第11話《ごめんなさい》

 警備員・篠垣 源八郎(しのがき・げんはちろう)は茫然としていた。自分は警備員詰所で夜勤をしていたはず。それが、気が付くと炎の中にいた。


 夢の中にいたような気持ちだったが、坊ちゃん──葦原 廻(あしはら・めぐり)に「篠垣さん」とスマートフォンで呼びかけられ、意識が浮かび上がってきたのだ。


 自分ではない何かが自分の体を動かしており、外国語の思考が割り込んでくるのがわかった。両手には銀のナイフとフォークが握られていた。


(──誰だっ! くそっ、どうなっている。なぜ俺の体が動いている!! 何をさせようと言うんだ!?)


 そう、心の中で叫ぶ。そして気づいた。警備員の制服が返り血で汚れていることに。全身が打撲しているようで、激しい痛みが走り、意識をクリアにした。


(Je n’ai aucune rancune contre toi, mais j’ai besoin que tu crées une opportunité.)


 外国語の思考が問いかけに答えた。意識を共有しているからか、意味はおぼろげにわかる。


(『俺を……きっかけ』に!? 何をした! 何をさせようとしている!!)


 篠垣の手は勝手に動き出し、銀のナイフとフォークを振りかざしていく。


(« Il » doit rejeter le monde auquel il appartient.)


(──『世界を拒絶させる!?』 『彼』とはなんだ!)


(Meguri Ashihara)


 予定された未来を宣告するような、感情のない声だった。篠垣はその無機質さに、人間とは異質の思考を感じ取り、本能的に戦慄した。


(──坊ちゃん!? やめろ、あの子に手を出すなっ!)


 心の中でそう叫んだ。体がわずかに動かせたが、その手に握られた銀のフォークとナイフが、自分の腹部に刺された。


「Il contient le pouvoir de la lune……こレで……」


 口が勝手に動き、そう口走った。


(『月の、力!?』──くそっ、また体が動かなくなった。俺に何をさせるつもりだ!)


 鮮血にまみれた銀のナイフとフォークが床に落ちた。


(Vous devez tuer quelqu'un qui vous est cher ou être tué.)


(『俺に、坊ちゃんの大切な人を殺させるか、それとも殺されるようにする』、だと!?)


 あまりにも残酷な宣言を聞いて、篠垣の心に戦慄が走った。周囲の炎の熱ささえ、魂を震わせる悪寒が覆いつくしていった。


  * * *


「お館様。それで、どんな悪あがきをなさろうとしているの?」


 藍坂 祐奏(あいさか・ゆうか)が、スマートフォンの画面を見つつ、葦原 廻に話しかけた。バスルームよりタオルを取り、口に巻き付けている。


「エントランスには、地下室への入口があるんだ。蓋を開ければ、ワインセラーに繋がっている。《死神》が篠垣さんの知識を使えるかわからないけど、これで視界を潰せば落とせるかもしれない」


 そう言って、消火器を持ち上げて、立ち上がった。


「──母さん、僕は……行くよ」


 幼いながらも、葦原家当主としての矜持を込めて言った。祐奏は廻が通りやすいように、踊り場とバスルームの扉を開いた。


「篠垣さん、動き出した。こっちに、来るわ」


 スマートフォンのビデオ通話画面を見て、祐奏が呼びかけ、さらにエントランスへの扉を開けた。エントランスは既に煙が広がっていて、視界は悪かった。

 廻は手早く、床のリング上の金具を掴み、地下室への扉を開けた。


「歩奏のスマートフォンがあれば、後は僕一人でできるよ。祐奏は、逃げて」


 強い視線を祐奏に向けた。強い焦燥感と責任感が、心の中で渦巻いていた。


(──地下室に篠垣さんを落とせたとしても、火事の煙は下に溜まる。そうしたら、死んじゃうよ。祐奏にそんなことは、手伝わせられない)


 祐奏はそれには答えず、静かに質問をした。


「お館様、下はワインセラーなのですよね。床の蓋は新しいですが、後付けですか」


「うん。亡くなった父さんが作ったもので、新しいよ」


「換気設備は、どこで管理しているのですか」


「そこの部屋のパソコンから。デスクトップにアプリがあるよ」


 聞いた瞬間、祐奏は扉を開き、部屋に飛び込んだ。彼女からスマートフォンが落ちて、篠垣がすぐそこに立ったのが写る。


(──祐奏!? 何をしようと。いや、それどころじゃない!)


 スマートフォンのおかげで、扉の向こうの動きが見えた。篠垣が扉を開けた瞬間、廻は消火器を噴射した。噴射液と煙に視界を奪われ、篠垣は態勢を崩す。


(これだけじゃ、地下室に落とせないッ!)


