そう思っていた。
学業の片手間に働く程度なら、責任なんてものは回避したい。
もっと楽に、適当に金が手に入る場所があるはずだ。
そんな甘い幻想を抱えていた時だ。姉が口を開いた。
「いいところあるよ。責任も労力も一切なし。ただ、ちょっと可愛い彼女たちの相手をしてくれればいいだけさ。」
耳障りは軽く、口調は冗談めいていた。
だが、その言葉は俺にとって悪魔の囁きだった。
⸻
姉の
声優、アイドル、Vtuber――時代の最先端を追いかけると謳いながら、実際には小さな雑居ビルの一室を借りただけの零細企業。
駆け出しのアイドルユニットが所属しているが、世間的な知名度はまだほとんどない。
それでも俺にとって重要だったのは、給料がそれなりに良い、というただ一点。
責任がないならなおさらいい。
バイト代が手に入るなら、やらない理由はなかった。
そうして俺は、姉の事務所で働き始めた。
この選択が、やがて俺の価値観を根底から揺るがすとは知らずに。
⸻
「ここが今日から働く君の机だ。」
姉が案内してくれたのは、壁際の小さなデスクだった。
新品の木目調。表面はまだ光を反射している。
その上に置かれていたのは、黒電話と空っぽのファイル。
引き出しを開けても、中は空洞だった。
(おお、これぞ新人の机……! ちょっとワクワクするじゃないか。)
社会の入口を踏み出したような高揚感。
けれど、それはほんの数秒で打ち砕かれることになる。
視線の先。正面に並んだ机。
そこに積み上がっていたのは、書類の山。
領収書、契約書、手書きのメモ、ファックス用紙、バラバラの資料。
高さは三十センチを超え、まるで不安定なタワーマンションのように傾いていた。
(社員って、やっぱ大変なんだな……)
思わずため息を吐いた瞬間、姉が笑った。
「いや、社員はお前だけだよ?」
「は? でも、姉さんの机は窓側だろ? じゃあ正面のこれは?」
「ただの書類置き場。それを片付けるのが君の最初の仕事さ。」
⸻
机に寄せた足が止まる。
新品の机と、崩れかけた書類の山。その対比がいやに鮮烈に見えた。
新人としてのワクワクは、開幕一ページ目にして木っ端みじん。
片付けても片付けても終わらない書類。
未処理の案件が山積みで、何をどう整理すればいいかもわからない。
俺は束ねられていない紙束を手に取り、ペラペラとめくった。
字のかすれた契約書、修正液で塗りつぶされた申請書。
どれも期限が過ぎていて、何の役に立つのか分からない。
(……これが俺の仕事? いや、これが“責任ない”仕事?)
皮肉にも、ここで俺の「責任から逃げる」という目論見は、出発点から狂い始めていた。
⸻
昼下がりの事務所は、静かだった。
外の喧騒も届かず、古びたエアコンが低く唸る音だけが耳に残る。
窓から差し込む光の中で、舞い上がる紙埃がきらめいていた。
机に広げた書類を前に、俺は深く息を吐く。
(俺は何をやってるんだろうな……)
学校の単位を最低限にしてまで、金が欲しくて、楽に稼ぎたくて、ここに来た。
なのに、目の前に広がっているのは、ただの紙の山。
整理もされず、価値も分からない、過去の残骸。
俺はシャーペンを回しながら、崩れかけた塔を睨んだ。
いつ崩れてもおかしくないその姿は、妙に今の俺自身を映している気がした。
⸻
――そして、俺の悪夢は始まった。
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