第39話 暴走するサプライズ※イザベラ視点
挨拶は後回しにして、とにかくスケジュール通りに進める。そう思ってスタッフに指示を出した時、私は息苦しさを感じた。
空気が重い。
会場内の空気が、妙に重たく感じる。まるで、目に見えない何かに押しつぶされるような。
参加者たちの反応も鈍い。会話も弾んでいない。笑顔も貼り付けたようで、どこか疲れている。
息苦しい。
会場は広く、開放的な空間なはず。天井も高い。窓も大きい。それなのに、とてつもない熱気が流れ込んでくる。そして私は気がついた。人が多すぎる。人、人、人。どこを見ても、人で埋め尽くされている。
「暑い……」
ドレスが肌に張り付く。深紅のシルクドレス。美しいけれど重い。そして、暑い。額に汗が滲む。せっかく完璧に整えた化粧が、崩れてきている。
完璧に整えた髪も、少し乱れてきている。
髪飾りが、重く感じる。頭が痛い。
会場を見渡すと、他の貴族たちも私と同じような状態。
扇子で仰ぐ貴婦人たち。何度も、何度も。
額の汗を拭う貴族たち。ハンカチを押し当てて。
「暑いわね」
「外の空気が入ってこない」
「息苦しい」
「人が多すぎるのでは」
あちこちから、そんな声が聞こえる。どんどん大きくなる不満の声。疲れた声。
そして、匂い。
香水の匂いが混ざり合い、それで気分が悪くなりそう。甘い香り。華やかな香り。それぞれは良い香りなのに、混ざり合うことで不快になる。
重たい。むせ返るような。
料理の匂いも混ざってくる。
肉の匂い。ソースの匂い。スパイスの匂い。今日は、普通の料理を出すように指示したはずなのに。
そして、人の息。汗の匂い。
全てが混ざって、息苦しい。胸が苦しい。吐き気がする。
「会場の空気を入れ替えて。すぐ、外の空気を入れて!」
「は、はい!」
私は慌てて指示を出す。スタッフが、急いで換気する。会場にある扉や窓を次々と開ける。
でも、効果はない。
会場内の空気に大きな変化はなく、暑いまま。息苦しいまま。
外からの風は、ほんの少ししか入ってこない。人が多すぎて、空気が循環しない。
「どうして?」
「会場内に人を入れすぎたんです!」
スタッフが原因を明らかにする。その声は、必死。額に汗を浮かべて、息を切らしている。
「会場のキャパシティを超えているんです。この人数では、空気の入れ替えが追いつきません。参加者たちに一旦、会場から出てもらわないと!」
そんな事を今になって言われても、対処できない。参加者の一部を追い出すの? 駄目でしょ。そんなこと、できるわけがない。失礼すぎる。
そして——
「気分が……」
小さな声。だけど、会場内に妙に響く、声が聞こえた。
振り向くと、そこには高齢の御婦人が顔色を悪くして座り込んでいた。テーブルにもたれかかり、額に手を当てている。その顔は、真っ青。
「どうなさいました!」
周囲の人々が、慌てて駆け寄る。
「暑くて……、息が……。く、苦しい……」
「お医者様を!」
「水を持って来て!」
「ここじゃあダメだ。外に運び出そう!」
「空気の良い場所へ!」
会場が、一気に騒然となる。スタッフたちが走り回る。水を運ぶ者。医者を呼びに行く者。倒れた人物を運び出そうとする者。
貴族たちも、心配そうに見ている。不安そうな表情。ざわざわと、騒がしくなる。
私は、その場に立ち尽くす。どう考えても、致命的なトラブルが発生しているのを目の当たりにして。
どうして。
どうして、こんなことに。
人数が多すぎた? 会場が狭すぎた?
違う。こんなの私が悪いわけじゃない。予想以上に、参加者が来てしまっただけ。
私自身も、気分が悪い。
暑さ。息苦しさ。重いドレス。汗が止まらない。
そして、何より。
この、耐えられないほどの焦り。胸が苦しい。呼吸が浅くなる。心臓が、早く打っている。
でも。
まだ、サプライズを用意してある。
あれを披露すれば、きっと。
この暑さも、この混乱も、全部忘れてもらえる。
華やかで、美しくて、誰もが驚くような——
あのサプライズを披露すれば、きっと。
必ず。
そう、信じる。
信じるしかない。
医者が到着して、体調を崩した貴族を診ている。脈を取り、顔色を確認する。
「大丈夫ですか」
「少し、休ませれば問題ないでしょう。外の空気を吸わせてください」
「よかった……」
周囲から、安堵の声。でも——
会場の空気は、変わらない。
重たくて、息苦しくて、暑い。
貴族たちの表情も良くない。不満。疲労。不快感。
そういう感情が、顔に浮かんでいる。その原因は。
その後も、体調不良が続出。体調を崩した貴族が、スタッフに支えられて休憩室へ運ばれていく。足取りが覚束ない。顔色が悪い。
周囲の貴族たちは、心配そうに見送っている。ざわざわと、不安そうな声。
会場の空気は、さらに重くなった。
「失礼するわ」
低い声が聞こえて、振り向く。年配の貴婦人が、出口に向かって歩いていた。先ほど、挨拶に行けなかった方だ。社交界でも重要な立場にある方。あの方の評価は、社交界全体に影響する。
「お、お待ちください!」
私は慌てて駆け寄る。自分のドレスの裾を掴んで、小走りに。