 廻は全身の勇気を振り絞って、煙の中に飛び込んだ。篠垣の突き出した拳が見えたが、伏せてそれを避け、横をすり抜けた。そして後ろから全力で体当たりする。


(篠垣さん……ごめんなさい)


 態勢を崩し、地下室への階段を転がり落ちる篠垣を見て、廻は涙を流した。『それをすれば助からなくなる』と思ったけど、地下室への入口となる蓋を閉じた。


「祐奏っ!」


 そう呼びかけて、祐奏の入った部屋に飛び込んだ。


  * * *


(よかった。お父さんのワインセラーのアプリと同じだ)


 祐奏はパソコンを立ち上げ、アプリを開いていた。ここはまだ電源が活きていた。パソコンはSSD搭載で、10秒もせずに立ち上がる。


(換気機能を、最大にするには……)


 そう、操作した時に、扉が開かれ「祐奏!」と呼びかけられた。


「早く逃げて! もうすぐ、ここまで火事が来てしまうよ」


 必死に呼びかけられたが、祐奏には振り向いている時間がなかった。


「お館様だけ、逃げてください。もう少し、かかります」


「祐奏、逃げよう!」


 手を掴んだけど、強く振り払われた。


「ダメですっ!」


「なぜ!?」


 祐奏は、首を強く振った。手を止めず、動かし続けた。 


「こうしないと、地下室に煙が溜まって、お館様が──人殺しになってしまうわ。お優しいから、一生苦しむ」


 そこで涙が零れ落ちた。強い口調で言った。


「わたしは、それだけは、嫌っ!」


「祐奏……」


 廻が言葉を絞り出す間にも、煙は濃くなっていく。慌てて窓を開くが、換気が追い付きそうにもない。


「地下室は自家発電の自動運転みたいだから、指示さえ出せば……出しました!」


 祐奏がそう言うと、廻は姿勢を低くするようにジェスチャーした。二人で這うように煙の中を脱出した。


 エントランス、バスルームの扉を通り過ぎながら閉めつつ、踊り場にたどり着く。

 倒れていた栞は、かすかに意識があった。廻と祐奏は二人で、栞の手を取り、勝手口に引っ張ろうとした。


 栞は弱弱しく、首を振った。


「……よく、ここまで頑張りました。母は……貴方の勇気を誇りに思います。でも、廻……ここが、潮時と……心得なさい」


「嫌だ! 母さんを助け出すんだッ!!」


「自己満足に……藍坂のお嬢さんの命を……巻き込むつもりですか!」


「そんな……そんなこと言われても、選べないっ」


 栞の手を、廻と祐奏は引いたが、10歳の腕力では、大人はほとんど動かせなかった。煙はますます強くなり、この部屋にも入り込んでくる。


 栞はつぎの一言で、自分が力尽きると感じていた。死の足音が聞こえる中、命の全てを振り絞って、祐奏を見た。


「祐奏さん……廻を、お願い……します」


 廻と祐奏が握った手から、力が失われた。

 廻は衝撃を受けて、その場にしゃがみこんだ。言葉にならない悲しみが、嗚咽となって漏れ出した。祐奏は胸が張り裂けそうだった。自分はお館様になんて、むごいことをしようとしているのかと思いつつ、決断した。


「──お館様、ごめんなさい」


 そう言って、祐奏は廻を強く平手打ちする。


「ゆう……か」


 視界全体が涙に溢れつつ、泣いている祐奏が見えた。


「奥様の……最後の言いつけですよ」


 そう言って、廻を掴んで立たせた。力強く引いたので、口に巻いたタオルがずれ、息を吸ってしまう。意識が飛びそうになった。それを見て、廻が目を見開いた。


(僕が、躊躇ったから……祐奏まで)


 後悔が沸き上がった。そう思うと、即断できた。二人は手を取って、勝手口から外に走った。走ったことで、余計に煙を吸ってしまう。外に出たときには意識が朦朧とし、祐奏はついには倒れてしまった。


「祐奏! 祐奏っ!!」


「ごめん……なさい……体が、動かない……の」


 そう言って意識を失った。呼吸が弱くなるのがわかる。


 廻は、自分も意識が朦朧としながら、唐沢に習った救命措置に移った。風向きを見て、風上の芝生に祐奏を寝かせる。片手を額に当て、もう一方の手の人差し指と中指の2本をあご先に当てて、頭を後ろにのけぞらせ、あご先を上げる。《頭部後屈あご先挙上法》と呼ばれる気道確保だ。


「祐奏、ごめん」


 そう言って、呼吸しやすくするための措置で、ワンピースの胸元のボタンを外した。祐奏は気絶してしまい、返事がなかった。廻も気絶しそうだったが、遠くから救急隊のサイレンが聞こえていた。


(僕が……すぐに動かなかったから、祐奏が余計に煙を吸ったんだ)


「ごめん……ごめんな」


 そう言って、額に当てた手の親指と人差し指で傷病者の鼻をつまむ。自分の口を大きく開け、祐奏の口に密着させて、息を吹き込んだ。


 それを数回、繰り返すうちに、周囲に人の気配がし始めた。救急隊に呼びかけられた廻は安堵して、意識を失った。

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