第10話《悪あがき》

 葦原家の屋敷に放たれた火が広がりつつあった。天井に設けられたスプリンクラーヘッドが熱を感知し、散水が始まったものの、古びた木造住宅であり、難燃性の建材は使われておらず、限度があった。30分も経たずに、全体に燃え広がるだろう。


 葦原 廻は10歳。まだ子どもだったが、その天才的な頭脳で必死に考えていた。屋敷内には《死神》に魅入られた篠垣がいる。母である栞(しおり)は、篠垣に刺されたとメイドの仍(なお)が言っていた。どの程度の負傷かわからないけど、生きている可能性はあると思った。正確には──そう、信じたかった。

 

「篠垣さんは僕たちを追ってこなかった。2階にまだいるなら、母さんを……助け出せるかもしれない」


 気休めだと分かっていながら、敢えて口にした。緊張と焦燥感で過呼吸になり、自分の息遣いが大きな音で感じられた。


(2階から篠垣さんが降りているなら、玄関で鉢合わせるかも。でも……)


 厳しいけど、その裏にいつも優しさを感じられた母さん。《死神》の凶刃に倒れ、炎で焼かれるような人生を歩いてきてはいないのに──。


(数分稼げば、警察か消防が来る。それまで、時間を稼げば──!)


 そう思って、中庭のビニールハウスに飛び込んだ。飛び散った火の粉で穴が開き始めていた。手をかけてきた花々が、これから燃えてしまうのだと思うと、廻はやりきれない気持ちになって、涙がこぼれた。


「あった」


 ロッカーから消火器を見つけて、両手で抱える。ずっしり重い。廻でも扱えるようにと、仍が選んでくれた小型のもので、重さは1.9kg。


 廻は身長150cm、体重36kg。大人が4kgの米袋を持って走るようなものだ。自分の非力さを恨めしく思った。煙を吸わないように、風呂敷を口に巻き付けた。


 鎖錠された勝手口に鍵を差し込み、回した。


(母さん──母さん──!)


 冷静さを失ってはいけないと、どんなに言い聞かせても、母のことを考えてしまう。鍵が開く3秒が永遠にも感じられた。


  * * *


 藍坂 祐奏は、正面玄関が出発した仍たちのタクシーを見送ることもなく、全速力ですぐ横の警備員詰所に飛び込んだ。警備員の篠垣が屋敷内を徘徊している以上、鎖錠はされていないと読んだのだ。


 詰所の中には9つのモニターがあり、屋敷内の各地が映し出されていた。


(確認すべきは──奥様と、篠垣さんと──お館様!)


 数秒ごとに、画面が切り替わり、別の場所を映した。寝室から出た踊り場に栞が倒れていた。大量に出血しているが、お腹を手で押さえているから、まだ生きている。


(早く手当てしないと……)


 そう思った時に画面が切り替わって、中庭の勝手口から入り込んだ廻が写った。消火器を持っていて、踊り場に向かっている。


(お館様、数分、時間を稼げればいいと割り切っておられるのだわ。でも、ご自分の命は顧みられていない──)


 祐奏の小さな胸がぎゅっと痛んだ。次の瞬間、モニターに2階から階段を降りようとする篠垣の姿が写った。


 1階の構造を思い浮かべる。入口は正面玄関と、勝手口が3か所。邸宅は正面玄関から見て、左右に分かれている。玄関にはエントランスがあり、右側は食堂と厨房、倉庫に繋がる扉。真っすぐ行った先には勝手口がある。


 左側の扉の向こうは、トイレ、バスルームなどが左右に配置され、さらに奥の扉の向こうが2階への階段のある踊り場。踊り場からは二方向に分岐しており、一つは栞や仍、唐沢らの寝室、書斎があり、その奥に勝手口がある。


 もう一つは中庭に繋がる通路で、それが廻が屋敷に侵入した場所だ。


(お館様を助けるには────)