「申し訳ございません。先ほどは挨拶に伺えず……」
「必要ありませんわ」
貴婦人の声は、氷のように冷たい。その目には、明らかな不快感が浮かんでいる。
「せっかく、期待していたけれど」
貴婦人は、扇子を閉じる。パチン、と音を立てて。
「暑いし、息苦しいし、会場の雰囲気は最悪」
一つ一つ、指摘される。容赦なく。
「挨拶もないし、体調を崩す人まで出る始末」
「で、でも…」
私は、必死に言葉を探す。弁解を。言い訳を。
「まだ、これから、特別なサプライズを用意してあります。きっと、お楽しみいただけます」
「サプライズ?」
その貴婦人は、呆れたように言う。鼻で笑うような、そんな声。
「もう、待っていられないわ。こんな状況の中で期待をして待てと言われても、これ以上は無理なのよ。それに――」
貴婦人は、会場を見渡しながら言う。
「人が倒れるような環境で、パーティーを続けるおつもり? 今夜はもう、終わりにしたほうが、よろしいわよ」
「それは……」
言葉が出ない。喉が、詰まる。
「失礼させていただくわ」
貴婦人は、そう言って歩き出す。
私は、引き止めることができなかった。手を伸ばしかけて、でも、動けなかった。
「私も、失礼させていただく」
また別の貴族が会場の出口に向かう。帰るために。
「ダメね」
「最後までいる必要はないでしょ」
「帰りましょう」
「馬車を呼んで」
次々と。
一人、また一人と出口に向かっていく。
止まらない。誰も止まらない。
「お待ちください!」
私は、必死に呼びかける。声を張り上げて。
「まだ、これから特別な演出が——」
でも、誰も振り向かない。
次々と、会場を出ていく。
馬車を呼ぶ声。
帰り支度をする音。
別れの挨拶すらなく。
全てが、私から離れていく。
「お待ちください! 今、サプライズの準備を……! 特別ステージへ移動を!」
そう言っても、止まらない。誰も立ち止まらない。
「セラフィナ嬢の妹君だと聞いて、期待したのだが」
去り際に、ある貴族が呟く。
その声が、はっきりと聞こえた。また、お姉様なの。なんで。なんで、また。
「リーベンフェルト家のパーティーは、快適で、素晴らしかったのに」
「こんな多くを会場に詰め込んで、準備も不十分で、どれも質が低い」
「セラフィナ嬢とは、大違いだな」
「まったく同感だ」
その言葉が、胸に突き刺さる。
セラフィナ。
また、セラフィナ。
お姉様ばかり。
私だって、頑張っているのに。私だって、完璧を目指しているのに。
なんで、私を認めてくれないの。なんで、お姉様ばかり。
「イザベラ」
背後から、ロデリックの声。
振り向くと、彼が立っていた。
その顔には、もう期待も信頼もない。
ただ、失望だけが浮かんでいる。冷たい目。厳しい目。
「今回は、大失敗だ」
低い声。
断定的な声。容赦のない声。アナタは、何もしていないくせに! 何も手伝わなかったくせに!
「まだです!」
私は、叫ぶように言う。
「まだ、サプライズが用意してあります! それを披露すれば、きっと、皆さん喜んでくれます! 評価も覆ります!」
「サプライズ?」
ロデリックの声が、冷たくなる。
「こんな状況で、人が倒れているのに、サプライズなど……正気か?」
「でも!」
「無意味だ」
ロデリックは私の言葉を遮って、はっきりと言い切る。
「もう、止めた方がいい。これ以上続ければ、もっと大きな問題になる。ヴァンデルディング家の名誉にも関わる」
「っ!」
言葉が出ない。
ロデリックは、私を見下ろす。その目は、もう私を信じていない。
「それから、君の口から告白するべきだ。真実を」
「……真実?」
なんのこと? 何の話? ロデリックは、何を言おうとしているの。
「セラフィナのこと。君が、成果を奪ったと言った。だけど、本当は逆だったのではないか」
「え」
こんな場所で、なんてことを言い出すの!? 周りに聞かれているのに。慌てて、彼の口を閉じようとした。手を伸ばして、何か言い訳を——
その時。
「なんだ?」
突然、眩しい光が次々と窓ガラスを通して会場を照らす。
ドン!
続いて轟音が、会場を揺るがした。窓ガラスが震える。床が揺れる。
ドン、ドン、ドンッ!
赤。
青。
金色。
様々な色が会場内を照らす。
「何が起きているの!」
「逃げろ!」
「外で爆発が!」
「攻撃か!?」
椅子が倒れる音。食器が割れる音。破片が床に散らばる。
走り回る足音。悲鳴。怒鳴り声。
会場が、完全な混乱に包まれる。
私は、その場に立ち尽くす。
これは——
もしかして!?
でも、まだ予定の時間じゃないのに。
どうして。
どうして、今。
予定と違う。まだ、参加者を特別ステージに移動させていないのに! 外の庭園に、誘導していないのに!
サプライズで用意していた花火は、庭園で見るはずだった。ゆっくりと、優雅に、特別な場所で。
轟音は、止まらない。
光も、止まらない。
貴族たちの悲鳴も、止まらない。
会場は、完全な混乱に包まれていた。
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