 篠垣は館の右側、倉庫に侵入していた。膝をついて、頭を押さえながら、外国語と日本語が混ざった言葉を口走り、倉庫内の姿鏡を見ていた。


(今、篠垣さん『時間がない』と言ったわ。なら──)


 篠垣のいる右側の屋敷の勝手口に走り、扉を開けた。幸い、鎖錠はされてなかった。祐奏は床にスマートフォンを置き、煙が立ち込め始める中を、そのまま姿勢を低くしてハンカチを口に当て、エントランスに抜けた。建物の焦げる匂いが感じられ、スプリンクラーの水音が不気味に聞こえた。


 扉を開けて、通路を抜ければ踊り場があり、栞が倒れているはず。そして廻も近くに来ているはずだ。祐奏は力の限り叫んだ。


「──奥様! お館様っ!!」


  * * *


 勝手口から侵入した廻は、祐奏の叫びを聞いた。


(──そうだっ。祐奏は素直に帰るような子じゃないッ!)


 自身の過失に気づいたが、そんなことを考えている余裕はない。


「祐奏っ!」


 廻は力の限り叫んだ。消火器を持っての走りは遅い。扉を開けると、踊り場だ。倒れている母・栞が見えた。

 そして扉が開いて、バスタオルを抱えた祐奏が飛び込んできた。


「お館様っ!」


 祐奏は、栞に駆け寄って、傷口に沢山のバスタオルを当てた。


「これ見てっ」


 祐奏は館から脱出しろと言われた時に、歩奏が忘れていたスマートフォンを拾っていた。ビデオ通話アプリにより、監視カメラ代わりに使えると考えた。画面には倉庫から篠垣が出てくるところが映されていた。

 彼は来客用の純銀製ナイフとフォークを持っていた。


「Il contient le pouvoir de la lune……こレで……」


 そう、呟いたが、廻にも祐奏にもフランス語はわからない。篠垣は戸惑った顔をしていた。恐ろしいことに、銀食器を自分の腹部に突き刺し、鮮血が迸った。炎の赤と、皆既月食の闇が混ざる中で、篠垣は“人の笑み”をやめた。


「祐奏、ありがとう。もしかしたら──!? 篠垣さんっ!!」


 廻はスマートフォンを通じて、全力で篠垣に呼びかけた。

 スマートフォン越しの声を聞いた篠垣は、一瞬、驚愕するような顔で電話の画面に振り返った。

 片目は人でない何かが宿っていた。もう片方の目からは涙が出ていた。影が不自然に二つあった。


「やはり、《死神》に操られているんだ」


 その時、栞が顔だけ起こして、廻を食い入るように見た。


「廻、この──愚か者……っ! なぜ、助からぬ者の……とこ、ろに来たのですか……!」


 息も絶え絶えだったが、強い目線だけは生きていた。


「逃げ……なさ、い」


 母の指示に、廻は首を強く、強く横に振った。


「敗北は、諦めた時に確定すると、母さんは言いました。僕は……悪あがきをせずにいられないのです。だって──人間、だからっ!」


 魂の底からの訴え。沸き上がっては打ち消せぬ、母への思い。それが爆発した。


「お館様──!」


 祐奏はその声に胸を打たれ、涙が止まらなかった。心が震えているのか、体が震えているのか分からなかったけど、自分の全てをかけて手伝いたかった。


「悪あがき、手伝いますから」


 祐奏が震えながら、優しくそう言った。廻は、申し訳なくて心底、苦しそうに顔をゆがめた。自分の無力さが、心から悔しくて、体が引き裂かれそうな思いだった。


「ごめん。祐奏、巻き込んだ。でも──助かる」

 

 そう言って、泣きながら、少しだけ、笑った。


 歩奏のスマートフォンに映るビデオ通話の画面は、炎に埋め尽くされていて、もう多くの時間は残されていないことを告げていた。

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